瞑想するのは簡単です とても気持ちいいですよ

 

あなたが一番信頼する光に意識を集中します

リラックスして

目をつぶって

ほほえんで(大事なコツです)

無条件に全てを赦し救う心を感じながら

静かに息を吸って

 

無条件に全てを赦し救う気持ちで

体の力を抜きながら 息をゆったり吐きます

それを繰り返して

光だけになります

 

疲れてきたらやめて

光に感謝を伝えます

光のかけら

僕らは
どんなにつらい時でも
自分のことは自分でしなければならない

考えたこと 言ったこと したこと
すべて心の中に刻まれる

助けを求めている僕らの心

だけど
僕らの心のどこかに光のかけらが隠れている

か弱く無知な光のかけら
学びを終えた偉大な輝き達が護り導いてくれる

僕らは光の中でつながっている

苦しみと喜びから多くのことを学びながら
光のかけらは成長を続ける

光のかけらはこの体を離れても
またどこかに生まれ出る

そして いつか
偉大な輝き達に仲間入りして
だれも知らない明日を
共に創造する

 

 

光のかけらを感じるには瞑想が必要です

 

ほほえんで  無償の愛 無条件の赦し 深い感謝  さわやかで暖かい感触を感じながら  静かに息を吸い   体の力を抜いてリラックスしながら ゆっくり息を吐きます


この瞑想は、光に手伝ってもらって、光の心を感じる瞑想です

自分が、自分に目覚めるだけのことです

守護してくださる光は、各人に縁のある聖者です
釈迦とかキリストとかのブランドに帰依するのではなく、慈悲の実感をセンサーにしてください
ここでは、お釈迦様にお願いします

自分なりに人生から学びを深めていくというのは、本筋ですが、密教では、すでに学びを終えた光に手伝ってもらったほうがスムーズにいくと考えています
優秀なコーチの指導でスポーツをするようなものですね

瞑想の準備

執着はほどほどにし
神仏を信仰し
死んでも心はなくならないとわきまえて
因果はめぐりめぐって自分にかえってくると覚悟して
慈悲をこころがけ
智慧を深める

朝日を浴びてください
両手をいっぱいに広げて、「太陽の力と優しさが体に降り注ぐーー」とイメージしてください
まぶしいですが、目を細めて、太陽を見てください
太陽の姿を記憶してください
瞑想するとき、ふりそそぐ太陽の光を思い出してください

 

心はそれぞれ別々の存在ですが、ほんとうの世界では慈悲を通じて繋がっています
ですから、ほんとうの世界に向かって「無条件に全てを赦し救う心」を送り出せば、ほんとうの世界から「無条件に全てを赦し救う心」が返ってきます

輝く「心の先輩」に手伝ってもらえば、それができます

釈尊は、無条件に手伝ってくれます

 

宝号

南無釈迦牟尼佛 なむしゃかむにぶつ 三返

読経

毎自作是念 如何令衆生 得入無上道 速成就仏身 一返

まいじさぜねん いがりょうしゅじょう とくにゅうむじょうどう そくじょうじゅぶっしん

 

瞑想
体をリラックスした姿勢にしてください。
息を三回位吐いて、肩の力と体の余分な力を抜きます
深くリラックスします 息を吐くときにあわせて力を抜きます コツですね

座るなら、背筋を力をいれずに伸ばした姿勢で、手は法界定印。

座っても、腰掛けても、寝ていても、歩いていても瞑想はできますが、始めのうちは背筋を伸ばして腰掛けるのがやりやすいでしょう。その場合はひざが腰より低くなるように椅子を高めに調節します。お尻の下に座布団をあてて足を組んですわる座禅のすわりかたも腰を痛めませんが、みなさん膝が硬くなってきていますから、無理しなくてもいいです。座る場合は左足を下にして上に右足を乗せる半跏座。

法界定印は手の平を上にして、左手を下、右手を上にして重ね、親指の先をかすかに着けます。これは密教の座り方です。印を組むのは仏とだけ交流するしるしです。

無条件に全てを赦し救う心が大慈悲の光明となって降り注ぐ様子を、強くイメージします

降り注ぐ大慈悲の光明は、涅槃に入られた釈尊のお心です。

 

リラックスして、かすかに微笑んで(非常に大事なコツです)瞑想してください

瞑想中は眼をつぶって

燦々と大慈悲の光明が降りそそいで

静かに息を吸うと全身の皮膚から光が体の中にどんどん溶け込みます

ゆっくり息を吐きながら肩の力をどんどん抜きます

体の余分な力を抜きながら、ゆったりと呼吸します

色々な思考が浮かんだら、吐く息といっしょに全て吐き出します


息を吐くと大慈悲の光明が全身から流れ出し輝きます

そして 光だけになります

 

瞑想を続け

光を感じつづけます

そして、光に満たされて、自我から解放されます

光だけになります

 

瞑想を終わるときは、目をつぶったまま手のひらをこすり合わせて暖かくして、ゆっくり顔をこすり目を開けます。


心を鏡にたとえると

鏡を磨いてピカピカにすれば、人知を超えたすべての世界が自然と心の鏡に写るようになります

無償の愛・無条件の赦し・深い感謝は大慈悲の一部です

それが、「無条件に全てを赦し救う心」になって降り注ぎます

大慈悲の光明は無条件に常に私たちを照らしています
鏡を磨きさえすれば、自然に写ります

鏡を磨くには
静座して 呼吸に集中し 沸々とわき起こる雑念を、息と一緒に吐き出します

呼吸に意識を集中すれば心のさざなみが静まります
雑念も、 いい思いつきも、心に浮かぶこと全て、捨て去ります

鏡に何を写すのかといえば
無限広大な大慈悲を写します
大慈悲はすべてと繋がっています
ありったけの想像力を膨らませて大慈悲を感じます

したがって
出入の息に大慈悲を観ずれば、瞑想はうまくいきます

 

