2006-01-16

ロジック

釈尊降誕レリーフ ルンビニー マヤ堂
1965年仏滅2500年大祭を記念してネパールの仏教徒によって作られました


本来のものは四世紀グプタ朝のものでしたが、イスラム教徒によりおそらく13世紀ごろに表面が剥ぎ取らたので、新たに作ったものです

大陸では、いろいろな宗教と民俗が、たがいの文化や伝統も破壊する歴史がありますから、日本人のように、自分の宗教を意識しないですむということは、全く考えられません


マヤ婦人が釈尊を右脇腹から出産したというのが仏伝ですが、これは実はヒンドゥー教の宗教観によって脚色されたものです

ヒンドゥー教による、人々の宗教的義務や日常生活の規範が述べられている、マヌの法典(AD200頃成立)にカースト制度がはっきり規定され、今日でも極めて強い影響をインド文化全般に及ぼしています

古事記が八世紀頃のものですから、マヌの法典はたいへんに古いものです

そこに、バラモン(僧侶階級)は神様の頭から生まれ、クシャトリア(武士階級)は脇の下、バイシャ(商人階級)は腹、シュードラは足から生まれたと、きちんと書かれてしまっています

もし、こんなことが古事記や日本書紀に書かれていたら、日本文化がどうなったか、想像してみてください


で、お釈迦様は王族で武士階級ですから、脇の下から生まれたことになったわけです


現在のインド社会の激烈な差別は、日本に住んでいたら全く想像できません

闇が、存在するのです

実際に聞いても信じられないような話がいくらでもあります

自分探しでノンキにインド旅行をされた方や、インドの神様や聖者を信奉される方もおありかと思いますが、ヒンドゥー教が基づいている法典に根拠を持つ、差別の凄さを知ってらっしゃいますか?

そんな差別は、ヒンドゥー教やインドの聖者達とは関係無い、などと言ってられませんよ
日本で言えば、マヌの法典は古事記・日本書紀みたいなもんで、しかも、法典で生活規範ですからね

インドの神様は、ミッキーマウスみたいなカワイイ存在じゃありませんよ




僕の友人が、今、インドのナグプールで大乗仏教を再興
しようと努力しています
彼が日本に来ている時、何回か会ったことがあります

直に聞く、差別は、なんか、こういうBlogには書けないような凄惨なものですよ

ちょいと、さわりを

婦人の識字率を高める国際プロジェクトがあったが、それに参加した女性が、眼をくり抜かれて殺された(眼で字を習ったからですかね)

インドの乞食は先祖代々、長い間、乞食を続けているので、子供のような体格をしてる(食い物が悪いんでしょう)
よく手首や足首を切断した赤ん坊を見かける(その方が同情を引いて、施し物が多いという理屈らしい)
乞食の少女が赤ん坊を抱いているのもよく見るが、子守じゃなくて、13?14才になれば出産する(父親が誰だかわからないのがあたりまえ)

道を隔てたカーストが違う青年と少女が恋愛をしたが、屋根からロープで首を吊られて殺された(御両家とも、怒った親御さんがやりました)

ナグプールですら、同じ学校に通えるようになっても、自転車には乗ることは禁じられ、いつも押して歩かなければならない(村人が決めるそうです)


それで、インドでは、仏教こそ、根本から差別を終わらせ、インドを再生すると信じて、ニューブディストと呼ばれる人達が誕生しています

こちらのBlogでアンベートカルや不可触民について書かれた本が紹介されています

僕はインドで、ガンジー廟や記念館にも行ったことがありますが、ガンジーでさえもヒンドゥー教の差別感情から完全に抜け出してはいないのです

インドの友人は最近、インドでの孤児院とか教育普及の実績を認められて正力松太郎賞を受賞しましたが、その時聞いた話ですけど、日本のバックアップがなかったら、彼はとっくに殺されていただろうということでした

