2005-12-31

感性と理性


法華曼荼羅図  一幅  

絹本著色 縦137.8 横124.2(曼荼羅部分)
江戸中期(18世紀)

長保寺第7世徳因が天明3年(1783)に描かせたものである。


法華経宝塔品によって、釈迦如来・多宝如来の二仏を主尊にした曼陀羅で、法華経法を修するときに用います
右が釈迦如来です

現在、法華経法は特殊な法要でしかやらないと思います
僕は、どこかでやったというのを聞いたことはないです

真ん中に釈迦如来・多宝如来がならんでいるのは、密教的には、釈迦如来を金剛界、多宝如来を胎蔵と考えて、金剛界と胎蔵の徳を法華経が合わせ持っていることを示しています

いま普通に使う曼陀羅には、金剛界曼陀羅と胎蔵曼陀羅の二種類ありますが、金剛界大日如来と胎蔵大日如来を別々に拝みます

曼陀羅として完成したのが、今から1500年位前だろうと考えられています

金剛界大日如来は南インド、胎蔵大日如来は北インドで信仰されていたのではないかと考えられていて、もともと、まったく別々に発達したものが中国にもたらされ、別々に伝えられていたものが、日本で一つにまとめられて信仰されるようになりました

それでも、曼陀羅は別々のものでしたが、この法華曼陀羅では一つにまとめられました

密教の日本的な特徴の完成形とも言えます



金剛界というのは唯識観で、胎蔵が空観です

この唯識観と空観が、仏教のもっとも基本的な考え方です

唯識観は、つまり、全ては心だ、ということで、仏教的には、物質も心に感じられる対象物ととらえます
硬く、重たい感じ、と言えば、物質のことになるという調子で、かなり、こじつけのようですが、それなりに辻褄はあうようになっています

空観は、全ては空、ということなのですが、全ては流動的な因果関係であり、常に変転して定まった性質というものはない、という考え方です

世界の全ては「変化し続ける心」によって出来ている、という考え方になるわけです
全ては繋がっています、というか、一つの意識しかないということになります

えーと、ですから、他人の考えてる事がわかり、他人の痛みを感じてヒーリングしたり、神仏の境地を体験したりしても、不思議ではないです


だから、変化し続けるのだから、なにごとにも執着するなと説くし、はてしなく因果関係はつながっているのだから、悪いことをすれば最後は自分に悪い報いが生じ、善いことをすれば必ず自分に善い報いが生じるとも説きます

自分と他人を区別して考えるのは表面的なとらえかたで、「変化し続ける心」というひとまとまりの存在であるのだから、他人の苦しみを自分のことと感じ、喜びを自分の事と感じる、と説きます

ですから、「慈悲」は仏教的には、自分が他人に対してすることではなく、「変化し続ける心」という一つの意識のなかで、自他の区別なく感じ、行うことの意味になります

説明は、それなりにあるわけですが、じゃ、自分の意志というか、自分で自分をコントロールする、自分で自分を観察する、なにかをするのを決める自由とか、そういうものをどう説明しているのか


それはですね、釈迦如来・多宝如来がならんで坐っているのが答えです

これを、感性と理性と、考えてもいいです

融合して一つの仏になる、という考え方は仏教にはないのです

釈迦如来の言うことを多宝如来が、そうだそうだ、と相槌を打ちます

それがどうした、ということですが



感性と理性、これが分裂しているのを、釈迦如来・多宝如来が並んでいる姿で表しています

弘法大師は修業を始めた頃、東大寺の大仏に対して、「願わくば不二を与えたまえ」と祈ったのですが、感性と理性が分裂しているのが迷いの状態で、一致したのが悟りの状態ということなのです


で、理性は常に自分を観察しているわけです
感性は、感触にひたりますが、評価はしません


「自灯明 法灯明」で、なんでもうまくいくかというと、なかなかそうでもないのですが
それでも、常に、自分で自分を検証する作用が人間には備わっているということなのです

で、常に、感性と理性は分裂していて葛藤があります
迷い、さまよい、苦しんでいます

それが統合した、無心の状態
そんな生き方を仏教は求めているということです


無心の状態のなかに、慈悲がある、ということです


♪いつもご愛読ありがとうございます よいお年をお迎えください♪

2005-12-30

慈悲

そう言えば、某教団が国立戒壇をつくるって言ってたことがある(今も言ってるのかな、知らんけど)

その昔、戒律裁判所を作れと言ってた人もいた(立ち消えになって助かった 汗)

坊さんには、戒律というものがあって、アレしちゃいかんとか、コレしちゃいかんとか、事細かに決められている
数が多いのはどこか知ってますか

真言宗は男で250、女で280位ある

真言宗の坊さんで、内容説明できるのは学者さんだけでしょう、そのくらい、細かくて、わけわからん

高床で寝るな、とは、ベッドを高くしてはならいないと、たぶん贅沢なんでしょう
とか
髪飾りをするな、とか

不殺生、不邪淫、不偸盗なんてのは序の口で、わけわからんものまで、戒律は多種多様にあるのですよ

で、これ、国で一元的に管理するというのは、奈良時代は東大寺が元締めだった
僧侶が公務員でしたから、公務員試験僧侶職みたいなもんでしょうね

それを、ある教団が、一元化せよと言い出したのでした

戒律裁判所は、その先にある発想でしょうねぇ


学生時代、戒律についてはいろいろ議論したけど

仏教は
「自灯明 法灯明」なのだから
強制するのは、違う、というのが結論だった



仏教国で、坊さんが結婚するのは日本位かな

タイとかスリランカに行くと、日本の坊さんは在家の人と同じ席に座らされる
どこの大宗派の代表が行ってもそう

ま、日本の場合、大乗仏教の菩薩僧ということで、ご理解ください

けど、これ、比叡山から出たとこはいいけど、南都・真言は違うんだけどな

ま、いいか・・・

伝教大師は、大乗戒壇つくるって言ったら、えらい剣幕で怒られたんだけど、忘れちゃったんでしょう

で、伝教大師の言葉ですけど
「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」

慈悲、ですよ、慈悲

僕なんか、この御言葉のおかげで、妻も子供ももてるのです(汗)



