2006-02-15

光の点

今日は、釈尊の涅槃の日

つまり、お釈迦様がお亡くなりになった日ですね

涅槃というのは、サンスクリットのnirvarnaの音写です
火を吹き消すことの意味です

煩悩の火を吹き消したので、こういうらしいです

じゃ、悟りを開いて活躍してたお釈迦様はどうだったんだと言えば、肉体が在る状態を有余涅槃、肉体を棄てた状態を無余涅槃と言って区別したりします

完璧に、執着と勘違いが無くなって、脳内イメージが完全に感覚器官で感じる前の世界そのものと一致した状態でしょうかねー

よく、死んだらそれでお終い、全て無くなって、死後の世界など無いとか言いますけど、涅槃っていう概念はそれとは違って、心は存在し続けて全ての束縛から解放されている状態を言います

死んだら無になるって考えてる人は、気楽でいいよ
まあ、そんな調子だと、死んでも意識があるんで、自分がまだ死んじゃいないと勘違いして、いつまでもフラフラと成仏しなかったりするんでやっかいですけどね



理屈を積み重ねれば、束縛から解放されてなくて肉体がある(今の我々)、解放されてなくて肉体がない(霊)、解放されていて肉体がある(悟っっている人)、解放されていて肉体が無い(涅槃)の4分類ですかね

解放されてないと輪廻があって、解放されるとカルマは無いので輪廻はしない、ってことでしょう



それで、お釈迦様が亡くなるときのことを書いたお経を涅槃経というんですけど、そこに、お釈迦様の最後の教えが書かれてます
いわば、遺言ですね

それは

「如来は常住なり」と「一切衆生に悉く仏性あり」の二つです

仏はいつも存在し続ける、そして、全ての意識あるものには仏性がある、というのがお釈迦様の遺言です

仏性があるのですから、早い遅いの別はあっても、長い長い輪廻の間に、いつか、常住の仏様の助けで悟りを開き、束縛から解消され、輪廻を終わらせる時がくるわけです


じゃ、努力は無意味か、と言えば、無意味です
そして、なんの努力もしないのも無意味です


悟りを開けば、全ての執着を棄ててしまいますから、なにをやっても、やらなくても、どっちでもいいことです


ただこの、輪廻のある世界で永遠に堂々巡りしていると、全く不条理な苦痛に遭遇します
調子に乗って、悪のりすると、地獄の責め苦を限りなく長い期間受けることになったりします

輪廻の世界で長いことやってると、輪廻をつづける不快感、恐ろしさが身に染みてわかって来ます


それで、慈悲を求めざるを得なくなるのです

喜びを与えれば喜びが返り、苦しみを与えれば苦しみが返る

ほんとうの世界にある、苦しみに至らない道筋を「慈悲」という




考えてみると、宇宙では、光の無い暗黒の部分の方が多いのです

光は、小さーーーな点でしかありません

光っているのは、慈悲だけです


宇宙の摂理、真理、法則などという言葉は、脳内に個々別々のイメージを作り出し、いずれ捨て去られます

神とか仏などというイメージも、捨て去られます

イメージは底なしの暗黒の中で、増殖し、絡まり合い、無限に連鎖し、数え切れない、善悪・正邪・苦痛と喜びを作り出し続けます

全て否定しても、宇宙は存在してるのですから、全てを肯定するしかありません


暗黒を受け入れ、だからこそ、光を求めるしかないんでしょうね
 

2006-02-14

光接続

本日インターネット光接続、開通しました

普通の電話でのダイヤルアップから始まって、一番最初はPCVAN、次がMESH、Bekkoameそれから地元のローカルプロバイダーのNNC、ISDNになってからOCN、ADSLになって、こんどいよいよ光になりました

ホームページは、1996からNNCで作って、今はsakura
これは、1Gまで作れて、年間8,800円です
今、300M位使ってます、けっこう多いね

MozillaはVer.1から使ってます
IEは出始めはホントにどうしようもありませんでした

光になってもスピードは、サーバーサイドの問題があるので、体感スピードはADSLとさほど変わりません

光になるとIP電話は、停電にすると使えません
ま、携帯を使えばいいけど、雷の時は、電源を引っこ抜いていた方が安全で、台風の時など不通になるので、ちょっと不便ですね