ただ どちらにしても  どのような祈り方でも
大慈悲の感触がなければ、形骸化したうわべだけのものになります

大慈悲は我々がたよりにすることの出来る、蜘蛛の糸のようなものです
天上からこの世界につながる、ただ一つの道しるべです

 

感触がつかめたら、いままで乗れなかった自転車に初めて乗れたときのように
いつでも瞑想できるようになります

感触をつかんでください


解説

 姿勢

仏教では一般的には座って瞑想することになっていますが、これは釈尊が悟りを開いた姿が源泉になっています。しかしながら、仏教の長い歴史をひもとくと、行住座臥いろいろな姿で過去の高僧方は悟りを開いています。
阿難尊者は仏滅後の第一結集の時にまだ悟りが開けず、仲間に入れてもらえそうになっかたので、もうだめだとガックリとうなだれたところで忽然と悟りを開いたといいます。弘法大師は求聞持法を修行したとき明星が口に入ったといいますから、おそらく首を明星を見る角度まで上げています。白隠禅師は托鉢をして門前に立っていた時、無信心な婆さんに水をぶっ掛けられて、悟りを開きました。この白隠禅師の「軟蘇の法」は寝てします。キリストは荒野をさ迷い歩いて、これは座ったというのはないらしい。
悟りがひらける瞬間は、あんまり姿勢とは関係ないと思いますが、長いこと瞑想しつづけるには、やはり負担の少ない方法ということで有史以前から、座って瞑想という姿に自然となったのでしょう。これが、だから、背筋を伸ばした優雅な姿勢であることが望ましいですが、姿勢が悟らせてくれるのではありません。

座る場合、右が上か左が上かで諸説あります。どうもインドの仏像、ビルマ、タイなども右が上のようです。左が上は中国に来てからかもしれません。宗派の伝統に従えばいいとしておきます。
ただこの瞑想は座るのなら加持を得るため密教式に右を上にしてください。

 

法界定印。一般的な仏教の形ということです。密教の場合は印と真言と観念の三つが必要になりますが、難しいので、シンプルにしました。
シンプルにしても難しいことは難しいのです。慣れれば印はいらなくなります。布団の中などで寝てするのなら印はいりません。手のひらを上に向け、光を受け取ることをイメージします。寝入りばな、覚醒時などに練習すると深い瞑想に入れるようになります。
法界定印を積極的に否定する人は、魔が近づくのでこの瞑想はやめてください。

補足 氏神様かその土地の神様を信仰してください。それと有縁の霊を十分供養してください。お金をかけることとは関係ありません。心が通じることが大事です。たとえば、近くの神社にお参りして、お墓参りをちゃんとするということです。ここらあたりが、かなり奥深い問題になりますが、独り善がりで瞑想に打ち込んでも、瞑想が深まれば深まるほど、大きな問題になってきます。

 

呼吸

これも諸説あります。一般的に言って、普段は呼吸を無意識にしています。意識的にすることに切り替えることも出来ます。つまり、意識と無意識の両方にまたがっています。で、呼吸に集中すると無意識の領域に近づけるという理屈。
難しく考えず、慣れるにしたがって深くゆっくりした呼吸になります。何秒吸って何秒吐くなどと言ったところで、すぐにも効果があるわけでもありません。緊張せずに、自然にゆったりしてくるのを待ちます。
呼吸に意識を集中するのは、精神集中と言っても捉えどころがなく、すぐに雑念が起こるからです。無意識に心が向くもっとも身近な方法です。

息を吐くときは、自分の中にある、恐れ・満たされぬ思い・悲しみ、などが体から抜け出て法界の大慈悲にゆだねられることをイメージします。ゆだねて、受け止めていたただけるわけですから、感謝の気持ちで息を吐きます。

体の力を抜きながら息を吐くのがコツです

深くリラックスします

力を抜きながら呼吸をしていると、次第に体の感覚がなくなってきます

 

補足 瞑想が深まれば、呼吸は意識されなくなります。

 

目をつぶる

半眼といってかすかに目を開けるという説もあります。目をつぶると自動的に寝てしまうように人体ができているのではないかというのが根拠。ただ、光をイメージするのには目をつぶらないとうまく出来ません。

仏像とか仏画、はては荘厳な伽藍などは、イメージの強化のためにあると言ってもいいのです。これはこれで大変に意義深いものですが、つまりはこれらは物質であって、この物質を維持管理するためにいらぬ苦しみが生じてくることになるのです。目を閉じて瞑想することに習熟すれば、いらぬ心配はしなくてよくなります。

補足 私の寺は、本堂・塔・門と国宝で境内15000坪は国史跡です。目をつぶるのは、思いつきや洒落で言っているのではありません。

 

かすかに微笑む  とても大事です

インドに残されている仏像はどれもかすかに微笑んでいます。仏頂面という言葉がありますが、口をへの字に曲げてしかめ面をするのは瞑想の時の面構えではありません。奈良の大仏さんの顔は、威厳のあるちょっと怖い顔ですが、あれは国家の威信を示すためあんな顔をつくったのだと思います。
皆さんは、安らかな微笑みを浮かべて瞑想してください。

サールナート博物館  初転法輪の釈尊

 

宝号

円頓章や本覚讃、総礼伽陀もいいが長いので。宝号は魔事をさけるため唱えてください。三帰・三境もいい。門徒であるなら念仏もいい。大師宝号や真言とか陀羅尼もいい。五体投地もいい。と、だんだん長くなってしまうので簡単なものを探してください。無宗派でいいという指導があるが笑ってしまう。瞑想は実際そんなに甘くありません。健康法とは違います。厳粛なものです。

