2006-01-13

自由


紙本著色(帝釈天)縦73.0 横33.8 桃山(16世紀)長保寺蔵
 


各人各様、脳内にイメージを作るのを「幻想」ってことでかたづけるわけですけど

これは、つまり、哲学の永遠のテーマで、古今東西、哲学上の一番大きなテーマでしょうね

向き合って、二人の人がいれば、片っ方が表を見るなら、もう一人は裏を見てる
並んで見ていても、角度が違えば、完全な同一物はみえない
同じ角度で見たとしても、もう、見てる時間が違う
同じものが写った写真を同時に見ても、それは、すでに別々の写真だ、とね

同じでしょう、というのが「共同幻想」だ、ってことで、国家、社会、秩序、平和、家族、宗教すべてそうなんだ、なんて研究はいくらでもあります


やっぱり、この、どうしうよもなく、別々なんだ、というあたりが、「自由」の根源なんじゃないでしょうか


もう、とにかく、この別々なんだという「自由」は、肉体的、思想的、宗教的に拘束したところで、別個の脳味噌をもっているのだから、永遠にやっぱり別々のイメージを脳内に作っているのですよ

それで、やっぱり、偉い人にいろいろ教わったとしても、最後の最後、腑に落ちるかどうかは、自分自身で決着するしかない

当然、間違い、勘違い、誤解、迷い、孤独、絶望、恐怖、苦悩、など、ありとあらゆることになるわけだけれど、それは、避けられないことだ、ってことでしょうね

「自由」の代償でしょうか

「自由」がいらないって「共同幻想」にひたるのを全体主義とか独裁とか言うんでしょうけど、まあ、教祖様へのおすがりとかですね、弱いですからね人間は

薬物依存、アルコール依存、ひきこもり、ゲーム中毒、などなど、けっこう「自由」を、もてあましたりしますからね



それで、仏教的には、仏さんは、どんどん増えていくことになってるんですけど、これ、やっぱりどうしようもなく「自由」だからでしょうね、脳が別々ってことで

一つの仏になるという主張をしても、それは「共同幻想」で、いずれ夢から覚めなきゃならないってことなんでしょう

これは、一法界か多法界かって論題で「一多法界」とか言って、仏教教学上の有名なお題でもあります



理屈では、理智不二でもって、「見る者・理」と「見られる物・智」の統合が悟りだってことなんですけど、この統合状態では、他人てものの存在は、自分になるのか、まあ、あまり心配する人もないでしょうけど、どう説明つけるかってことですけど


重重帝網なるを即身と名づく  即身成仏義 弘法大師


帝網(たいもう)というのは、帝釈天が持っている網のことです
帝珠(たいしゅ)といって、宇宙全てを映し出す無数の珠玉を網のように繋げて、宇宙全体が成り立っていると、
その帝珠が全てを映し出していて、となりの帝珠はそれをまた写し出して、ずーっと繋がっている、そんな意味です

インターネットでですね、いろんなコンピューターがオンラインで繋がって、それぞれのコンピューターが全てのコンピューターにアクセスしてる状態、とでも言いましょうか

コンピューターが帝珠で、オンラインが網ですね

それぞれのコンピューターは別個の場所、メーカー、OSですけど、インターネットで編み目のように繋いで、どこにでもアクセス可能と、まあ、重重ですね

これが、密教的な、仏の世界のイメージです


僕的には、アクセス権限のパスワードは「慈悲」です


厳然とした、個別の「自由」も、「慈悲」でコミュニケーションを取り合う、とまあ、考えてます


♪ここらあたりから想像力を逞しくしていくと、いろんなイマジネーションが浮かびますよ♪

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