2006-01-31

大慈悲

胎蔵曼荼羅図 中心部分 長保寺蔵 


右肩にある「光の瞑想」を改良しました

満員電車の中でもできます

人混みで疲れてしまう方も、この瞑想をしていると、疲れなくなります


大慈悲の光明がふりそそぎ
あいーー、ゆるしーー、かんしゃーー、で息を吸います

全身で大慈悲の光明が輝き
あいーー、ゆるしーー、かんしゃーー、で息を吐きます


とりあえず、「無償の愛・無条件の赦し・深い感謝」の合体したものを、大慈悲としておきます

瞑想をつづけ、大慈悲だけになります
そして、ほんとうの世界だけになります

息を吐くとき、肩とか体の力を抜きながら、リラックスをつづけると、体の感覚が消えてきます


ご縁のある「輝き」に変えて瞑想することもできます

深く大慈悲の光を感じられるようになったら、光で、ご縁のある方を包み込むこともできます


心はそれぞれ別々の存在ですが、ほんとうの世界では慈悲を通じて繋がっています
ですから、ほんとうの世界に向かって「無償の愛・無条件の赦し・深い感謝」を送り出せば、ほんとうの世界から「無償の愛・無条件の赦し・深い感謝」が返ってきます

輝く「心の先輩」に手伝ってもらえば、それができます

釈尊は、無条件に手伝ってくれます

2006-01-30

利他行

なるべくトラスピフラリーなアプローチで、とは考えていますが、ついでなので、仏教が今、世界でどんなふうに展開しているかという話


インドの友人の話
をすでに書きましたが、スリランカにも日本で仏教を学んだ人がいます
この方は、僕が高野山にいたころ留学されていて、僕も高野山で時々みかけました
付き合いはありませんが、まあ、印象的な方で、とにかくずっと法衣を着てるんです
日本人の坊さんは、普段着はそこらの普通の服を着てるわけですが、彼はいつでも法衣なのでした
まあ、スリランカ流とでも言いますか、俗服は着ませんでした


密教の展望
──現代社会と密教「福祉・共生・生命」


日本スリランカ仏教福祉協会



道成寺など日本のお寺が金銭的な援助もして、スリランカで立派に活動されています

スリランカは仏教国ですが、菩薩戒がスリランカになく、それを拠り所に、新しいアプローチを根付かせたいという考え方です
情緒的な福祉論ではなく、菩薩戒というロジックを全面に押し出しています

日本人なら、こうはいかないでしょう

日本人は人道的とか、倫理とか言って、援助なり福祉なりするのだと思います


インドでは、慈悲と智慧、スリランカでは菩薩戒

こんなことからも、日本の大乗仏教のロジックは世界に通用するのだなー、と考えるのです

菩薩戒
  • 摂律儀戒   止悪 悪いことをするな
  • 摂善法戒   修善 善いことをせよ
  • 饒益有情戒  利生 利他行をせよ  


よけいな話ですけど、よく精神世界で「ワクワクすることをしなさい」とか言いますが、これは、情緒というか感情を刺激することをしようという考え方です

バシャールのチャネリングがきっかけだったかと思いますが、いまだにこういう考え方をする方がいるので驚きますね
バシャールは、チャネリングという仕掛けが物珍しかったのでしょうけど、だからといって言っていることが程度の高いことだとも限らんのですよ
ご意見として聞いて、見分けたらいいだけのことなんですけどね

感情よりも知性、知性よりも霊性が大事、ということではないのですか

エモーショナルな感情を大事にするのもいいけど、「ワクワクする」なんてのは、株式投機に狂ったり、建築偽装で金儲けしたり、少女売買春をしたりする時でも使える言葉ですよ

程度が低いというか・・・

精神世界は、そんなくだらぬもんじゃないと、思いますけどね
誰かのためになにかする、という他者の存在という視点が欠けてるね

工夫発展

ナーランダー寺院遺跡の見取り図

密教成立の歴史については、最近特に解明が進み、各地の仏教遺跡の調査などもあって、新しい発見もあったりします
でも、まあ、そこは学問ですので、簡単に結論はでません
ああじゃなかろか、こうかもしれぬ、でもこれがよくわからない、といつも、ぼんやりしたイメージしかありません
右にブックガイドを掲げておきましたが、当面、学問的には文献学が主流でしょう

それで、おぼろげにわかってきたのは、仏教にもともとあった説話や教理がイメージとして視覚化していき、素朴なものから徐々に洗練され、0(ゼロ)を発見したインド人の論理的几帳面さによって整備されていったことです

しかし、たとえば、左が見つかれば、当然、右もあるんじゃないか、とか、9じゃ語呂が悪いのでよくある8にしとけとか、作為をもった神話の生成とでもいえることが多分にあって、細かく見ればみるほど、わけがわからなくなってきます

ナーランダー


それで、もっともインドで仏教が発達した時代の僧院がナーランダーです
5世紀から12世紀にわたり仏教教学の最高学府として栄え、玄奘三蔵もここに留学し、中国に仏教を持ち帰りました
霊鷲山の近くにあり、釈尊の弟子のうち智慧第一の舎利弗と神通第一の目蓮の故郷でもあります
最盛期には、教授学生あわせて12000人におよび、毎日数百カ所で講座がもたれました
あまりに広大で、現在もまだ発掘調査が継続しています

おそらくは、仏教の思弁的展開や、インド土着文化との融合などは、ここが中心となって進んでいったことと思われます

大乗仏教を中心として、ヴェーダ、ウパニシャッド、論理学、音楽、医学、工学、数学、呪術など、幅広い分野の研鑽がおこなわれていました



それで、密教の継承者とされる人物のうち何人かは、このナーランダー出身です

金剛智 ヴァジラボーディ
671?741。10才でナーランダ寺院で出家。開元8年(720)入唐。主に金剛頂経系の経典・儀軌を翻訳した。


唯識系の金剛頂経を伝えました。サンスクリットから中国語に翻訳しましたが、全部ではなく、四分の一位ではなかったかということで、残りの部分は失われてしまいました

金剛頂経はナーガルジュナが南インドの鉄塔のなかで感得したという伝説があり、これがそうだという、なんといいますか、太い鉄棒の搭もありますが、今でもその鉄塔は当時の技術でどのように作ったのかわからないそうですけど、くつがえすような話もないので、そのまま、今も定説ということになっています

善無畏 シュバカラシンハ
637?735。マガダ国王子。生来神の姿で、13才で王位を次ぐ。後、国を諸兄に分け、出家。ナーランダ寺で達磨掬多に灌頂を受け、人天の師と仰がれる。師命により長安に向い、玄宗皇帝より国師として迎えられた。大日経を訳出


この人は、だれに教えられもしないのに一人で禅定をして、悟りをひらいたそうです
王位を継ぎましたが、釈尊のようにそれを兄弟に与え、出家しました

つまり、金剛頂経と大日経はともに、ナーランダーに伝承されていました
そのナーランダーには、ヴェーダやウパニシャッドなども伝承されていて、混合して当然なのです

釈尊の言葉に忠実に、などという意図はもうありません
釈尊が伝えようとしたことを、イメージを使って表現しようとした、というか、かなり、想像力をふくらませて、脚色して伝えています

もともと、釈尊の言葉から離れ始めたのはB.C.377にバイシャーリーで第二仏典結集が行われた時からです
その時分裂した論点は、食事は午前中にしなければならないというのが当時の戒律だったのですが、午前と午後を分けるのに、日時計を使って、棒の影で見ていました
それを、棒のこちら側で分けるのか、指一本過ぎても許されるのか、といったことで、守旧派と改革派が分かれたそうです

釈尊の言葉をなにがなんでも絶対に守らなければならないとする人達と、考え方だけ採用して状況に応じて臨機応変にすればいいという人達です

これは、しかし、いろいろな文化的伝統による感化や時代的変遷があっても、仏教の根本的ロジックは失われることなく堅持され、今日に至っています

慈悲と智慧、執着を離れること、瞑想によって真実に至ること、唯識観と空観、縁起の法、多神世界、自由と平和、感謝と赦し、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静などです

インドからチベット、中国、韓国、日本、スリランカ、タイ、ミャンマーなど世界各地で、独自の発展を遂げています


ナーランダー寺院が出来るまでが釈尊から1000年位、そこからナーランダーが700年、仏教の歴史全体で2500年、日本の天台宗の歴史だけでも1200年・・・まあ、かーなり高度に発達したことは内容を知らないでも想像がつきます

また、仏教は基本的に、啓示によるトップダウンを信じ込むだけではなくて、瞑想によって神秘体験を得て自分なりの検証もできます
自分なりの感得、神秘体験による、工夫発展もできます

これからも、発展しつづけるとしか考えられませんね

2006-01-29

密教は仏教なのか

日蓮遺文断簡  一幅

紙本墨書 縦30.6 横14.0 鎌倉後期(13世紀) 長保寺蔵

 5行67字にわたる日蓮(1222?82)自筆の書簡と思われる。紙背の極書によれば、享保8年(1723)2月16日に身延山久遠寺から賜ったものであることが分かる。また箱裏書によれば、もとは徳川宗将の母・永隆院の護持物ということであるから、久遠寺から永隆院に与えられたことが推測される。さらに、宝物目録などによれば宝暦年間(1751?64)に長保寺に寄進されたということである。

日蓮教学研究所によって御真蹟であることが確認されています。

文章の判読

るを法相と三論と地論と摂論等□
経をすてゝ論に付ぬ。背上向下宗
(の)天台伝教にわらわる□
論の経に相違するこそなを此をすつ。
何況人師の経に相違せんをや。但なけ

現代語訳
法相宗・三論宗、地論宗・摂論宗などの宗派は、仏の教えである経典を捨てて人師の説である論に依拠している。仏の教えを捨てて人師の説に立脚するこのような諸宗派は、経典に立脚して教えを立てた天台大師や伝教大師に笑われてしまうであろう。論が経と相違した場合でさえ論の説を捨てて経に付くのが当然であり、ましてや人師の説が経に相違したは、なおさら、人師の説を捨てて経に付くべきである。

和歌山県長保寺蔵日連聖人遺文について 庵谷行亨



日蓮上人は、天台大師や伝教大師のことは攻撃しないのです
むしろ、自分こそ正当な継承者だと考えていたようです

まあ、でも、このお書きになった文字を見てもおわかりのよに、飛び跳ねているというか、情熱的で、激しく、普通の人は何が書いてあるか、ちょっとわかりずらいと思いますが、そんなお人柄が日蓮宗にも反映されて、一途な激しい考え方になったのでしょうか



天台大師は、中国の天台山で修行したから天台という地名をとってそう呼ばれていますが、名前を智ギ(ちぎ)といいます(538-597)奇しくも、538年は、日本に仏教がもたらされた年です

中国には、インドから仏教経典が、成立年代や学派などに関係なくバラバラにもたらされましたが、それを、系統的に整理し、年代順に並べて整理しました
今でも、五時八教と言って、基本的なところはそのまま受け継がれています

実は、この部分こそ、大乗仏教の根源とでもいえるところです

チベットの無上ヨガのような、唯識系の金剛頂経と空観系の大日経を合体した、男女合一の父母タントラの方向にイメージが増殖することもなく
スリランカなどの南方仏教のように、釈尊当時の形を至上のものと考えるでもない
第三の道に進んでいったのです

五時八教については、ここでは簡単にふれるだけにします、なにぶん、天台学の精髄ですので、ややこしいのです(汗)

五時
  1. 華厳時   (華厳経)
  2. 鹿苑時   (阿含経)
  3. 方等時   (維摩・思益・金光明・勝鬘等の大乗経)
  4. 般若時   (諸種の般若経)
  5. 法華・涅槃時(法華経・涅槃経)
化儀四教
  1. 頓教  仏の悟りそのものの教説
  2. 漸教  浅略から次第に深く説く教説
  3. 秘密教 相互に知られず、能力に応じて理解される教説
  4. 不定教 教示をうけた側で、能力に応じて理解される教説
化法四教
  1. 三蔵教 小乗仏教
  2. 通教  声聞・縁覚・菩薩に共通した教法
  3. 別教  一般的な大乗仏教
  4. 円教  天台の教法
それで、日本にきてから、これに密教が付け加えられました

智ギによって分類整理されたのは、釈尊から弟子が聞いたものを書き記した経典です
密教は、大日如来から金剛薩タが聞いたものを書き記したものです

ですから、本質的には、密教は仏教ではありません
厳密に言えば、中国と日本の高僧によって、仏説の延長として承認されたから仏教として認められたものです
密教はナーガルジュナによって感得されたイメージと言ってもいいと思います(画像は 絹本著色(龍猛 ナーガルジュナ)縦89.4 横57.3 室町後期(16世紀)長保寺蔵)
なかなか、密教を釈尊の言葉にくっつけて一つの物語にするのに、皆さん苦労しているのです

弘法大師は十住心論で、「顕薬塵をはらい真言蔵を開く」として、密教以外を薬の能書き、密教だけが薬、というように、釈尊のお経をばっさり切り捨てて、分類しました
大日如来>釈尊で、密勝顕劣ともいいます
わかりやすいのですけれど、なぜか、そこで終わって発展がなく、天台学の比叡山から日本仏教が発展していったというのが歴史です

天台宗では、どうにも密教と五時八教との整合性に苦しんで、弘法大師ほどすっきりした分類になりませんでした
慈覚大師と智證大師は中国までいった時、わざわざ、大日如来=釈尊であることを確認して、仏教の正当な伝統的解釈であることを確かめました
それをしなければ、密教は仏教のなかで認められなかったでしょう
(釈迦牟尼如来を毘盧遮那遍一切処と号す  無量義経が根拠とされている)

それで、比叡山では法華経・阿弥陀経・般若心経は、金剛頂経や大日経と同じ密教だということになりました

実際ですから、密教が仏教だと言いきるのは、きわどいところがあるのは確かです
考え方によっては、ナーガルジュナ以外のイメージも、仏教を土台にしていさえすれば可能という理屈になります

密教に登場する、仏や菩薩や神々がインド的な装身具をまとい、真言は当時のインドの雅語であるサンスクリットですけれど、それは、インド人のナーガルジュナが感得したからであり、
なにがなんでもそうじゃなくても、感得しさえすれば、日本語の真言で、観音さんがユニクロを着て、パワーストーンを首からぶら下げててもおかしくないってことにもなります

感得ということをベースにすれば、日本の神道で、神様が昔の服を着ていて、日本語の祝詞をあげますが、「祝詞は真言と同じだ」と決めてしまえば、これも密教と言うこともできます

チベットの真言には、わりとこれに近いものもあります
善いか悪いか別にして


それで、感得の正当性を歴史的人物の神格化によって保証してるのが密教です
だから、伝授の道筋に徹底的にこだわります
ただ、これも、600年位の間に7人しか継承者がいなくて、ナーガルジュナの弟子のナーガボーディは寿命が700年だということになって辻褄があっています((龍智 ナーガボーディ)縦89.3 横57.2))

僕的に言えば、まあ、ある程度、伝授の道筋は有効ですので、絶対安全ではないですが、大事にするべきとは思います
ですが、どんなにこだわっても、脱線する奴は脱線します
決められた方法で拝まないか、くだらぬ神様を拝むかすると、ほぼ確実に脱線します
つまり、自己流は脱線の危険ありです