補足 自分勝手に作ったものはだめです。少なくとも500年、出来れば1000年以上の伝統のある宝号か経典の一節を唱えてください。神僧や祖霊が聞いてわかる必要があります。自分の命に、宇宙のもの、大自然にあるもの、といろいろ理屈をつけても、お父さんお母さんがいなければ生まれてはこれません。同じように、いずれかの宗教の伝統の流れに入らなければなりません。この瞑想ではお釈迦様に帰依してください。

 

読経

毎自作是念 如何令衆生 得入無上道 速成就仏身 一返

まいじさぜねん いがりょうしゅじょう とくにゅうむじょうどう そくじょうじゅぶっしん

意味 つねに自らこの念をなす 何をもってか衆生をして 無上道に入らしめ 速やかに仏身を成就するかと

 

法華経如来寿量品の最後の部分です
全てのお経のエッセンスです 最低限これだけは必要です

これは、お釈迦様が、つねに、今この時も、自分で自発的に、あなたを無上道に導こうと念じている、ということです
「救って欲しい」とお願いされたからではありません いつも一方的に無条件に念じていらっしゃいます

つまり、お釈迦様が念じてくれます

しかも、なんの条件もありません

 

大慈悲

無償の愛、無条件の赦し、深い感謝、これらは大慈悲の心の一部です

ここでは、それが、無条件に全てを赦し救う心となります

もっと深く、大慈悲を感じてみてください

大慈悲は我々がたよりにすることの出来る、蜘蛛の糸のようなものです
天上からこの世界につながる、ただ一つの道しるべです

ただ、お釈迦様というイメージを自分で作って、おすがりするのではありません

自我という夢から覚めて、大慈悲の光そのものになります

 

燦燦と大慈悲の光明が降りそそぐイメージ

釈尊は涅槃にはいることで、大宇宙に遍満することになりました。三界を越え、因果を超え、時空を越え、存在しています。これが嘘なら、仏教は2500年も続きません。これは、はっきり感じられないうちは、頭上から優しい愛の光が降り注いでいる様子をイメージしてください。

補足 無量義経に「釈迦牟尼如来を毘盧遮那遍一切処と号す」と書かれていて、 釈迦、大日一体の根拠とされているのですが、慈覚大師と智証大師は入唐して大興善寺の元政阿闍梨に釈迦、大日一体であることを念を押して確認して、仏教の正しい伝統であることをはっきりさせました。涅槃経にも「仏は常住である」と書かれています。
お釈迦様は歴史上に実在した人物です。この心は実在したし、今も活動を続けています。いずれ感じられるようになります。

ここでは釈尊の光ですが、ご縁のある本尊があれば、いろいろ工夫することも出来ます

 

心の中で慈愛の光が輝く

難しく講釈すれば天台本覚思想ということになります。生ける者すべてに仏性があります。なにか、自分以外の別の者になるのではありません。生まれ出た命の根源には、必ず光り輝く仏心があります。
これが日の目をみるのか、見ないままで終わってしまうのか、ということです。
常・楽・我・浄を涅槃の四徳というのですが、皆様の仏心にもこの四徳が備わっています。仏心は、不滅で、限りなく楽しく、自我は消滅せず、清らかです。生死を越えた心が皆様の中にあるのです。

心のよりどころを自分自身の中に求めてください。集団とか教祖様ではありません。家族、夫婦でさえありません。
しかし、あなたの中の仏心がすべての存在とつながっています。あなたは孤独ではありません。確固として独立した存在でありながら、身近な人とは強く、そしてすべてと深くつながっているのです。 

補足 法華経の法師品に「如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心なり」とあります。密教の月輪観は照らされる瞑想ですが、これは照らす瞑想です。皆さんが深い瞑想に入れるようになれば、その深い意味がおのずと体得できます。
涅槃経に「一切衆生に悉く仏性あり」と書かれていますが、ここのところが仏教の本質ではないでしょうか。また、「自灯明、法灯明」とあるのも有名ですが、ある特定の場所とか、人物とか、経典ですらよりどころではありません。それが釈尊の遺言です。最後のよりどころは、自分の心の中にあります。瞑想は拠り所を外に求める「おすがり」ではありません。ご自分の中に仏性があることを、深く安堵してください。

 

大慈悲に繋が

加持でもあるし感応でもあります。サンスクリットではヨーガでもあります。(英語のyokeの語源らしい。)
仏心は遍満しているから、当然つながっています。以心伝心。心が通じる。これは、必ず釈尊の心とつながらないといけません。つまり、ここが信仰心が必要なところです。
もの欲しそうな瞑想をすれば、もの欲しそうな霊とつながります。慈愛を念じてください。瞑想している間だけでいいですから、全てを許し、受け入れ、慈しみ、感謝してください。そして、明日はもっと深い慈愛を念じてください。お願い致します。それと、案外我々は自分で自分を罰しているのです。自分自身の全てを許し、慈しんでくさい。大慈悲にゆだねてください。

ほかに適当な言葉がないので、大慈悲という言葉を使っています 意味や印象は、感触として、ご自分で感じることが大事です

補足 ほんとに瞑想している間だけでいいんです。だんだんと自然に身についてきます。

 

息を吐くとき、肩とか体の力を抜きながら、リラックスをつづけると、体の感覚が消えてきます

深く大慈悲の光を感じられるようになったら、光で、ご縁のある方を包み込むこともできます

心はそれぞれ別々の存在ですが、ほんとうの世界では慈悲を通じて繋がっています
ですから、ほんとうの世界に向かって「無償の愛・無条件の赦し・深い感謝」を送り出せば、ほんとうの世界から「無償の愛・無条件の赦し・深い感謝」が返ってきます

