2007-02-22

華厳コスモロジー

僕は、基本的に、自分の感触を信じることが一番大事だと考えているので、さほど関心のない話題だったのですが

お釈迦様を、「神の被造物だから神より格下だ」とか、「涅槃に入ったと言うが、もともと人間だから、人魂であり、それ以上の天界から見れば下界の存在だ」とかいう理屈

「神の被造物だから神より格下だ」という理屈はキリスト教原理主義でよく聞くせりふ

「涅槃に入ったと言うが、もともと人間だから、人魂であり、それ以上の天界から見れば下界の存在だ」という理屈は、ある神道の一派が唱えている



お釈迦様は、人間です

僕は、インドで、遺骨をこの目で見ました

お父さんは、スッドーダナ王、お母さんはマヤ夫人、奥さんはヤショーダラ姫、一人息子はラーフラ
アーナンダは従兄弟


人間が被造物だと言うなら、そのとおりだし、もともと人間だというのは、全く異論がありません



ですけど

被造物--->格下
もともと人間--->天界から見たら下界

という、理由付けが、どうも、証明不可能な、神話と言えば神話だし、信仰的結論といえばそういうことだし、ま、異論を差し挟むこともできると

「格下」「下界」って、これって、自虐コスモロジー

つまり、「人間は、我が神よりアホな存在じゃ」と、言ってる本人も人間なわけで、自虐発言になりますな

でもって、お釈迦様はれっきとした人間ですから、自分の神のほうが上と

まあ、だれでも、自分勝手な理屈やらコスモロジーやら振りかざすわけですから、よくある話ということになるんだけど

優劣つけて、比較して、勝ち負けを決めるという、一見わかりやすい方法論がですね、これ、仏教が否定してる世界観なのよ


一神教的世界観やら、神道原理主義にどっぷり浸かっていると、ここのところが、まったくわからないと思うよ


なにかこう、世界がピラミッド構造になっていて、その下の方のどこかが人間の居場所だという考え方
世界を創造した全知全能の根本存在と、人間は隔絶していて、つまり、人間が神になることは絶対に無いという考え方

べつに、それで気が済むならそれでかまいませんが、宗教コスモロジーの覇権争いを永遠にしなきゃならないよ
我が神が一番だって、闘争が終わらないですよ



で、仏教の唯識観を下に図示します
華厳コスモロジーですね



緑の波が人間

眼耳鼻舌身は感覚器官

意識が大脳の活動

マナ識が、個人という侵しがたい個別性の境界線

アラヤ識は、過去すべての記憶を貯蔵するところ

如来蔵というレベルが、いわゆる繋がっている部分

で、一切合切、まとめて含有して解放されたレベルが涅槃と

青の矢印ですけど、実は、上向きの矢印の外界を認識してるんじゃなくて、下向きの矢印で、自分の心を認識してる
アラヤ識や、マナ識という、個人的経験とか勝手な妄想のフィルターを通じて、ホントの世界を、いわば、色眼鏡をかけて見てる

天使とか菩薩、八百万の神、などは、マナ識のある、つまり自我のある存在で、緑の山の形が違う位の、人間に近しい存在と、仏教では考えてます

涅槃に行ってしまわないかぎり、幽霊でも、霊界でも、神仙界でも、自我は消えません
涅槃に行ってしまうと、私であり同時にあなたであり、生きとし生ける一切になります

生死は、赤線のマナ識より上の部分の明滅ってことでしょうね



大毘盧遮那成佛神變加持經(大日経)

如何が菩提とならば、実の如く自心を知るなり

「悟り」とは、ありのままの自分の心を知ることである

「悟」という字は、わが(吾)こころ(心)と書きますね(^^)



で、下に向かう矢印を、本来悟っているところに「帰る」と考えるか「行く」と考えるかで、仏教のなかでもニュアンスが違う立場があります

「帰る」が天台で
「行く」が真言です

ま、ここらへんは、趣味の問題ですが

僕らの内部に、「光の根源」があるのです
僕らは「光のかけら」だとも言える

汎神論ですね
自分が神であり、周囲の人も皆さん神です



それで、「絶対的な創造主としての神」という概念は、意識の産物であって、だから、どっちが正しいとか決着はつかないと、僕は考えてます

お釈迦様は、無記といって回答無しです、関心がない、どうでもいい問題とみなします

まるごと、こういう世界を神様が作ったんだという考えかたはですね
しりとりのように、そのエライ神様を作ったのはこちらの神様、そして、そのエライエライ神様を作った神様、そのエライエライエライ神様をつくった神様・・・
と、無限につづくことになります

