2006-01-22

動く

「感じて、考えて、動くものはみんなロボットだ」古田貴之


人間もロボットだってことになりそうですが、なかなか示唆に富んだ言葉だと思います

感じて、考える、のは、感性と理性、フィーリングとロジック、ってことになります

感じる
センサーは、人間の場合、目耳鼻舌身+心、です
考えるのは、脳、なんでしょう
動くのは、仏教では伝統的に、身口意、体と言葉と心の三つを考えてます

感じるのは、受け身で、無い物は感じることはありません
与えられた世界です

考える時、自由な想像、妄想、選択もできます
ここに、自分の意志が働く余地があります

それで、動かない、となると、機械であれば、壊れてることになります


精神世界にどっぷりと浸かっている方は、この、感じる考える、はあっても、動く、が無い方が多いようにお見受けします


仏教の伝統も、感じる、考える、の制御については高度な蓄積がありますが、動くことについては、やはり、伝教大師の「忘己利他」までは、はっきり認識されてこなかったんじゃないかと思います

アジアで広くおこなわれている専門家仏教は、まじめにやっていれば、人助けをしているヒマはありません
お寺に籠もって、修行に明け暮れなければなりません

だから、坊さんになれ、ということを言ってきたのが今までの歴史です

密教の作法ひとつとっても、一番簡単な拝みかたをするにも、机に密教法具の六器と香呂、金剛板、五鈷鈴、五鈷杵などをならべなければならず、まず、一般の人には無理です
平安時代であれば、貴族にしか触れる機会はありませんでした
現代のような豊かな時代でも、お寺でなければ、設備がありません

南方仏教であれば、250以上ある戒律をまともに保つには、寺院で生活するしかありません

チベットでは、宗政一致、一家に一人出家、で、密教もどんどん観念的になって、お釈迦様は木陰で一人で坐って悟りを開いたのに、男女合一尊を拝んで無上ユガをしなければならないところまで行きました

専門家仏教の弊害は、感じて考える、だけがどんどん空回りして拡大し、妄想とさえ呼べるほどに、複雑煩瑣になってしまうことです

専門家仏教は、感じて、考えて、動く、一連のプロセスがシンプルに実現する方法を見つければ、もっとよくなると思いますよ


精神世界全般に言えることですけど、霊感だけが評価基準ではなくて、考え方、それと、活動も、一連のものとして評価する必要があるんじゃないですか

「慈悲の感触」「ロジック」「誰かのために精一杯なにかをする」でしょうか


ほとんどのロジックは、脳味噌が別々なのだからイメージは必ず各人各様別々になる、ってあたりで脱線してしまいます

唯一の神、宇宙の摂理、神の作った法則、などがあると主張しても、脳味噌に一度入ってしまえば、別々のイメージになってしまいます

イメージにしがみつくのをやめ、難しく言えば、自我への執着を棄て、イメージになる前の世界を心で感じる必要がある、というロジックだけですね、ちゃんと成立するのは

そんなの仏教だけかなー

♪これを、トラスピフラリーと名付けます トランスパーソナル スピリチュアル
フィーリング・ロジック・アクションの頭文字で、フラ 理論のセオリーでリー それで トラスピフラリー  内容はいいと思うけど、ちょっとアヤシイなー♪

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