本を読んでわかったつもり、などというのは全くダメです

ですので、密教はなかなかいいもんだと思うのですが、本格的に大衆化するのは無理があります
手順を追ったきちんとした伝授と、ややこしい拝み方をマスターするための相応の修行期間がなければいけません

それで、高野山や比叡山では、伝統的に、密教はエリート僧侶のものと考えてきました
ですが、これ、妻帯せず、精進料理で戒律を保つのが条件です

それが、明治以降、いつのまにか、世俗化しました
文明開化の時代に野蛮な風習だと西洋人が言ったからだ、とか、文献にはあります
なんの徹底した議論もなく、なし崩し的に世俗化しました

今でも比叡山には、昔ながらの坊さんがいますが、高野山では、僕は知らないですね
高野山の方には、弘法大師の密教と現在の高野山のやりかたがどう繋がっているか教えてもらいたいですね

比叡山の場合は、親鸞さんの考え方が支持されて、妻帯も多くなったと考えるべきでしょう
智ギに始まる流れは、大衆を救う流れとして、必然的に世俗化していったということでしょうか
高野山も横目でそれを見て、取り入れたってことでしょうかね

理詰めに考えれば、エリート以外完全な実習が不可能な密教にこだわることはないのです
大乗仏教の目的は、大衆の救済なのですから、曼陀羅だとか、ややこしい仏具とかを絶対必要なものと考えるのは筋違いじゃないですかね

脳内にイメージされる前の世界が、ほんとうの世界

脳内イメージにしがみつくのをやめれば、ほんとうの世界が見える

法華経、阿弥陀経、般若心経など天台的には密教に属する経典は、読誦する事自体に霊的な力があります
これらの経典は、諸仏(釈尊意外の仏も含む)によって守られています

瞑想しないでも、経典読誦だけでいいことになっています
もちろん、瞑想するにこしたことはありません

瞑想する自信がない、よくわからない、時間がとれない、などの方は、「お経を読む」ことをお薦めします

意味がわかっていることが望ましいですが、ホントのことを言うと、わからないでも効果があります

どうしてか、よくわかりませんが、やはり、仏さんが一方的に守ってくれるようです

お経は呪文のようなもの、かもしれません

お経を読むのは、暗記ではなく、手に本を持って読む「読誦」が奨励されてきました
普通に本を読むようなのを「読」、声に出して読むのを「誦」といって、あわさったのが「読誦」です
もちろん「読」だけでも「誦」だけでもけっこうです

これは、トラスピフラリーな話題にはならないのですが、とりあえず、全然間に合います
ほかのものは必要ありません

執着はほどほどにし
神仏を信仰し
お経を読んで
死んでも心はなくならないとわきまえて
因果はめぐりめぐって自分にかえってくると覚悟して
慈悲をこころがけ
智慧を深める


これかなー

2006-01-27

瞑想のコツ

瞑想をしてると、自分の心の奥深さに気づかされますが、ちょっとしたコツ、と言うか、作法というか、あると思います


いろんな宗教があるなかで、キリスト教とかイスラムなどは啓示宗教です
神があらかじめいらっしゃって、それを特別な誰かが、人の世にもたらします

トップダウンとでも言えます

これは、日本の神道など、民族の伝承神話、アニミズム系の自然崇拝、でも同じで、つまり、神は人間以上の存在で、人間は神にはなりません


それを、仏教では、瞑想という、いわば技術で、自分の心の本質に気づけば、悟り、つまり、神仏と等しくなると考えてます

目が覚める、と伝統的には表現します

仏教的には、この世界を創造神が作ったかどうか、宇宙の摂理を司る存在がいるのかいないのか、などには、興味がありません

知らなくても成り立ちますから、どのような神話とでも共存可能です

だから、仏教は宗教ではない、と主張する宗教学者が沢山いますが、長い歴史のなかで、仏教にもいろんな神話が作られて、宗教らしくなってきました

ということで、仏教から、歴史的産物の神話を取り除き、瞑想の技術と基本的ロジックを取り出せば、世界のどこにもっていっても通用する「生き方の作法」になるのではないかと考えています


で、その、瞑想のコツです

僕が思いついことを書きますが、ここに書いたことを否定されて正反対のことをなさる方は、瞑想に限らず、なにをしてもうまくいかなくなると思いますよ
たったこれだけのことですが、非常に大切なことです

精神世界の知識がどんなに沢山あっても、社会的地位があっても、金持ちでも、学校の先生でも、坊さんでも、神主さんでも、これが出来ていなければなりません


  • 挨拶はちゃんと
  • 履物を揃える
  • 食事をする前に、感謝する
  • 掃除をきちんとする
  • 嘘をつかない
  • 笑顔


挨拶がちゃんとできていれば、これは、世界で通用します
マナーの基本です

履物を揃えるのは、便所のスリッパとか、玄関先とかですね
だれも見ていなくても、ちゃんと揃えます
これが出来てくると、所作全てがエレガントに、品位のあるものになってきます

食事の前に感謝するのは、合掌するのもいいです、カッコからはいります
軽く黙礼でも、ちょっと座り直して心の中で思う、でも、感謝の気持ちが大事です
生かされている、ということがわかってきます

掃除は、家の中、身だしなみ、髪型、ヒゲ、でも、清潔にすることです
妄想から解放される、執着を棄てる、といった深い意味があります
いやいややってるようじゃいけません、自分の心を掃除してると思ってください
心の奥深さに気がついてきます

嘘をつくと、また、それをかばって嘘をつかなければならなくなります
全ての悪いことには嘘が含まれています
悪事は嘘がなければ成り立ちません
ホントのことであっても人のいやがることであれば、言わなければいいだけのことです
知らないのに知っているようなふりをする「知ったかぶり」、言っていることがころころかわる「二枚舌」、でたらめの作り話をする「妄言」、もいけません
嘘つきはドロボーの始まりです


笑顔

さっき、昼飯を食べているとき、みのもんたの思いっきりテレビでやってましたが、作り笑いでも、脳の血流は20%位アップするそうです
それで「P」を発音するといいそうです

大きな声で、ピー、って言ってみてください

そう、それ

脳の血流がアップしました

まあ、そういつも笑っているばかりにもいきませんが
心がけですね

笑うかどには福きたる、とも言いますし



瞑想は、仏教の基本ですが、そのまた基本ですから、大事です

2006-01-25

増神世界

先日バチカンで、新法王のもとで初めて、宗教対話の会議が開かれたらしい
バチカンには諸宗教対話評議会というのがあるのです
イスラムからは誰も招かれなかったが、仏教からということで山折哲夫さんが招かれたらしい

昨日の読売新聞に山折哲夫さんがいろいろ書いていたが、「事実上、世界は多神世界になっている」と指摘していた

こんなことは、わかりきったことだと思うけど
バチカンはなかなか、この事実を認めようとしないのですね

新法王がイスラムを呼ばなかったのは、なぜなのか聞きたいところだが、前向きな印象は持てないね

僕は単純だから、どうやって一神教が今の世界を説明するのか、さっぱりわからないですね



それで、仏教は、基本的に、アニミズム肯定で、なんにでも神が宿る世界を想定しています

まあ、それを最後には、自我という幻想にしがみついているだけだと、棄てさってしまうのですけど

それでも、自我にしがみついている間は、霊魂もあれば、神もいれば、菩薩もいるし、我々普通の人間もいて、なかなか多彩です
自我から完全に解放されたら如来になることになってます、仏ですね

神をどう定義するかは、諸説ありますが、仏教的には、偉い霊魂は皆、神です
菩薩は、すでに学ぶことはないが、この世に止まっている存在ってことになってますから、神様と菩薩は、どうも同じようなもんだと思います

まあ、言葉の問題ですので、深入りしても、ほんとの所には行きません
似たようなもんだということにしておきます


それで、自我から解放されれば神仏ですから、仏教的には、神仏は増えつづけます

多神世界どころか、増神世界です

そこらへんの所から、世界平和を考えないと、とんでもない勘違いをすると思います


そう言えば、世界宗教サミットというのの第1回をバチカンでやって、2回目は比叡山でやりました

ご存じないかもしれませんが、比叡山の仏教は、バチカンから熱い視線を注がれています
前のヨハネパウロ法王はスピーチの中で「忘己利他」の精神が共通の価値だと説きました

それで、比叡山のサミットの最後に、世界の宗教にとって最高の価値はなにか、ということで議論になりました

「幸福」なのか「平和」なのか、どっちだ、ということになりました

あなたも、考えてみてください


結局「平和」ということになりました
隣人と仲良くすることを、自分の喜びの追求より優先させました

まあ、自分勝手な奴が世界にはたくさんいて、好き放題されても困る
仲良くするのが、最低限のマナーだ、ということでしょう

そこまでは、丸く収まりました

それから、じゃあ、世界平和のため、皆で祈ろうってことになりました

そしたら、イスラムの代表が、他宗教の人と一緒に祈ることはできない、って言いだしました

唖然です

で、各宗教、それぞれのやり方で別々に祈ることになりました

その時点で、多神世界を認めたことになるような気がしますけどね
違うのかな

脳内にイメージされる前の世界が、ほんとうの世界

脳内イメージにしがみつくのをやめれば、ほんとうの世界が見える


死んでも「心」は無くならない

「心」は広がり続ける

そして「心」は、ほんとうの世界そのものになる


ブッダガヤ 金剛宝座 降魔印の釈尊


あなたが一番信頼する光に意識を集中します

目をつぶり

かすかに微笑んで

やさしく強い光が降り注ぎます

息を吸うと、全身から体に染みわたります

光が心を洗い清めます
心に浮かぶ、すべての思いを捨て去りながら

息を静かに吐きます

それを続けます

疲れてきたらやめて

光に感謝を伝えます

2006-01-24

赦し

貧・病・争が苦難の、代表になるかと思います

それで
自分が受ける苦難は、元をただせば、自分が過去に誰かにしたことが、回り回って自分に返ってきたものです

自分で、自分を罰しています


ですから
自分が今受けている苦しみを、自分の過去世の行いの結果であると知り
自分の欲深さ、復讐心、愚かさを自覚して反省し
そして、自分を罰することをやめたら、苦難は消えていきます

苦難の原因は、すべて自分にある、と自覚し、懺悔します
誰かが悪い、自分は悪くない、と思い続ける限り、苦難は消えません

自分で、自分を赦すのです

癒されることのない、深い悲しみにも耐えられるようになります


仏教は、2500年の間、そのように説き続けてきました


「学びを終えた輝き」「広々とした心の先輩」、お釈迦様、菩薩、神様

あなが、一番信頼する存在に手伝ってもらえば、自分を赦すことができるようになります

助けを求め、祈ってください
懺悔のため、「ほんとうの世界」と繋がってください


衆罪如霜露 恵日能消除
しゅざいにょそうろ えにちのうしょうじょ

もろもろの罪は霜や露のごとし、知恵の日がよく消し除く


ほんとうの世界では、全ての「心」は繋がっている

繋がっているから、自分のしたことは自分に返ってくる

喜びを与えれば喜びが返り、苦しみを与えれば苦しみが返る



あなたが一番信頼する光に意識を集中します

目をつぶり

かすかに微笑んで

全てを赦す、やさしい光が降り注ぎます

息を吸うと、全身から体に染みわたります

今度は、あなたが、憎しみや怒りを棄て、全てを赦しながら

息を静かに吐きます

それを続けます

疲れてきたらやめて

光に感謝を伝えます

2006-01-23

ほんとうの世界

見えるもの、聞こえるもの、感じるもの、すべて脳の中のイメージ

各人各様、脳内イメージは必ず別々のものになる

別々だから、完全に自由で平等

記憶、信念、知識、自分という意識、など全部、脳内イメージ

国家、社会、宗教、人種、民族、習慣、家族、などは共同幻想

脳内にイメージされる前の世界が、ほんとうの世界

脳内イメージにしがみつくのをやめれば、ほんとうの世界が見える

「心」だけが、ほんとうの世界を感じることが出来る

ほんとうの世界では、全ての「心」は繋がっている

繋がっているから、自分のしたことは自分に返ってくる

喜びを与えれば喜びが返り、苦しみを与えれば苦しみが返る

ほんとうの世界にある、苦しみに至らない道筋を「慈悲」という

「慈悲」は
喜びを与え、苦しみを除き
喜びを与えてくれるものに感謝し、苦しみを与えるものを赦す

「慈悲」だけが、全ての「心」の共通の価値

瞑想して、イメージを棄て、「慈悲」を感じれば、「智慧」を見つける事ができる

「智慧」に導かれて「今できること」を行えば、「心」が広がっていく

ほんとうの世界には「広々とした心」の先輩が沢山いる

「広々とした心」の先輩達は、未熟な「心」に「智慧」を授け、導いてくれる

死んでも「心」は無くならない

「心」は広がり続ける

そして「心」は、ほんとうの世界そのものになる


瞑想で、ほんとうの世界を感じることができます  「心」を広げるには慈悲を行うことが必要です♪

2006-01-22

動く

「感じて、考えて、動くものはみんなロボットだ」古田貴之


人間もロボットだってことになりそうですが、なかなか示唆に富んだ言葉だと思います

感じて、考える、のは、感性と理性、フィーリングとロジック、ってことになります

感じる
センサーは、人間の場合、目耳鼻舌身+心、です
考えるのは、脳、なんでしょう
動くのは、仏教では伝統的に、身口意、体と言葉と心の三つを考えてます

感じるのは、受け身で、無い物は感じることはありません
与えられた世界です

考える時、自由な想像、妄想、選択もできます
ここに、自分の意志が働く余地があります

それで、動かない、となると、機械であれば、壊れてることになります


精神世界にどっぷりと浸かっている方は、この、感じる考える、はあっても、動く、が無い方が多いようにお見受けします


仏教の伝統も、感じる、考える、の制御については高度な蓄積がありますが、動くことについては、やはり、伝教大師の「忘己利他」までは、はっきり認識されてこなかったんじゃないかと思います

アジアで広くおこなわれている専門家仏教は、まじめにやっていれば、人助けをしているヒマはありません
お寺に籠もって、修行に明け暮れなければなりません

だから、坊さんになれ、ということを言ってきたのが今までの歴史です

密教の作法ひとつとっても、一番簡単な拝みかたをするにも、机に密教法具の六器と香呂、金剛板、五鈷鈴、五鈷杵などをならべなければならず、まず、一般の人には無理です
平安時代であれば、貴族にしか触れる機会はありませんでした
現代のような豊かな時代でも、お寺でなければ、設備がありません

南方仏教であれば、250以上ある戒律をまともに保つには、寺院で生活するしかありません

チベットでは、宗政一致、一家に一人出家、で、密教もどんどん観念的になって、お釈迦様は木陰で一人で坐って悟りを開いたのに、男女合一尊を拝んで無上ユガをしなければならないところまで行きました