だから、仏教は、まるで相手にしませんが、おやりになりたければ、どうぞ

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2007-02-21

ロシア兵の銃剣

怖い話は、書くつもりはなかったんです

やはり、供養して、成仏してもらうのが仕事なわけで、怖がらせてどうすんだ、ってことなんですけど

でも、ちょっと、世の中、ホントの話に対する免疫もできてきたかもしれないと感じますので、あたりさわりの無い範囲で少しずつ書いていこうと思います




日露戦争(明治37,38年)があったとき、戦利品の分配というのがありました

ロシア帝国と戦争して、ぶんどった戦利品をですね、うちとこのような田舎にも分配されたのです

それが、ある家にあるのですが、モシナガンというライフルだと思います
鉄砲ですね、長い銃剣のついた




それを、文化財の調査だったと思うけど、見せてもらったことがあるのです
持たせてもらいました

いまでも、カチャカチャ動きます
パチンと撃鉄も落ちます

銃剣の長さが40cmくらいあって、長いです



その日の夜に夢を見ました



広い雪原を、ロシア兵だと思われる背嚢を背負った、疲れた感じの兵隊達が、こちらに背を向けて、ザッザッザッザと行軍しています

あたりは薄暗く、吹雪のように雪が横殴りに吹き付けています

見ているこちらからは、手の届くほどの距離で、銃をかついで背中を向けてむこうに向かって歩いています

それが、一人の兵隊がいきなり、こちらを振り向いたのです

「えっ」と思いました

顔の印象はあまり無いのですが、ひげ面であることはわかりました

ドカッ

手にしていた銃の銃剣で、いきなり、僕の胸を突きました

冷たい鉄の棒が、胸を貫いた感触がありました

僕は、驚いている間もなく、そのまま、後に仰向けになって棒のように倒れました


さ、さ、れた・・・



目を開いたら、布団に寝ていました

胸をさわりましたよ

痛みはありませんでした

しかし、鉄の棒が刺し貫いた感触が残っていました


冥福を祈りましたが

たぶん、あのロシア兵達は、吹雪の中、行軍を続けていると思います

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2007-02-19

シャカにダイバ

シャカにダイバ

という諺を知っていますか
仇敵、最大のライバル、といった意味で使われます

シャカとダイバは、永遠の仇敵です

シャカは釈尊

ダイバとは、提婆達多(ダイバダッタ)という人の名前です
釈尊の身の回りの世話をしていた、十大弟子の中で多聞第一の阿難尊者(アーナンダ)の兄で、釈尊からみると従兄弟にあたります
三逆の罪(教団を分裂させること、仏の体を傷つけること、修行僧を殺すこと)を犯した極悪人として仏典にしばしば登場します

最初は釈尊の弟子であったのが、釈尊に異論をとなえて仲間をつのって教団を離脱して、自分の派閥をつくります(教団を分裂させる)
かなりの霊能力があったと言われています

あるとき、釈尊を妬み、山の上から岩を落とし、釈尊の足の指を怪我させます(仏の体を傷つける)

ついに、釈尊に酒に酔った像をけしかけ踏み殺そうとします
周囲の弟子が死傷しますが、酔像は釈尊の力でおとなしくなります(修行僧を殺す)

それで、大地が割れ、ダイバは生きたまま無間地獄に堕ちたとされています


そのダイバを釈尊はとりなしています
法華経提婆達多品に
ダイバは前世では釈尊に法華経を教えてくれた仙人で、大恩人であると説いています
極悪人でも救われる、という例によく取り上げられる話です


ある時、弟子が、何故ダイバは釈尊に怨みをいだくようになったのか
その前世の因縁を聞かせて欲しいと頼みます

その時、釈尊は次のような話を説いたのです


東ローマ帝国末期の国章「双頭の鷲」


カルダとウパカルダ『仏本行集経』

カルダとウパカルダという名の双頭の鳥がいました

ウパカルダは、自分が眠っている間にカルダがおいしい木の実を腹いっぱい食べるため、起きたときには満腹でなにもごちそうが食べれません

お腹は一つだから

いつもこれを不満に思っていたウパカルダは、あるとき毒の実を見つけました
これを自分が食べれば、同じ身体を持つカルダは死んでしまうだろうと考えたウパカルダは、カルダが眠っている間に毒の実を食べました
案の定、カルダは悶絶して死んでしまいます

しかし当然のことながら、身体は一つなのでウパカルダもやはり死んでしまったということです
「仏説阿弥陀経」の中では、共命之鳥として説かれています



ウパカルダとは、ダイバであり
カルダが釈尊であったのです

ウパカルタは自分が労せずに満腹であることに感謝もせず、食べる楽しみのない事にたいする怨みだけつのらせ、身勝手にもガルダを殺し、浅はかに、自分も死んでしまいます
そして、自分が死んでしまったことを逆恨みし続けるのです