「自灯明 法灯明」とか「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」とか

つまり、どういうことなの、と面倒なので短くすると

慈悲

です

一元管理も裁判所もいりません
慈悲です慈悲

各自、各様、時と場合に応じて、それなりに
慈悲です

よろしく

♪ 利益<愛<慈悲ってことですね  慈愛は慈悲の別名ってことにしてください ♪

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2005-12-28

慈愛の感触

審神者(さにわ)

神懸かりの真偽を見極める仕事だけれども

神道には、必要とされる場合が多くあり、霊媒が神の依代となり神の言葉をチャネリングして降ろすが、その、真偽を見極める

必要、だと思うが

チャネリングを正と邪にわけ、正を神からのものとして崇め、邪となれば、神ではなく悪霊ということになって排斥するとするなら、まったく、天国と地獄が同じテレビで受信されるようなもので、システムとしては全く危うく、危険といつも隣り合わせということになる

光と闇というけれど、実際は、パステルカラーもあれば、薄らボンヤリもある

また、審神者をしている者の資質をどう見極めるのか
それも審神者するのか
なにによって信用されるのか
一つ判断が正しければ、残り全て正しいのか
誰が審神者する者を決めるのか



中世キリスト教社会で行われた、魔女裁判

記録に残っている最古の魔女裁判は、1275年フランスで老女が悪魔の子を産んだとして死刑になった事件

イギリスは拷問が禁止されていたので魔女裁判はすくなかったそうだ
優秀なヒーラーが多い伝統もこのあたりが理由だろう
それでも、400人から1000人が火あぶりにされたという

ドイツでは魔女裁判が多く、宗教改革のルターは魔女裁判を強く支持した
「私はこのような魔女には、何の同情も持たない。私は彼らを皆殺しにしたいと思う」ルター
「魔 女というのは、悪魔と寝るような悪い女で、人の牛乳を盗み、雷雨を起こし、山羊と箒にまたがり、マントを着て空を飛ぶ。大人が相手なら弓矢で射たり、体を 麻痺させたり、老衰させて殺したりする。乳飲み子をも激しくいたぶり、夫婦には淫乱を勧め、その他にも何でもやるのである」ルター


ジャンヌダルクも最後は火あぶり

魔女裁判で有罪になった者の財産を教会が没収するので大きな利権となり、手当たり次第に処刑が行われることになった

魔女狩りの犠牲者は200万人以上に及ぶとされている


清教徒の国アメリカでも1691年「セーレムの魔女裁判」事件があった
少女達の妄想で200名が逮捕され20人の人が処刑された

教会や宗教家が首謀者ということでもない
裁判官、陪審員、少女、一般市民など、だれもが魔女探しをした

イスラム社会にも仏教国にもない現象が、キリスト教社会にはあった


歴史を教訓とするなら、魔女裁判、異端審問は、権力者や為政者の恣意的妄想、都合で判決がくだされる

ポルポトの虐殺と同じということらしい

神の名において
カトリックよりもプロテスタントが激しかった



判断を、誰かがするシステムには、構造的欠陥がある
権威者、有識者、はたまた超能力者であれ、その判断を下す人間を検証するシステムが必要になり
つまり、その検証するシステムをも検証するという無限ループになる


「審神者がなければ悪魔がのさばるだけだ」というのも正論だが、

ここは、仏教的に

自灯明 法灯明
「自らを拠り所とし 法を拠り所とせよ」

というロジックで、世界観を組み立てるとしたら

チャネリングによる教示は全て、そこに神の啓示があろうがなかろうが、一律参考資料に止まり
判断は、つねに、自分が自主的にする以外ない


魔女裁判がいやなら、自分自身の「慈愛の感触」を頼るしかないんですよ


♪憑依を怖がるのもわかるけど、奴らは肉体はないからね それが、致命的な弱点ですよ いろんな物を見せたり、あれせい、これせい言うけど、自分じゃできないんですよ  無視されたら終わりです♪

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2005-12-27

施身

アテネでオリンピックが開かれた時
ちょっと、興味をもったことがある

全然話題にならなかったけど、実は、ギリシャは自殺者が人口比で世界で二番目に少ない国なのです

恐るべきことに、日本は世界でも有数の高自殺率の国です
平成16年度は32,325人の方が自殺しています
7年連続3万人以上です

交通事故の死者が7,358人ですから、異常という認識でいいでしょう

一日、300人近くの人が自殺していることになります


順位 国名 自殺率 (対10万人)
1 ハンガリー 32.6
2 日本 24.8
3 フィンランド 23.4
4 ベルギー 21.3
5 スイス 20.2
6 オーストリア 19.6
7 フランス 18.0
8 チェコ 16.1
9 ニュージーランド 15.1
10 ポーランド 15.0
11 ルクセンブルグ 14.5
12 デンマーク 14.4
13 スウェーデン 13.9
14 韓国 13.7
15 ドイツ 13.6
16 アイルランド 13.4
17 オーストラリア 13.1
18 ノルウェー 12.4
19 カナダ 12.3
20 アイスランド 12.2
21 米国 11.3
22 オランダ 9.6
23 スペイン 8.3
24 イタリア 7.8
25 英国 7.5
26 ポルトガル 5.2
27 ギリシャ 3.8
28 メキシコ 3.5