専門家仏教の弊害は、感じて考える、だけがどんどん空回りして拡大し、妄想とさえ呼べるほどに、複雑煩瑣になってしまうことです

専門家仏教は、感じて、考えて、動く、一連のプロセスがシンプルに実現する方法を見つければ、もっとよくなると思いますよ


精神世界全般に言えることですけど、霊感だけが評価基準ではなくて、考え方、それと、活動も、一連のものとして評価する必要があるんじゃないですか

「慈悲の感触」「ロジック」「誰かのために精一杯なにかをする」でしょうか


ほとんどのロジックは、脳味噌が別々なのだからイメージは必ず各人各様別々になる、ってあたりで脱線してしまいます

唯一の神、宇宙の摂理、神の作った法則、などがあると主張しても、脳味噌に一度入ってしまえば、別々のイメージになってしまいます

イメージにしがみつくのをやめ、難しく言えば、自我への執着を棄て、イメージになる前の世界を心で感じる必要がある、というロジックだけですね、ちゃんと成立するのは

そんなの仏教だけかなー

♪これを、トラスピフラリーと名付けます トランスパーソナル スピリチュアル
フィーリング・ロジック・アクションの頭文字で、フラ 理論のセオリーでリー それで トラスピフラリー  内容はいいと思うけど、ちょっとアヤシイなー♪

2006-01-21

念仏

不断念仏式 一巻 紙本墨書 縦27.4 横195.8
鎌倉後期(14世紀) 長保寺蔵

長保寺における不断念仏の式次第を記したものである。
不 断念仏とは円仁(慈覚大師)が五台山から比叡山にもたらしたもので、一定の期間中、僧侶が絶えることなく、阿弥陀仏を念ずる修法である。敬白文によると、 長保寺においては大治3年(1128)に不断念仏が始まり延慶2年(1309)まで毎年10月に行われていたことが判明する。また、それ以降もこの修法を 再整備して継続していくことが述べられている。その中で、道俗を限らず阿弥陀仏と慈覚大師に結縁して往生極楽を願っている点は、この時期の長保寺とその周 辺地域における信仰を物語っており、貴重な史料と言うことができる。
なお、巻末の部分には長保寺においてこの不断念仏が大治3年に10月1日一夜の形で始まり、保元3年(1158)には10月16日からの七日七夜に改められ、さらに正応2年(1289)には10月11日からの七日七夜、五昼夜に改められたことが記されている。
長保寺では大治3年(1128)から念仏が唱えられていました
法然さんが1133年生まれ、親鸞さんが1173年生まれですから、これは、かなり古いです


念仏はもともと天台宗でおこなわれていました
中国の五台山の竹林寺というお寺でおこなわれていた方法を、慈覚大師がそっくり比叡山に移しました

僕は五台山には2回ほどお参りしましたが、文化大革命で徹底的に破壊し尽くされましたが、今はだいぶ復興しています
五台山は中に飛行場のあるような広大な所ですが、高野山のように周囲が山に囲まれ、それが五つの大きな峯になっています
それぞれの山頂に立派なお寺があり、中国の人達もたくさんお参りしています
中央に顕通寺というお寺があって、そこに仏塔がありますが、文化大革命の時も、五台山のなかでこの仏塔だけは破壊されずに残りました
なんというか、インドの霊鷲山に匹敵するような霊威のある場所です

五台山にはお坊さんが1000人以上いるかな、厳しく戒律を守って
中国政府の考え方は、お寺の中でなら宗教活動は自由だが、お寺の外に出て説法してはならない、というものです
アジア一帯に広くおこなわれている、専門家仏教の形をとるしか道はありませんが、ものすごいパワーを秘めていますから、これから注目されるでしょう

僕の後輩で、中国仏教に留学したのがいますね



それで、念仏です

もともと念仏は、自分が死んでから極楽に行くために唱えられていました
死者のために法要をする、という考え方は仏教では比較的最近のものです

自分の修行の功徳の7分の1を回し向ける、とかお経に書かれてます(地蔵菩薩本願経)
7分の1です

死者のためになにかする、というのは、簡単に言えば、生きている人のためになにかするのと、ほとんど同じことで、相手のあることですので、ストレートに伝わるとは限りません

生きている人は、目の前にいますけれど、死んだ人はいませんから、どちらかというと、難しくなるのは当然です

僕的には、死んでから供養してもらうことをあまり当てにせずに、自分で念仏して極楽行きましょう、って言いたいです

ですが
自分に縁のあるご先祖さんは、思い出して、念仏を唱えてあげるなり、お仏壇で供養したり、お墓参りをしたりで、素直に通じます
これは、親族ですから、当然と言えば、当然ですが、ぼんやりと疎かになることもあるので、忘れないようにしてあげてください
あなたのお気持ちを、とても喜んでくれますよ



それで、よけいな話ですが

僕らのような、お寺ですと、要するに他家の供養を執り行うわけです
これは、たとえれば、自宅療養、開業医、大学病院と、同じ病気でもこじらすと、行くことになりますが、似たようなところがあります

ほとんどの場合、自宅療養で間に合います
ですが、開業医へ行けば安心です
かなりややこしい場合は、大学病院へ入院てなことになるのですが、これは、滅多にありません

開業医が自分の家のお寺で
大学病院は、霊場巡礼とか、本山参拝とかですかね


日本で年間100万人近くお亡くなりになってます、だから、世界中で、ざっと4000万人になりますかね、一年間にお亡くなりになります
だから、はっきり言って、こじれにこじれた場合もあります
何百年間も、どう供養しても成仏してくれない霊もあります

幽霊を見るって言いますが、年間、これだけ人が死んでますから、まあ、ほとんどの方は、行くべき所に行ってらっしゃって、どうしても、勘違いから解放されない、執着から離れられない方の霊が止まっていて、まあまあ、それでも少ないのだと思いますね



よく、あやしい人が、あなたのご先祖さんは成仏してない、だからこんな不幸があるんだ、とか言いますが、気にしないように

生きている人と仲良くするような気持ちで、亡くなったご先祖様のことを考えていれば、問題ありません

生きている人は肉体のある霊で、ご先祖様は肉体のない霊です

ですから、生きている人に対するようなやさしい気持ちは、そのまま同じようにご先祖様に通じます

これは、ですから、いくら立派な法要をしても、心の中で、恨んでる、非難してる、無関心、など、ご先祖様と気持ちの上で「仲が悪い」とよくありません

いろんなことがあった方も、亡くなった方のことは赦してあげてくださいね

どうしても気になる方は、霊場巡礼などなさるといいと思います
自分でいろいろ調べたり、お金を用意したり、時間を作ったり、疲れていてもがんばったり、他のことを考えずにお参りに集中したり、そんなことが、通じていきます

つまらぬ拝み屋などにひっかからないように


♪きちんと暮らす事が、親にも心配かけないし、ご先祖さんも喜ぶ、一番の方法でしょうね♪

2006-01-20

懺悔

当麻曼荼羅図 紙本著色 縦104.2 横89.6 江戸中期(18世紀) 長保寺蔵

阿弥陀浄土を描いた浄土曼荼羅図のうちで最も流布している、いわゆる当麻曼荼羅の一例であり、類本は比較的多い。
伝来など詳細は不明であるが、近世仏画としては古式に属するものである。

「人間の死亡率は100%です」綾小路きみまろ 


極楽世界ってどんなもんか、と言うと、この絵のようなものだそうです

仏教の歴史の中には、極楽を見てきた人もいるので、今風に言えば、臨死体験かもしれませんが、それらの体験談と、阿弥陀経などの説を総合したら、こんな絵になるらしいです

お経によると、念仏を普段から唱えていると、死んでから、絵で言うと真ん中の阿弥陀さんの前に池があって、そこの蓮の花の中に生まれることになっています
(わかりずらいですが、池の真ん中ちょっと下に、後ろ姿の人がいるのが、生まれてきたばかりのところです クリックすると画像が大きくなります)

南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)

ふと、死の恐怖を感じたときに、お唱えください
だれかがお亡くなりになった時にもお唱えください

心に念じるだけでもいいです

人間、どこでどうなるかわかりません
念じてるヒマもない亡くなり方をするかもしれませんから、普段から、お唱えください


念仏の、「念」についてはいろいろな考え方がありますが、とにかく、自分自身が極楽に行こうという気持ちが必要で、その気持ちは、仏さんからもらったものだということになってます

死んだら極楽に行くんだと、気がつけばそれで済むことです

「死んだら、とりあえず、極楽行ってみようか」と、そのくらいの心がけがあれば、不成仏霊にならずにすむでしょう

ですけど、自分で、どうしても極楽には行かないと決めていると、あるいは、極楽に行けっこないと思いこんでいると、やっぱり行けないようです
意識というか、心は死んでもなくなりませんから、死んだことが納得できない、受け入れられない人は難しいです
また、深くこの世に執着してたりしても難しいです、これは、生きている人が、引き留めるのもあるかもしれません
お子さんも、不成仏霊になることがあります、やさしいご先祖さんか、信仰してる仏さんなどが助けてあげないといつまでも迷い続けます
また、過度の恐怖心もよくありません

死後の供養も、経験から言って、無駄ではないです
けれど、自分で極楽にいけますから、それが一番世話ないです

死んだときのことは、考えないことにする、なんて人は、迷います
とりあえず、阿弥陀さんを頼ることにして、念仏しておいてください

成仏と供養の関係は、機械仕掛けのようにワンパターンではありません
普通に、他人に真実を話して聞かせて納得させるのと似ています
相手のあることですから、当然に、相手の都合があります
すぐに納得するとは限りません

僕的には、手を尽くしてそれでも、成仏しないでいるのは、本人というか、その霊の都合ですので、深追いはしません
いずれわかると考えてます

霊能者さんは、霊が救われる道筋をさがしてあげてください


さて、
絵では真ん中の阿弥陀さんの横には観音菩薩と勢至菩薩がいて、観音菩薩が慈悲、勢至菩薩が智慧を表しています
ここでも、フィーリングとロジックがバランスしてるようです

阿 弥陀さんを、無量寿如来とか無量如来とかいろいろ違った呼び方をしたりしますが、(無辺仏・無碍仏・無対仏・焔王仏・清浄仏・歓喜仏・智慧仏・不断仏・難思仏・無称仏・超日月仏など全部、阿弥陀さんの異名です)、死んだとき光が見えるというのは、阿弥陀さんのお迎えなのかもしれま せん

臨死体験などで、光に導かれて、とか、光さんが云々、とか、阿弥陀さんを知っている人にとっては、お迎えってことでしょうね


それで、問題になるのが、悪いことですね、した人はどうなるのかってことです

親鸞さんによれば、悪人を救うのが仏さんなんだから、真っ先に救われる、とまあ、仰ってます
僕は、全面的にこの考え方を支持します
無条件に救われる、と思います

それじゃ、苦労して善いことした人が不公平だ、同じ極楽いけるんなら悪いことしたい放題してやれ、という言い分が当然あります

仏さんのことを知る前の子供が殺されて、念仏なんかしてる間もなかった、何人も子供を殺した殺人犯が死ぬ間際に念仏だけはした、と、どうなるか、とか

なんの罪もない子供が極楽にいけずに、殺した人間が極楽にいけるのか、と



まあ、これはですね、蓮池に生まれることは生まれても、そのまま、いつまでも極楽にいるわけではない、ってことではないですかね

極楽の池の中の蓮の花に生まれたが、そのままいつまでも極楽に住み着くのではなく、その業に応じて生まれかわって行く

それで、生まれてきたのが、現在の僕らの姿じゃないかと思いますね

生まれてくるのは、自分のカルマを(カルマとは行為・業という意味です)償うためなんじゃないかと思うのです

生まれてくるとき人生を計画してくる、ってのは、過去の行為を、今度は自分の身に受けるってことを計画するんでしょうね

なんの罪もないって、よく言いますが、「不条理に満ちた世界に生まれてくる苦しみ」が必要なのかもしれません
極めて危険な国を旅行するようなもんです、国外脱出するまでは危険そのものなんです

キリスト教は原罪って言いますが、仏教的には、生まれてきた者には必ず懺悔が必要だってことです

自分のしたことの結果を受け取るために生まれてくる、のが人生なのだと
だから、なにがあっても人を恨んじゃいけない
身に覚えがなくても、仕返ししちゃいけない

いいことをした人は、やっぱり今生で、いい目に会います
それで、調子に乗って悪いことをしたら、あとで、そのカルマを受けます
死んで極楽にいっても、こんどは、苦しみを受けに生まれてこなければなりません

生まれてきて、カルマを終わりにしなければ、また、こんど生まれた時に、自分で受け取ることになります

だからその、念仏する人は地獄には行かずにすみますが、生まれかわって償いはしなければならないって理屈です


以徳報怨(いとくほうおん) 徳をもって怨みに報いる 伝教大師

とまあ、言ったりします
そこまで行けばたいしたもんです


これ、ですから、

死んでから極楽行くのは、すごく簡単です

難しいのは、生まれてきて、カルマを受け取ることです


それで、仏教は

貪瞋癡(とんじんち 貪欲・怒り・愚かさ)を諸悪の根元と考えているのですが
それは、カルマを受け取っているのをよく理解してないからだと考えてます

貪欲
いろいろ執着しても、いつか死にますから、無茶苦茶して罪をつくらないことです

怒り
ひどい目にあわされたと言って怒っても、そもそも自分が過去に撒いた種が自分に返ってきただけかもしれないし、
輪廻転生を楽しみにしてたかもしれませんが、そもそも、この世は不条理なことが起こる世界であるのですから、ないものねだりしてもしょうがないのです

愚かさ
つまり、カルマを受け取っているのをよく理解するしかないです
それを、知らないのを愚かなことであると言うわけです

死んでから、極楽に行くことだけを、成仏と言ってさしつかえないとは思いますが、仏教的には、もう生まれてこないのが最高じゃないかと考えてます
極楽で、ズーッっと暮らしたいわけです

それで、輪廻の果実を求めないで悟りを求めなさい、って言うわけです

輪廻に執着して、いい思いをしても、この世では不条理な苦しみをいつ受けることになるかわかりません
他人に苦しみを与えるような、新たな悪しきカルマをなるべく作らないようにして、執着もほどほどにして、やっぱり悟りを求めるしかありません

不幸にして、人に苦しみを与えてしまった場合は、とにかく、極楽にはいけるのですから、反省して謝るほかはありません
謝りきれなかったら、極楽行ってから、またこんど生まれてきて、続きをしなければなりません



僕的には、霊能者は、過去の大きな罪を償うために、人にはない能力を持って生まれてきて、人助けをしなければならないんじゃないかと思ったりします

でなけりゃ、ごっつい誓願を持った菩薩なのかも、ですね


♪お釈迦様が阿弥陀経を説いた、サヘトマヘトというところは、日本の大学が発掘調査して、きれいに整備されてます 説法した部屋の土台が、日干し煉瓦できれいに残されてます♪

2006-01-19

ネットワーク



昨日は、大阪国際会議場でライオンズクラブのIT委員長会議、約300名集まって盛況でした

警察から、担当者が来て、サイバー犯罪の防止について講演しました
なんでも、去年まで内閣官房で国家情報の防衛をしてたそうで、そんな人がなにしに来たんかなと思いましたが、それだけ、インターネット絡みの犯罪が多いので感心を持たれているということです

防衛4原則は
  • ソフトは最新版にアップデートする
  • ウィルスチェックソフトを入れ、内容を最新のものにする
  • ファイアーウォールを備える
  • こまめにコンピューターを監視する