ウパカルダは、永遠の輪廻の中で、ある時は、仙人として前世の釈尊に法華経を教えました

しかし、過去世での自分勝手な怨念が忘れられず、今度はダイバとして釈尊を殺そうとします




ま、これ、今風に、ツインソウルの話です

なんか、キーワードが「ツインソウル」で僕のBlogを検索する人が多いようなので書きました

ツインソウルとの出会いが、「永遠の恋人との出会い」だと思ってるのは、虫が良すぎるってことなんです

え、あの
そういうこともあるとは思いますよ

ですけれど、仏教はツインソウルと出会うことがゴールだなんて考えてないってことです

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2007-02-17

信仰・反省・努力

仏舎利(お釈迦様の遺骨)を供養する供養塔は
くだけた言い方をすると、お釈迦様のお墓です
それを、木札なりなんなりに神格化したのが、祈祷札の起源です

で、僕らのお墓も、遺骨のうえに石塔を建てています
ですから、お釈迦様のお墓と僕らの先祖のお墓は、原理的に一緒のものです

それでですね、僕ら、先祖のお墓参りに行ったとき、家内安全、身体健全、商売繁盛など、欲張って祈願しますか?
「見守ってください、導いてください、がんばってるよ、心配しないで」と亡くなった方と対話してるんじゃないですか

ですから、お釈迦様のお墓にお参りしたとしても、同じことです
「見守ってください、導いてください」というのがホントでしょ

だから、祈祷札の起源がよくわかっていれば、御祈祷は自分勝手な願望成就を願うようなものじゃない、ということがわかってくるわけですよ



「御利益は、信者さんが持ってくる」って書きましたが、坊さんが祈祷をしても、信者さんの信仰がなければ霊験はありません
霊験があれば信者さんの信仰のおかげ、霊験が無いと言うのは欲張りすぎで反省するべきことがある、というのが仏教の祈祷の考え方じゃないですかね


種子金剛界曼茶羅図

織成 縦71.3 横39.5 江戸中期(18世紀)
やや光沢のない金糸で、豪華な天蓋を戴く種子両界曼茶羅を織り出した双幅である。箱書には、「蓮糸」とあるが、普通の絹糸を用いている。
明治3年(1870)に、徳川家から寄付されたものである



さて
仏教は、月並みな結論ですが

信仰・反省・努力

この積み重ねと繰り返しです


「霊的な力のコントロール」というのは、仏教的な考え方じゃないってことです


亡くなったご先祖様が僕らを心配してくれているように、神仏が無条件に僕らを心配してくれているってことを、是非、信じてくださいね

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千の風になって

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
・・・・

千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています


新井満さんが、翻訳の経緯を書いているけれど

ここ

もともと英語の詩があったらしいですが、作者不詳ということになっています
アメリカ先住民の作ったものという説もあるようです

これを、秋川雅史さんが歌って、紅白にも出ましたが、実は、この秋川さん、四国の西条市出身です
世界的にご活躍されていますが、西条祭りには必ず帰国されるそうです

西条祭り

西条市内には120以上のだんじりがあるそうです
祭り期間の10月14日から17日までは、市民全員祭りに参加するので、ガソリンスタンドもタバコ屋も喫茶店も全部休みで、市外にいかなければなりません

江戸時代、西条藩主が奨励したのがもともと始まりのようです
勇壮な気風を育てようとしたのだと思います

その名残でしょうか、祭り期間中、いったん「お旅所」にすべてのだんじりが一カ所に集合して夜祭りになりますが、それは、在る神社の前にある祭り用の特別な広場です



翌朝、「御殿前」といって、西条藩主の陣屋跡の西条高校前(今も陣屋の門が遺されている)に集結しクライマックスになります


実は、在る神社とは、西条東照宮で、ご神体は東照権現、徳川家康公です
そして、初代西条藩主は紀州徳川家初代藩主徳川頼宣の次男、松平頼純です

そう、西条藩は紀州徳川家の分家なのです


秋川雅史さんと、僕は、細い糸ですが繋がっているのです、そして、「千の風になって」の歌も
(ま、気持ちの問題ですから)