2006-02-13

山仕事

今日は午前中久しぶりに観光案内をしました

1ヶ月位してなかったので、話の内容を忘れていて、時々つかえて冷や汗をかきました

奈良からの団体さんで、山のムササビの話で盛り上がってよろこんでくれました

霊園の花殻も貯まっていたので焼きました
冬場なので枯れていなくて、1時間半ほどかかりました



それから、天気がよかったので、山掃除をしました

この写真の背負式のエンジンブロアーで落ち葉を飛ばしてきれいにします
STIHLの一番でかい奴を使ってるけど、もっと力があってもいいくらいですね

とにかく、山は1万坪ありますから

ムササビがサクラの木の梢をかみ切って落とすんだけど、切り口がカッターで斜めに切ったようになっていて、それが、山中いたるところ、一面に落ちています
あんまり、かじられたらサクラの花が少なくなるかもですね、今年は特に多いような気がします
寒さで餌がないんでしょう

あー、それから、山吹の花を一株植え替えた

おやつに、お汁粉を作って、拝観受付のTさんと一休みしました

ぼちぼちと参拝客の方もいらっしゃって、天気のいいのどかな一日でした

春になると、山仕事が増えてきて、毎日こんな感じで仕事します


明日は、ボタンの花株を消毒する予定(100株位あります。咲くと豪華ですごいよ)

2006-02-10

想い


仏教では、壇戒忍進慧の 六波羅密とか、戒慧の三学とか、言って、どうしても禅定が必要だってことになってるのだけれど、これ、やはり、心の最深部にある、自分が造ったカルマにアクセスするためなのでしょうね

誘導瞑想などで、心の深い部分に降りていくことができるらしいけれど、あれは、自分で自分の中に降りていくので、さあ、そこから、自分のカルマとどう向き合うか、大変だね、たぶん

過去の記憶を意識化したら、それで終わりになるのかな
意識化して、自分の人格に統合するんでしょうけど



善でも悪でも、振り返ってみて嬉しくても不快でも、過去の行為は全てカルマということで、心の一番奥底にあって、表面意識では全くアクセスできません

しかし、カルマが心の中にあるうちは、それは想念であり、幻想であるので、想いが変われば消え去る、と考えるのでしょうね

想いを変えなくちゃならない


滝に入ってカルマを流した気になったり、護摩で火をどんどこ燃やしてカルマを燃やし尽くした気になったりするのは、わりと直接的なアプローチかな

偉い神様にお祓いしてもらってカルマを祓い清めた気になるのも、やや、これに近いか

その気になるかどうか、これが鍵でしょう

経典読誦や真言念誦は、かなり丁寧にやらないと、ボケッとした独り言になる可能性が高いなー
これは、自分のカルマにアクセスしてるって意識をしっかり持ってないとだめだねー
まあ、懺悔文をしっかり唱えるか、ちゃんと誓願するか
両方やれば、それにこしたことはないけど