それと、家族構成、電話番号、年齢、普段の生活パターンなど個人情報を公開しないことも、詐欺行為などを未然に防ぐ

だそうです
公官庁や大企業でさえ、これらのことをしてないところが、まだあるそうで、そういうところは、何かあって被害届けがでても、事件として立件できないそうです
つまり、もともと、開けっぴろげで、はいどうぞ、状態なわけで、データを持っていかれても文句はいえないそうです
むしろ、データを公開してたと反論されると

インターネットに一度公開されたデータや写真は、もう二度と消去できない
ということを強調してました

犯罪としては、詐欺行為が半数以上で一番多い
次が、少女売買春で、先進諸国のなかで、圧倒的に日本が多いそうです

それと、指摘してたのが、加害者になる可能性ですね

著作権侵害
誹謗中傷の書き込み
脅迫

など
普通の社会生活をしてるような人も、ネットの中では、匿名性があって歯止めがかからなくなるので注意してほしいということです



なんか、精神世界と似てるところもあるような感じですね

「慈悲」意外のパスワードは受付ないように、くれぐれも

加害者にならないように、「慈悲」意外の方法で、アクセスしないように

「慈悲」って言葉だけ上手に使うのもいますから、感触、やら、ロジック、やら、チェックでしょうね


ウィルスチェック
は、きちんとした神仏を拝むことですかね、最近のものはお薦めできないようなのが多いから、ほんとに気をつけてください

僕もこのBlogで、いろいろ批判めいたことも書きますが、ハッキリ、は言ってないのです、これでも手加減してます

わかる人には、とっくにわかっているんだけど、ダークとか、それどころかブラックとか、これとこれ、ってハッキリ指摘しようと思えばできます

でも、しません

大手のブラックだと、霊的攻撃をしてくるところがありますから、めんどくさいです
個人でも、恨みや怒りの念は鬱陶しいです

特に外国製のブラックは、日本人には想像もできないような手の込んだことをしてくるのがあります
僕は、やられたこともありますが、まだ生きてます

精神世界にどっぷり浸かっている人は、甘く考えないように
インターネットと同じです、悪意の攻撃がいつくるかわかりません

これは、精神世界の国際化にともなったものでもあるのでしょう
インターネットと同じですよ

国内の宗教は歴史やら伝統やらで洗練されていますが、最近流入したものは、現地での素性や動機があいまいですからね
現地社会では、歴史の中でいろいろ問題を作ってきても、日本にくれば、知らんぷりできますから
日本人は、いいカモでしょうね


ファイアーウォールは、やはり、ちゃんとした自分の拠り所をもつのが一番です

鎌倉仏教は、専修念仏とか只管打坐とか、これだけやっとけばいいって行きかたをしますが、一つの選択枝でしょうね

退屈かもしれませんが、間違いはないです

まあ、そこいらへんを核にして、いろいろ知識を深めるってことで間に合うんじゃないかと思いますけどね



仏教は南伝でもチベットでも、専門家仏教なのですよ
日本は、親鸞さんのおかげです、民衆と共に歩もうとしてきました

お釈迦さんからもう2500年ですからね、いろいろ変化して当然です

それを、お釈迦さんと寸分違わずやろう、でも、どんどん発展させよう、にしても、諸外国には専門家にしか出来ない仏教があるわけです

それを、日本の仏教は、そっちに行かず、大衆に向かっていったわけです
それには、必然性も、現代に生きる普遍性もあると思いますね


♪新もん食いにはリスクがあるのをお忘れなく♪

2006-01-17

プロトコル

脳味噌が別々だってことで、僕らの脳内イメージは、常に、違うのは、これはどうしようもないのですけど、このどうしようもないところから、発想をするしかないです

お経なんかでも、「如是我聞」といって、かくのごとく私は聞いたで始まって、このあたりは厳密に考えてます

それで、仏教は南伝、北伝とかいって、伝播の経路で分類したりしますが、これすべて、お釈迦さんが直接話したとかいう話じゃなくて、伝え聞きのそのまた変化形とか、進化形だったりいろいろなわけです

現在の研究では、スリランカが一番、お釈迦様の原型に近いんじゃないかと考えられているようです

まあ、チベットがどうだとか、阿含がどうとかとか言うわけですが、もともと全部「如是我聞」なんだから、お互い様なのです

僕的には、どっちが優れているかなどという話の持ってきかたは、「どんぶり鉢」の優秀さを比べるようなもんで、どうでもいいことです

そんなことより、自分自身はどうなの、ってことです


そ れで、インドが仏教の権威の中心かというと、お釈迦様の誕生の伝説についてさえ、ヒンドゥーの影響があるわけで、それは、長い歴史のなかで当然でもあるの ですが、残念ながらカースト制度の中の話が織り込まれていたりして、つまり、インドに近いから良し、と単純にいかないのです


じゃ、どうやって真実を見分けるのか、と言ったら、もう、ロジックしか無いんじゃないかと思いますね


たとえば、ヒンドゥー教では、お釈迦様はビシュヌの9番目だったと思うけど、生まれ変わりだそうで、実際、いまの仏教聖地にインドの人達がたくさんお参りしますが、ビシュヌ神の信者さんたちなのです

それを、仏伝には仏伝で、お釈迦様の前世もあるのですが、これ、やっぱり、根拠不明の神話のような話ばかりで、どっちがどうとか、もう、わかりません


ただ、仏教のもっているロジックには、平等ということ、自由ということ、慈悲と智慧ということ、があるのです

それを、アンベートカルが仏教のロジックのどういうところに感心したか知りませんが、ヒンドゥーの聖者達には、このロジックが決定的に欠如しています

霊感や善意だけでは、どうしても、普遍性は得られないということは、インドのような所だからこそ、徹底的に突きつけられる問題でもあるのではないですか



日本の仏教開祖で一番著作が多いのは道元だそうですけど、禅は文字で表せないって建前なんですが、何故か、著作は多いのです

これ、やはり、フィーリングですね、感性と、ロジック、理性、のバランスが必要だからじゃないかと思いますね


精神世界のいろんなお考えがですね、これ、脳内イメージですから、どうしようもなく、否定も肯定もできません
その人にとって真実なのですが、隣の人は、別のイメージを見ているのですよ

そこの所を、仏教は、脳内にイメージされる前の世界を感じようとしてきたんじゃないですかね

脳内イメージにしがみついているのが我執であって、それを棄てれば、真実が見えるということ

お互いが、決定的に別々だが、慈悲が共通の価値だということ

別々で自由であるのだが、慈悲によって、お互いの心が繋がるということ

そして智慧によって自分自身を導くことができるということ


そこらあたりから、いろいろ発展し応用し、歴史や伝統や、まあ、間違いもあると
それが仏教なんだということじゃないですかね

で、そういうロジックが、自分勝手な空想的な妄想かもしれない、いろいろな、精神世界の諸説紛々を整理整頓できると


まあ、うちの建物は本堂・多宝塔・大門と国宝ですけど、そんな寺は、あと法隆寺しかありません
自慢しちゃいますが、眼をつぶっちゃえば、もう見えません
残念です

でも、眼をつぶっても、そこには「何か」があります

それは別々の脳味噌で各人各様のイメージになるまえの「何か」です

「心」だけが感じることができます

パスワードは「慈悲」、プロトコルは「心」です

自分という「どんぶり鉢」にしがみつくことをやめれば、「心」が「何か」を感じます

「慈悲」で、アクセスすることが出来ます

どえらい神様や教祖様の子分になる必要はありません

自分が自分の主人です


悪くない話だと思いますけどね


♪けっこうネタが切れないもんだわ♪

2006-01-16

ロジック

釈尊降誕レリーフ ルンビニー マヤ堂
1965年仏滅2500年大祭を記念してネパールの仏教徒によって作られました


本来のものは四世紀グプタ朝のものでしたが、イスラム教徒によりおそらく13世紀ごろに表面が剥ぎ取らたので、新たに作ったものです

大陸では、いろいろな宗教と民俗が、たがいの文化や伝統も破壊する歴史がありますから、日本人のように、自分の宗教を意識しないですむということは、全く考えられません


マヤ婦人が釈尊を右脇腹から出産したというのが仏伝ですが、これは実はヒンドゥー教の宗教観によって脚色されたものです

ヒンドゥー教による、人々の宗教的義務や日常生活の規範が述べられている、マヌの法典(AD200頃成立)にカースト制度がはっきり規定され、今日でも極めて強い影響をインド文化全般に及ぼしています

古事記が八世紀頃のものですから、マヌの法典はたいへんに古いものです

そこに、バラモン(僧侶階級)は神様の頭から生まれ、クシャトリア(武士階級)は脇の下、バイシャ(商人階級)は腹、シュードラは足から生まれたと、きちんと書かれてしまっています

もし、こんなことが古事記や日本書紀に書かれていたら、日本文化がどうなったか、想像してみてください


で、お釈迦様は王族で武士階級ですから、脇の下から生まれたことになったわけです


現在のインド社会の激烈な差別は、日本に住んでいたら全く想像できません

闇が、存在するのです

実際に聞いても信じられないような話がいくらでもあります

自分探しでノンキにインド旅行をされた方や、インドの神様や聖者を信奉される方もおありかと思いますが、ヒンドゥー教が基づいている法典に根拠を持つ、差別の凄さを知ってらっしゃいますか?

そんな差別は、ヒンドゥー教やインドの聖者達とは関係無い、などと言ってられませんよ
日本で言えば、マヌの法典は古事記・日本書紀みたいなもんで、しかも、法典で生活規範ですからね

インドの神様は、ミッキーマウスみたいなカワイイ存在じゃありませんよ




僕の友人が、今、インドのナグプールで大乗仏教を再興
しようと努力しています
彼が日本に来ている時、何回か会ったことがあります

直に聞く、差別は、なんか、こういうBlogには書けないような凄惨なものですよ

ちょいと、さわりを

婦人の識字率を高める国際プロジェクトがあったが、それに参加した女性が、眼をくり抜かれて殺された(眼で字を習ったからですかね)

インドの乞食は先祖代々、長い間、乞食を続けているので、子供のような体格をしてる(食い物が悪いんでしょう)
よく手首や足首を切断した赤ん坊を見かける(その方が同情を引いて、施し物が多いという理屈らしい)
乞食の少女が赤ん坊を抱いているのもよく見るが、子守じゃなくて、13?14才になれば出産する(父親が誰だかわからないのがあたりまえ)

道を隔てたカーストが違う青年と少女が恋愛をしたが、屋根からロープで首を吊られて殺された(御両家とも、怒った親御さんがやりました)

ナグプールですら、同じ学校に通えるようになっても、自転車には乗ることは禁じられ、いつも押して歩かなければならない(村人が決めるそうです)


それで、インドでは、仏教こそ、根本から差別を終わらせ、インドを再生すると信じて、ニューブディストと呼ばれる人達が誕生しています

こちらのBlogでアンベートカルや不可触民について書かれた本が紹介されています

僕はインドで、ガンジー廟や記念館にも行ったことがありますが、ガンジーでさえもヒンドゥー教の差別感情から完全に抜け出してはいないのです

インドの友人は最近、インドでの孤児院とか教育普及の実績を認められて正力松太郎賞を受賞しましたが、その時聞いた話ですけど、日本のバックアップがなかったら、彼はとっくに殺されていただろうということでした

まあ、イスラムとか、ヒンドゥー教系地元名士、南方仏教諸大徳などの妬み恨みを買ってますから

向こうでは、イスラムはヒンドゥー教寺院でもぶっ壊したりするんですから論外ですが、南方仏教は孤児院とか教育振興とか関係ありませんから

ナグプールという町ですが、アンベートカルによって集団改宗した、インドで最も仏教徒の多い地域なので、まあ、南方仏教の人達がお寺建てて拝んでればいちおうお布施はもらえますけど、あの方たちは人助けはしないです

ヒンドゥー教系の人達はナグプールの中では手出しできませんが、そこは、大陸ですので、日本みたいに無防備でボンヤリしてればどうなるかわかりません


それで、ヒンドゥー教的には、この人生で低いカーストに生まれるのは、前世の行いが悪いせいです
なんか、そうかも、ですけど
だから、死ぬまでずっと低いカーストのままで、来世に良いカーストに生まれるように我慢して努力しながら死ぬのを待たなければなりません

なんで、そうなのって、マヌの法典で決められてるから
ひっくり返せって言っても、人口の九割は上のカーストですから、一番下は一割で、そんな少なくちゃ無理


仏教でも輪廻はありますが、このような苦難にあっても、そこから努力して抜け出すのが、そもそも仏教の目的で、諦めて死ぬまで我慢せい、にはなりません

法華経などに「人非人」と書かれていたりしますが、「人」が市民で「非人」が被征服民など市民権のない人をさしていたようです
神が最初から、別々に作ったなどという神話はありません


日本の差別を考える方もあると思います

差別戒名などの問題、江戸時代の士農工商とそれより下の階層化ですね、これは、政治的に作られてたもので、徳川の殿様が悪いということに特に反論はありませんが、よろしければこちらを読んでみてください

吉宗の母



それでですね

アンベートカルはもともと仏教徒じゃありません
理屈で考えて、仏教を選びました

それは
「私は何故仏教を選んだのか。それは、他の宗教には見られない三つの原理が一体となって仏教にはあるからである。即ちその三原理とは、理性(迷信や超自然を否定する知性)、慈悲、平等である。これこそ人々がより良き幸せな人生を送るために必要とするものである。」
と説明してます

理性と慈悲は、僕も何遍も言ってますが、「慈悲と智慧」です
で、平等は、つまり、どこまでも脳味噌は別ですから自由なわけで、お互いが自由ですから、これが平等ですね

インドの僕の友人の掲げているのも「慈悲と智慧」です
だから、教育に力を入れて取り組んでます
日本の大乗仏教だけなんですよ、こんなロジックがあるのは
彼の師僧さんは、回峯行の行者さんで、その薫陶によるものですね


で、この、「理性(迷信や超自然を否定する知性)」ですね
ロジックです
他の宗教にない特徴です

ヒンドゥー教の、アニミズムを基盤にした、霊感や奇跡に満ちた、それでいて残酷な世界観によって虐げられた人々を救うのは仏教のロジックであるという考え方です

イスラムやキリスト教のような一神教は、他宗教との融和が、本当に可能なのか、試されるでしょうね

すくなくとも、アンベートカルは採用しませんでした


チベットに仏教が移入したとき、一口に言えば、ヒンドゥー教の神々にどっぷりと憑依された仏教になっていました
左道仏教とか言いますが、性的な力を利用した成就法とか、超能力開発とか、男女合体仏とかですね、ロジックが失われていました

そのチベット仏教を建て直したのがツォンカパですけど、この方も文殊菩薩と対話が出来たりして、ロジックの無い霊感世界に片足をつっこんでましたが、徹底したロジックで仏教を正気に戻しました

今、ダライラマが流れを汲んでるゲールック派がそうですけど、チベット民族は亡命生活で仲間割れしてる場合じゃないので、お互いの批判はしないようですけど、このあたりは、見極めた方がいいと思いますよ

そう言えば、比叡山中興の祖と言われる、元三大師も、自分は歴史に残る霊能力の持ち主でしたが、論議問答をさかんして、学問を奨励しました
やはりロジックで、貴族階級の加持祈祷に明け暮れ、呪術中心になっていた比叡山を建て直したのです