輝く心の先輩に手伝ってもらえば、それができます

釈尊は、無条件に手伝ってくれます

 

自我からの解放

善でも悪でも、振り返ってみて嬉しくても不快でも、過去の行為(カルマ)は、全て心の最深部にしまわれています
カルマは、心の一番奥底にあって、表面意識では全くアクセスできません

しかし、カルマが心の中にあるうちは、それは想念であり、幻想であるので、想いが変われば消しさることができます

微笑みつつ、自分のカルマにアクセスして、無条件に赦す、とカルマは消滅します

大慈悲の光に対する、心の最深部からの信頼感が、自分自身がコントロールできない、深い心の奥底にある自責の念と入れ替われば、滅罪生善します

善も悪も、全てのカルマは心がつくった影で、大慈悲の光によって消滅します

 

下座行

自分の中にある仏心に導かれて、今自分が置かれた立場や環境の中で、やれるだけのことをやる、ということです。

 

瞑想する場所

当然のことながら、誰にも邪魔されない、安全で静かな場所であることが望ましいのですが、慣れれば、どこでも出来るようになります。気分よくリラックスできるところ、どこでもやってみてください。聖地といわれている所の感触にひたるのもお勧め致します。香を焚くのなら、出来る限り高価な良い香を焚いてください。

 

時間

最低15分はしてください。長くて90分。個人差がありますが、リラックスして、なおかつ集中力が継続する必要があります。ちょっとづつでも毎日おやりください。
1分でも5分でもやってみてください。

 

食事

わかりきったことですが、酒をのんで瞑想はできません。カフェインは深い集中が出来なくなります。タバコに中毒している方は、集中力が長時間続きません。

肉食については、半年位食べずに瞑想して、今度は肉を食べてから瞑想すればわかります。避けたほうがよろしいかと思いますが、必須アミノ酸が補えなくなりますので乳製品を食べなければなりません。乳製品の場合、乳耐性が年齢と共に衰えてきて下痢するようになります。現実的には植物タンパクを主体にして、乳製品、そして魚、肉で補うということでしょうか。

人間はそもそもほとんど肉でできていますので、低タンパクはお勧めできません。

 

 

釈尊涅槃の日 2004年2月15日

 

解説はこちら

 


光の瞑想に手を加えて読んだだけでも実習しやすいようにした。なにかの参考にとは思うが、細かいことや、実は大事なことでも書かずにいることなどかなりある。

大慈悲の光明が降り注ぐイメージだが、実際はかなり強くイメージできないとうまくいかない。新興宗教や拝み屋にはまった経歴のある人などは、神をかたる化け物的存在が取り付く可能性がある。伝統のあるまともな霊場に参拝したとしても、この手の存在はしつこいから、なかなか本当の仏や神に気持ちが届かなくなる。まともな仏かどうかを見抜ける人が手助けしないと、振り払うきっかけがなかなかつかめない。理屈が先行して瞑想をやっている人は色々なところに平気で出入りするから、本人が気が付かないうちに脱線してしまう。凶暴になるとか、憎しみや怒りが抑えられないとか、猜疑心が強くなるとか、精神分裂病になるとかろくなことがない。

強烈な苦痛を味わって、そこから、自分がいままで罵り嘲り凶暴な暴力をふるった相手から大きな慈愛をそそがれて救ってもらうような経験をする必要があるのかも知れない。とにかく慈悲というものがどんなものか思い知っていないと、どうもほんとうのところはうまくいかないのではないか。一口に言って、徳のある人はここのところはうまく切り抜けられる。ただ,自分がうまくいったからといって、誰でも簡単にうまくいくということではないのである。

瞑想の奥深いところは、縁のある神僧か護法善神が守り導く。偉そうに無宗教を気取っていたら危険極まりない。ハッキリとした信仰心がなくて瞑想するのは眼をつぶってラッシュアワーの高速道路を歩くようなものだ。ニューエイジふうに宇宙の善意とか大自然の心とか言っても、徳の高い祖霊がこっそり守護してくれていなかったら、ほとんど確実に狐・狸・蛇に取り付かれる。ほんとに甘くはないのですよ。
法界定印を組んで座るのは、これは仏教だけのもので、仏教の修行をしていることが明らかなわけで、神僧の加護を得て色々な魔事を避けることになる。総礼伽陀をとなえれば天台の神僧が見守ってくれるでしょう。

目に見えることさえ疑ってかかる時代ですから、このようなことを言ったところですぐに真面目にうけとめてもらえるとも思わないが、大事なところですね。それなりの徳がそなわっているか、きちんとした信仰をお持ちの方で、大慈悲というところが体得できていると突き抜けていけますので、瞑想法をここに書いておけば、いずれ何かの参考にはなるだろうとは思ってはおります。

それと、これは心のバランスを取り戻すための瞑想ですから、なにか具体的な願望をもった瞑想はしないようにしたほうがいい。それは祈願法とか祈祷法とかの類になる。今自分に本当に必要なものは魂の奥底ではわかっているので、ただ光にひたればよいと思う。
この光は、キリスト教徒であれば復活されたキリストのお心です。イスラム教徒ならばアラーのお心です。漠然と宇宙の心と考えるのはお勧めしません。人間に国籍があるように、心にも住処が必要です。パスポートもなくジプシーのように心の世界を放浪するのはお勧めできません。色々な国がそれぞれの伝統と主権を尊重して地球が成り立つように、色々な宗教の伝統が共存しているのが本当の姿です。