まあ、イスラムとか、ヒンドゥー教系地元名士、南方仏教諸大徳などの妬み恨みを買ってますから

向こうでは、イスラムはヒンドゥー教寺院でもぶっ壊したりするんですから論外ですが、南方仏教は孤児院とか教育振興とか関係ありませんから

ナグプールという町ですが、アンベートカルによって集団改宗した、インドで最も仏教徒の多い地域なので、まあ、南方仏教の人達がお寺建てて拝んでればいちおうお布施はもらえますけど、あの方たちは人助けはしないです

ヒンドゥー教系の人達はナグプールの中では手出しできませんが、そこは、大陸ですので、日本みたいに無防備でボンヤリしてればどうなるかわかりません


それで、ヒンドゥー教的には、この人生で低いカーストに生まれるのは、前世の行いが悪いせいです
なんか、そうかも、ですけど
だから、死ぬまでずっと低いカーストのままで、来世に良いカーストに生まれるように我慢して努力しながら死ぬのを待たなければなりません

なんで、そうなのって、マヌの法典で決められてるから
ひっくり返せって言っても、人口の九割は上のカーストですから、一番下は一割で、そんな少なくちゃ無理


仏教でも輪廻はありますが、このような苦難にあっても、そこから努力して抜け出すのが、そもそも仏教の目的で、諦めて死ぬまで我慢せい、にはなりません

法華経などに「人非人」と書かれていたりしますが、「人」が市民で「非人」が被征服民など市民権のない人をさしていたようです
神が最初から、別々に作ったなどという神話はありません


日本の差別を考える方もあると思います

差別戒名などの問題、江戸時代の士農工商とそれより下の階層化ですね、これは、政治的に作られてたもので、徳川の殿様が悪いということに特に反論はありませんが、よろしければこちらを読んでみてください

吉宗の母



それでですね

アンベートカルはもともと仏教徒じゃありません
理屈で考えて、仏教を選びました

それは
「私は何故仏教を選んだのか。それは、他の宗教には見られない三つの原理が一体となって仏教にはあるからである。即ちその三原理とは、理性(迷信や超自然を否定する知性)、慈悲、平等である。これこそ人々がより良き幸せな人生を送るために必要とするものである。」
と説明してます

理性と慈悲は、僕も何遍も言ってますが、「慈悲と智慧」です
で、平等は、つまり、どこまでも脳味噌は別ですから自由なわけで、お互いが自由ですから、これが平等ですね

インドの僕の友人の掲げているのも「慈悲と智慧」です
だから、教育に力を入れて取り組んでます
日本の大乗仏教だけなんですよ、こんなロジックがあるのは
彼の師僧さんは、回峯行の行者さんで、その薫陶によるものですね


で、この、「理性(迷信や超自然を否定する知性)」ですね
ロジックです
他の宗教にない特徴です

ヒンドゥー教の、アニミズムを基盤にした、霊感や奇跡に満ちた、それでいて残酷な世界観によって虐げられた人々を救うのは仏教のロジックであるという考え方です

イスラムやキリスト教のような一神教は、他宗教との融和が、本当に可能なのか、試されるでしょうね

すくなくとも、アンベートカルは採用しませんでした


チベットに仏教が移入したとき、一口に言えば、ヒンドゥー教の神々にどっぷりと憑依された仏教になっていました
左道仏教とか言いますが、性的な力を利用した成就法とか、超能力開発とか、男女合体仏とかですね、ロジックが失われていました

そのチベット仏教を建て直したのがツォンカパですけど、この方も文殊菩薩と対話が出来たりして、ロジックの無い霊感世界に片足をつっこんでましたが、徹底したロジックで仏教を正気に戻しました

今、ダライラマが流れを汲んでるゲールック派がそうですけど、チベット民族は亡命生活で仲間割れしてる場合じゃないので、お互いの批判はしないようですけど、このあたりは、見極めた方がいいと思いますよ

そう言えば、比叡山中興の祖と言われる、元三大師も、自分は歴史に残る霊能力の持ち主でしたが、論議問答をさかんして、学問を奨励しました
やはりロジックで、貴族階級の加持祈祷に明け暮れ、呪術中心になっていた比叡山を建て直したのです



そうそう、インドの仏教徒は、お釈迦様の降誕レリーフを、そんなわけで、否定してます

漫然と、お釈迦様がマヤ夫人の脇腹から生まれたなんて話をありがたがっているようじゃ、国際人とは言えないんじゃないですか


♪いつか書きたいと思っていた話でした♪

2 件のコメント:

Anonymous 匿名 さんは書きました...