いずれにせよ、集中力と、これでうまくいくという絶対的な信頼感が必要ですね

それと、自分が今、カルマにアクセスしてるってのがわかってる、意識化されてることも必要かな

だから、禅定でほんとに寝てしまったら、まあ、あまり効果はない





瞑想して、心の深層に降りていって、ただそれだけだと、まあ、人間の表情で例えれば、無表情です

むっつりと、なんの表情もない状態です

なんか、ほとんどの瞑想、あるいは、禅定はこれで終わってしまいます

冷たく観察するか、自分のいいように利用する方法を考えるだけ



そこのところで、微笑む、と底なしの虚無の闇に光が灯る

微笑みが、がんじがらめにカルマに縛り付けられた想いを解放してくれる

微笑みつつ、自分のカルマにアクセスして、無条件に赦す、と過去の行為は消滅する

自分で自分を赦せない、赦さないのもあるけど、そこを、光の先輩に助けてもらう
そんなもんだと思います


仏像でも、微笑んでいないのが、けっこうあるのですよ

無表情や、しかめ面で、人を赦すなんてのは、考えられないねー

2006-02-09

信仰

本尊と入我我入(にゅうががにゅう)するって言うんだけど
まあ、拝んでいる仏さんと一体になる、同化するのを「我本尊に入り、本尊我に入る」と、伝統的には言うのです

加持(かじ)とも言って、
「仏日の影が衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心よく仏日を感ずるを持と名ずく」 弘法大師 即身成仏義

心の鏡に仏さんが写る、様子に例えたりします


仏さんと一体化することで滅罪するしくみは、やっぱり、神秘的で不思議な働きなのでよくわからないのですが、
自分がしがみついている因果の果実を手放して、解放されることで、治病なり、招福なりが実現すると考えたらいいのかなーと思っています

自分が過去にしたことや、そのもたらした結末を、どんなにすっとぼけても意識の底では知っていて、自分でその報いの果報を自分自身に招き寄せてる、って考え方です

で、仏さんと一体化することができれば、果報に結縛された自責の念が解き放たれて、劇的な癒しになる、と考えるわけです

その、自分の罪状というか、過去世の行いを覚えている心は、潜在意識のそのまた奥深くにあって、自分自身ではアクセスできません

ひょっとして、退行催眠で近くまで行けるのかもしれませんが、どうでしょうね
わからんですね



そこのところを、仏教では、大乗仏典の読誦あるいは真言念誦などによって、仏の力添えを得て滅除することができると説いています

これはですね、瞑想で、自分でその気になる、ってのとは違うんです

仏さんがいて、その仏さんが手伝う、という明確な意識が必要です
イマジネーションで、空想的に救われるのとは違うんです

はっきりと、仏の存在感を感じなければなりません

ま、簡単に言えば、信仰です

自分でできないから、誰かに手伝ってもらうんですから、自分自身のイメージの産物じゃ手伝ってくれないわけです

自分以外の、親切な存在じゃなければなりません


で、その親切な存在に対する、心の最深部からの信頼感が、自分自身がコントロールできない、深い心の奥底にある自責の念と入れ替われば、滅罪生善する、ということでしょうか


善も悪も、心がつくった影で、光によってなくなってしまう、ということなのでしょう


自己保存本能と言いますか、自我に対する執着は、これは、生きている限りなくなりません

ですが、案外、その自我が作り出した行為が、影のようにスッと消えてしまうのなら、さほど、あくせく生きることもないな、と思ったりします



よけいな話ですが

イスラム教徒のやってることが気に食わないならば、その行為を批判すればすむことで、なにも、信じてる神をやっつける必要はないと思いますね

言論の自由だそうですけど、責任と知性を感じないね

イスラムの人達が腹を立てるのはもっともだけど、過去にイスラムは他宗教の神仏の破壊をさんざやってるんだから、自分の神を冒涜される怒りを理解して、今後、他宗教への攻撃を手加減したらいいと思うよ

仏教がインドから消えたのは、イスラムの徹底した破壊のせいだし
ラシュディを翻訳した筑波大の先生は、手首を切り落とされて殺されたし
バーミヤン大仏はなくなってしまったし

まあ、反省するつもりがないなら、自らおやりになったことへの果報を引き寄せるのだろうと思いますね

バーミヤンの復元をユネスコがするって話があるけど、イスラム諸国が金を出せば、イスラム信者が増えるかもしれないなー

少なくとも僕は、好感度アップするけど

2006-02-08

光の心

仏教の懺悔というのは、考え方が難しくて、身に覚えのないことも、「悪るーございました」と、あやまらなくてはなりません

それが、大乗仏教的な立場になりますが、なんか、自分を責め続けなければならないのですね

人格が完成された時のイメージが、どうにもハッキリしないのでこういうことになります
脳内イメージは否定し、捨て去られるのですから、自分を責めて反省をつづけて、きれいさっぱりになったら、それが、悟りだ、という理論ですね