これは、ギリシャ人の国民性が日本人と違うのかなと考えていましたが、どうも、そうでもないらしい

なにか、陽気で楽天的、生活を楽しむ、地中海の明るい太陽、などのイメージがあって、シエスタなどの生活習慣もあり、僕も、ガンバロウはやめて気持ちよく生きよう、などと考えたりもしました

でも、よく統計を見てみると、イギリスも自殺者が少ないんですよ

で、これ、イタリア、スペイン、ポルトガル、メキシコはカトリック国なのです
ギリシャはギリシャ正教、イギリスはイギリス国教会

カトリックでは、「命は神によって与えられ、それを奪うのもまた神の専権事項であるため、自殺は悪魔に魅入られた者による神への冒涜行為」とされるそうで、自殺 した者は教会で葬儀や埋葬をしてもらえなかったり、残された家族の財産を没収されたり、死者にむち打つようなことが行われていた時代もあったようです

キリスト教全般、自殺を神への冒涜行為と考えるらしく、イギリスでは1870年まで、自殺者の財産没収の法律がありました

ギリシャに実際どんな禁忌があるかは知りませんが、カトリック国に囲まれて、かなり、自殺者に対する蔑視があるのだろうことは十分考えられます

いずれにせよ、自殺者には地獄行きが決まっています
自殺者を冷遇する文化があるわけです

つまり、国民性の違いが自殺を考えさせないのではなく、キリスト教の特にカトリックの宗教観が自殺者にかなり冷たい為に、自殺を選ばないということらしいのです


これが、少なくとも日本で、自殺者の財産没収とか埋葬拒否とか、行われたことはありません


じゃ、仏教はどうなのか、というと、

たとえば、法隆寺の国宝、玉虫厨子には「施身問偈図」(鬼に身を投げ教えを乞い、悟りを得る)、「捨身飼虎図」(身を投じて虎の餌食になる)など、お釈迦様の前世物語が描かれています

「施身問偈」とは、羅刹(つまり悪魔です)が「諸行無常、是生滅法」と唱えたのを聞いて、その後半を聞かせてくれと頼んだのですが、羅刹がそれを教えたらお前 を食ってもいいかというので、前世のお釈迦様は、後半を聞けば食われて死んでもいいと言って後半の「生滅滅已、寂滅為楽」を聞かせて貰ったことを言います
それだけ、大事な偈であるわけです

この偈を諸行無常偈とも、雪山偈ともいい、「いろは歌」はこの偈のことを詠んだとされています

雪山はヒマラヤのことです
サンスクリットで、ヒマが雪、アーラヤが有るとか蔵するとかいう意味です
ヒマラヤの山奥で悪魔に会ったわけですね
(余談ですがアラヤ識は、ですから、記憶を蔵する識ということです)

「捨身飼虎」とは、前世のお釈迦様が、腹のへった虎の親子をあわれに思い、崖の上から身を投げて虎に施したことを言います

前世のお釈迦様が、法を聞く為に悪魔に食われ、虎を哀れんで崖から飛び降りて死んだ話が、描かれているわけです

お釈迦様には前世物語という便利なものがありますので、何回でも死ねますから、お経には他にも自己犠牲の話がたくさんあります

施身と自殺は、やはり分けて考えるべきだとは思いますが、自殺を徹底して糾弾するような文化は仏教にはありません

キリストさんは、十字架で刑死する話だけで、死から逃げなかったと解釈すれば、近い感じもあるかなとは思いますが、やはり、趣が違います

仏教は、どうも、自殺へのハードルが低いようにも思えます
それが、国民性にどう影響しているか、と考えてみると、どうも、かなり影響を受けているのでは、ということですね

ただし、年間3万人の人達が、施身をしているとはとうてい考えられず、目前の苦から逃れるために死を選んでいるという事になると思います

仏教国全般どうなのか、という統計は無いようなのですが、どうも、旧ソビエト諸国が異常に自殺率が高いですね
スリランカも高い

価値観の崩壊した国と仏教国の自殺率が高いのかな・・・
残念ですが結論は出ないようです


日本を無宗教国家と言う人がいますが、自殺率だけみると、少なくとも、宗教的禁忌の無い様子はありますね


そういえば、うちの近所の画廊の御主人が、川でおぼれている人を助けようとして、その人は助かり、自分は溺死した事件がありました

年とって、粗大ゴミとか言われるようになったら、あんな死に方もいいかなーと、ボンヤリ考えますね
おっと、画廊の御主人は粗大ゴミじゃありませんでした、感じのいい紳士でした

あれは、事故ですが、施身に近いかなー


♪自殺した人はどうなるのかって そりゃ、自殺した時の気分のまま過ごすんでしょ 独りぼっちで、一切の希望を捨てて、だれにも助けを求めず、光に背を向けて、断末魔の苦しみのまま いつまでも  施身は、まあ、かなりポジティブでしょうね♪

