2006-01-06

感謝

神仏の導き、ってことなんですけど

お釈迦様は、別段、こちらから頼まなくても、導いてくれてます


毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身

いつも、自ら(お釈迦様がです)この念をなす どのようにして、全ての人を 無上の道に入れ 速やかに仏身を成就せしめんと


これを、破地獄偈と言い、天台宗や法華宗では、最高の経文ということになってます

こっちから頼まなくても、一方的に心配してくれているわけで、地獄にいて、お釈迦様のことを知らなくても心配してくれているのですから、地獄も破壊することになる偈文ってことです


種子法華曼荼羅図  部分  
絹本著色 縦116.9 横100.7 室町前期(15世紀) 長保寺蔵


法華経のですね、多宝如来とお釈迦様がならんで、なんの話をしてたかと言うと、この経文の部分を話してるのです
仏教の肝心要の最重要のところです

法華経の自我偈という所の最後に書いてあって、これは、天台宗ではどこのお寺でも毎日勤行で読誦してます


これが、観音さんになると

念彼観音力 かの観音の力を念じると

で、念じなければなりません

阿弥陀さんも、念仏です
念じるのが条件です

なんか、条件があるわけです
当然のことですが


で、お釈迦さんを信じる、仏教徒はですね、理屈を言えば、導いてくださいって頼む必要はありません

ただ、感謝するだけです


だから、仏教徒バージョンで言うと

慈悲をこころがけ
お釈迦さまに感謝し
智慧を深める

これだけになります

お寺参りは必要ない、お賽銭も、お布施も必要ないってことですね
ただ、ひたすら、お釈迦さまに感謝です

僕の本業の営業から言うと残念なことですが、しゃーないです


ですが

観音さんや、阿弥陀さんを念じることを強くお薦めします
悪いことは言いません、念じてください

伊勢や出雲、八幡さんなどの神様の加護も祈ってください、これも、強くお薦めします

まあ、純粋な感謝の生活と言っても、これは、かなりの高度な心境で、普通の者は、すぐグジャグジャのメチャメチャになりますから、古くからの神仏の導きを願ってください

お賽銭や、お布施も、お力に応じてお上げいただいて、功徳をお積みください(汗)
(中国行ったら賽銭箱に功徳箱って書いてありました)


キリストさんやアッラーの神などの、一神教の神は契約が前提になりますので、ちょっと違うかなー、と思いますね
契約したから救うってことですからね

インドの神様はゲテモノと言っておきます
お薦めしません
カレーみたいな混沌は、実際は非常に悲惨な生活を作り出します
いずれ、Blogで書くかもです

チベット仏教は、危険なものが混じっていますので、一般の方にはお薦めしません
なにも好きこのんで、わざわざ信仰する必要はありません

信仰不要のヒーリングやチャクラをいじる方、伝統的神仏を信仰しながらお進みになることを、強く推薦します

占いは、はまったらいけませんね
慈悲と感謝と智慧、これを心がけてるほうがよっぽど幸運を招きますよ
というか、幸せな気分でいられるので、占いは特に必要なくなります


いろいろ、めんどくさいというお方

Meditation of JIHIで書きましたが

呼吸です

お参りとか行くでしょ、そこで

ほほえみながら、愛をスーっと吸って、ありがとうーーって吐くんです

愛ーーー、ありがとーー で、ちょっとほほえみながらね、静かに息をしてみてください

これですね、神前や、お寺の本尊さんの前、仏壇や、ご先祖のお墓、どこでもね、守ってくださっている方のいそうなところでやるわけです

かっこや場所や時間は、お好きなように

単純に、気持ちいいです
理屈は、長々とありますが、やることはシンプルです

朝日や夕日もいい、海や山や草原もいい、音楽聞きながら、いつでも、どこでも、歩きながら、飯食いながら、ベッドにすわって、お風呂で、寝るとき、などなど

感受性の強い人なら、それぞれの、いろんな感触の違いがわかります
面白いよ

それでね、一番いい気持ちのところはどこか、わかります

自分で探してみてね


♪なんで、仏教が2500年も続いたかわかりますよ♪

4 件のコメント:

Anonymous 匿名 さんは書きました...