向き不向きもあるかと思いますが、僕的には、イヤです

ずーっと、「オイラはアホだ、悪人だ、罪人だ」と、考え続けるのが修行ってことになってしまいます



それで、密教的な考え方ですが、修行が完成されたイメージが、ちゃんと仏や菩薩としてあります
悉地成就、という終点をいちおう決めています

ですから、拝むときは、必ず発願文あるいは誓願文を唱えますけれど、密教の念誦法には、懺悔文はありません


「無条件に全てを赦し救う心」と同化します
そして、自分も、全てを赦し救う誓いをたてます

先ず、自分を赦します
病気は、自分で自分を責めています
不幸や不運も、自分で自分を責めています

仏の「無条件に全てを赦し救う心」に手伝ってもらって、自分を先ず赦します

仏の無償の愛の心、慈悲は、つまり、「無条件に全てを赦し救う心」です

無条件に、自分を赦し、他人を赦します
それが、懺悔です




あなたが一番信頼する光に意識を集中します

リラックスして

目をつぶって

ほほえんで(大事なコツです)

無条件に全てを赦し救う心を感じながら

静かに息を吸って


無条件に全てを赦し救う気持ちで

体の力を抜きながら 息をゆったり吐きます

それを繰り返して

光だけになります




宇宙に根源なんてものはありません

唯一の創造神などいません

摂理も原理もありません

底なしの闇です


でも、その闇の中に、輝く光があります

輝く光には、心があります

真っ暗な空に、輝く光の心

その、心を感じてみてください

2006-02-07

大懺悔

例時作法大懺悔(れいじさほうおおいさんげ)

あまねく四恩と三有法界のために 仏を礼し懺悔して永く三障を除かん

至心に懺悔することかくの如し。

一切世界の諸仏世尊は常に世に在りて住す。この諸世尊はまさに我を慈念し、我を憶念し我を證知したまえり。

もしくは我がこの生、もしくは我が前生、無始の生死よりこのかたの作るところのもろもろの罪、自覚して知らざるも、もしくは自ら作り、もしくは他に教えて作り、作るを見て随喜す。

もしくは搭もしくは僧、もしくは十方の僧物を、もしくは自ら取り、もしくは他に教えて取り、取るを見て随喜す。

あるいは五逆四重無間重罪を作り、もしくは自ら作り、もしくは他に教えて作り、作るを見て随喜す。

十不善道を自ら作り他に教え、作るを見て随喜す。

作るところの罪障、あるいは覆藏あり、あるいは覆藏無し。

まさに地獄餓鬼畜生および諸々の悪趣に堕ちん。

かくの如きらの作るところの罪障、今十方の三世諸佛に慚愧し發露して皆悉く懺悔す。

至心に發願す、願わくば我ら今日より無上菩提にいたるまで、一切処において常に普賢、文殊、觀音、勢至、地藏菩薩に値遇し、我をして恒に親近を得しめ、恭敬供養し菩提心を発し、永く退転せず。

恒に浄処、浄仏国土に生まれ、三障を斷除して永くもろもろの難を離れ無上道を成ぜんことを。





三障 惑、業、苦報

四恩 仏、国、社会、父母の恩

三有 本有(現身)当有(来世の身)中有(生死の中間)、あるいは欲界、色界、無色界

無間重罪 無間地獄に堕ちる重罪

三世 過去、現在、未来




法華懺悔略文は天台大師、大懺悔は慈覚大師

考え方としては、もともと仏の世界があって助けようとしてくれているのに、それを知らずに罪を作ったので、経典を読誦することによって懺悔する、ということですね

除災招福は、懺悔によってもたらされるという考え方です

まあ、懺悔して罪を滅すると仏の世界に戻ると



弘法大師にはこういう懺悔文は無いですね
やっぱ、密教は表徳門ですから懺悔はあまり重視しません

密教系では、密厳院発露懺悔文(みつごんいんほっろさんげのもん)というのは興教大師の作
興教大師の場合、この懺悔文を作ったら、当時の高野山の坊さん達に、自分たちの悪口を言われてるんじゃないかと勘ぐられて、襲撃され、高野山を追われました