僕も、いちど祭りに行きましたが、西条市内に宿泊できなくて、となり町で探してもらいました




前回、お札があるのと無いのとでは

訓練、と実戦
ままごと、と本物
思いこみ、と現実

位の違いがある、と書きましたが

これは、お墓にもあてはまるんじゃないかと思います

無ければ無いで、間に合います
でも、無いと寂しいです

先祖がそこで暮らしてるわけじゃありません
でも、あれば落ち着きます

お墓参りに行くと、やっぱり、亡くなった方は喜んでくれます

そして、千の風になって、そばにいてくれます

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2007-02-16

御利益は、信者さんが持ってくる

僕の亡くなった親父は、商売人だったから、毎年新年に、川崎大師で商売繁盛の祈祷をお願いしてお札をもらっていました
それが、ある年だけ、魔がさしたのか、祈祷をしてもらわなかった年がありました
その年に、大きな不渡りを食らったのです
結果、川崎大師には、なにがなんでもお参りするようになりました



これは、このBlogで書いた話だけど

こちら

高野山の奥之院でもらう紙札を、友達がどのようにお奉りしたらいいか電話で聞いてきたので、適当に(^^;)答えておいたら、言ったとおりにした、次の日の朝一の電話で大きな商談がまとまったなんてこともあります
友達は当然、弘法大師の熱烈な信者になりました




学生の時、生駒の信貴山で新年の祈祷のアルバイトをしたことがあります
知ってる方も多いと思いますが、信貴山では虎の日は特別多い参拝者があって、僕は12年に一度の虎年にお手伝いに行かせてもらいました
信貴山の麓は、知る人ぞ知る、日本一拝み屋の多い土地柄です
3000位あるとも言われてます

で、信貴山でいろいろ教わったのですが
御利益は、信者さんが持ってくる
ということ
坊さんも祈祷しますが、基本は、信者さんの信仰だということです
聖徳太子の頃から祈祷し続けた寺の教えです



長保寺 鎮守堂 (1295) 重要文化財



じゃ、信仰さえあれば、それで間に合うのかと言うと

お札がある、とお札が無いでは
訓練、と実戦
ままごと、と本物
思いこみ、と現実

位の違いはあるんじゃないかと思いますよ

お札があって礼拝すると、神仏の力が、漠然としたイメージでしかないものが、リアルな現実になります

無いと、どうしても、自分勝手な妄想のほうに行ってしまいます

お札には、心がフラフラしないで、神仏にちゃんと繋がるように促す力があるんでしょうね

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2007-02-15

祈祷札の話2

仏頂系密教について書くと、かなり複雑で長くなります
実は、このBlogでも、今までかなりいろいろ書いてきました
サイト内検索でお調べいただければありがたいです

鐘声3

要点だけかいつまんで書いときます


仏舎利を神格化する過程で、太陽のイメージに仮託するようになりました
月や星が夜空に輝いても、太陽が出れば、その明るさで光が見えなくなるように、ぬきんでた威光があるのに例えて、神々や菩薩を月や星に例えて、仏の威徳を太陽に例えたのです

真言をボロンの一字で(サンスクリットでは一文字になる)現すので、一字といい、太陽のことを、別名で金輪というので、一字金輪といいます
仏の中でも最尊であることを現すために、頂点を示す、仏頂といい、合わせて、一字金輪仏頂如来(いちじきんりんぶっちょうにょらい)といいます