はじめまして。「のぶ」と申します。i神さんのブログから飛んでまいりました。興味深く、また勉強になる記事、楽しみに拝読させて頂いています。少々疑問がありますので、
お考えを伺えましたら嬉しいです。

仏教では「諸行無常」「諸法無我」で、永遠のものは無く、全ては周囲との関係性で成り立っている、と聞きかじりました。感謝の心境を保つためには神仏への信仰が必要であることは理解できますが、そうした超越的な存在は、仏教ではどのように理解されているのでしょうか。解脱した、魂の先達と考えて良いでしょうか? お伊勢さまや八幡さまも同様ですか?

インドの神さまですが、美しさに惹かれて求めたガネーシャ神(仏教では聖天さまですね)に手を合わせています。仏教の聖天さまは畏れ多い方、という印象ですが、インドでは温和な、身近な存在として親しまれているようです。やはり問題アリでしょうか。訪れた人を抱擁して祝福するヒンドゥー教の「聖者」アマチに昨年会い、インドの神さまや儀礼にぐぐっと接近しました。彼女に抱かれて感じたのは、慈悲、愛でした。あの源は魔的なモノじゃないと思いたいところです。

ホンモノがある、という気は確かにするのですが、どこにあるのやら、まさに混沌としている今日この頃です。

1/06/2006 08:57:00 午後  
Blogger Terra さんは書きました...

のぶさん

ご質問、ありがとうございます

わかりずらい文章でもうしわけありません(汗)
弾みで書いてますんで、細かい辻褄はほとんどあってません
ごめんなさい

仏教は今現在はとても学問的で、極めて精緻な研究が行われています
畏敬すべきことですが、僕に言わせれば、一般人にはなんのことかさっぱりわかりません
人生になんの関係もない学問のための学問です

ちょっと違ったアプローチをしてみたいなと思ってはいます

理屈っぽくなりますが、せっかくなので、考えてることを書かせてもらいます

>感謝の心境を保つためには神仏への信仰が必要

これは、仏教的に言うと、厳密にはちょっとちがいます
神仏という固定観念は幻想で、自分なりのイメージでしかありません
有る特定のなにかに帰依するのは、方便です

帰依するべきものは、慈悲とか愛の感触をつくりだす、なにか、です
ブランドではありません

>超越的な存在は、仏教ではどのように理解されているのでしょうか

つまり、無自性ですから、基本的には実体はない、という答えになります
愛想がないですが、「月を指す指」はあっても、「月」は無い、という考え方です

CDを選ぶとき、ラベルを読みますね、で、CDという物体が音楽ではないです
耳で聞いている時が音楽です
ラベルの能書きも、CDという物体も音楽ではなく、耳で自分の脳内につくられる印象が音楽です
その音楽はスイッチ切ったら消えます
で、感動した、としたら、その感動に導かれて、また次のCDを聞く
最後には、演奏してみたくなる
で、「音楽」はどこにあるのでしょうか?

こんな、説明だと、もっとわかりにくいですね(汗)

>解脱した、魂の先達

解脱という概念は、とても広い意味で使われています
僕は学ぶことを終えた存在と理解してます

>お伊勢さまや八幡さまも同様ですか

学ぶことは終わったが、輪廻のある世界に存在して僕らを守っているということだと思います
日本の大地が、蒸発してなくなってしまったとしたら、神様達はどこかに転生される、という考え方ですね

>ガネーシャ神

僕はインドに何回かいって、ガネーシャのお寺にもお参りしたことがあります
結論だけ言いますけど、ヒンズーは、その全体像はかなり悲惨です
部分的には、善いものもあるとは思いますが、根本に、人間を生まれによって差別する思想があります
たぶん差別の実体をご存じないでしょうから、ヒンズー文化の闇を理解できないのだと思いますよ
ガネーシャは、霊験もありますが代償を求めます
最愛の人を捧げてもいいとお考えなら、大事にされるのもいいと思いますよ

>あの源は魔的なモノじゃないと思いたいところです。

感触は偽れないものです、そのまま大切にするほかないです
ただ、背景にある論理がどうなのか、です
感触と論理のバランスは、輪廻転生をつづけてでも、調整されていきます