ちなみに、高野山では、僕は密厳院の弟子です
苅萱堂のあるところです

2006-02-06

法華懺悔略文

我および法界の衆生、無始よりこのかた無明に覆われて顛倒迷惑せり。

しかも六根三業の不善により広く十悪四重五逆ないし十重四十八軽を造ること無量無辺にして盡くすことあたわず。

十方の諸仏常に世間に在り法音絶えず妙香充塞し法味空にみち浄光明を放って一切を照触し一切常住の妙理あまねく虚空に満てり。

我無始よりこのかた六根の内に盲しいて三業眠暗にして見ず聞かず覚らず知らず。

この因縁をもって生死に長流し悪道を経歴し百千万劫にも永く出期無し。

経にいわく釈迦牟尼如来を毘盧遮那遍一切処と名づく。

このゆえにまさに知るべし一切の諸法仏法にあらざるなし。

我了せずして無明の流れにしたがう。

これすなわち菩提の中において不清浄を見、解脱の中において纏縛をおこす。

今初めて覚悟し今初めて改悔して大慚愧を生じ大怖畏を生ず。

大乗を誦持し三業を供養し、普賢一切の世尊に帰向し香を焼き華を散じ六根三業の所作を発露して永く相続を断ちてまた更に造らじ。

この因縁をもって我と法界の衆生の三業六根無始の作るところ、現に作り、まさに作り、自ら作り、他に教え、見聞して随喜し、もしくは憶え憶えず、もしくは識る識らず、もしくは疑う疑わず、もしくは覆う覆わず、畢竟清浄ならしめたまえ。




我とすべての意識ある者達は、因果応報と仏の救いを知らず、数限りない悪業を造りつづけた

しかし、十方の諸仏は常に浄光明を放ち輝きすべてを照らし続けている

我とすべての意識ある者達は、自我のなかに閉じこもり、浄光明の輝きを知らず、永く輪廻転生をつづけている

無量義経に「釈尊を、全てに行き渡る光明と名づける」と説かれている
故に宇宙の森羅万象は仏の顕現である

我とすべての意識ある者達は、それを知らずに輪廻を繰り返し
浄光明のなかにいるのに不浄を見、すでに解放されているのに束縛を感じている

今はじめてそれに気づき、懺悔の心を起こし、畏怖の心を起こす
大乗経典を読誦し、仏を様々に供養し、過去の悪業を告白して今後さらに造らない

この懺悔によって、我とすべての意識ある者達の、全ての悪業を清浄ならしめたまえ




六根  眼耳鼻舌身意
三業  身口意
十悪  殺生、偸盗、邪婬、妄語、綺語、悪口、両舌、貧欲、瞋恚、愚痴
四重罪 殺生・倫盗・邪淫・妄語
五逆罪 父を殺す、母を殺す、阿羅漢を殺す、仏身より血を出す、和合僧を破る

十重四十八軽

十重禁戒
  • 第一、快意殺生戒。汝、仏子、自ら殺し人をして殺させてはならない。菩薩は慈悲心をおこして一切衆生を救うべし。しかるに自らほしいままなる心、快き心をもって殺生するは菩薩の波羅夷罪(はらいざい。極重罪)なり。

  • 第二、劫盗人物戒。汝、仏子、一針一草にいたるまで、みずから盗み、人をして盗ませてはならない。菩薩は一切の人を助けて福を生じ楽を生ぜしむべし。しかるに人の財物を盗むは、菩薩の波羅夷罪なり。

  • 第三、無慈行欲戒。汝、仏子、自ら婬し人をして婬をさせてはならない。菩薩は一切衆生を救い浄法を人に与うべし。しかるに人の婬を起こさしめ、婬を行じて慈悲心なきは、菩薩の波羅夷罪なり。