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2005-12-26

無償の愛

壇・戒・忍・進・禅・慧のことを、六波羅蜜(ろくはらみつ)と言って、菩薩が修業する徳目とされています

菩薩って概念は、悟っているけど、この世界に止まって、困っている人を助けている人のことです

なによりも、愛が一番大事って、腑に落ちてわかっていて、思い知っていて、迷いがない、あなた、あなたも菩薩です


菩薩にもいろいろあります

観音さんも菩薩、地蔵さんも菩薩、親切な天使も菩薩、なのですけど、
社会的な地位、肩書き、能力、性別、年齢、を問わず、愛を表現できる人はみな菩薩です


いや、それで、この六波羅蜜なんですけど、波羅蜜というのはパーラミターというサンスクリットで、渡し船・手段、というような意味です

この世界から「彼岸」への渡し船が六波羅蜜です



仏教的世界観から言うと、人間界とか、地獄・餓鬼などの霊の世界とか、どこに存在しいても「彼岸」にアクセスすることができます

貧乏はだめとか、霊感がないとだめとか、頭が悪いとだめとか、体に障害があるとだめとか、全くありません

オーラがどうでも、過去の人生がどうでも、いつでもアクセス可能です

懺悔の値打ちもない、って言葉がありますが、反省すべき事、懺悔すべき事を認識できれば、かならずチャンスがあります


「彼岸」とは「悟りの世界」のことですが、「空」とも「涅槃」とも言います

全ての存在を越えた向こう側です
向こう側であって、全てでもあります


こ ちらの世界は、あーいえばこーいう、正義があれば悪がある、愛があれば憎しみがある、得することもあれば損することもある、美しいこともあれば醜いことも ある、
相対的で無限のエンドレスゲームですが、その全てが存在する空間とでも言いましょうか、全てを見つめる智慧のある場所とでも言いましょうか、ゼロと でも言っておきましょう

これを、天国とか神聖空間とか考えてしまうと間違いで、他に比べて本質的だとかいう、比較対照できるポジションではありません
時間や空間はありません

涅槃を説明して、四徳と言って「常・楽・我・浄」とも言います


説明しようとすると、ややこしく、さっぱりわからなくなりますが

要するに、「無償の愛」、「見返りを求めない善意」です

ケースバイケースいろいろな形を取ります
「きれいな花」はあっても「花のきれいさ」だけを取り出すことができないように、「無償の愛」だけを抽出はできません


遠隔でヒーリングできるのも、さまよう霊魂が行くべき場所を知るのも、悪魔が改心するのも、五神通を体験するのも、だれでもが「無償の愛」にアクセスできるからです



ですから、「輪廻転生を長いこと続けて、かなり賢くならないと、転生から卒業しない」という考え方はしません

若い魂がどうとか、オールドソウルがどうで、とか、輪廻学習必要主義は、永遠にループから抜け出す事ができません



いつ、どこにいても、まっとうな人生を送ることができます
生まれ変わったら、行った先で、まっとうな事を続ければよろしい
無いなら無いなりに、有れば有るなりに、まっとうに生きれば済むことです

キリスト意識とか、慈悲とか、アッラーの御心とか、いろいろ言いますが、「見返りを求めない善意」を追求すれば、同じことです


六波羅蜜に話を戻しますが、

壇によって戒が生じ
戒によって忍が生じ
忍によって進が生じ
進によって禅が生じ
禅によって慧が生じる

とも言います

愛があるから、こんなことしちゃいかん、とか、これをしてあげたい、とか思い
だからこそ、がまん強く忍耐し努力し、
そこから、落ち着いた、満ち足りた気持ちが生じ
ああこれはこう、と、もっといい智慧もうかぶ、と

ただ、愛がなければ、水をやらない花のように、全てが枯れ萎れてしまいます


めぐる輪廻のなかで、「無償の愛」にふれ、「無償の愛」に感動し、「無償の愛」を行う人になる、のが、魂が旅を続ける理由なのではないですか


♪ま、仏教的考え方、ということで♪

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2005-12-24

愛の水

密教では、拝むとき、坐った席の前に仏具をおく机があって、一面器と言って小さな器をならべて拝みます

真ん中は、香呂、左右は華瓶で花を飾ります

左右に三つづつある器には、水、塗香、花、をいれる事になっていますが、今は樒などで代用します

弘法大師は、「六種供養」を欠かしてはならないと言っていますが、水・塗香・花・焼香・飯食・灯火のことです

うちには、本堂、多宝塔、護摩堂、内仏、御霊殿二カ所とこの一面器が6組もあって、磨いたりの手入れがたいへんですよ

で、この「六種供養」は天台でもするし、東大寺でもやってます
東大寺の大仏殿の大修理の時、一面器を新調しましたが、納品した仏具屋に図面を見せてもらいました
馬鹿でかいもので(馬鹿をつけちゃいかん)
「いずれこれは国宝になりますよ」って言ってたなー



今、家庭の仏壇でやってるけど、仏飯と線香とローソクとお花
これは、お花の水が「水」香りが「塗香」で、あと、花・焼香・飯食・灯火はあるから、これで、いちおう「六種供養」の意味になっているのです

仏教全般、「六種供養」は基本的なもの、と考えることができます



この「六種供養」には、深い意味があります

水・塗香・花・焼香・飯食・灯火を壇・戒・忍・進・禅・慧に配当します

水の壇はサンスクリットのディアーナの音写で、布施の意味で施しあたえること
塗香の戒は、持戒の意味で、悪いことをせず善いことをすること
花の忍は忍者じゃありません、忍辱で、堪え忍ぶこと
焼香の進は精進で努力すること
飯食の禅は禅定で心を落ち着かせること
灯火の慧は智慧で因果の道理をわきまえること

「六種供養」をすることで、壇戒忍進禅慧を仏に供養する、不可思議な意味があるのです



それで、仏壇で普段やってる、線香をつけ、ローソクを燃やし、お仏飯をお供えし、お花を飾るのは、この「六種供養」で、普段の行いを仏さんにささげるという功徳が得られるようになっています

僕的に言えば、普段の行いなのであって、地道に真面目に生きてください


それで、この「水」なのですが閼伽水(アカスイ)といって、最も大事にされているのです
アカとは、サンスクリットで水のことで、そのまんま、です

密教の修行中はこの閼伽水を汲む作法は極めて厳重で、厳粛なものです
回峯行者が九日間断食断水断眠をする「堂入り」も、仏さんにおそなえする閼伽水だけは自分で汲みにいかなければなりません
八日目九日目になったら、介添えの者が助けなければ歩けなくなりますが、水桶だけは自分で担ぎます
壮絶で、直視できませんよ・・・
それだけ、閼伽水が大事にされています