そうそう、インドの仏教徒は、お釈迦様の降誕レリーフを、そんなわけで、否定してます

漫然と、お釈迦様がマヤ夫人の脇腹から生まれたなんて話をありがたがっているようじゃ、国際人とは言えないんじゃないですか


♪いつか書きたいと思っていた話でした♪

2006-01-15

発願

僕が高野山にいたころ、聞いた話

奥之院は弘法大師の御廟所だってことは、誰でもご存じのことと思いますが、そこの正面に大きな賽銭箱があります
当番の者が開けて、賽銭を集めます

で、その賽銭箱にはごつい鍵がかかってる、当然ですが

それがですね、どこかの泥棒が、鍵を付け替えて、当番の者が開けにいっても開かないのですよ

とぼけた話ですけど、泥棒が来て、鍵を開けて、賽銭を持って逃げたのです

それが、山の中で泥棒の仲間同士が賽銭を山分けしてるとき、踏み込まれて捕まったそうです
あの辺は、山深いですし、道も限られてますから


高野山にいたことのある者は、一度は聞いた話でしょう
有名な話です


泥棒が鍵を付け替えた賽銭箱に、入れられた賽銭の功徳というか、なんというか、どうなっちゃうんでしょう

これ、弘法大師の御廟の正面ですから、全国から毎日沢山の善男善女がお参りするのですけど、賽銭箱の鍵は泥棒が持ってるのですからね



これが、どこかの仏さんを拝んでて、その仏さんの、正面に、得体の知れない何かがいて、仏さんになりすましていたら、どうなるか

残念ながら、そういう事が無いとは言えません

得体の知れない奴は、拝んでもっらってチョー気持ちいいー、ってだけの場合もあるし、とんでもないお告げなどを下す、かなり悪意のある奴の場合もあります
仏さんの前に居座るようなのは、かなり根性がありますから、手強いです


これは、拝む人が、自分はこうするんだ、という発願をですね、持ってないと、やっぱりだめなんじゃないでしょうか

あれしてください、これしてください、ばかりだと、導くったって、導きようがないし、偽者だったら、とんでも無いところにつれて行かれる可能性もあるわけです

お賽銭なら、徳を積ませていただきありがとうございます、でチャリン
お金は泥棒へ行くかもしれませんが、仏さんへの徳は積んだことになるのではないですかね

拝むんなら、たとえば、家内安全・身体健全、精一杯努力しますので、よろしくお願いします、かなー

よろしく導いてくれる時もあれば、なんにもないこともあるけど、とにかく、自分で努力をしていくわけですから、行き先がおかしくなることはないでしょう

努力なしで、タクシーに乗って運転手に任せたような気になっていたら、偽運転手だと、どこ行くかわからんです
自分で運転するから、守ってください、なら、それなりの運転をすれば、目的地には着きます


まあ、それと、感触ですね
何回も書きますが、「慈悲の感触」
見間違いをすれば、どこ行くかわからないです

ただ、これ、奥之院の賽銭箱みたいな、見分けようがない場合もあるのですよ
それで、発願を大事にしなきゃならないのです

別々の脳味噌で自由があるのですから、自分で、発願するほかないです


どんなに偉い、徳のある神仏を拝んでも、腹減ったから代わりに飯を食うのを頼むわけにもいかないし、眠いから代わりに居眠りするのを頼めるわけでもありません

あれしてください、これしてください、でもって、水飲んどいてください、便所代わりに行ってください、とか、あり得ない話ですよね


どんな御祈祷でも、瞑想でもですね、自分の発願、努力、やっぱり必要です

瞑想するにも、あなたまかせでいれば、どこ行くかわからないのは同じですよ

「誰かのために一生懸命、なにかをする」って生活がなければ、瞑想はただの妄想です

よくあるんだけれど、悟りを開くまでは不完全な人間なのだから人助けは出来ない、しない、って考え方

まあ、一人前の医者でなければ手術は出来ないし、すると言うならとんでもないことなんですけど

南方仏教やチベット仏教なんかは、こうした考え方の傾向があるのです

それをですね、今出来るだけのことをやれよ、ってことですね

包帯巻くだけ、赤チン塗るだけ、荷物運びでも、掃除でも、なんでも仕事はあるだろうってことです

生臭坊主とか言いますけど、これが、悟りを開くまでは仕事はしません、って坊さんだと、もっと扱いに困るよ

そのうちいつか賢さが完成する、じゃ、ずーっと今現在は馬鹿のまんまですよ
今日も精一杯の努力、あすも、精一杯の努力、じゃないですか

何のために瞑想するのかっていえば、苦悩の原因を除くため、苦悩から解放されるため、でしょ

精一杯努力して、苦悩の原因を除こう、すでにある苦悩から解放されよう、新たな苦悩を作らないようにしよう、ってことですよね

だから、瞑想と慈悲は切り離せないんです


偉い神様になるためだ、なんて言ってる奴は、やっぱり相手にしちゃいけませんよ
それは「どんぶり鉢」をでかくしようって野望に過ぎません

苦悩の原因を除き、苦悩から解放されよう、って発願が大事です

それは、だから、やってることを見ればわかるってことですよ


♪結局、忘己利他なんだよねー♪

「どんぶり鉢」が自我だとして、悟った状態はどんなふうになるかというと、
ネットワーク全体と同化します

これは、

重重帝網なるを即身と名づく 弘法大師

一身一念 法界に遍ず 天台大師

などと表現されています

で、つまり、「どんぶり鉢」はどうなっちゃうのかというと、それはそれで、もう関係なくなります

各人各様、脳内にイメージで作り上げたものが「どんぶり鉢」ということになります

「どんぶり鉢」こそ自分だと思いこんで執着した状態


「どんぶり鉢」が自分である、というのは、感覚器官でとらえた脳内イメージを自分だと思いこんでいる状態、ということ

それを、自我は幻想であるとも言うし、陽炎でもあるとも言います

「どんぶり鉢」を大きくする、とか、なるべく多くの「どんぶり鉢」を支配する、とか、まあ、「どんぶり鉢」への野望はですね、つまり、くだらないことです


輪廻する霊魂を、仏教教学は認めていないとか言うのですが、自我に執着した状態が、霊魂ということで、自分という幻想を抱いたままの状態
生きていれば、僕らのことで、死んだら、霊魂


悟りの世界では、自我は過去の執着の痕跡にすぎません

ネットワーク全体を俯瞰する、「心」、こそほんとうの自分だということです

それを、仏心とか仏性とか如来蔵とか無上正等正覚とか阿耨多羅三藐三菩提とか、いろいろ言うけど、「心」ですね



今、あなたが、こうしてBlogを読んでいらっしゃるのですけど、あなたの心は、脳内にあるイメージに執着して離れていないわけです

自分というイメージの産物から離れて、まあ、「執着を棄て思考停止し感覚遮断」してですね、しらふになると、そこに、ネットワーク全体が見えてくるわけです

眼に見えるまえのモニターってどんなものか考えたことありますか
耳に聞こえる前の音
感じる前の感触
理解する前の意味



今。自分が使っている言葉、過去の経験、思い出、感情、見える物、聞こえること、感じること、すべて、脳内イメージです

その脳内イメージで作り上げたのが、今の自分です

そのイメージの産物の自分に執着しているのが、今の状態です

執着を棄てれば(「どんぶり鉢」の破壊とは違います)

感覚器官からインプットされる前の、ありのままの世界を直に感じることができます

「どんぶり鉢」から解放され、ネットワーク全体と同化した、「心」を取り戻します

眼が覚めるのです


あなたにも、仏心があるのですよ

もったいないねー、いつまでも眠ってたら



悟りの世界から見れば

慈悲は、自分を助けること
カルマは、自分にたいする行為が自分に返ってくるのは当然
ヒーリングは、自然治癒力
五神通は、あたりまえ
苦悩は、感謝すれば、それで終わり
願望は、必ず実現する(カルマをお忘れなく)
今の地球は、眼の覚めていない、体のある霊魂、体のない霊魂が、住んでいるところ



♪このあたりが腑に落ちてらっしゃる方を、師匠と呼ばせていただきます♪

2006-01-14

ネットワーク

ヒーラーが、他人の悪いバイブレーションを受けるという問題

これまあ、原理的に回避できません(汗)

つまり、オンラインで繋がりますから、受けます

基本は、数をセーブすることです、鉄則だと思います

数はこなせません

ここのところが、ズルズルと同情やら憐憫やら義侠心やらにひきずられて、引き返せなくなると、自分もアウトです
よくある話です

クールになれない人はヒーラーはやめたほうがいいです
案外、一家族とか親類に一人、ヒーラーになれる人がいるのかもしれません
生命のしくみは精妙ですから、なにかのバランスでそうなるのかもしれないと考えてます



人格を「どんぶり鉢」にたとえると、自分の「どんぶり鉢」と病んだ「どんぶり鉢」が繋がってヒーリングします

その時、ヒーリングパワーが、自分の「どんぶり鉢」から病んだ「どんぶり鉢」にオンラインで繋がって行くのですが、自分の力でヒーリングしてると思ってるとそこで終わりです
パワーに限界がすぐきます

ネットワークは無限の広がりがあるのですから、ずーっと先の方まで、親切な「どんぶり鉢」と「慈悲」で繋がって、パワーを移せば、理論的にはパワーはほぼ無限になります

ですから、ヒーリングの場合は特に、どんな、ネットワークに繋がっているかが最も重要です



信仰心のないヒーラーは、自分のパワーを過信して「慈悲」のネットワークを利用しない状態なのですが、信仰をお持ちになってネットワークにアクセスすれば、もっとパワーが出てきます

仏教のセオリーの忘己利他ですね、「執着を棄て思考停止し感覚遮断」して「誰かのために一生懸命、なにかをする」ことを心がければ、ネットワーク全体と自分が統合した状態になりますから、もっとパワーが出ます

ネットワークと、ネットワークへのアクセス、を意識してみてください
大きなネットワークがいいって理屈になりますね

つまり、信仰と慈悲、ですね

だから、僕的には、信仰と関係ないと言ってるヒーリングは、なんじゃらほい、ですね


で、パワーは無限大にあるかのようですが、そこは、そんなにうまくいくものではなくて、「自分」という意識でパワーをコントロールしているので、完全にネットワークと同化することは不可能です

接続不良とでもいいますか、「自我」ですね、これが邪魔をしてアクセスが不安定になります
生身の人間ですから、これは、しかたのないことです

理論的には、自然治癒とでもいいますか、自分の傷は自分自身の治癒力が治しますが、ヒーラーの境地が、完全にネットワークと同化してると、パワーは無限大になります
それを、神と言うんでしょうね



憑依現象は、「どんぶり鉢」が個別であることが、どこまでいっても避けられないことであるのですから、そもそも、無理があります
また、個別であるからこそ、悪意のある「どんぶり鉢」が、他の「どんぶり鉢」を支配しようとする気にもなります

人間関係でもそうですが、やたら指示を出す存在、命令する存在、怒ったり脅かしたりする存在、まともなロジックの無い結論だけの存在、自由を尊重しない存在、などとは手を切ることですね

全体主義国家の軍隊など、目に見える形の憑依現象とでも言えるんじゃないですか



憑依している存在のもっているネットワークを使っているのに、それを自分の霊能力だと勘違いしてる人が多いですよ

ご自分の「慈悲」というパスワードで、自由にネットワークにアクセスしてくださいね



ハイヤーセルフとの対話は、普通の人にはお勧めできませんね
なりすましや、憑依、などの温床になりかねません
対話の前に、「慈悲の感触」が確立していなければなりません

本などで、不特定多数の人に宣伝してる人がいますけど、どうなんでしょうね


♪「慈悲」というパスワード以外信用できないってことなんですけどね♪

2006-01-13

自由


紙本著色(帝釈天)縦73.0 横33.8 桃山(16世紀)長保寺蔵
 


各人各様、脳内にイメージを作るのを「幻想」ってことでかたづけるわけですけど

これは、つまり、哲学の永遠のテーマで、古今東西、哲学上の一番大きなテーマでしょうね

向き合って、二人の人がいれば、片っ方が表を見るなら、もう一人は裏を見てる
並んで見ていても、角度が違えば、完全な同一物はみえない
同じ角度で見たとしても、もう、見てる時間が違う
同じものが写った写真を同時に見ても、それは、すでに別々の写真だ、とね

同じでしょう、というのが「共同幻想」だ、ってことで、国家、社会、秩序、平和、家族、宗教すべてそうなんだ、なんて研究はいくらでもあります


やっぱり、この、どうしうよもなく、別々なんだ、というあたりが、「自由」の根源なんじゃないでしょうか


もう、とにかく、この別々なんだという「自由」は、肉体的、思想的、宗教的に拘束したところで、別個の脳味噌をもっているのだから、永遠にやっぱり別々のイメージを脳内に作っているのですよ

それで、やっぱり、偉い人にいろいろ教わったとしても、最後の最後、腑に落ちるかどうかは、自分自身で決着するしかない

当然、間違い、勘違い、誤解、迷い、孤独、絶望、恐怖、苦悩、など、ありとあらゆることになるわけだけれど、それは、避けられないことだ、ってことでしょうね

「自由」の代償でしょうか

「自由」がいらないって「共同幻想」にひたるのを全体主義とか独裁とか言うんでしょうけど、まあ、教祖様へのおすがりとかですね、弱いですからね人間は

薬物依存、アルコール依存、ひきこもり、ゲーム中毒、などなど、けっこう「自由」を、もてあましたりしますからね



それで、仏教的には、仏さんは、どんどん増えていくことになってるんですけど、これ、やっぱりどうしようもなく「自由」だからでしょうね、脳が別々ってことで

一つの仏になるという主張をしても、それは「共同幻想」で、いずれ夢から覚めなきゃならないってことなんでしょう

これは、一法界か多法界かって論題で「一多法界」とか言って、仏教教学上の有名なお題でもあります



理屈では、理智不二でもって、「見る者・理」と「見られる物・智」の統合が悟りだってことなんですけど、この統合状態では、他人てものの存在は、自分になるのか、まあ、あまり心配する人もないでしょうけど、どう説明つけるかってことですけど


重重帝網なるを即身と名づく  即身成仏義 弘法大師


帝網(たいもう)というのは、帝釈天が持っている網のことです
帝珠(たいしゅ)といって、宇宙全てを映し出す無数の珠玉を網のように繋げて、宇宙全体が成り立っていると、
その帝珠が全てを映し出していて、となりの帝珠はそれをまた写し出して、ずーっと繋がっている、そんな意味です

インターネットでですね、いろんなコンピューターがオンラインで繋がって、それぞれのコンピューターが全てのコンピューターにアクセスしてる状態、とでも言いましょうか

コンピューターが帝珠で、オンラインが網ですね

それぞれのコンピューターは別個の場所、メーカー、OSですけど、インターネットで編み目のように繋いで、どこにでもアクセス可能と、まあ、重重ですね

これが、密教的な、仏の世界のイメージです


僕的には、アクセス権限のパスワードは「慈悲」です


厳然とした、個別の「自由」も、「慈悲」でコミュニケーションを取り合う、とまあ、考えてます


♪ここらあたりから想像力を逞しくしていくと、いろんなイマジネーションが浮かびますよ♪

2006-01-12

宇宙のシンフォニー

以前このBlogに書いたことですけど、弘法大師の声字実相義ですね

弘法大師は「声」ってことですけど、今風には波動かな、ゆらぎ、ですね
単なる波動ではなく、意味というか意志をもってるから「声」なんですけど

心の波動
「声」つまり「意味のある波動」は各人の感覚器官の内側にはなくて、感じられる前の「存在そのもの」ということになります
感じとられた「字」は各人の中にあって、相対的であり、幻想でもあります