のぶです。日本の仏教以外の宗教も悪いところばかりではないと思うのです。ご指摘の点について、少し書かせて下さい。

南伝仏教について。
「日本テーラワーダ仏教協会」のサイトを読むと、南伝仏教が一見、社会に働きかけていないように見えるのも納得できる気がします。「自分を助けられるのは結局自分だけ」という前提があるのでしょう。釈尊が悟りを開くための方法を示して下さり、それを連綿と伝えているのが僧侶、という印象を持ちました。実践するか否かは、僧侶からの奨めを聞いた各々に任されているのですね。

タイには「プラバートナンプ寺院」というエイズホスピスがあるそうで、自分の修行のみに明け暮れる僧侶だけでもないようです。

ヒンドゥー教について。
私がヒンドゥー教に接近するきっかけになった聖者ラーマクリシュナは、バラモンの出の
お寺の住職さんでしたが、カーストについてこう言っています。

 一つの方法でカーストの差別はなくなる。その方法は?神への信仰だ。神の信者にはカーストの差別はない。真の信仰があれば体も心もみな清浄になる。(奈良康明『ラーマクリシュナ』、308ページ)

彼が死んだあと、出家した弟子からなる団体ができましたが、中にはラトゥという低カーストの人がいました。

アマチにしても、カーストの別なく抱擁します。アマチは低いカーストのようですが、インドの要人を抱擁しているのを写真で見ました。

チベット仏教について。
「大法輪」平成八年四月号、43ページで正木晃氏は、「チベット仏教がインド系に対し、日本仏教は中国系という意味では、日本仏教よりも、チベット仏教の方が仏教の原点に近い」「密教についていえば、日本密教はインドにおいて七世紀までに展開した密教、チベット密教は同じく八世紀以降に展開した密教で、もし、密教全体史という観点を採用するなら、日本密教は途上の密教ということになる」と述べ、

 日本人の大半は、日本仏教こそほんとうの仏教だと信じて疑わないであろうが、チベット人にすれば、自分たちの仏教こそインド伝来のほんとうの仏教なのである。本家争いというものは、たいてい不毛な論争にしかならないので、これ以上の詮索は避けるが、あえてひとこと申し添えるなら、日本仏教は、通常私たちが考えているよりもはるかに中国の思想の影響を受けている。

と、「チベット仏教から見た日本仏教」のありようを書いています。それなりに言い分があるものですね?。

「誰かのためになにかをしたいと思えるのが愛ということを知った」…中島美嘉さんが昨年の紅白で歌った「雪の華」の一節ですが、宗教を離れたところにも真理のメッセージがありますよね。

1/17/2006 03:26:00 午前  
Blogger Terra さんは書きました...

のぶさん

ご教示ありがとうございます

僕は、物知りじゃないんで、話相手としては、かみ合わないかもですね
本はあまり読みませんので


>南伝仏教

ご本などに書かれてるんでしょうね

これね、今、スリランカで幼稚園をやってる坊さんがいるのですが、僕が高野山にいたころの留学生です
スリランカの仏教には、幼稚園を経営するなどの考え方がないので、日本仏教を学びたいということでした

タイなんか、坊さんがバスに乗ると、回りの人が周囲を囲んで、俗人に坊さんの肌がふれないようにします
それだけ、まあ、ちょっと考え方が違います、日本とは

インドでは、タイとかミャンマーの坊さん達は、バスで、国境を越えてやってきます
だから日本仏教よりも身近でしょうね
そりゃ、聖者みたいな人が多いですよ
はるばるインドの仏教徒の為にいらしゃるんですから