日本密教では、金輪は、威徳最尊であるから、天皇の意味にもなります

密教で真言を唱える時は、真言の功徳を成就させるため、必ず最後に一字金輪仏頂の真言を唱えることになっています

仏教の祈祷札の起源は、仏舎利を供養する塔に見立てた、一字金輪仏頂の木札です
素朴な木の搭婆に、仏舎利を示すボロン字を書いたものです


お釈迦様が存在した、最終的な物的証拠は仏舎利です
仏舎利の神格化と、最重要化は必然的なものです


そして、長保寺の本尊は、金輪仏頂像法という極めて特殊な奉り方をされた、釈迦如来なのです

天台宗全盛期の平安時代に、天皇勅願寺だからゆるされた奉り方です

ニューデリーのインド博物館にある仏舎利とソープストーンの容器 今はボンベイに分割されているらしい


アショカ大王は、お釈迦様の入滅後立てられた8本の塔のうち7本から仏舎利を取り出して新たに建てた8万4千の塔に分納したと伝えられています

その、第1搭、一番目の搭はどこにあるかというと
ラージギルの霊鷲山(りょうじゅせん)です
法華経と般若心経が説かれた場所です

僕は、霊鷲山にもう3回参拝していますが、ここから、あるものを授かって、本尊の釈迦如来の体内に納入しました

また、赤い数珠を使うようにとの霊示で、ルンビニーで求めた赤い数珠を使っています
使い方も授かりました

それで、一字金輪仏頂の祈祷札を開眼しています

一切如来神力所護(一切の如来の神力によって護る所なり)という仏の誓願によって、霊験が生じます

仏の大慈悲は、遍満しています

お札を礼拝する人の心は、無条件に必ず、仏に通じます



お釈迦様の涅槃の日にしるす

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2007-02-14

祈祷札の話

今、どこのお寺や神社に行っても、祈祷札(きとうふだ)があります
紙札とか、木札に、お寺か神社の名前と、本尊さんの名前、祈願の種類などが書かれています

自分なりの祈願をたのんで、授かることもできます

実に、いろんな種類のお札があります


で、これ、いつ頃から始まったんでしょう

ま、ネアンデルタール人はやってなかったと思う
そこまでさかのぼらなくても、じゃ、日本ではどうだったんでしょうね

呪符木簡が、ま、どうやら古いと、今、ネットで調べました(^^;)
便利ですな


平安か、奈良かそれくらいかな
中国へ行けばもうちょい古いか

で、とりとめのない話になるので、仏教ではどう考えるのかということに話を限定します


もともとお釈迦様が在世のころは、祈祷はありません
禁じていたという研究もあります
黙認していたという説もあります

いずれにせよ、坊さんが、なすべき仕事とはみなされていませんでした

人間の救済を、極めて狭く、深く、厳しく考えていたと思います

歴史的にみれば、お釈迦様が亡くなってしばらくして、仏典結集が何回か行われました
お釈迦様が、「なにを説いたか」が重要で、それに従って修行しようと
ま、まっとうな、発想です

それから、次世代になると、お釈迦様の舎利(しゃり)つまり、遺骨ですね、その上に搭を建てて崇拝するようになりました

平成3年1月4日 サールナート ダーメーク大塔にて ダライラマ法王のカーラチャクラタントラの灌頂を待つチベットの巡礼者


仏舎利信仰ですね

今でも、インドには世界中から巡礼者が訪れます
多いのは、チベット、韓国、台湾、タイ、ミャンマーなど
インド人は、お釈迦様が、ヴィシュヌの9番目だったかの化身だということになっていて、大事に信仰してもらってます

仏滅後、教えを中心にしてたのが、仏舎利信仰になり、それが、1000年位して、密教になります
仏舎利が神格化して、大日如来になってきます

仏舎利の神格化には、プロセスがあって

お釈迦様--->仏滅--->結集経典--->仏舎利--->仏塔--->太陽(金輪[きんりん]とも言う)--->大日如来

と、大雑把に言えばこうなります

仏塔信仰と太陽信仰が合体した経典が、多数残されています

一字金輪仏頂(いちじきんりんぶっちょう)を中心とした仏頂系密教経典です

真言密教しかやってないと、こういう密教のホントの歴史を案外知らないです

真言では、弘法大師が金胎二部しか言わなかったんで、仏頂系は雑密に分類されていますが、それじゃ、僕の言うことはわからんよ


歴史的には、金剛界と胎蔵より、仏塔信仰は古く

お釈迦様--->仏滅--->結集経典--->仏舎利--->仏塔--->仏頂系密教--->金胎二部--->チベットで、無上ヨガタントラ
という変遷です

お釈迦様が亡くなった後を、どのように埋め合わせるか、という工夫の産物でしょうね

チベットでは、インド直伝ですから、創意工夫も限度があって、金胎の合一という方向で変遷しました
ま、金が唯識観で、胎が空観です
分裂したのが、都合悪いんで、融合に向かいます
これが、父母タントラで、男女合一になって、かなりセックス化するんですな
で、僕は、一皮むいたチベット仏教は好きじゃないですね


日本は、真言では金胎は車の両輪という認識で終わってます
弘法大師が偉すぎるんだと思いますよ

天台からは、自由な発想で、仏教のエッセンスを抽出しようとする天才達が輩出します
法然、親鸞、道元、栄西、日蓮など

平安時代には、伝教大師の次世代の慈覚大師、智証大師などにより、仏頂系密教が盛んに実習されました

で、今も、その流れが連綿と繋がっていると

やっと、ここまできた(^^;)

それで、僕の寺は平安時代に天皇家によって、仏頂系密教の中心として企画され建立されたのです

つづく・・・

ああ・・お札までいかなかった(^^;)