  • 第四、故心妄語戒。汝、仏子、自ら妄語し人をして妄語させてはならない。菩薩はつねに正語正見を生じ、また一切衆生の正語正見を生ぜしむべし。しかるに一切衆生の邪語・邪見・邪業を起こさせるは、菩薩の波羅夷罪なり。

  • 第五、売酒生罪戒。汝、仏子、自ら酒を売り人をして売らせてはならない。酒は罪を起こす因縁なり。菩薩は一切衆生の智慧を生ぜしむべし。しかるに一切衆生の顛倒の心を生ずるは、菩薩の波羅夷罪なり。

  • 第六、談他過失戒。汝、仏子、自ら出家在家の菩薩、比丘比丘尼の罪過をみずから説き人をして説かせてはならない。菩薩は人を教化し大乗の善信を生ぜしむべし。しかるに、自ら仏法中の罪過を説くは菩薩の波羅夷罪なり。

  • 第七、自讃毀他戒。汝、仏子、自らをほめ他をそしる事を、みずからしてはならないし人にさせてもならない。菩薩は悪事を自分が受け、好事を人に与うべし。おのれが徳を挙げ、他人の好事を隠してそしりを受けさせるは、菩薩の波羅夷罪なり

  • 第八、慳生毀辱戒。汝、仏子、自ら惜しみ、人をして惜しませてはならない。菩薩は人の来たって乞うを見ては一切を与うべし。しかるに、悪心や怒りの心をもって一銭・一針・一草をも施さず、一句・一偈・一微塵の法も説かず、更にののしり侮辱するは菩薩の波羅夷罪なり。

  • 第九、瞋不受謝戒。汝、仏子、自ら怒り人をして怒らせてはならない。菩薩は善根無諍(むじょう。争いの無いこと)の事を生ぜしむべし。しかるに、人の悔い改めて謝罪してもなお怒って解けざるは、菩薩の波羅夷罪なり。

  • 第十、毀謗三宝戒。自ら三宝をそしり、人をしてそしらせてはならない。菩薩は一言の仏をそしる声を聞けば、三百の剣をもって胸を刺すがごとくあるべし。しかるに邪見の人を助けて三宝をそしるは、菩薩の波羅夷罪なり。

四十八軽戒(しじゅうはちきょうかい)

第一、不敬師長戒
第二、飲酒戒
第三、食肉戒
第四、食五辛戒
第五、不挙教懺戒
第六、住不請法戒
第七、不能遊学戒
第八、背正向邪戒
第九、不瞻病苦戒
第十、畜殺生具戒
第十一、通国使命戒
第十二、悩他販売戒
第十三、無根謗毀戒
第十四、放火損生戒
第十五、法化違宗戒
第十六、貪財惜宝戒
第十七、依勢悪救戒
第十八、虚偽作師戒
第十九、闘諍両頭戒
第二十、不救存亡戒
第二十一、不忍違犯戒
第二十二、慢人軽法戒
第二十三、軽蔑新学戒
第二十四、怖勝順劣戒
第二十五、為主失儀戒
第二十六、領賓違式戒
第二十七、受他別請戒
第二十八、自別請僧戒
第二十九、邪命養身戒
第三十、詐親害生戒
第三十一、不救尊厄戒
第三十二、横取他財戒
第三十三、虚作無義戒
第三十四、退菩提心戒
第三十五、不発願戒
第三十六、不生自要戒
第三十七、故入難処戒
第三十八、坐無次第戒
第三十九、不行利楽戒
第四十、摂化漏失戒
第四十一、悪求弟子戒
第四十二、非処説戒戒
第四十三、故違聖禁戒
第四十四、不重経律戒
第四十五、不化有情戒
第四十六、説法乖儀戒
第四十七、非法立制戒
第四十八、自破内法戒