水にまつわる神事や行事はたくさんあります
人体のほとんどが水だとか、宇宙で一番多い分子は水素だとか、いろいろ重要です


六種あるなかで、もっとも重要なのが、水で、壇です
つまり、布施、施しあたえる心

愛、ですよ、愛
お仏壇で、お花の水が「愛」ってまあ・・・、こじつけかも、ですが、深い意味があるってことです

これがなかったら、干からびてしまいます

それで、極略、なんにも無いときは、水だけお供えしてください

お茶はつまり、これに香りがつきます
かわいらしいお花もどうぞ
アロマキャンドルもいいですね

ですけど

愛です

慈悲です

水です

お忘れなく


♪水は方円の器にしたがい、全てに染み渡り潤す♪


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2005-12-22

慈悲主霊肉従

チベット仏教

サールナートでなにかのお祭りにでくわしたことがある

だいぶ前の話になるけど

カーラチャクラの灌頂だったと思うけど、はっきりしない

サンスクリット大学に留学してた大学の後輩にばったりあって、びっくりした
ダライラマのバッジを、それはもう、誇らしげにしてた

ダライラマはあちらでは、絶対的な存在ですね

それで、日本では餅投げって、行事のあとでお餅を投げたりするけど、あちらでは、オレンジを投げるのです

肩のいい坊さんがいて、あの辺はかなり広い広場だけど、100mくらい投げるかな

僕は、大塔の回りを巡回してたら、頭にあてられた

偶然かと思ったら、もう一発あてられた
ゴニョゴニョとお経を唱えながら巡回してるチベット人の巡礼も、びっくりして立ち止まってキョトンとしてた

チベット人もびっくり

いや、ねらって投げてくるんですよ、外国人だから的にされたんでしょうね
ま、お祭りですから

ひょっとして、オレンジがぶつかると、なにかスゴイ福徳でもさずかるような話があるのかな

インドではよくチベット人の巡礼を見かけるけど、子供にお菓子をあげようとしても絶対に受け取らない
親も怒る

インド人は、家族ぐるみ乞食をします
警察、役人問わず
人にもよるでしょうけど、多い

文化が違うのでしょうけど

日本人から見れば、チベット人は誇り高い民俗ってことになるでしょうね



ああ、それで本題

チベット仏教って一口に言いますけど

ニンマとゲールックの違いがわかりますか

わからなかったら、かかわらないほうがいいよ

開祖の姿の絵をよく見比べてみてね
持ち物などもよく見て、意味を考えてね

チベット、なんでもまとも、善、正義と、お思いのお方
ニンマとゲールック位、見分けてちょーだいな



それはそうと

宗教じゃなくて、シンボルとマントラをつかってヒーリングして、修業は必要じゃないけど伝授の必要な、あれ

宗教じゃないなら、魔法だよな

とりあつかう人間の、人間性は問わないというポリシーらしい

密教でいえば、血脈というんだけど、リンネージですね
これが、錯綜してる

発祥の地を聞いただけで
僕は、ヤバーっと思いますけどね

えらそうな講釈しても、力は霊的なものからくるんだからね
なんか変、とお感じなら、素早く撤収してください

身近にいらっしゃるなら、施術中の目つきをよく観察してください

冷たい感じのする奴はアウトだよ

ま、密教全般言えることですけど



よく、スピリチュアルは

霊主肉従といって、肉体的な満足より霊的な価値を重んじるということになってるけど

僕に言わせりゃ

愛主霊肉従だな

慈悲主霊肉従でもいい

霊的であっても慈悲がないなら、それはいったいなんですか


♪愛だよ愛♪


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2005-12-20

慈愛の心

精神世界にはいろんな考え方がある



「輪廻転生」もそのうちの一つ

これは、インドなどには仏教以前からある、古い古い思想

最近といってももうだいぶ時が経つが、山川紘矢さんが「前世療法」を翻訳して、新たな展開が始まった

飯田史彦さんの「生きがいの創造」は、ほかにもアメリカで出版されたいろいろな本などを例に出して、とにかく、文献的に輪廻転生を語りつくした

日本では、輪廻転生といえば、仏教思想の話になってしまい、なんら新鮮味はないけれど、アメリカはキリスト教国ですから、輪廻転生を肯定する話をすればものすごい偏見と攻撃にさらされる

だいたいアメリカ人は精神分析が好きで、分析してもらうと病気もよく治るらしいけど、退行催眠という、いかにもアメリカ的手法で、文化的説得力を獲得した

で、実際に前世があるのか、ないのか、になったら、医学的に言えばどっちでもいいことらしく、治療効果がある、という事実にだけ着目するらしい

ヒプノをやる人に聞いたことがあるけど、退行催眠で思い出したことは、臨死体験のような現実感はないらしい

ビミョーなのです

証拠探しとかあるけど、やっぱり、ビミョーですね
チベット仏教など、かなり大がかりにやるけど、ちょっとどうかなと思いますね

医療として、限界をハッキリ認識してやらないと、おかしなアンカーを埋め込まれたり、悪意のある霊的な操作されたりの、危険はあるよ





「臨死体験」は死後の世界を見てきた話だけど

これって、生き返るってことは、死んでないわけで、ほんとうに死んじまったらどうなるかは、これは、いつまで経っても結論はでない

それでも、救急医療の発達で、医療水準の高い先進国では臨死体験の報告は増え続けるでしょう
実際、似たような話が多いらしいし

生き返って、お話ができることは目出度いが、ほんとうに死んでないので、残念だよ

やっぱ、ビミョー




「チャクラ」の覚醒もネタ的には古い話で、古代インドの文献もある

チャクラの覚醒だけ先行してやると、未熟な運転手が乗ってる車に、いきなりバリバリにチューンアップしたエンジンを載せるようなもので、走る凶器を作り出しかねない

断食や滝行などの練行苦行で肉体をいためつける修業は、肉体の危機を回避する為、チャクラが覚醒しやすくなるが、精神集中を誤ると気違いになる可能性が高い危険な修業ですよ