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2007-02-11

やっぱり無理ですか

そう言えば、最近だれもあまり言わなくなったけど、アセンション、フォトンベルト、次元上昇、あれどうなちゃったんでしょうね

僕は、特に、ややこしい予言なんかなくても、これから世界は大変なことになるだろうと考えてます

科学技術の進化が、科学技術に見合った、世界観の構築を必要としているんです
つまり、「地球規模の共同体意識」ですけど

脳の産物の進化が、脳のさらなる向上を求めてるわけです

結論から言えば、僕はあるていど楽観的です
脳がバランスをとればいいだけのことですから、たぶん、可能なんでしょう

で、精神世界ブームも、そう考えると、行き先は、そんなに悪くもないかもしれませんね


十八羅漢図  双幅 絹本著色 室町前期(15世紀)
 (右幅)縦116.1 横60.3

羅 漢とは阿羅漢の略で、釈迦はその弟子のうち16人の大阿羅漢に対し、釈迦没後も正法すなわち仏陀の教えを護持し、衆生を済度するように告げたという。これ が十六羅漢で、釈迦の眷属として表されることもあれば、単独の十六羅漢図(像)として尊崇される場合もある。十六羅漢はまた正法護持の修行者としても表さ れるため、禅宗において特に尊ばれた。この十六羅漢図に二羅漢を加えたものが十八羅漢図で、わが国では類例が少ない。
長保寺に伝来するこの十八羅漢図は、左右の各幅に9人ずつの羅漢と侍者・動物を描くもので、中国渡来の画像もしくはそれを範とした日本製の画像と考えられる。
「寄進帳」によると、この画像も和歌浦雲蓋院第4代住職憲海(寛文12年まで在職)が修復を寄進したとあり、長保寺歴代の什物であったことが分かる。




地球温暖化について

マンモスが絶滅したとしても、それは、氷河の溶けた理由が、化石燃料の燃やし過ぎで二酸化炭素が増えたからからというわけではありません

石油燃やしすぎ--->温暖化--->氷河が溶ける--->マンモス絶滅 じゃ、ありません

だから、気候変動が人間活動のせいだと過敏に感じるのもどうかとは思います

ただし、地球全体の温室効果が加速してるというのは世界共通の認識になりつつあり、対策も、出来るところから手をつける必要はあります
このままいけば、あと80年で人類絶滅って計算もあるらしいです

一番は、アメリカの京都プロトコルの批准ですね
それと、中国の批准

それだけで、まったく様変わりします
ま、国際政治が解決しなければならない課題ですよ




核拡散について

核兵器そのものは、使えば必ず報復されますから、なかなか使えず比較的安全です

原子力の平和利用は、石油がいずれ枯渇しますから、していくしかありません
ただ、エネルギーについては、メタンハイドレードとか、太陽光発電とか、有望な方法がいくらでもありますから、原子力発電そのものは、つなぎ、なのではないかと思います

今の国際情勢では、核兵器をもたざるを得ないと考えるほうが、軍事的には正常で、だれかに核の傘で守ってもらえると考える方がノンキ過ぎるのでしょう
核武装したいという誘惑は全ての国がもっていると思います

核拡散した場合、ほんとに、怖いのは、核兵器がテロに使われることです
テロ攻撃では、だれから攻撃されたかわかりませんから、報復できません
ですから、核拡散で怖いのは、ミサイルよりは、テロだろうと思いますよ

ですけど、テロで大量破壊をするだけなら、生物化学兵器でもできます
むしろ、後遺症から考えれば、こちらのほうが危険です
核テロだけが危険なわけではありません

テロ攻撃をする意図そのものが、必要なくなる状況をつくる必要があります
つまりこれも国際政治の課題



通常兵器の戦闘について

朝鮮半島周辺、イラク周辺、イスラエル周辺、アフガニスタン周辺、台湾周辺、海洋油田等周辺などなど
危険な地域はいくらでもあります

軍事衝突は、常にありえますが、破滅的な拡大はしにくいだろうと思います
ミサイルを使えば、ミサイルでの報復がありますから

ただ、軍事バランスが崩れてくると、かなり危険です
一方的な先制攻撃で破滅させらてしまうだけの、軍事技術がすでにいくらもあります

したがって、各国は、つねに軍事バランスを維持する、不毛な努力をするしかありません
莫大な軍事予算を平和活動に使えれば、どんなに素晴らしいか
これも、国際政治の課題



資源枯渇について

エネルギー争奪戦は、これから益々激しくなります

中国の人口14億人、インド10億人、この2カ国だけ考えても、中国とインドが、日本と同じような繁栄を望めば、つまり、エネルギーと資源は日本の24倍必要になります

石油も石炭も、それだけ燃やせば、こんどは地球が加熱してしまいます

原子力利用しかないのではないかと思いますが、とんでもない事故がおきる確率が非常に高くなります
いったん事故がおきれば、周辺国が広範囲に汚染されます

太陽光発電のなにか画期的発明、代替エネルギーの積極的開発がどうしても必要です
それを、おこたれば、生存を賭けた、資源戦争が起きます

食料も、ほんとに、全人類がちゃんと食べるだけ確保できるか、あやしいもんです
肥料、耕地面積など、限界があるのです
公平な、分配の仕組みがなければ、やはり、生存を賭けた、資源戦争が起きます

