2006-01-08

苦悩の消滅

真言宗では「理智不二」と言いますが、天台宗は「理と智と妙成就」で、不二を妙成就と言うことになってます

能観と所観ともいい、「見る者・理」と「見られる物・智」、これが一体になる境地
それが「悟り」であり「無為」であり「慈悲のあるところ」です

分離した「見る者・理」と「見られる物・智」を統合するのは、瞑想です

で、不二、妙成就には、自分と自分以外という分離はありません

自分と対立する自分以外がないのですから、全て自分です

まあ、反対意見を言う者もいなければ、意地悪するのもいない、敵もない、全部自分という心境

いろんな事を感じるが、自他の別がありませんから違和感を感じさせるものがないので、苦悩は感じない

つまり、「見る者・理」と「見られる物・智」が分離しているのが苦悩の根本原因です

分離している自他を統合すれば、すべて自分ですから、全智全能です
理論的には肉体を棄てれば、それが如来で、涅槃です



ただ、「見られる物・智」に執着していると、妙成就を得ることはできません
「見る者・理」に執着していても妙成就はありません

つまり、分離したままの状態になります
分離状態に執着し愛し所有し支配しようとしていたら、いつまでも、統合へは進みません

ですから、瞑想によって、「見る者・理」と「見られる物・智」の統合をして、一切の苦悩から解放されるには、必ず執着をすてなければなりません

富、名誉、力など、輪廻のなかで、いいポジションを占めようという願望は、自他の分離を固定化するため、根本的な苦悩からの解放がありません



輪廻転生を、無常と言い、苦しみと言うのは、どこまでいっても自他の分離により苦悩からの解放がないからです


生まれ変わって、死に別れた愛する人に会う、とか、輪廻を続けることでだんだん賢くなることを期待する、などという思想は仏教には本来無いです、お間違えのないように


苦悩からの解放、最高の智慧の獲得、そのためには自他の分離を統合するというのが、仏教の答えです


執着を棄て、慈悲をこころがけ、感謝し、智慧を深める


これが、仏教の奥義でしょうね
神様や観音様のような存在になっても、これ以上の奥義はありません


これは、ですから、「誰かのために一生懸命、なにかをする」という生き方のなかに仏教の奥義がある、ということなんです

霊感も神秘体験も、あればあったで、ないならないで、人も、神も、仏も、「誰かのために一生懸命、なにかをする」


理屈は長々とありますが(汗)
シンプルでしょ

♪目をつぶり、かすかにほほえんで、呼吸に集中する 「無念無想」でも「愛と感謝」でもいいです 瞑想もしてみてね よいことですよ 1分からどうそ♪

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