さまざまな宗教紛争は、地上にある、宗教が生み出した副産物に執着するから生まれるのではないでしょうか。

2004-02-11

 


ここからは、仏教的な考え方の要点です

いろいろ仏教を勉強すればするほど、書いてあることの意味がわかると思いますよ

 

いいことをする人は、いい人
わるいことをする人は、悪い人
だから、いいことをしましょう

仏菩薩を尊敬し
八百万の神を尊敬し
イエスキリストを尊敬し
アラーの神を尊敬し
自分を信じる

輪廻転生はある
因果応報はある
神々と先祖の助けはある

努力は報われる
いつか仏と等しくなる

慈悲と智慧

己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり


仏教の基礎知識 解説
 最低限これだけは理解している必要があります

 

 

見える、聞こえる、感じるなど、感覚器官でとらえた印象が脳内イメージになって、世界を認識しています

脳内イメージは、各人各様、すべて独自のものになります

しかし、感じる前の世界は、たった一つしかありません

 

自分が感じた世界は、自分だけのものです

感じる前からある、ありのままの世界とは違います

自分の作り出したイメージに捉われることを、我執と言います

苦しみや悩みは、自分がいる、という我執が根本原因です

 

感覚器官で感じる前の、ありのままの世界そのものが、自分というフィルターが介在しない、真実の世界です

今自分が感じている、苦しみや悩みが、全くない世界です

苦しみや悩みを救う力は、感じる前の世界にあります

その力に気づくのを、悟り、と言います

 

光の瞑想の模式図

 

 

色即是空のかなた

僕らは感覚器官がとらえた世界の中に閉じこめられて暮らしている

見えた物を信じたり疑ったり、聞こえた物を信じたり疑ったり
暑さ寒さを感じ、美味しいまずいを感じ
感じられる物が世界の全てだと思いこんでいる

目で見る前の光
耳で聞く前の音
舌で感じる前の味
皮膚で感じる前の感触
それが、あなたというフィルターを通さない、ありのままの真実

自己の拡大は進むべき道ではない
感覚器官の中に閉じこめられている現実が変わるわけではない

自己否定も道ではない
めちゃくちゃで、バラバラの自分になるだけ

感覚器官に写し出される前の、ありのままの世界
世界の本当の姿を知っている自分になるのが、道

あなたは、すでにその道を完成した存在を知っていますか
全く完全に我執がなく、それでいて個性があり生命に満ちあふれた存在

五神通と常・楽・我・浄の境地
大慈悲の感触

2005-09-06

 

 

悟り

悟るという字

「りっしんべん(立心偏)」と「吾」でできています

わが心ということになります

サンスクリットでいうとbodhi(菩提)
目覚めるというbudという語からできています

ですからbudha(仏陀)も語源はbudで、目覚めた人という意味になります

自分で自分の心に目覚めること、それが、悟るということです

それで、実は、自分の身体も、自分自身で感じる前の本当の姿があるわけです

その、本当の姿は、空であり、法界であり、実相であり、無尽重々縁起であり、涅槃である世界にいます

その、感じる前の自分に会うことはできません
とにかく、感覚で感じる前の存在ですから

ところが、そんなことに関係なく、自分は存在してます


→をクリックしてみてください
 
 

御自分の手の平をじっと見てみてください

この形は、眼に写って色とか姿とか、また、皮膚の感覚など、脳内に再構成されています

「これは手だ」という言葉になる前の「手」は、感覚器官の向こう側にあって、どうしても感じることはできません

自分の心もそうです
意識される前の意識を意識する、など、できません
意識される前の意識を、「無意識」と総括することも出来ます

あるのはわかっていても、感じることができません

ここで、「感じられる前の世界」にいる自分を考えてみてください

時間と空間は、感じられる、こちら側にしかありません
時間と空間を決める、ということは、「感じる」ということですからね 

時間と空間が無い、ということは、宇宙全体が1ミクロンより小さく、同時に全てが起こっている、ということでもいいわけです
(本当は、そういうことが決められないのですが、便宜的に)

感じられる、こちら側の世界では、あなたと僕は別々の存在ですが、感じられる前の、あちら側の世界では、無尽重々縁起の因果律で繋がっています
そして、1ミクロンより小さい世界に同居してることになります

時間がありませんから
釈迦もイエスもマホメットも、あちら側では健在です

ご先祖様も、自分の未来の子孫も同居してることになります

諸仏・諸菩薩、八百万の神々も、世界中の神様達も、全部、繋がっています

さてと

それらを全て丸めて、ピンポン玉くらいの大きさにして


そのピンポン玉を、「感じる前の自分」と名付けることにしましょう

ですから
あなたの無意識は、全知全能です

それが、わかっていないだけのことです
わかってしまえば、それが、悟りです
 
 
「感じる前の自分」には、我がありません
でも因果律はあります

さて、そこまでわかったら、どうするか、ですね

「感じる前の自分」に、全くなにも求めず、感謝と愛を送り続けたら、全ての善きことが起こる、ということになりませんか

 

無我

仏教は、「我は無い」という立場をとっています
無我ですね

でも、普通考えると、我々には、自分という感覚があって、あなたと私は違うし、当然ながら別々の人格です

「我は有る」としか考えられないわけです

で、それを、魂とか、自我とか言うのですが・・・
 

しかし、それは、感覚器官で感じるこちら側の世界のことで、「感じる前の世界」には、やはり我はありません

とにかく、自分とか自分以外とか感じる前のことですから、実際は、我も無我も両方無いことになります
 

 
銀河系には2000億以上の恒星があるそうですが、宇宙全体には、そのような銀河が1000億以上あるらしいです

しかし、それは、眼で観測して数えるからで、響きとしてとらえれば、実はたった一つの響きしかありません
 


Barred Spiral Galaxy NGC 1300
->をクリックしてください 

 