2006-02-05

祈祷

仏教の修行に木食(もくじき)というのがあります

五穀を断って、木の実をひろって食べる以外、他の物を一切食べない修行です

江戸時代、全国を遍歴して微笑仏を造った木食明満上人(pdf)などが有名です

肉、魚を食べるには、殺生しなければなりません
米、野菜も生えている植物を切り取って収穫しますので、殺生になると考えます

木の実は、落ちているのを拾うだけですので、意図的な殺生がありません

蕎粉ととうもろこしは食べるとか、いろいろなやり方があるようですが、不殺生を突き詰める修行です


不殺生を徹底するということではジャイナ教があります

インドのラージギルの七葉窟に登る参道でジャイナ教の高僧に会ったことがありますが、まったくの素っ裸で、歩いていて不注意で虫を踏み殺すということのないように、いつも下を見ながら歩いていました
インドでは、畑を耕すと虫を殺すからということで、商工業者に信者が多く、宝石商など富裕な人々もいます

イスラムなんかだと、ハラルミートと言って、神に祈ってから殺さなければならず、日本で売っているイスラム教徒用の肉は、祈祷済のハンコが必ず押してあります



それで、仏教も、因果応報で、不殺生は最も重要な戒律でもあるのですが、肉魚を食べないのはもちろん、木食をせよ、畑仕事をするな、とまでは言いません

南方仏教でも、布施されれば肉や魚を食べるようです

戒律には、目の前で殺したもの以外は食べてよい、と書かれています

不徹底、軟弱といえばそれまでですが、そこのところをどのように考えるかというと、「懺悔せよ」ということなんですね


お釈迦様の時代、ある残虐な王様がいて、戦争で征服した町の住人を首から下を穴に埋めて、頭だけ出るようにして、それを象に踏みつぶさせて殺しました
それを、弟子がお釈迦様に因縁を問うたら、その町の住人は前世が漁師で、たくさんの魚を網で捕って殺した因縁で、今その苦を受けていると説かれたということです


僕は近くの港で豆アジ釣りとかしますけど、この因縁で、頭を踏みつぶされちゃかないません

しかしながら、因果応報を前提に考えれば、生き物を殺すことによる罪は絶対に免れないということになります

理論的には、仏教徒は木食しなければなりません

それを、懺悔することで赦してもらいます


天台宗では、「朝題目の夕念仏」と言って、朝の勤行で法華懺法で懺悔し、夕方の勤行で阿弥陀経を拝んで往生極楽を願うことで、今生と来世の安穏を祈ることになっています

法華経、阿弥陀経、般若心経などの経典を読誦したり真言念誦などして、すべての罪障を懺悔し苦厄を消除します

信仰といえば、そうなのですが、経典には仏の加護があります
ですから、読誦することに懺悔の力があります

懺悔によって、今回の人生で受け取らなければならない、前世の悪業、悪因縁を消し去り、念仏によって、死後には極楽にいけるよう祈ります

仏教的には、厄難消滅、病気平癒、商売繁盛、家内安全、身体健全、交通安全など、滅罪生善は、すべて懺悔によってもたらされます

仏教的なヒーリングは、ですから懺悔です
病気を得た自分を赦し、健康を得ることを感謝しなければなりません

執着や勘違いから解放されて、眼が覚めれば、それが本来の心ですから、過去の執着と勘違いによって作られた悪因縁を作ったことを懺悔し赦されれば、今現在に結果となって現れた苦難を免れることができると考えるわけです


なにかパワーを貰うとかじゃありません

本来的には「心」は、ほんとうの世界にあって、死んだらそこに簡単に帰れるのですから、いまさらパワーはいりません

過去のこだわり、勘違いで悪業を作ったことに気がついて反省して、あやまらなければなりません

と言っても、心当たりがないのがほとんどですので、無理に何が何でもあやまれ、ということでもないのですが、原則はそういうことです

大乗仏教は、原則そこで終わりです

謝る、でお終い

ですが、密教は、懺悔にこだわりません

遮情門、表徳門とも言うんですが、止観の止を強調するか、観を強調するかですね

普通の仏教では、悟りの世界は、言葉で表現することはできない、表現したら、それは、単なる脳内イメージになってしまうから、悟りを表現してはいけないと考えますけど(遮情門)、密教は、イメージによって悟りの世界は表現できる、真言、つまり「意味のある響き」は悟りを表していると考えますから(表徳門)、懺悔をつづけてほんとうの世界に至るという道だけでなく、仏をイメージし続けて、ほんとうの世界に至る道が可能になります