「意味のある波動」は各人各様の我執からはなれて存在し、見る前の色、聞こえる前の音、感じられる前の感触です

つまり「意味のある波動」は時間も空間もない、悟りの世界そのものです

「声」を眼耳鼻舌身の感覚器官で感じたのを「字」としてるんですけど、これは各人各様、まちまちです

一つの林檎を観察しても、見る角度で見え方はみな違います
同じ物を観察しても、見る人の位置で感じ取られる事は、全く違ってくるのです
で、相対的であり、林檎そのものでないイメージが脳内に作られるのですから幻想です

これは、弘法大師は「声字」が実相、つまり、大日如来であり、悟りの世界だと言ってるんですけど
僕は、素直に、「声」を発する「心」が存在する、と考えてます

これを、一神教世界に浸っている人は創造神とか唯一の神とかすぐ言うんですけど、仏教的には、いままでご説明したように、僕らもいつか神になっちゃいます

なので、神様仏様はこれからも増え続けます
仏教では過去七仏と言って、お釈迦様の前に七人の仏がいたとか、いやいや三千だとか、言って、いずれ混じり合って一つになるとかは考えてません
だって、たどる道筋というか、人生経験は千差万別なんですから

まあ、薬師如来、阿弥陀如来、大日如来なんかは有名なところですけど、お経の中には他にも一杯いろんな仏様が登場します

アショカ王なんかは、お釈迦様のことを神様と呼んでました
宗教の教理的にはいろいろややこしく考えても、実感としては、そんなもんだろうと思いますね

僕的には、キリスト教とかイスラム教は、どれかの偉い神様と契約するのだと思いますね
まあ、シルバーバーチなんかもですね

唯一絶対至上の創造神、などというのは砂漠の古代社会が生んだ原始的宗教観じゃないですかね



10人の人がいれば、10の脳内にあるイメージは全部別々ですよ
相対的であることは宿命なんです

相対的な各個人のイメージなど幻想としてかたづけて捨て去っちまえと、そして、一番ホントの事をいたしましょう、とね

それを止観の、「執着を棄て思考停止し感覚遮断」して「誰かのために一生懸命、なにかをする」と言うのが仏教のロジックです

だんだんやってて、先に行ってる先輩が神仏だと
他にもいろいろいるぞ、ってことで

仏教のロジックを頭ごなしに否定しても、瞑想によって真実に近づいていくってことは、いずれ否定しきれなくなりますよ



それでですね

密教では「執着を棄て思考停止し感覚遮断」して、「声」と「心」をイメージしようということです

「声」はイメージとして脳内に作られる前の「存在そのもの」です
「心」は「声」を発する意志です
「声」と「心」は、つまり、実相であり、悟りの世界であり、神仏であり、涅槃であり、です

その「声」と「心」をなんとかそのままのイメージで自分の体感としましょうと

密教では三密と言って、印・真言・観念ですね身口意とも言います
真言は「声」、観念は「心」、です、これに印を付け加えて実習しやすくしてます

「声」だけが念仏、「心」だけが坐禅、ですかね

それで、印がですね、ハワイのフラダンスの手の動きとか、ミャンマーの踊りの手の動きとか、意味を表すジェスチャーですね、つまり

僕的にはスイッチかな
印で遊ぶなって、よく言われました
遊んだりしてふざけて印を組んでると効かなくなります

でもって、印・真言・観念でなにをするんですか、ということで
慈悲です、と言ってるわけです
「慈悲の極み」をどうぞ

ここのところで、誰かを支配し操縦しようとすると、とんでもないカルマを作ります
踏み外す人も、やっぱり、います
輪廻の中で、苦痛を通して学ぶことになります
慈悲に立ち返ってください



この慈悲も、けっこう長い歴史の中で難しく考えられてきました
行くところまで行けば、苦しみは無いし、楽しみたって、なんでもあるというか、すべて自分なんですから、新たな創造くらいですね、退屈しのぎは

自受法楽っていうんですけどね
理屈ではそうなりますね

それを、迷いの世界から見てると慈悲と表現したくなる、と

病気の原因を仏教では四大不調って言って、世界の構成元素の「不調和」ですね、それと「鬼」と「業」があると
「鬼」は不成仏霊や悪神など全般、「業」は不快感を伴う過去世からの宿題、ですかね
不快感なければ果報者とか言いますからね

まあ「不調和」は外科的手段や薬、慈悲ある波動でなんとかなりそうですが、、「鬼」は供養かなー、慈悲ある応接ですね
「業」は本人の心がけが変わらないとだめでしょうが、慈悲に基づいた仏教的ロジックの学習ですかね

それで、まとめて、慈悲だよ、となります

慈悲とは、とどのつまり「苦悩に行き着かない道筋」です
自他の分離と、輪廻の果実への執着は、ですから本当の意味での慈悲は無いです


「声」と「心」は、つまり宇宙のシンフォニーですけど、ただやみくもに、でたらめに、鳴り響いているわけじゃないってことでしょう

無心に、無邪気に、素直に、なれたら、誰にでもわかることですけど

♪心で感じるんでしょうね 他にないですね 感じる方法が♪

2006-01-11

忘己利他

ここまで、いろいろと書き連ねてきましたが、僕の独創なんてものはありあません

「己を忘れて他を利するは 慈悲の極みなり」伝教大師

忘己利他

ですね 比叡山の最澄さん、つまり伝教大師の言葉にすべて尽きてるのです

僕の本職のほうのホームページは1996年からやってます
これより古い年から始まったホームページは無いはずですよ
インターネットの商業利用が始まって、一般の人がホームページをつくることができるようになったのが96年ですから

そのときから、僕は「己を忘れて他を利するは 慈悲の極みなり」を一番最初に掲げてます


「己を忘れる」のが「感性と理性の統合」、「見る者・理」と「見られる物・智」の統合、「執着を棄て思考停止し感覚遮断した状態」です

「他を利する」のが慈悲ですよね、「誰かのために一生懸命、なにかをする」です

それが「慈悲の極み」と

理屈は、「理智不二」、「棄恩入無為」、「止観」、「輪廻して三界の中でいいポジションを持つのと違う」、とまあ、かなりややこしいですが要するに忘己利他です



僕は、高野山で修行者の監督をしてたことがあるのですけど、きちっとした仏さんを、きちっとした伝授で、監督者がついて拝んでれば、修行の初めの頃はいろんなことがありますが、最後にはうまくいきます

拝んでいるのを見ると、行者に金色の後光が見えるのですよ
拝みたくなりますよ

ですが、残念なことに、うまくいかないことも、たまにあります


すごい霊能力のある行者がいて、先輩のお父上でしたね
かなりの年輩でしたが、年下の僕のところで加行しました

これが、すごかったのは、僕は皆が勤行してるときは、いつも別室で護摩を焚いてたんです
かなりややこしい護摩で、加行道場にあるいろんな仏さんを勧請して拝んでました
それが、別の所にいるのに、なんの護摩かわかるのです
いや、たいしたもんです
僕は、若かったせいもあって、ものすごく怒られたりして怖かったですよ

でも、護摩は見抜いてました

九州の方だったですね
九州は霊能の強い人が多いです
僕は、温泉や火山が多いのと関係あるかなと思いますけど

ま、パワーですね 強い

それが、加行終えられて2,3年後だったかな、消息を聞くと、多臓器不全で、ありとあらゆる病気にかかって亡くなったということでした・・・

ある程度、予想はしてました

なんというか、加行中からね、力の信奉者でした


真言宗の修行では「慈悲」ってのをそんなに強調しないんです
言葉として、あんまり出てこない

キリスト教なんかのほうは、多いかなって印象ですね


それで、僕は、勘違いしないように、脱線しないように、それにはどうするかと、無い知恵をめぐらして、やっぱ慈悲を強調しようと、これは、経験から確信してます

フォトンベルトがどうたらこうたら、とか、なにかがどうかして、とかで、霊感が強くなるとか、今まで見えなかったものが見えてくるとか、言いますが、勘違いしないように

修行無しで霊感があったりすると、どうも、慈悲の感触がわからなくなることがあるので、最初から霊感強いと、むしろ難しいんですよ

パワーじゃなくて、愛ですよ  くれぐれもよろしく



ヒーリングされる方は特に、カルマはやっぱり必要だから現れてくるんですから、簡単には消滅しないんです
こうすればこうなる、などと、機械みたいに考えてるとひどい目に遭いますよ
脱線してみて学ぶのもいいですけど、引き返せなくなった人を沢山見ましたからね
今も、沢山いるようにお見受けしますね

やっぱり、本当に、慈悲をわかってないとね

それには、やっぱり忘己利他の意味を理解してください



この三界にはいろんな存在がいて、輝いているのもいれば、腐った奴もいる
輝きだけまねするのもいますな
それで、慈悲の感触っていつも言うんです

オーラなんか、コントロール出来るよ
知ってるチベットの坊さんですけど、どんな色でも出すことが出来た
人間ってほら、化けるとか、なりきるってこともあるのでね
霊的な存在もそういうことになりますね

まあ、紫だから、金色だから、いい、とかは、これ、初心者の話で
病気が治った、てのも、カルマのつけ回しだったり

慈悲の感触っても、ヤクザの親分にも仁義はあるので

子供じみてお目出度く考えてる人が多いよ
やっぱり、けっこう難しいもんなんですよ



霊媒体質ってよく言うけど、己をむなしくすれば、自然と自他の境界は消えてきます
ですから、どうしても通っていかなければならない道です

見える、聞こえるは、智慧が開かれてきているのですから、後戻りはしません
自分の能力を無視することは出来ますが、愛に背を向けることになりますよ

怖がらないで、もっと深く慈悲を感じるしか進む道はありません

沢山の輝き達が守り導いてくれる、ってのを信仰というんだけれど
信仰をもってくださいね


♪そろそろネタ切れかな♪

ラベル:

2006-01-10

もっと深い慈悲

「見る者・理」と「見られる物・智」の分離が、どうして瞑想によって統合するのか?

それを仏教では、伝統的に、「止観」(しかん)として説明してきました

タイやミャンマーの南方仏教からチベット仏教、日本密教まで、幅広くこれで説明がつくことになっています

止を遮情門、観を表徳門ともいい、
止は制感で、「執着を棄て思考停止し感覚遮断する」ことです
観はつまり、イマジネーションです

止だけ修業する、観だけ修業することもありますが、天台宗では、圓頓止観と言って、同時にすることになっています

「止」の「執着を棄て思考停止し感覚遮断する」ことは、忘我の状態になることでもありますが、もっと端的に言えば、「死」ですね
で、そこで終わるように考えるから仏教がわからなくなります

この、まったくの無を、「観」、死ぬんじゃなくて見てるわけです
で、何が見えるのかと言うと
「一身一念、法界に遍ず」と言って、三界そのものと同化します
はたから見れば神通とか超能力とかいうものも、あたりまえのことになります

どうして、そうなるか


「見る者・理」と「見られる物・智」が分離しない為には、いろいろな方策が考えられますが、仏教では、「見る者・理」の消去、「見られる物・智」の消去をすることを考えました

合体ではなくて、違いの消去です

「見る者・理」の消去は思考停止です
「見られる物・智」の消去は感覚遮断です

そうすると、違いそのものが消えて無いから、統合状態になります

それが、「止」で、「執着を棄て思考停止し感覚遮断した状態」を死なないで体験するのが「観」です

この「止観」がつまり、仏教の瞑想です

早い話、忘我の状態です

真言念誦、念仏、題目、公案など、全部この忘我の状態を作るためのものと言ってもいいです

曹洞宗の坐禅は、無、そのものを坐禅で体得しようとします
一番ストレートです
西欧的な「自我と世界の対立」を解決するのは、「見る者・理」と「見られる物・智」を一気に消去しようとする曹洞的な考えかたかもしれませんね

実は、「執着を棄て思考停止し感覚遮断する」とき、何をしているかが非常に大事です
つまり「観」ですね、なにをしてもいい、ということにはなりません
それで、真言念誦、念仏、題目、公案、坐禅、など、いろいろ考えられてきたのが、仏教の歴史です

どうすれば思考停止し、どうすれば感覚遮断されるかという問題もあるので、いろんな研究がありますが、仏を念じることで忘我の状態になることで、「執着を棄て思考停止し感覚遮断する」問題を解決したことになってます

ここで、おかしな「観」を刷り込むのが洗脳です
おかしな「観」で憑依現象を作り出すこともできます

じゃ、仏教は洗脳の一種か、と、なるのですが
やっぱり、きちんとした伝統のなかで、筋道がちゃんと通った伝授の歴史が無いと、危険ですね
本読んでわかりました、なんてのは、ダメですね
瞑想する人は、ちゃんとした神社やお寺にお参りしましょうね