インドの仏教は復興していくのでしょうね

それで、日本的な考え方も必要になると思いますよ


>ラーマクリシュナ

インド社会の根深い差別がラーマクリシュナのせいだ、なんて話をしてるわけでは無いんでね

ラーマクリシュナの本のどこかに、「マヌの法典を棄てろ」とか書かれているようなところがありませんでしたか
僕の友人に教えてあげます
喜ぶでしょう

ラーマクリシュナはどんなカーストだったんでしょうね、僕は知りませんが
インドの方達は、こういう聖者を崇拝してるんですでどね
教えを実行することはないってことなんでしょうかね


インドの憲法には、カースト否定が明記してありますが、ご存じでしたか

カーストに無頓着な聖者は、いくらもいますが、どうしても差別がなくならないのですよ

僕は、写真見て気が済む程度の関わり方ではないのでね、インドについては

どうしたらいいんでしょうかね


>チベット仏教について。

これは、ご指摘があったので、申しあげますが

ほかの宗教的な問題なのですが、僕は亡命政府の方と議論したことがあります
そしたら、最後に、亡命政府外務省にファックスで問い合わせろって言われましたよ
まあ、宗政一致ですから
僕的には、かなり、シラケました


ああ、それで、どこかでお読みになった件ですが、

仏教の枝が分かれて、あちこち伸びてるわけです

その、ひとつの先端がチベットです
現在のチベット仏教は、過去のチベット仏教とは違うし、これからも発展します

日本仏教も、ひとつの先端です
いろいろ研究が進んでますから、チベット仏教の成果も取り入れて発展すると思いますよ

それぞれ、仏教がもとめる深層に到達しようと発展し、現在に生きてるわけですよ

それでも、あえて申しあげますが、誇り高いチベット人が自分たちの国を失ったのは、あまりに観念的すぎたからではないですかね

カーラチャクラタントラの灌頂は、まあ、密教の功徳を伝える儀式みたいなもんですが、今でも毎年盛大にサールナートだと思うけど、おこなわれてます
何万人という、チベット人が、あれは、中国からでも国境を越えてくることができたと思うけど、集まります
僕も一度出くわしましたけど

それがですね、カーラチャクラタントラの灌頂をうけると外敵を撃退できる、と中に書かれてます
いや、信仰ですけど、この灌頂をみんながうけたら、国を取り戻すことができるのかもしれません

ゲリラの武装闘争をしろ、ってのがイスラムですから、趣は違いますね

いずれにせよ、大陸は、国境が接してますから、日本人なんかが考えてもわからんことが多いかもしれませんが
いろいろ教訓はあるんじゃないですか


>「チベット仏教から見た日本仏教」のありようを書いています。それなりに言い分があるものですね?。

これもね、チベットにも、いろんな派があるのですよ
注意深く観察してみたら、いろいろ感じることがあると思いますよ



>「誰かのためになにかをしたいと思えるのが愛ということを知った」…中島美嘉さんが昨年の紅白で歌った「雪の華」の一節ですが、宗教を離れたところにも真理のメッセージがありますよね。

だから、ほら、
>>仏教のセオリーの忘己利他ですね、「執着を棄て思考停止し感覚遮断」して「誰かのために一生懸命、なにかをする」ことを心がけ

>>「命は人のためにある」水谷修

ですよね

別段、仏教の専売特許でもないんですけど
日本の大乗仏教の伝統が、醸し出した文化的成果だ、なんて、言う人がたら、笑われるかもですけど

まあ、仏教には、そこにいたるロジックがあると考えてます
日本の大乗仏教は、全部まるごといいとも言いませんが、これからも生き続ける真理が含まれていると思いますね
そんなところで、いかがでしょうか

1/17/2006 12:42:00 午後  

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