仏教の基本は止悪と修善ですが、大乗仏教は止悪を強調してるわけです

悪いことするな、悪いことしたから、今、因果応報でひどい目にあっている、だから懺悔して赦してもらいなさい、経典を読誦すれば赦されますよ、これからは反省して悪いことしちゃいけません、と考えます

そこを、密教は修善を強調します

その場合、修善とは真言念誦であり、密教瞑想です

仏さんを拝むことで功徳を積みなさい、そうすれば、過去の知ると知らざるとの一切の罪が赦されますよ、そしてこれからは、もっと人々の役に立つことをして、活躍しなさい、と考えます


大乗 遮情門 止悪
悪いことしたから、謝って赦してもらおう
そのために経典読誦し、悪いことはしないでおこう
執着と勘違いを、とことん消し去ったら、ほんとうの世界が見える

密教 表徳門 修善
善いことをして赦されよう
そのために真言念誦し、もっと誰かの役に立つことをしよう
「意味のある響き」で仏の世界をイメージして、ほんとうの世界を見よう

まあ、実際はこれを組み合わせて考えてるわけです

それで、苦厄消滅を祈る祈祷は、原則は懺悔で、仏の世界をイメージする瞑想でもあるわけです

懺悔の気持ちで、経典を読誦し、真言念誦すると、苦厄が消滅する

でもって、苦厄消滅だけでなく、福徳を得るには、積極的に善いことをしましょう、ということです


考えてみると

悪因縁てのは、受け取って苦しむか、懺悔して消滅するか、どちらかです

ややこしく戒律などと言いますが、さらなる悪因縁をつくらないということです

「慈悲と智慧」はそのための最低限の心がけです

懺悔のためには、経典読誦か真言念誦をしなければなりません
そこのところを、誰でもやりやすいように念仏や題目が開発されました

輝く光がもつ、強さと優しさに、「心」が満たされることで滅罪生善します

それしかないと思いますよ

恐れ入りました9

那智の副住職は、熊野修験の復興をされていて、奥駆けや滝行など修行をつづけています

那智の滝は、高さ130mで日本一の瀑布ですが、その源流の山奥深くに、48滝と言われる大小様々な滝があって、寒中の1月にこれらの滝を全部回って滝に入るそうです

危険を伴いますので、修験の同行に見守ってもらいます
5分ごとにホラ貝を吹いて時間を知らせるそうです

僕も高野山では滝行をしましたが、寒中に長いこと滝に入っていると、体がしびれて出てこれなくなります

独特の爽快感があって、いちど体が感触を覚えると、スーっとその時の感触が蘇るようになります

ですが、山中で雪の季節にするのは、あまりに危険で普通の人には無理です

それが、最初の頃は15分しか入れなかったのが、毎年2分くらいずつ伸びていって、今年は32分はいったそうです

15分くらいからは、合図のホラ貝もわからなくなるそうです

彼は僕より年上ですから、いいおっさんです

家族の者に、もうやめてくれと止められるそうです


久々に、恐れ入りました、でございます

2006-02-01

豆撒き

那智の、節分の豆撒きの手伝いにいってきます

那智山青岸渡寺は西国第一番札所で、如意輪観音様が本尊です
椿の一木作りで、座高3m位あるかなー、秘仏ですが、節分の日には拝観できます

僕は毎年2月3日、ここの豆撒きで、ご祈祷の太鼓を叩きます

那智は熊野三山の中心に位置し、ユネスコの世界遺産にも登録されています

今でも那智にお参りするのは、どこから行っても時間がかかり、秘境ですね
那智の滝は高さ130mあり、日本一の高さです

毎年の恒例行事で、行くのが楽しみですね