学びを終えた輝きの、導きが必要です

難行・苦行は感覚遮断ではなくて、感覚破壊です

僕は、気持ちのいい大自然の中の、五月の風のさわやかな、ぬるい露天風呂なんかいいな、と思いますね
考え方としては

お釈迦様は、川のせせらぎの横の木陰ですね
悟りを開いたのは

この、思わず、うっとり、うつらうつら居眠りしそうな心地よい状態がベストでしょうね、理屈では

腹八分目で、満腹でも空いてもいない状態

足を組んですわるのは、気合いを入れるためではないかと思いますね
痛いだけですから、僕は嫌いですけど、やっぱり気合いは入ります

テレビゲームやったり、ニュース見たりは論外
本読んだりもだめ
ということになりますね
徹底すれば

真っ暗な独房も思いつきますが、あれは幻覚を見るらしいですね
やっぱり、自発的なものでないと、だめでしょう

「自帰依仏 自帰依法 自帰依僧」と言うときの、「自」は、ですから、自発的にという意味です
強制的なことはうまくいきません、大事なとこです


真言念誦、念仏、題目、公案、坐禅、といろいろな仏の念じ方が発案されましたが、ここらで僕も一つ提案します

ほほえんで、吸う息にあわせて慈悲を感じ、吐く息のとき感謝する、ってのを是非
それで、いつも、もっと深い慈悲を念じてください

これではなかなか忘我の状態にならない、と、物足りなく思う方は、ぬるめのお風呂とか、あったい布団のなかとかでどうぞ

リラックスして、目をつぶって、ほほえんで
居眠りしそうなのをこらえて、もっと深い慈悲を感じながら息を吸って、感謝しながらゆったり吐きます

そんなんでいいのか、って、いいんです

神道系や、生まれつきの霊能者の方は瞑想はしないかもしれませんが、いいもんですよ

お試しあれ

♪原理は「執着を棄て思考停止し感覚遮断」しながら「慈愛と感謝を念じる」、です♪

2006-01-08

苦悩の消滅

真言宗では「理智不二」と言いますが、天台宗は「理と智と妙成就」で、不二を妙成就と言うことになってます

能観と所観ともいい、「見る者・理」と「見られる物・智」、これが一体になる境地
それが「悟り」であり「無為」であり「慈悲のあるところ」です

分離した「見る者・理」と「見られる物・智」を統合するのは、瞑想です

で、不二、妙成就には、自分と自分以外という分離はありません

自分と対立する自分以外がないのですから、全て自分です

まあ、反対意見を言う者もいなければ、意地悪するのもいない、敵もない、全部自分という心境

いろんな事を感じるが、自他の別がありませんから違和感を感じさせるものがないので、苦悩は感じない

つまり、「見る者・理」と「見られる物・智」が分離しているのが苦悩の根本原因です

分離している自他を統合すれば、すべて自分ですから、全智全能です
理論的には肉体を棄てれば、それが如来で、涅槃です



ただ、「見られる物・智」に執着していると、妙成就を得ることはできません
「見る者・理」に執着していても妙成就はありません

つまり、分離したままの状態になります
分離状態に執着し愛し所有し支配しようとしていたら、いつまでも、統合へは進みません

ですから、瞑想によって、「見る者・理」と「見られる物・智」の統合をして、一切の苦悩から解放されるには、必ず執着をすてなければなりません

富、名誉、力など、輪廻のなかで、いいポジションを占めようという願望は、自他の分離を固定化するため、根本的な苦悩からの解放がありません



輪廻転生を、無常と言い、苦しみと言うのは、どこまでいっても自他の分離により苦悩からの解放がないからです


生まれ変わって、死に別れた愛する人に会う、とか、輪廻を続けることでだんだん賢くなることを期待する、などという思想は仏教には本来無いです、お間違えのないように


苦悩からの解放、最高の智慧の獲得、そのためには自他の分離を統合するというのが、仏教の答えです


執着を棄て、慈悲をこころがけ、感謝し、智慧を深める


これが、仏教の奥義でしょうね
神様や観音様のような存在になっても、これ以上の奥義はありません


これは、ですから、「誰かのために一生懸命、なにかをする」という生き方のなかに仏教の奥義がある、ということなんです

霊感も神秘体験も、あればあったで、ないならないで、人も、神も、仏も、「誰かのために一生懸命、なにかをする」


理屈は長々とありますが(汗)
シンプルでしょ

♪目をつぶり、かすかにほほえんで、呼吸に集中する 「無念無想」でも「愛と感謝」でもいいです 瞑想もしてみてね よいことですよ 1分からどうそ♪

おみくじ

今、神社やお寺にある「おみくじ」は、元々は天台宗が始まりです

平安時代、比叡山に良源というお坊さんがいて、如意輪観音を厚く信仰していました
天台宗の1200年の歴史のなかでも、もっとも霊能力があったとされ、一月三日に亡くなったので、元三大師と呼ばれています

その元三大師が観音さんからさずかった偈文が元三大師百籤といわれてる、今でも使われてる「おみくじ」です

ですから「おみくじ」は元三大師に祈って引くのが本当なのでしょう

江戸時代、徳川家康、秀忠、家光の三代に仕えた天海僧正は、霊感を元三大師からいただいてましたが、これを、一般庶民でもわかるようにしたいと祈願していたところ、夢で、戸隠神社の神棚に元三大師百籤があるとお告げがあって、探したところ、出てきたということです

偈文ということですから、大吉とか凶とかが最初からあったかどうかはわかりません

現在では、いろいろな文章のものが工夫されていますが、どうなんでしょうね

考え方としては、聖書などを、ぱっと開いて、出たところを読んで日々の糧にする、といったことのほうが、本来の意味に近いんじゃないですか



で、「おみくじ」はいろんな意味で解釈できる結論しか書かれてません
ロジックはありません
つまり、感性で解釈するので、フィーリングが大事です

なにか、自分の進路、進退、運勢、吉凶などを占うことができますが、結論にいたる論理的な説明がありません

ですから、「感性と理性のバランス」という前提があって人格の完成があるとすると、どうにもロジックのない「おみくじ」は、人間性を豊かにする方向で働かないということになります

「占い」全般はつまり、結論にいたるプロセスに理性というかきちんとした説明がありませんから、判断に迷った時にたよるとしても、感性やフィーリングとのバランスがありません

フィーリングをロジックで導くのではなく
フィーリングをフィーリングで説明してるわけです

運勢というとらえどころのないなにかを、また、とらえどころのないもので導こうということになります

占いを仕事にしてはならない、というのは、確か仏教の戒律にあったと思います

占い依存症というのがあるらしですが、ロジックであれば、整合性の点検は誰でもできますが、説明抜きの結論ですから、信じるか信じないかの選択になり、占い教の信者のようなかっこになるんでしょうね


「おみくじ」の吉とか凶とかこだわるよりは、文章を戒めとしてよく読んで、考えてみる、というのが正解かもしれませんね


♪これを占うと決めたら、二度引いちゃいけないって習いました♪

2006-01-07

解放

NEET(Not in Employment, Education or Training) 

学術的・行政的定義
学生でもなく、就業者でもなく、求職「活動」もしておらず、主婦(主夫)でもないという者をさす。
 
注意点
「フリーター」はニートに含まれない。また、就業意欲があっても求職活動していなければ「ニート」になる。ただし,家事手伝いはニートに含まれる



人は、成長すれば、否応もなく、自分の面倒は自分でみなければならなくなる
食うために働き、あるいは、働き口を得る為に学ぶ
家庭を作り家族を持つ

で、自立すべき時がきても、自立しない人がいる
豊かさがないと、ありえない

今の社会にある選択枝に、自分の居場所が見つけられない
無いなら無いで、自分で作り出すことも、あらかじめ諦めてしまう

というか、社会の歯車に組み込まれることに魅力を感じない



「仏教にはさまざまな経典や言葉があるけれど、結局は輪廻と解脱の二つの思想に帰するといえよう」須弥山と極楽 定方晟


輪廻は、今は誘導催眠などによる前世療法や、幼児の記憶調査、などから、おぼろげながらその存在が認知されつつある

どうやら、魂は永遠に生きるものらしいが、かならずしも、永遠に生き続けることが心地よいことと考えられているわけではない

輪廻の歯車に組み込まれることに、魅力を感じない
そんな、感性もある

仏教では、無常感という

しがみつくべき、特別に魅力的な、永遠の価値、は無い、と認識する

富も、名声も、権力も、容姿も、才能も、家族も、肉体も、いずれ、捨て去り死ななければならない
ならば、なぜ、それらのものを、必死で求めるのか

有名企業への就職、マイホーム、小洒落た生活、それらのことが、なんとなく陳腐な退屈なことに思える

だから、ぶらぶらと、探し続ける
探しても探しても、見つからない

世の中が悪い、と思う
でも、世の中を治すことで、だれかと衝突するのがいや

心優しく、優柔不断で、若いのに老人のようだ

じゃまする奴は嫌い
誰かを憎んでいると真剣になれる

だけど、なにかがしたいわけじゃない

ただ、なんとなく
生きている
死ぬのはやっぱり怖い


忘れていたい、逃げ出したい
でも、逃げ出しても、いずれ、死んじゃうんだよ
腹も減るし



人ごとではないから、助ける

助けることが出来るかどうか、なんて、関係ない

棄ててはおけない



そうそう、それ、そこが出口だと思うよ


「命は人のためにある」水谷修 



仏教の目的は、輪廻の中でいいポジションを求めることではありません
輪廻からの解放です
解放は、逃げ出すことではありません
解放は、神や仏という肩書きを得ることでもありません
慈悲と智慧を通してだけ、輪廻から解放されます
その意味がわかるまで、輪廻は続きます


♪ニートするなら、そこらあたりまでおやりなさい♪

2006-01-06

感謝

神仏の導き、ってことなんですけど

お釈迦様は、別段、こちらから頼まなくても、導いてくれてます


毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身

いつも、自ら(お釈迦様がです)この念をなす どのようにして、全ての人を 無上の道に入れ 速やかに仏身を成就せしめんと


これを、破地獄偈と言い、天台宗や法華宗では、最高の経文ということになってます

こっちから頼まなくても、一方的に心配してくれているわけで、地獄にいて、お釈迦様のことを知らなくても心配してくれているのですから、地獄も破壊することになる偈文ってことです


種子法華曼荼羅図  部分  
絹本著色 縦116.9 横100.7 室町前期(15世紀) 長保寺蔵


法華経のですね、多宝如来とお釈迦様がならんで、なんの話をしてたかと言うと、この経文の部分を話してるのです
仏教の肝心要の最重要のところです

法華経の自我偈という所の最後に書いてあって、これは、天台宗ではどこのお寺でも毎日勤行で読誦してます


これが、観音さんになると

念彼観音力 かの観音の力を念じると

で、念じなければなりません

阿弥陀さんも、念仏です
念じるのが条件です

なんか、条件があるわけです
当然のことですが


で、お釈迦さんを信じる、仏教徒はですね、理屈を言えば、導いてくださいって頼む必要はありません

ただ、感謝するだけです


だから、仏教徒バージョンで言うと

慈悲をこころがけ
お釈迦さまに感謝し
智慧を深める

これだけになります

お寺参りは必要ない、お賽銭も、お布施も必要ないってことですね
ただ、ひたすら、お釈迦さまに感謝です

僕の本業の営業から言うと残念なことですが、しゃーないです


ですが

観音さんや、阿弥陀さんを念じることを強くお薦めします
悪いことは言いません、念じてください

伊勢や出雲、八幡さんなどの神様の加護も祈ってください、これも、強くお薦めします

まあ、純粋な感謝の生活と言っても、これは、かなりの高度な心境で、普通の者は、すぐグジャグジャのメチャメチャになりますから、古くからの神仏の導きを願ってください

お賽銭や、お布施も、お力に応じてお上げいただいて、功徳をお積みください(汗)
(中国行ったら賽銭箱に功徳箱って書いてありました)


キリストさんやアッラーの神などの、一神教の神は契約が前提になりますので、ちょっと違うかなー、と思いますね
契約したから救うってことですからね

インドの神様はゲテモノと言っておきます
お薦めしません
カレーみたいな混沌は、実際は非常に悲惨な生活を作り出します
いずれ、Blogで書くかもです

チベット仏教は、危険なものが混じっていますので、一般の方にはお薦めしません
なにも好きこのんで、わざわざ信仰する必要はありません

信仰不要のヒーリングやチャクラをいじる方、伝統的神仏を信仰しながらお進みになることを、強く推薦します

占いは、はまったらいけませんね
慈悲と感謝と智慧、これを心がけてるほうがよっぽど幸運を招きますよ
というか、幸せな気分でいられるので、占いは特に必要なくなります


いろいろ、めんどくさいというお方

Meditation of JIHIで書きましたが

呼吸です

お参りとか行くでしょ、そこで

ほほえみながら、愛をスーっと吸って、ありがとうーーって吐くんです

愛ーーー、ありがとーー で、ちょっとほほえみながらね、静かに息をしてみてください

これですね、神前や、お寺の本尊さんの前、仏壇や、ご先祖のお墓、どこでもね、守ってくださっている方のいそうなところでやるわけです

かっこや場所や時間は、お好きなように

単純に、気持ちいいです
理屈は、長々とありますが、やることはシンプルです

朝日や夕日もいい、海や山や草原もいい、音楽聞きながら、いつでも、どこでも、歩きながら、飯食いながら、ベッドにすわって、お風呂で、寝るとき、などなど

感受性の強い人なら、それぞれの、いろんな感触の違いがわかります
面白いよ

それでね、一番いい気持ちのところはどこか、わかります

自分で探してみてね


♪なんで、仏教が2500年も続いたかわかりますよ♪

2006-01-05

ほほえみ

仏教の伝統的な専門用語でいうと六波羅蜜(ろくはらみつ)ということになるんだけれど、壇・戒・忍・進・禅・慧ですね

禅によって慧が生じる、という順序になってます


壇は慈悲、慧は智慧ですから、(戒・忍・進・禅)が神仏に祈るプロセスを含んでるって考え方になります


慈悲をこころがけ 壇
神仏に導きを祈り 戒・忍・進・禅
智慧を深める   慧


智慧が正しく生じるには、その前に(戒・忍・進・禅)が必要だという思想でもあります

慈悲が入り口で、ここから入らないといけませんが、智慧ですね、ここに至るには、その前に禅、つまり瞑想が必要ということになります

瞑想といっても、広い意味にとらえれば、神仏に手を合わせて願う、といったことも瞑想だと、まあ、かーなり広い意味になりますが

理詰めに言ってしまえば、慈悲をこころがけ、悪いことをせずいいことをして、忍耐つよく、精進努力し、瞑想すると

悪いことをせずいいことをして、忍耐つよく、精進努力するというのは、慈悲心から生じるわけですが、こういった倫理観がやはり必要だというのが、まあ、宗教ですよね


それで、この瞑想がないと、慈悲と智慧の統合ができない、ということです


唯識観と空観の統合、感性と理性の統合、右脳と左脳の統合、慈悲と智慧の統合、これつまり悟りなんですが、瞑想してくださいってことです

たとえば、音楽CDがあってですね、どんな曲で(感性)、どんな評価をするか(理性)
で、それには、実際に聞いてください(統合)、と、わかりきったことですけど


これは、壇・戒・忍・進があれば、あとは、ただ坐れば、禅が自然に生じるってのが正当派です

慈悲深く、精進努力し、しばし静かに坐る、と、いいヒラメキが生まれる

それで、十分だ


とまあ、そういうことなんですが、仏教は2500年もやってますんで、いろいろ工夫や飾りが発達してきました

で、神仏に祈るってことになるんですけど、これですね、つまり、神仏は先輩ってことになるわけです
慈悲と智慧の統合をしていけば、神仏(悟り)に近づいちゃうんですから、神仏は究極の完成形ですね

それで、学びを終えた先輩である輝き達が、僕らを守り導いてくれるということです

ですから、神仏を信じなさいってよく言いますが、信じるも信じないも、自分の慈悲心は神仏まで一直性に繋がってますんで、慈悲心を大事にしてれば、神仏を信じてることになってしまいます

仏教的には、輝きを発する光源が仏様、輝きが導いてくれている時が観音さんや地蔵さんなどの菩薩様、輪廻の世界にいながら輝いて僕らを守っているのが神様、ってことかなー

まあ、大日如来って、つまり、大きな太陽ってことです

それで、輝きに導いてもらって瞑想したらうまくいきますよ、ってことになります

だから、神社やお寺にお参りしましょうってことです

で、そうやって輝いてると、あなたも菩薩です、というのが仏教です

輝いていると、自然と、ほほえんでいます

人はいろんなとき、ほほえみますが、輝いているときも、ほほえんでます



また、長々と書きましたが(汗)

