2006-01-10

もっと深い慈悲

「見る者・理」と「見られる物・智」の分離が、どうして瞑想によって統合するのか?

それを仏教では、伝統的に、「止観」(しかん)として説明してきました

タイやミャンマーの南方仏教からチベット仏教、日本密教まで、幅広くこれで説明がつくことになっています

止を遮情門、観を表徳門ともいい、
止は制感で、「執着を棄て思考停止し感覚遮断する」ことです
観はつまり、イマジネーションです

止だけ修業する、観だけ修業することもありますが、天台宗では、圓頓止観と言って、同時にすることになっています

「止」の「執着を棄て思考停止し感覚遮断する」ことは、忘我の状態になることでもありますが、もっと端的に言えば、「死」ですね
で、そこで終わるように考えるから仏教がわからなくなります

この、まったくの無を、「観」、死ぬんじゃなくて見てるわけです
で、何が見えるのかと言うと
「一身一念、法界に遍ず」と言って、三界そのものと同化します
はたから見れば神通とか超能力とかいうものも、あたりまえのことになります

どうして、そうなるか


「見る者・理」と「見られる物・智」が分離しない為には、いろいろな方策が考えられますが、仏教では、「見る者・理」の消去、「見られる物・智」の消去をすることを考えました

合体ではなくて、違いの消去です

「見る者・理」の消去は思考停止です
「見られる物・智」の消去は感覚遮断です

そうすると、違いそのものが消えて無いから、統合状態になります

それが、「止」で、「執着を棄て思考停止し感覚遮断した状態」を死なないで体験するのが「観」です

この「止観」がつまり、仏教の瞑想です

早い話、忘我の状態です

真言念誦、念仏、題目、公案など、全部この忘我の状態を作るためのものと言ってもいいです

曹洞宗の坐禅は、無、そのものを坐禅で体得しようとします
一番ストレートです
西欧的な「自我と世界の対立」を解決するのは、「見る者・理」と「見られる物・智」を一気に消去しようとする曹洞的な考えかたかもしれませんね

実は、「執着を棄て思考停止し感覚遮断する」とき、何をしているかが非常に大事です
つまり「観」ですね、なにをしてもいい、ということにはなりません
それで、真言念誦、念仏、題目、公案、坐禅、など、いろいろ考えられてきたのが、仏教の歴史です

どうすれば思考停止し、どうすれば感覚遮断されるかという問題もあるので、いろんな研究がありますが、仏を念じることで忘我の状態になることで、「執着を棄て思考停止し感覚遮断する」問題を解決したことになってます

ここで、おかしな「観」を刷り込むのが洗脳です
おかしな「観」で憑依現象を作り出すこともできます

じゃ、仏教は洗脳の一種か、と、なるのですが
やっぱり、きちんとした伝統のなかで、筋道がちゃんと通った伝授の歴史が無いと、危険ですね
本読んでわかりました、なんてのは、ダメですね
瞑想する人は、ちゃんとした神社やお寺にお参りしましょうね

学びを終えた輝きの、導きが必要です

難行・苦行は感覚遮断ではなくて、感覚破壊です

僕は、気持ちのいい大自然の中の、五月の風のさわやかな、ぬるい露天風呂なんかいいな、と思いますね
考え方としては

お釈迦様は、川のせせらぎの横の木陰ですね
悟りを開いたのは

この、思わず、うっとり、うつらうつら居眠りしそうな心地よい状態がベストでしょうね、理屈では

腹八分目で、満腹でも空いてもいない状態

足を組んですわるのは、気合いを入れるためではないかと思いますね
痛いだけですから、僕は嫌いですけど、やっぱり気合いは入ります

テレビゲームやったり、ニュース見たりは論外
本読んだりもだめ
ということになりますね
徹底すれば

真っ暗な独房も思いつきますが、あれは幻覚を見るらしいですね
やっぱり、自発的なものでないと、だめでしょう

「自帰依仏 自帰依法 自帰依僧」と言うときの、「自」は、ですから、自発的にという意味です
強制的なことはうまくいきません、大事なとこです


真言念誦、念仏、題目、公案、坐禅、といろいろな仏の念じ方が発案されましたが、ここらで僕も一つ提案します

ほほえんで、吸う息にあわせて慈悲を感じ、吐く息のとき感謝する、ってのを是非
それで、いつも、もっと深い慈悲を念じてください

これではなかなか忘我の状態にならない、と、物足りなく思う方は、ぬるめのお風呂とか、あったい布団のなかとかでどうぞ

リラックスして、目をつぶって、ほほえんで
居眠りしそうなのをこらえて、もっと深い慈悲を感じながら息を吸って、感謝しながらゆったり吐きます

そんなんでいいのか、って、いいんです

神道系や、生まれつきの霊能者の方は瞑想はしないかもしれませんが、いいもんですよ

お試しあれ

♪原理は「執着を棄て思考停止し感覚遮断」しながら「慈愛と感謝を念じる」、です♪

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