バランスをとるのは、のぶさんです

アマチに愛を感じるなら、その愛から学ぶのだろう、ということですね

スラム街にも愛がありますが、その愛でスラム街の存在が肯定されるわけではありません
住んでいる町の地図を覗いて見たらいかがですか
ヒンズー系の聖者はスラムを救うことも出来ないし、スラムから離れられないだろうと思いますよ

仏教は輪廻からの解放を求めますが、ヒンズーは輪廻の中でいいポジションを得ようとします

たとえれば、音楽の感動が大事(仏教)、CDの値段が大事(ヒンズー)でしょうかねー

わかりにくい例えばかりでもうしわけないです

1/07/2006 12:34:00 午前  
Anonymous 匿名 さんは書きました...

 のぶです。真摯なお答え、ありがとうございます。

神仏は実体のないものと考えてよいのですね。実体はないけれど、音楽のように生きとし生けるものと感応して、慈悲とか愛を生み出す何か、という感じでしょうか。意志とかはたらき、にも近いでしょうか(謎)。

個人的には、永遠かつ全能の神様に帰依し信仰をささげ、「救って」ほしいと考えてしまいます。慈悲と智慧、論理と感性、右脳と左脳(?)のバランスを幾生もかけて学び取る遠い道のりのゴールに、神様の恩寵でパパッと着けると良いなあ、と思うのです。

慈悲とか愛とか奉仕とか謙遜とか誠実さとかがポイントで、「一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。」という心でなるべく生きるとグー!というのが基本な気がしますが、神様とか、宗教とか、落とし穴が割と在るものですね。「自灯明、法灯明」といっても、自分は頼りないし、法は分からないし。などと迷いつつ輪廻して学んでゆくのでしょう。

1/07/2006 09:23:00 午後  
Blogger Terra さんは書きました...

のぶさん

>神仏は実体のないものと考えてよいのですね。実体はないけれど、音楽のように生きとし生けるものと感応して、慈悲とか愛を生み出す何か、という感じでしょうか。意志とかはたらき、にも近いでしょうか(謎)。

なんなんでしょうね(汗)
僕的には心だと思いますよ

>神様の恩寵でパパッと着けると良いなあ、と思うのです。

弘法大師は密教こそパパッと効果が出るって言ってます(即身成仏)

歩くとき、右の次は左なんて考えながら歩いている人は、病気です
地に足が着いてないような感じがしてるなら、どこかの神様のせいかもです

>神様とか、宗教とか、落とし穴が割と在るものですね。

基本が身についていれば、危険は回避できます
楽をしようと思っていたら、やられますよ

>「自灯明、法灯明」といっても、自分は頼りないし、法は分からないし。などと迷いつつ輪廻して学んでゆくのでしょう。

思いっきり、誰かの為になにかしたことありますか
確信をもって生きることができるようになりますよ

いつか、賢さが完成するとしますよね
つまり、今の自分は、未完成ってことになります
これでは、ほぼ永遠に、自分は馬鹿のまんまです

灯明って、暗闇を照らす懐中電灯をポケットに持ってる状態です
かがり火を常に掲げて、歩いているわけです

どこかの聖者や神に、自分の灯明を預けようとするから、勘違いがおきるんじゃないですか

生きるための智慧は、子供にも、教養のない人にも、平等にあります

誰でも、いい悪いを自分で見分けて、誰かのために精一杯のことをしていれば、最大のパフォーマンスを発揮できるんじゃないですか
くよくよしてても、しかたないじゃないですか

聖天さんは、ガネーシャがあまりに欲が深いので、欲を鎮めるため十一面観音さんが天女になって抱かれてあげている合体像です
それでも、礼を尽くして拝んでいても、きつい祟りのあることのある神様です
日本にもいろんな神様がいますが、動物単独で拝むのはありません
せいぜい動物は神に使役される眷属です

とまあ、これが、ロジックです
フィーリングはロジックに導かれ、ロジックはフィーリングに証明されるんじゃないですかね

なんの制御もなしに、動物神を拝むと、どこに導かれるか、考えてみるのもいいと思いますよ

1/07/2006 10:42:00 午後  

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