慈悲と智慧が統合したら、静かな「ほほえみ」があります


♪とりあえず、ほほえんでみてください♪

2006-01-04

Love Supreme

コルトレーンでございます

Love Supremeは1964年の録音

思い出深いですね 高校生の頃、よく中野、吉祥寺、新宿あたりのジャズ喫茶に入り浸っていました

なんといってもMy Favorite Thingsですけど

実際の演奏は、悟ってるとか、念仏だとか評論されてたみたいですね

Ascensionこちらでちょこっと聞けますが

今はやりのアセンションですけど もう、とっくの昔にですね、僕はやっちゃってるのですよ、気分的には

芸術は永遠だ、などとよく言いますが
当時ぼんやりと考えました

太陽にも寿命があるというなら、今一生懸命立てているビルとかダムも消えてしまうのだろう

コルトレーンのことも忘れ去られるのだろう

僕のことなど、完全消去ということか・・・

いったいどこに永遠などというものがあるのか

コルトレーンを聞きながら、物思いにふけったのでした




さて

神仏と簡単に一口で言いますけど、輪廻転生を前提に考えれば、仏教では、僕らは、とどのつまり、最終的には、神仏になることになってます

魂は永遠に生き通します
死んじゃったから魂になるんで、もう死ねません
今度は生まれます

また、生まれ変わって、そして死んじゃったら、また魂になります


死んでも意識があるので、自分が死んでいるのではないと勘違いしてる状態が、成仏してないと言われてる状態です
生前のこだわりのまま、ぐるぐると堂々巡りで、時間の感覚がなく、同じ事を続けている場合が多いです
目の覚めない夢を見ているような感じなのでしょうか
あれっと思っていても最初に戻って、また始めからおなじことの繰り返しをする

霊を感じる方は、たいていこの勘違いにつきあっているわけで、恐怖感があったり、わけわからんことになって当然です

霊の言い分は、ですから、勘違いがもとにありますので、あまり真に受けてはいけません


ああ、死んじゃったんだ、とわかって、じゃ、いつまでもくよくよしないで次行こうと、なんと言いますか、それなりに前向きな気持ちになるのを、浮かばれると言うのでしょう

霊の世界で生きて、いたずらするのも面白れえぞ、などという輩を悪霊と呼ぶのですが、なんと言うか、霊は案外と素直ですから、真面目に説得すれば大抵通じます


よ く、成仏してくださいとか、光にお進みくださいとか、先祖供養などと言いますが、結局、いった先でどうなるか、と言えば、時が来れば、人間界とは限りませ んが、どこかの世界に生まれ、段々と賢さを増していって、遠い未来になるかもしれませんが、最後には神か仏になる、ことになってます

で、この生まれ変わることで蓄積されていく賢さを智慧と言いますが、これは、なかなか身につけるのはたいへんです

仏教では、神仏になることはわかっていても、この世にとどまって、いいことをしている存在(あなたの事です)を菩薩といいます

観音さんや地蔵さんは、いつまでもこの世界を救い続ける偉い菩薩で、まあ、かけだしの菩薩もいると

いいことをしようという気持ちがつまり慈悲です

慈悲のほうは、その気になればいいだけですので、わりと簡単です
智慧のほうは、本格的には、かなり輪廻転生を繰り返さないと身に付かないってことになります

慈悲が感性としたら、智慧は理性ですよね

これは、統合していて、バランスがとれているのが理想です

で、仏教では、とにかく、なにはさておき、慈悲だ
難しい智慧のほうは、ぼちぼち行きましょう、と考えてます

間違っても、勘違いでも、遠回りでも、なんでもかんでも慈悲で行けってことなんです

Love Supremeです


で、祈るってのは、基本は、難しい方の智慧、智慧を授けてもらいたいってことになるわけです
授かった智慧で、自分でなんとかする
その智慧で、自分勝手な思いこみの慈悲になってないか反省もする
なんか、誰かがやってくれるのではないです
いつまでも、なにかに依存してれば、智慧は身につきません

努力をしてれば、それなりに、なにもしないでボンヤリしてれば、やはりそれなりに(たぶん厳しく)、教えてもらえると、まあ、考えてるわけです、仏教では


神は自ら助くる者を助く とか
人事を尽くして天命を待つ とか

昔からいろいろ言いますが、慈悲を心がけて、智慧の導きを祈り、努力している者に、天の助けがあるんじゃないですか


うちなんかでも、いろんな願い事を皆さんしますが、ほとんどが、身体健全・家内安全です、もう言い尽くしてます

で、身体健全なら、健康にいいことはこれなんだと気がつく、と
家内安全なら、ふと夜中に目が覚めて、つけっぱなしの火に気がついたとか
たとえば

確かに、何とも言えぬ不可思議な霊験というものも有ります
ですけど、慈悲心と智慧で自分でなんとかして、そこからなにかを学ぶ、これが、基本です

神仏の力を借りたヒーリングでは、ですから病気から、なにかを学ぶのが、治癒するうえで必要になります
感謝とか、許しとか、家族の愛とか、思いやりとか、もっと深く
ヒーリングパワーと治癒が等価交換てのは、勘違いです
治ってもすぐ別の病気になるとか、なんか、無理が出てくると思います
災難から、なにかを学ばなければなりません


貧病争で壁にぶち当たって、どん底に落ちて、神仏に願い事をするわけですが、乗り越えていくのは自分です
この乗り越えて行くとき、慈悲以外の心がけでいたら、悪循環にはまります

慈悲さえ有れば、なにしてもいい、とさえ言います
嘘も方便とか
慈悲をこころがけていて、馬鹿正直といわれようが愚直といわれようが、そこから学ぶことが、つまり、智慧ということになります

魂の永遠ってことを前提にすれば、目先の御利益より智慧が深まる方が大事です

お守りパワー、祈祷札パワーといろいろありますが、神仏は、より深い学びに導くのが本業ってことなのです

だから

慈悲をこころがけ
神仏に導きを祈り
智慧を深める

そうすれば、神仏の加護もあり、輪廻転生の長い道のりで、神仏に近づいていく

これが、仏教的生活と、まあ、長い話になりましたが、結論ですね


♪永遠かなー♪

2006-01-03

ヒーラー

僕の高野山時代の兄弟子に凄い霊能者がいました

一度手帳を見せてもらったけど、もう、予定がびっしり書いてあるんですね
全国の大学病院などへの出張予定です

それをですね、自家用ヘリで、自分で操縦して、文字どおり飛び回るのです
信じられないかもしれませんが、ほんとです
大きな自家用モーターボートも持っていて、瀬戸内の島はそれで回ると言ってました

自衛隊の元レンジャーです
だから、なんでも出来るのでした


拝んで病気が治るのですが、彼の場合は病人の足元で祈るそうです
心電図や脳波がフラットになってしまっても、持ち直したことが何回もあるそうです

それで、全国の病院へひっぱりだこで飛び回っていました



案外、弟子同士の交流はないもので、年に一回親睦旅行があるくらいで、全員との深い付き合いはありません
あれは、もう昔話になりますが、有馬温泉だったと思うけど、みんなで出かけました
まだ師僧さん大奥さんも健在で、いい思い出です

その、兄弟子と、夜、部屋が一緒になりました
つかまって、徹夜でいろいろ説教されました

で、僕にもできるから能力を開発しろと言うんですね

あー、そんな説教されるから、煙たがって、他の兄弟子達が僕をこの人と一緒の部屋にしたのか、と悟りました

いや、それでも、トッププロのご教示ですから、すんごく面白かったです


それで、どんなことを教わったかというと

右脳と左脳のバランス調整です

なんじゃそりゃ、ですけど



やりかたは、指体操です
左右の手を仰向けて、右は拳をつくり、左は広げます

で、1で、左親指を曲げ、右小指を立てます
2、左人差し指曲げ、右薬指立て
3,左中指曲げ、右中指立て
4,左薬指曲げ、右人差し指立て
5,左小指曲げ、右親指立て

つづけて、逆、こんどは伏せてと、それをどんどん素早くする練習をする、といったものです
なんか、ほかにも習ったけど、忘れちゃった

やっぱり、なんじゃそりゃ、ですけど

なんでも、右脳と左脳を同時に使うと霊能力が発揮されるというお説で、今考えてみると、感性と理性の統合、てなことを考えてたようですね

人は、左右アンバランスに使っているから、本来の能力を発揮していないと言ってました

彼は、チャクラは全く無視してたなー
力は仏からくると考えてたからでしょうね
祈るときは、お札を病人の枕元に置かないとだめだそうです
(あの、わかってると思いますけど、日本銀行券じゃありませんよ、祈祷札です)

呼吸法も関心無かった

一生懸命、指体操を教えてくれた
もっとよく聞いとくんだった

ただ、彼が一番言いたいことは、右脳と左脳を同時に使う、ということでした


弟子の中には、他にも凄い人がいろいろいますけれども、あの人はずば抜けてました
弟子仲間では、だれも別段驚く人もなく、ああ、そんな人もいるよ、と皆さん平然としてましたねー


それで、彼は、急逝しました・・・

白血病でした

因縁を受けたのだろうと噂されました



どんな優れた霊能者も、自分のことはわからないものだ、とはよく言われますが、本当です

僕なりに考えると、病人から貰う因縁もあったでしょうけど、優れたヒーラーだという評判もいろんな因縁を呼び寄せ、どうしてもバランスを崩すのだろうと思います

迫害を受ける聖者も多いですが、そんな理由もあるかな、とは思います

ベティシャインさんも、ヒーリングを続け疲れたので霊の医師に治療を頼んだら、心臓を17針縫った、と自分の本に書いてます

仙人は、だいたい山に隠れ住んでますが、まあ、責めることもできないと

例えは悪いけど、掃除機のように吸い込んでいくんじゃないですか
力が強く、有名になってくると、それだけ、たくさん吸い込みます
パワーを与えるタイプもありますが、プツンと枯れるときがあるんでしょうね


キリストの十字架の意味をですね、考えてしまいますね・・・


私は違うとおっしゃるヒーラーの方
全然わかってないと、断言します

これはそういう方法ではない、という能書きを信じてるヒーラーの方
そうならいいが、と真剣に思いますが、そんな甘いもんじゃありません

回避する方法があるという、トンデモな、ヒーラーの方
カルマのつけ回しは、もっと深いカルマを作りますよ
そんなことしてるから死を恐れる心が強くなるんですよ
今からでもいいから、おやめになった方がいいですよ

こういうのご存じですか
ご一読をお薦めします


♪一切諸法、仏法にあらざるなし と そこら辺まで行くとまた違ってくるのでしょうけど♪

2006-01-02

慈悲ある人

先ず、マナーです 礼儀作法はどこでも必要です

悪いことをせず (自分がされていやなことを、他人にしない 基本です)

善いことをする (そのまえに、他人を理解し共感することを忘れずに)

自分を高めます 前向きに願います

感性を豊かに (芸術、スポーツ、旅行などを楽しみましょう)

理性を大切に (人生から謙虚に学びましょう もっといい方法を探して挑戦しましょう)

祈ります (毎日 神棚、お仏壇のない方は、午前中に太陽の方向に向かって) 

私をお守りくださる方たちへ いつもありがとうございます 皆様の愛を受け入れます

人のために役立つことができるよう精一杯努力しますので、どうぞお導きください


古くからある神社やお寺にお参りしてください (より高度な心にふれてください)
残念ながら、最近のものは、神仏の加護なく自分勝手につくったのものがありますので、古くからの社寺が安心です

宗教を否定されているかたは、神仏の加護を受け入れないという意味になります
宗派の教義には従わなくてもけっこうですが、神仏を否定してはいけません 


神社やお寺にお参りするときは、
神仏は、常に、無条件に、僕らを助けようとしてくださっていることをお忘れなく
感謝し、愛を受け入れ、導きを願う、ことが大切です


人の役に立つことが出来るように導こう、というのが神仏の意志です
どのような願い事をしても、それをきっかけに、導いていただけます
自分のする努力を、導いていただくのですから、自分なりの努力や工夫は常に必要です


お賽銭があってもなくても、加護はあります
お賽銭を上げるのは、自分が徳を積ませて頂くためです
ご自分のお力に応じてどうぞ
お金をもらっても、もらわなくても加護はありますから、お金がどうしても必要だという考え方は、要注意ですよ

拝観料は、礼拝施設の維持管理経費ですから値切らないでね(汗)


霊的な、なにかが、見える、聞こえる、感じる方
慈愛の感触をたよりに見分けなければなりません
これは、自分を高めるための修業です
見誤れば地獄行き、ということをお忘れなく



占い、パワーストーン、ヒーリング、チャクラ、前世療法、ハイヤーセルフ、インナーチャイルド、加持祈祷、お祓い、などはその場しのぎの対処療法です

基本は、神仏の加護です

根本は、慈悲です


加護してもらえるような、慈悲ある人になりましょうね


♪慈悲を通じて、人は無限の向上を続けるのです♪

2006-01-01

真実報恩者


いま、天台宗でもっとも頻繁におこなわれている法要の一つに、法華懺法といって、法華経を読誦し、懺悔する法要があります

厳密には21日間、一日六回、だから四時間おきに行道といってお経を読みながらお堂の中を歩き、懺悔します
その合間に一日四回坐禅します

今でも比叡山では毎年何人も西搭というところにある法華堂で修業しています
(隣の常行堂では90日間、横になって眠らずに念仏を唱え続ける常行三昧という修業がおこなわれます)


法華三昧行法にくわしいやり方が書いてありますが、法華経をとことん拝み倒して仏の加護を得て坐禅をする、といった素朴ですが、なんか霊験ありそうな修行法です

この法華三昧行法に

流転三界中 恩愛不能断
棄恩入無為 真実報恩者


という偈文があります

三界の中に流転して 恩愛を断つことあたわず
恩を棄て無為に入るを 真実の報恩者という


三界は欲界・色界・無色界で、仏教的な世界観です
欲界は、文字どおり欲のある世界、色界はイメージや声のある世界、無色界は精神だけの世界
人間は欲界です、神様は欲界から無色界にかけていらっしゃることになってます

そんなもんかな、ということですが、仏教的には、神様も含めて、意識有る存在は皆、この三界を輪廻転生しています
また、この三界は因果応報から逃れられない世界でもあります
星にも、誕生や死がありますしね・・・


で、この三界では恩愛こそ、大事です
断ち切ることなどとんでもないです
魂は、恩愛を求めながら、三界を輪廻転生し流転し続けています

ところが、恩を棄て無為に入る、と、恩愛を棄ててしまい、無為だそうです
それを、真実の恩に報いる者である、と・・・なんのこっちゃです


無為とは、なにかを自分がしているという感覚のない無我の境地です、自分という感覚にとらわれていない状態です

これ、つまり、感性と理性が統合した状態です
いい音楽を聴いて、ただひたすら全身で感動していて、それでも、ああ、今いい音楽を聞いている、と、わかっている、そんな状態です

その、無我の境地の中には自他の区別というものはありませんから、ほんとうに見返りを求めずに人を愛する心が存在します

あー、ですから、恩を棄てたから冷たい人間になるんじゃなくて、自他の分け隔てをせずに物事を感じ行う人になるわけです

他人を助けるから慈悲、なのではなくて、人ごとではなく感じるから助ける、これです

打算も損得もありません、我が事のように感じて自然に体が動くのですから


それを、棄恩入無為 真実報恩者、とまあ、言うと

それが、悟りであって、因果をこえた生き様であると


ここらあたりが腑に落ちてくると、かなりのもんです、ハイ



占いとか、石とか、基本的には関係ない
あーよかった、めんどくさくなくて



♪あけましておめでとうございます 皆様の御多幸をお祈りします♪