肉体的な生命力が弱まってると、心が剥き出しになって、性根が定まってないと、つまらぬ存在に憑依される危険がある

チャクラだけさわると、失敗したときが、おおごとになる

ぶっこわれた奴を何人も見たよ

チャクラの覚醒を教える、CDとか本とかいろいろあるけど、悪魔が喜んでいることでしょう
悪意を志して覚醒すれば、悪魔になるよ

なんの準備もなく、してはいけません

否定はしませんが、お薦めはしません
どうしても、と言うなら

密教でやっているやり方ですけど
心額喉頂の順番だよ

密教は下三つはやらない
馬力が出ても、コントロールしにくくなるだけ
心を先にやるのは、慈悲がすべての基本だから
くわしいことは、いずれ書くかも、です

神に守られてなかったら、気違いか悪魔だよ
自己責任でどうぞ




「ハイアーセルフ」「インナーチャイルド」の瞑想

アメリカの交流分析から出てきたのかなあ、思いつきが

僕は、精神分裂の平和利用じゃないかと思いますね
よく言えば

心の状態が、かなりややこしいことになりますよ

なにも好き好んで、分裂することはないと思うよ

これは、多重人格や統合失調症の人がしたら、洒落にならんよ
よく考えてみて

悪魔のせいで犯罪を犯したって説明する奴がいるけど、ハイアーちゃんが善いことしたんで、僕を誉めないで、なんて言う人ないわな

誉めて貰うときは、ハイヤーちゃん黙って引っ込んでて、ってまあ、勝手なお調子者

悪いこといいません、ハイアーちゃんもインナーちゃんも、なくてやってける人になりましょう



「ヘミシンク」とか、脳波をいじるやつ

あれ、どっかの進学校でやってるらしいね
成績よくなるって

それで、大々的に導入する事業計画をたてた奴がいたが、心がネガティブな状態の時は、ネガが増幅されるらしい

没になったんではないかなー

ポジかネガか見分けるテストをしてからやるとか、いろいろ言ってたが、うまく行ったのかな

脳波測定では、善意と悪意を見分けることは出来ないのでしょうねぇ

ま、ポジの時だけおやりになることをお薦めしときます
わかりずらい話ですけど

ビミョーな時はおやめになったほうがいいと思うよ



「見える系」「聞こえる系」

「天使」が見えるって人がいるけど

天使のかっこがコレって決まっていたら、速攻、悪魔にまねされるよ

かっこじゃないからね

ここんとこが、わかってない人が多いんでびっくりするよ

「見える系」「聞こえる系」の人は、「愛の感触」が感じられるかどうか、よっく感じてね
わからなかったら、まとめて、無視したほうがいい

いい奴かもしれないけど、間違ってたら地獄行きだよ

それで、禅宗などでは、一律、見えたら無視ってことになってる

天台の好相行は、阿弥陀さんが見えるまで、一日三千回、立ったり坐ったり礼拝をし続ける行ですけど、あれはちゃんと先輩が本物を見たか確かめる

見えたら先輩の部屋まで報告に行くんだけど、足音でわかるらしいよ
喜びが隠せないのですよ、足音にね

後ろに出るやつはダメとかいろいろある

それと見えるだけじゃないのよ、グーと引っ張られるらしいよ
仏さんがこっち来いってね

「見える系」「聞こえる系」は、どうしても、自信が無くなってくるもんですけど、「愛の感触」を頼りにすれば、自分で見分けはつきますよ

光が見えた、声が聞こえた、天使がいる、など、「愛の感触」がわからなかったら、まとめて無視しちゃってください

ガツガツと神秘体験を求める人は、まあ、このへんがね、正気を失ってるよ
単純に言って、ほとんどの人が見えない聞こえないものが見える聞こえるのは、病気ですからね
心に不安感があるのなら、お医者さんに行かなきゃならないよ