響きは、華厳経でいう、無尽重々縁起で繋がっています
般若心経によれば、不生不滅不垢不浄不増不減です

まあ、波動のようなものと思えば、どこまでも無尽重々縁起で繋がっていて不思議は無いです

「感じる前の世界」なんですから、生滅とか浄不浄、増減など、感じてないわけです

感覚器官でとらえて、心に再構築された、こちら側では個別の存在も、「感じる前の世界」では、響きあい繋がって、不可分の存在です


  

 
 
自分を自分で、見る、聞く、感じる、その前は、これはどうしても、どのような状態かわかりません

絶対に、わかるはずがありません

見ても、聞いても、感じてもいないんですから

目の前の手の平を見て、ぱっと眼をつぶっても、もちろんそこに手の平があります
でも、見てないんだから、どのような状態か、絶対にわかりません

「感じる前の自分」を知ってる人はいないのです
 
 
それで

想像力を働かせてください

「感じる前の自分」はいったいどうなっているのか

 
 
宇宙飛行のような無重力状態

真っ暗闇で無音の温水プールに浮かぶ瞑想

自律訓練法による、感覚制御

一点集中による、制感

など、普段の生活の感覚から解放されると、「感じる前の自分」に一歩近づくわけです

「感じる前の自分」は、整然とした因果律を持ち、2000億の恒星のある銀河が1000億集まった輝きを持ち、過去現在未来の全ての叡智と繋がっています

つまり、それが、仏教で言う無我です

 

慈悲と空

仏教でどのように考えるかというと

慈悲は、空から派生します
が先決問題です

については、仏教には厳密な定義があって、歴史の蓄積がありますから勝手なことを言っても噛み合いません

因縁果報という因果関係の連鎖のなかで、どこかで連鎖を凍結して時間を止めれば、なにか固定した存在を定義できますが、実際は、連鎖は止まらず(諸行無常)、粛々と因果が流れていきます(諸法無我)

つまり、物事には定まった自性は無い、と考えられます
そのことを、、と言うことになってます

時間を止めればいいということなんですが、止めると言ってもその刹那をどんどん細かくしていっても、どうしても幅があります、理論的には
ですから、どうしても、物事の自性は止めて観察できません、極めて厳密に言うとですけど

で、もっと厳密に考えると、その因果関係は、心の中で生じています

まあ、たとえば、氷が水になって、お湯になって、水蒸気になって、雲になって、雨になって、また水に戻るとします

水、といった定まった自性は無い、と考えるわけです

で、その氷なり水なりは、眼で見、手で触り、それを心で感じています
つまり、脳内現象です

ところが、実際の水は、たとえばコップの中にあるのであって、脳の中にあるのではありません

だから、眼で見なくても、手で触らなくても、水はそこにあります
感覚器官で感じられるまえの存在です


たとえて言えば、量子力学でいう、Superpositionです
(粒子としての光子は、観察される前には、複数の場所に波動として同時に存在できます)
観察されて初めて、一カ所の場所が特定されます

観察される前の存在は、分割されていません
全てが、一つに繋がって、時間もなく空間もありません

観察されて、人間の意識のなかで限定されて初めて、形となります
つまり、脳内現象になる以前の存在は、感覚で感じられ特定されていませんから、時間も空間も特定できません


いまご覧になっているモニターは、つまり、あなたの眼を通して脳内に形成された印象です
モニターそのものは、眼をつぶってもそこにあります

実際のモニターと、脳内の印象は、別々のものです

自分という感触も、実際は、感覚器官によって作られた印象です

実際の自分は、「感じられる前の世界」にいます

「感じられる前の世界」は、これは、そこにあることはわかっているのですが、どうしても、感じられません
当然ですよね、感じる前の世界ですから

だから、絶対に、わかることができません
でも、今ここにあります

「感じられる前の世界」がです


「感じられる前の世界」は、因縁果報という因果関係の連鎖が無尽重々縁起となって繋がっています
波動を、ぶつ切りに出来ないのとおなじことです

繋がっていますから


存在を傷つけるということは、自分を傷つけることです

存在を喜ばせば、自分に喜びがあります

ちょっと不思議な感覚かもしれませんが、全ての心は一つに繋がっています


我執(自分がいるという思いこみ)にとらわれていると、繋がっていることを忘れています

気がついていてもいなくても、「感じられるまえの世界」は一つに繋がっています だから、自分を愛することと、他人を愛することは、全く同じことです

 

それが、慈悲が空から派生するという意味です



で、その

空は絶対的に信頼出来ます



これはですね、には我がないからです

仏教的には、我とは「印象に対する執着」です
つまり、自分がいるという素朴な感覚ですね
で、他人がいて、沢山知らない人達が生きているという、ありふれた感覚です

しかしながら、見える前の世界、「感じられる前の世界」は、印象じゃないわけで、我から切り離されています

だから、は善悪、正邪、損得、苦楽、好き嫌い、愛と憎しみ、私利私欲、など、人間生活にまつわる価値観とは無縁です

実際のところ「仏は慈悲深い」、とは、ものの例えで、我のない心のことをそんなふうに例えるんじゃないでしょうか

ですから、には因果律があるのですが、このの因果応報には勧善懲悪的作用はありません
なにせ、我がない心の作用ですから

我々は、を本来知っているのだが、それを妄想(煩悩や我執)が邪魔しています

だから、障害となる煩悩や我執を減らしていけば、が自ずと現れると考えます

具体的には、相手の立場で考える、我が儘は言わない、気配りを忘れない、分配は公平に、などでしょうか

まあ、私利私欲は、ほどほどにしましょう


繋がっていることが本当に腑に落ちるまでは、「慈悲のようなもの」、又は「我執による錯覚」、と我々は付き合わざるを得ませんが、それは真実に至るプロセスです

人間に、自由意志があるから、妄想も作るし、真実に至るプロセスを歩むこともある、と

ほとんど無限ともいえるプロセスが生じるのですが、それがこの世界の豊饒さではないでしょうか

ポツンと悟った人が突っ立ているような世界ではなく
我々は、豊饒な、まだだれも見たことの無い世界を生きていくのだと思います


 

仏教が考えている、信仰

 

過去は終わってしまい、未来はまだ来ていない

「今」は、時を刻む秒針のように、時間を超えて存在し続けている

 

未来は、まだないんだから、未来に「今」が縛られることはない

過去に「今」が縛り付けられることは、あるだろう

でも、過去は、終わってしまったんだから、無視することもできる

過去を無視し、未来になんのイメージも持たずにいたら、「今」は、まったくの自由なのだけれど・・・

ぼんやりしていたら、結局、過去に縛られてしまうことになるだろう

無垢な白布が小さな汚点で汚されるように

 

つまり

過去を忘れ、「今」、未来を強くイメージできれば、どのような未来でも作ることができるということです

ここで、新たな苦痛や不幸を作ってしまってはいけない
苦痛や不幸の原因にならないようなイメージを持たなければなりません

 

強く、よりよい未来をイメージする

これが、仏教が考えている、信仰です

 

人は過去世の業を背負い生まれてくる

過去の全ての結果が、「今」に凝縮している

過去の全ての責任を、今とらされている

今ある絶望と苦悩は、過去の集大成だ

「今」は過去の結末なのだ 

 

だけど

 

「今」は未来の始まりだ

「今」心を変えれば、「今」から未来は変わり始める

 

過去は終わってしまい、未来はまだ来ていない

あるのは「今」だけだ

変えることができるのは「今」だけだ

生きることができるのは「今」だけなんだ

 

今、絶望・恨み・怒り・愚痴・無力感にひたるのか
今、感謝・希望・夢・目標を持つのか

今を大切にしよう

今を真剣に生きよう

今だけでいい

出来る限りのことをしよう

 







「唯識と空」いう視点

 

「科学になりきれない何か」があって、説明を求めてる
それで、とりあえずの理解をしてみるのは当然のことなんだけど

 

 
とりあえず「波動」だけど

何度も言うけど、スピリチュアルな人達が安易に「波動」というのは賛成しません

なんにもなくても、胡散臭く見られてるのに、なにがどう「波」で、それがどう「動く」のか、わかってもいないのに、「波動」だと断言するのは、まあ、良く言って、幼稚です

波動が高い
波動が低い

波動が良い
波動が悪い

波動が強い
波動が弱い

波動がある
波動がない

これなど、ほんとうに、主観的なものなんですよ

僕は、その主観も無い、などとは言いません

霊感のある人(僕に言わせれば、感覚が比較的するどい人)は、たとえば「波動」で表現するような感覚を持つことがあります
その程度の感覚なら、僕にもあります

ただ、それを他人にあてはめる客観的な事実と混同してはいけません
感覚は感覚なんであって、個人的なものなんです

似たような感覚を持つことはあると思います
友人とか地域、あるいは国で

だからと言って、自分の感覚を誰にでも通用する事実として強要はできないでしょう

 
アイスクリームが好きな人は多いかもしれませんが、嫌いな人もいるんです
たとえば、それを、アイスクリームに良い波動があるので、嫌いな人は悪い波動になって不幸になる、などとは言えないんです

 
「おすすめのパワースポット」

などというのは、その最たるもので
これがいかにいい加減かは

その、パワースポットの推薦者に、良いパワーを感じる音楽を選んで貰えばわかります

それを自分で聞いてみると、なんじゃこれ、てのが多いんですよ

そりゃ、趣味の一致する時もありますよ
でも、それは、それだけの話で、パワーの有る無しについては、慎重にならざるを得ないでしょう

これは、審神(さにわ)にも言えることで、ある特定の文化圏には当てはまっても、異なる文化圏にはあてはまらないと考えるべきでしょう

 
 

仏教には説一切有部というのがあって、たとえば「悪」なら「悪」という実体が有る、と考えるんです
有部律の授戒の時は、「戒律」という実体があって、実際に授戒の時、この「戒律」の実体である、ある物を授かります
戒体と言って、箱に入ってます
有部の授戒をされた方は知っています

(善を詰め込んだ注射をすると、善人になる、ということになります
冗談ではなくて、教祖様の清らかなDNAを頂戴すると、福を授かる、なんてカルトはいくらでもあります
DNAは、まあ、精液とか爪の垢とかです)

 
実は、密教は有部の考え方を基本に組み立てられていて、仏なり菩薩なり天部なりが実体として存在し、考えたり働いたりする、と考えてます

それは、そう考えるしか説明のしようがない現象があるからですが、「有」も識の一部であると解釈すると、実はもっとスッキリした考え方になります


 
で、「波動」なり「パワー」なりが実体であるという考え方は、まあ、有部なら言いかねないけど、主観的な感触だというのが、精一杯の理解ではないですかね

それを、どうしても「波動」や「パワー」に固執するならば、不純な動機が別にあると思わざるをえない
 
 
ええと、それはそれとして

「有」も識の一部であると解釈すると、実はもっとスッキリした考え方になる

ということなんですが

つまり、「唯識と空」です

これは、誰が何と言おうと、仏教の中では、それなりに辻褄があってます

 
 