で、「愛の感触」があれば喜びがありますからね
これで、見分けてね




「占い」「ヒーリング」など、

確信もって良心的にやってる人が多いけど、見えない事・聞こえない事でやってるんだから、結果で勝負するしかないのよ

いろいろ講釈の多いのは感心せんね
驚かすことになるからね

医療行為は最近は説明責任って重要視されるけど
占いとヒーリングは結果ですよ

講釈の多い奴には悪意を感じるね

そうそう、ヒーリングしてる時の目が怖い人
結構あるよ
有名な人でもね

目元見るのも、見分けるコツかもね




ここまで書かなくても、とも思うけど
実名出してないんだから勘弁な



♪慈悲の話のつもりだったんだけどなー♪



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2005-12-18

寄贈

たまには、徳川さんの話

日本最古のパイプオルガンって知ってますか

東京上野の旧東京音楽学校奏楽堂(重要文化財)にあるのですが、これは、徳川頼貞さんが寄贈したものです

こちらもどうぞ

頼貞さんは(1892ー1954)、紀州徳川家の16代目に当たる方だったのですが、もともとは、子供の頃、軍学隊の音楽に魅せられ、西洋音楽にのめり込みました

貴族院議員としても活躍され、主な出番は、諸外国の皇族との付き合いだったようです

あまり知られていないエピソードですが、第二次大戦後、日本がユネスコに加盟できたのは頼貞さんのお骨折りがあったからです

頼貞さんが徳川夢声さんと対談してパイプオルガンの話をされています

南葵楽堂の想いで



頼貞さんのお父上の徳川頼倫さんは南葵文庫といって徳川家の所蔵の漢籍を東京大学に寄付しています

東京大学の漢籍の中核になっています

元々は徳川家の麻布飯倉のお屋敷にあった私設図書館のものです

この飯倉のお屋敷は今では移築され、熱海にあります瀟洒なホテル、VILLA DEL SOL(ヴィラ・デル・ソル)となって当時の姿をとどめています



赤坂の迎賓館は江戸時代の紀州徳川家の屋敷跡に建てられました

この土地は徳川頼倫さんのお父上の徳川茂承さんが明治天皇に献上したものです


♪お供え、供物、寄贈と、いろいろですね そういえば、僕の寺は県立博物館、県立文書館の最大級の寄託者です(寄託とは、一時預かりをお願いしてるってことです)♪


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2005-12-15

護摩の供物

護摩といえば

どんどこ火が燃えるのですが、当然、護摩木が多いと火が大きくなります

僕も多いときは、何百本という護摩木を焚きますが、火が大きくなって天井が燃えちゃうんじゃないかと心配します

幸い、まだ燃えてませんが、燃やさないように注意して、少しずつ時間をかけて燃やして、いつまでも焚き終わらない、なんてこともあります

以前は煙をよく吸い込んだんで、最近はマスクをして拝んでます
高野山の奥之院なんかでもマスクをしてるみたいです

あやしい、なんて言ってはいけません

本人は必死です

油も燃やすので、うまく燃えないと、煙が凄くでるのです

眉毛が焦げちゃったり、火の粉で衣に穴があいたり、いろいろあります

で、この火の大きさを威力と思っちゃいけません

こりゃつまり、煩悩のかたまりが燃えさかっているわけで、煩悩やら業障が多いほど、火も大きくなるってことです



護摩を焚いてるといろんなことがあります


一番最初に不思議なこともあると感じたのは、高野山で加行監督をしてるとき

どんくさい奴がいて、道場でみんなで並んで護摩を焚いているとき、壇の上で居眠りを始めたわけですな

朝の3時からやりますからね

それで、回りの友人たちが、面白がって、護摩の供物の大豆や小豆をそいつめがけて投げてぶつけて遊んでるわけです

まあ、善意に解釈すれば、眼をさますようにしたわけですが、監督としては、護摩焚いてるときなにしてるってことです

それで、後で居眠りしてた奴に話を聞いたら、きれいなキャンディーやお菓子が自分めがけて飛んできたっていうのです

護摩木は煩悩のかたまりで、智慧の火で燃やし尽くすのですが
大豆・小豆・白ゴマなど護摩の供物は、智慧の火で燃やして、一切の仏菩薩に供養する意味があります

そのとき
「投ずるところの供物、本尊の心蓮台にいたり、その身から種々の供養雲海を流出して、一切の仏菩薩声聞縁覚および一切の諸天に供養す」
と観念します、えっと、イメージするわけですね
それから、エイッと、火の中にいれます

で、その供物を護摩の火の中に投げ入れるんじゃなくて、となりで居眠りしてる奴に投げたら、キャンディーになって飛んでいった、というお話です

今考えると、あいつは居眠りしながら仏さんになっとたのか、ってことですが、まあ、修業中ですから、居眠りしながらは誉めない方がいいでしょう


明恵上人は、ずっと自分の夢を記録して、19才の時から40年間、一日も休まず書き続けたのですが、読んでみると、なんか、いつも拝みながら寝てるんですね

それで、見た夢を書いてる

なんか明恵さんの場合、明晰夢も禅定も境目がなかったようで、仏さんの前で、寝てるんだか起きてるんだか、じっとしてても怒られない仕事っていったら坊さんしかないでしょうから、まあ、天職ではあったのです

坐禅なんか、カッコを凄くこだわるのですが、こんなことから、僕は、どうなのかなと思ったりするわけです

ま、エレガントであるにこしたことはありません

あれが、ひっくりかえって寝ててもいい、なんてことになったら、まあ、坐禅は滅びて無くなってるでしょう


なんか、他の不思議な話も書きたかったんですけど、ここまでで長くなったので、いずれまた、ということにします



♪昼寝を馬鹿にしちゃいけません・・・なのかな♪


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2005-12-13

火天


火天像 

紙本著色 十二天のうち、火天 縦72.4 横33.5

桃山(16世紀) 長保寺蔵

十二天は、八方と天地の護方十天と日月二天を言い、密教においては、法要の際に道場の守護神としての役割を担う重要な画像である。平安時代のものは縦横の長 さが近似しているが、鎌倉時代に立像形式の六曲一双の屏風仕立てが登場し、その影響を受けて縦長の画像に立像の十二天を描く十二幅対の画像が流布した。像 容は、持物や台座の形式などの小異はあるが、ほぼ類型化している。
この十二天像は、損傷が著しいが、京都・神護寺や滋賀・聖衆来迎寺の重文十二天画像の系統に属するものである。
「寄進帳」には護摩堂の什物とだけ記されているが、江戸時代の中頃にはすでに長保寺にあったことが分かり、制作年代もまた桃山時代にまで遡るものである。




画像の上のほうが黒ずんでいますが、これは、護摩堂に掛けられていたので、護摩を焚いた煙で煤けたものです

よく、「お不動様の護摩」といいますが、実際は、先ず火天を勧請して一回護摩を焚いて(1段め)から、本尊である不動明王の護摩を焚きます

1段、3段、5段、6段など、諸尊を勧請して色々な種類の護摩があります

修験道などで焚く採灯護摩は、護摩法としては簡略なもので、火天段しかないものもあります

護摩と言う言葉は、サンスクリット語のホーマの音写で、「焼く」という、そのまんまの意味です

火天は大日如来が姿を変えて現れたものとされ、智慧の火で、煩悩を焼き尽くすことを意味します
火天は、大変に高貴な素性、ということになります

護摩木と言って、なにか御祈願を書いたものを火の中で燃やしますが、智慧の火で災いを焼き尽くすのが本来の意味です

天台宗では護摩木の他に、加持物(かじもつ)と言って、芥子(黒ゴマなどで代用)・硬米・白ゴマを投げ込んで祈願します
真言宗は白ゴマだけです

芥子粒は金剛杵に変化して煩悩をうち砕く調伏、硬米は如意宝珠に変化して諸願成就の増益、白ゴマは光明輪に変化して福徳智慧の息災の意味になります


護摩法はヒンドゥー教が炎に供物を投げ込んで、天に煙として生け贄を届ける儀式を仏教的に解釈し直して生まれたことになっていますが、日本にきてから大変洗練されたものになりました

今、チベットでも護摩はやりますが、野外で、多人数で、大変大がかりなものです
修験の採灯護摩に似た感じです

日本では、一人で、屋内でやれるものになりました
こういう形は日本だけですね


いやな事や、忘れたい事があったら、丸めてゴミ箱にポイ、とか、ダイナマイトで爆破するとかいう瞑想法がありますが、智慧の火で燃やす、というのが、一番洗練されているのじゃないかと思いますね

ま、それでも、火天が根源と繋がっていないと、単なる妄想で終わってしまいますけど


♪今、こういうキレのいい仏画を描く人はいないですね♪


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2005-12-09

如来

スーフィーと密教は似ているんだそうです

スーフィーとは、イスラムの神秘主義です

なんか、難しいです

瞑想をするのと、マントラを唱えるのが似ていると言えば似ています

マントラは、イスラムではズィクルというそうです

純粋できれいな宗教です

日の光にきらめく小川のせせらぎのような、清冽な宗教です



でも、やっぱ、密教とは違いますね

密教にはアッラーはいません

イスラムとキリスト教と本質的に違うのは、イスラムの場合、崇拝行為そのものが不可欠で、行動規範を行うことが宗教を実践することになる点です

神の秩序を実践するのが日々の生活の目的とでもいいましょうか、そういう生活を受け入れなければなりません

いわゆる信じる信じないではなく、行うか行わないか、が最大の問題です

キリスト教は考え方に対する規範は重視しますが、行為そのものは、裁量にまかされます
その点は仏教も同じです

神の教えをうけて、自分が個人としてどう考え、生活するか、個人としての自由の中でどうするかが問われます
ふつうのイスラムは、そこまではいかないのです

生活規範には無条件に従わなければなりません

ですが、スーフィーになると、神と個人の、心の関係性が重視されます
これは密教的です

ですけど、スーフィーは、あくまでも、アッラーと個人の関係だけしかありません

密教は、礼拝の対象となる神は、時と場合によって違います
密教にはアッラーという概念はありません

これは、仏教そのものの本質です

仏教には創造主という考え方はありません

じゃ、この世界はだれが作ったんだということになった場合は、無記といって、沈黙します、答え無しです

徹底して実存的に、自分がどうするか、から離れません
離れてしまえば、それは自分勝手な神話であり、空想になり、また妄想と変わらない、というのが仏教的な考え方です

超越的な存在がいることは、仏教でも認めます
それを如来(にょらい)と言います
来るが如きもの、ということです

絶対神と言ってしまえば、その定義を決めなければなりません
そうすると、決められた定義が、その絶対神の限界です

宇宙の全てを創造した神、と言えば、宇宙の全てを創造した神を創造した神、と言われたらおしまいです

神に限界はない、と言えば、限界のない神を造った神、とでも言えます

で、如きもの、という便利な表現を使います

ですから、仏教的に言えば、「悟り」ではなくて「悟りの如きもの」です
無上正等正覚ともいいます

覚とは言わず、覚と等しいと表現します

釈迦牟尼如来、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来
みな、如来です

来るが如きものです
これは、絶対にはずせません

へりくつだ、と言われるかもしれません

でも、これは、インドの長い論争の歴史から生まれた、結論です

あーいえば、こーゆう、を延々と繰り返すなかから、たどり着いた、神の概念に対する智慧です

これが、仏教です


♪仏教は、創造主がいるかいないか、結局、関心がないみたいですね。ま、お好きなようにどうぞ♪


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2005-12-01

Meditation of JIHI



慈悲の瞑想

仏さんは根源とつながっている

慈悲によって、つながっている

慈悲とは、愛ある智慧、智慧ある愛

あなたの真心と仏さんが、つながる

目の前の仏像とあなたは、この世界にいる

仏像の根源は因果を越えたところにある

あなたは慈悲によって根源とつながる


How to

かすかに微笑む(モナリザのように)

息を吸うとき 慈悲(love and wisedom)が体にはいる ありったけのイメージで思う

息を吐くとき 感謝しながら吐く

あなたの中に元々ある、すばらしい心が、仏の慈悲に洗われて、輝く

自分が自分に目覚める それを「悟り」という

リラックスして

1分でも3分でも5分でも、15,30でもいいからやる

どこでもできる

疲れたらやめる がんばる必要はない

いつでもできる

Easy and Simple


♪朝日を見ながら、海を見ながら、お寺でも、教会でも、ベッドの上でも、やってみて とても気持ちいいよ♪

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