長くなりました
続く

ファイル 70-1.jpg
絹本著色 (龍猛) 室町後期(16世紀) 長保寺蔵

ナーガールジュナ(龍猛)
2世紀中葉〜3世紀中葉。南インド゙のバラモン出身。大乗経典の注釈書を多く著し、八宗の祖と仰がれている。南インド゙の鉄塔を開き、金剛サッタより密教の秘奥を直受した。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9wiki


 


Eセラメダル御飯用

お米の内部まで熱を浸透させ、ふっくらとした美味しいご飯に仕上がります。【使用期限】半永久的。
ファイル 71-1.jpg

これが、どうにも不思議な代物
炊飯器に入れて焚くと、ご飯粒一つ一つが際だって、ふっくら美味しくなります
べとべと感がなくなってモチモチした感じになります
入れた時と入れない時と歴然と違う
備長炭を入れたときとも違うんだなぁ

どうしてそうなるか理屈は一応あるけど、やはり不思議です
でも、口は正直ですから、美味しい物は美味しい

その理屈というのが「波動理論」で
EM菌の良い波動を焼成したセラミックに移した、という代物です

まあ、理解に苦しむわけですが、うちでは家族そろって、「わけわからん」と思いながら使ってます

気のせいじゃありませんよ
否定される前に、一度おためしください

家族そろって「美味しくなーれ」と電気釜に言い聞かせると、もっといいのかもなぁ・・・・ 

これなど、似非でもなんでもいいわけですが、再現性のある結果がでるんだからしょうがない

ただし、味覚というのが主観で、「おいしさ」をどう感じるかの指標はありませんから、これも、しょうがないですね

アミノ酸とか、粘度、とか測定方法を工夫しても、どう感じてるか、までは指標化できません
まあ、アンケート調査くらいかなぁ、指標は
 
 
で、何が言いたいかというと
「客観的事実」と「主観的経験」の境界線は、けっこう難しい、あるいは、意識して引かないとわからなくなる、ということです

これは、実は控えめな表現で、僕に言わせれば、客観的という理解そのものが主観的な区分です
客観性の実体は、わけのわからないことだったりします
 

案外、事(善悪、愛憎など)や物(水や石など)には、固有の「波動」があって、「波動」には応用の利く再現性のある活用法があるのかもしれません

「波動」の実体は、物理学的な「波」や「動き」とは違うかもしれませんが、極めて似たような「なにか」(Rゆらぎ、とかPsiエネルギーとかいろいろ言葉がつくられてますが)であって、人間が願望成就に利用できる、と

本山博とか関英男などという名前を知っている方は少ないと思いますが、極めて真面目に、わけわからなく、研究は進んでいるようです

宗教は、願望成就などの私利私欲よりも、もっと高度なものを追求するのが建前ですが、接点はあります
 
 

ああ、そんな事どうでもいいという人は、心が健康だからです

迷路にはまり込んでいる人は、ここから先をお読みください
 

事物と心の関係を統合して考える「場」が求められるのですが、その一つの答えが唯脳論です
で、唯脳的に考えれば、それは科学の範囲に収まるはずです

たとえば、
「愛」もドパーミンの分泌量で量れるとか、
「爽やかさ」は脳波に現れるとか
ヘミシンクで瞑想状態をコントロールするとか
精神活動をバイオフィードバックで指標化するとか
眼球運動や筋肉反射に、心の活動が反映されるとか
死を合理化するために、死後の世界の幻覚を見るとか
心霊体験は、自己暗示と妄想による、幻覚症状だ、とか

 
 
これですね、仏教の唯識論は、そういった科学の範囲の方法論は否定しないんですが、全く違うんです
 
 
唯脳論では、生身の脳が死ねば、認識作用は終わります
当然です、火葬場で灰になったら、もう脳はありませんからね

唯識論は、死んでも続きます
というか、死は、識の一部分でしかありません
水や石も識の一部で、愛憎も生死も識の一部です

唯脳論は科学で、唯識論は哲学だ、という分け方もできます
そうすると、唯脳論は、唯識論の一部ということになります


 
 

 

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仏教を、本を読んで理解した、という人を、全く信用しません
そんなことが可能だと思ってる人は、わかってないです

今でこそ、仏教という言葉が普通に使われ、それで意味が通じるようになってますが
本来は、
仏道、です

柔道、剣道、華道、茶道、仏道です

柔教、剣教などとは言わないように、仏教という言葉は、おそらく明治期にドイツ式の教養主義から出来た造語です
あるいは、キリスト教と対比して使われるのでしょう

神の教えを、迷える子羊に「教える」というニュアンスでしょうかね
仏道は、自覚するんですから、上から下に教える、という風にはなりません


で、仏道ですから、実践が主で、理論はオマケです
普通の住職さんなら、理屈などにほとんど興味はないと思いますよ
日々、実践ですからね

それで、ヨーロッパ風の主知的な仏教理解は、信用しませんね
ま、日本やタイできちんと基礎から修行した人もいますから、そういう人は別ですけど
 

大雑把に言えば
仏道は
修行や実践を通じて、全人格的に把握するものだと思います

仏教学者は、修行を重視しない人がほとんどですが、だから彼らの本をいくら読んでも悟りが開けないんじゃないですかね

修行無用論というのもありますが
自分を越えた向こう側に行くんですから、ボケッとしてたらダメだと思いますよ

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般若心経の模式図
般若心経 解説

 

 


円頓章 解説

 

 


本覚讃 解説

 


一心三観 解説

 

声字実相義 弘法大師の原典の書き下しです

 

Quantum Sense 今風に言うとどうなるか、参考にしてみてください

 

あなたは仏教を知っているか? 「空と唯識」が仏教の基本です それを図式化しました

 

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