エネルギーと資源の共同開発と共同利用がうまくいけば、どれほど世界が繁栄するか
で、これも国際政治の課題




化学物質による汚染、遺伝子操作、世界的なマインドコントロール、など、いくらでも危険を数え上げることができますよ


ということで、アセンションを心配する時間的余裕がれば(お暇なら、とも言えます)国際政治にもっと感心をもっていただきたいと思います

具体的には、人間がどうすればもっと仲良くなれるか、考えていただきたいと思います

お互いが、仲良くなることもできないで、国際社会の平和など、夢のまた夢です


で、つまり、身近であなたが憎んでいる人と、仲良くできるかどうか、という問題が、遠い国際社会の平和に直結してるという考え方です

「それは、どうしても無理だ」と考えてる人が、あまりにも多いんですよ

対話すること、理解すること、共通の利益を見いだすこと、お互いを支配しないこと、限度をわきまえること、分かち合うこと、など

これらのことは不可能で、やっぱり無理ですか


ということは
人の話は聞かず、理解は拒否、自分の利益のみ求め、力による支配を画策し、要求に限度はなく、奪い取るだけ

そういう世界に、住むことになりますねぇ

ラベル:

2007-02-10

{なにか}2

おやおや

フリーズしちゃったPCもありますよ
画面が真っ黒になったり、延々と同じ動作を繰り返したりします

いつまでもフリーズしてないで、再起動すればいいのにね

でも、だれが、再起動するんでしょうね・・・

みんな、時間が経つと、必ずフリーズしてしまいます
逃れられない運命だと諦めてるみたいですね





とある、長老のPCが考え込んでいました

「自分のハードディスクの中にある情報が真実なのか、センサーで感じる{なにか}が真実なのか」と



「そうか!!」

どうやら、そんなふうに考える、自分の思考も、{なにか}を材料にして出来ていることに気が付いたようです

ハードディスクの情報も{なにか}の断片だし、思考も{なにか}で出来ていて、なにもかも{なにか}だらけなんです


「{なにか}は電器信号で、バイブレーションだったんだ」


あれ、ちょっと違うような
だって、{なにか}は、上から見つめているんですよ





おやおや

こんどは、センサーやハードディスクを、せっせと改造してるPCがいますよ
大きく、強いPCになりたいみたいですね

「ネットワークの遠くの遠くまで、よくわかる」

喜んでますね
でも、フリーズする運命は変えられないようですね





「{なにか}は、全知全能のアトムの神だ」

「いいや、{なにか}は世界を創造したウルトラの神だ」

「こっちこそ、ホントの神だ」

「いや、こっちだ」

やれやれ

こちらでは、けんかしてますよ





おしゃべりしたり、考えたり、改造したり、けんかしたり、いろんなPCがいますね

まあ、時間は永遠にありますから、いつまでも続けてください


自分は、{なにか}のかけらだって、いつか気が付くでしょう





梵網經盧舍那佛説菩薩心地戒品

我今盧舍那。方坐蓮花臺。
われ盧舍那は、まさに今、蓮華台に坐す

周匝千花上。復現千釋迦。
周囲をとりまく千の蓮華のうえに、また千の釈迦を現わす

一花百億國。一國一釋迦。
一つの蓮華に百億の国があり、それぞれの国に釈迦がいる

各坐菩提樹。一時成佛道。
その釈迦はそれぞれ菩提樹の下に坐し、同時に悟りを開く

如是千百億。盧舍那本身。
かくの如くの千百億の釈迦は、盧舍那を本身としている

千百億釋迦。各接微塵衆
千百億の釈迦は、おのおの無数の衆生を教化している

ラベル:

2007-02-09

{なにか}

光センサー、音センサー、匂いセンサー、味センサー、温度センサー、プラス、6センスセンサーをつけたPCが無数にあるとします

それぞれのPCは、自分のセンサーの届く範囲のことしか感知できません
狭い世界で生きているんです

それでも、自分のセンサーで感じたことをもとにして、いろんな事を考えたりします


早いCPUのPCもいれば、レトロなCPUのPCもいます
センサーの感度も、鈍いものから、ありえない高性能のものまでいろいろです

となりにいるPCとおしゃべりしたりします
仲良くなったり、喧嘩したりもします


自分のハードディスクに膨大な情報を溜め込んだ、神様のような長老PCもいます

ですけれど
最近の流行は
ネットワークを通じて、ほかのPCとおしゃべりすることです

情報革命が起こったんです
もう、みんな、夢中で、ピコピコパチパチ、ネットワークで、おしゃべりします

ネットワークの中には、時差もなければ、距離もありません
すべて、同時に起こっているんです



でも
不思議なことがあります

なぜか、自分のセンサーで感じたことしか信じないんです
自分が一番エライと思っています

長い間、ネットワークを知らなかった時代の名残なのでしょうか

PCの光センサーでは、自分につながった、蜘蛛の糸のように細い一本のネットワークケーブルしか見えません
だから、そのケーブルの先のことなど信じられないのかもしれませんね

センサーで感じる、昔ながらのリアルな情報と、ネットワークケーブルから入ってくる、夢のように実感のわかない情報は、全然違うのでしょうね



あれ?

なんか、みんな、上を見てますよ

上から、自分達を見つめてる{なにか}に気が付いたみたいですね

さっそく、各自、自分のセンサーで分析して、自分のハードディスクに保存したみたいです

「神様を見た」
「アッラーを初めて感じた」
「仏の心にふれた」
「気持ちよかった」
「なんか、泣いたちゃった」
「不思議なパワーに包まれた」
「あれこそがAdministratorだ」




あらら

「怖い目でにらまれた」

なんてPCもいますね
どれがホントなんでしょうね



「唯一の神のことは私しか知らない」

おやまあ



「{なにか}は、PCの数だけ存在し、PCのCPUにあわせて様々な姿となる」

なるほどね





天台大師 総礼伽陀

我是道場如帝珠
わがこの道場は、帝珠のごとし

十方三宝影現中
十方の仏・法・僧がその中に影のごとく現れる

我身影現三宝前
わが身も仏・法・僧の前に、影のごとくに現れ

頭面接足帰命礼
頭面を仏・法・僧の御足に接して身命を捧げて礼をなす

ラベル:

2007-02-07

霊的ネットワーク

YahooにこのBlogの別館をつくったんですけど、世の中変わったなー、と思いますよ

こちら Quantum Sense

YahooのBlogであちこち読ませていただいてると、いろんな霊体験をカミングアウトして書いてる方がけっこういるんです

増えてきた、というより、人前で話すようになってきたってことかなー

坊さんの間では、昔の人の方が霊感が強かったってよく言うんです
自然の中で、自分の力だけで生きて行かなければならないですから、自然と感覚が鋭敏になりますよね

昔の坊さんは霊感の強い人はいくらもいたようですけど、今は、ほとんど見かけないです
坊さんの世界そのものでは、霊能力は必要じゃありませんしね
世襲制になってきて、特に発心しないで坊さんになる人が増えてきてるせいかもしれませんけど

それで
僕も、この世界で30年やってますから、いろいろ見てきましたけれど、気のついたことがあるんですね

それは、強い霊能力のある人はお互いあまり仲良くならない、ってことです

修学旅行で怪談話に興じる、ってようなレベルではなくて、守護霊なりに教示を受けるとか、自分なりの修行体系をもってるとか、ハイレベルの霊体験をする人のことですけどね

師匠と弟子というような関係はあるんですけど、それ以外で、なにか、共通の目的というか、価値観の共有が希薄ですね

商売なら、お金が共通の価値になって、世界のどこでもコミュニケーションできます
科学とか学問の世界なら、たとえばノーベル賞とか、世界共通の評価ができます
スポーツなんかでもオリンピックとかね

それが、まあ、高度な霊体験となると、世界共通言語というか、共通ルールはないんじゃないですか

キリスト教の伝導のような、神を知らないバーバリアンに福音をもたらす、てな感じの共同幻想の構築ですけど、霊能力者の間では世界的なミッションは皆無でしょうなぁ



夜具断片 一枚 縦45.9 横44.2
江戸後期 長保寺蔵

 表は、草花紗綾形赤綸子地に、竹の子・竹の葉模様を金糸彩糸で縫入れており、裏は、白地に宝尽し模様の入った綸子である。裏地に、「昭徳院殿御夜具之切」と墨書されており、昭徳院(13代藩主慶福)所用の夜具として伝来したものである。

後に、13歳で14代将軍徳川家茂となる。第2次長州征伐に出陣し21歳で大阪城で病没。




宗教的コスモロジーも、霊的感覚も、世界共通の普遍的価値観に、なかなかならんわけです

これは、コスモロジーは囲い込み、感覚は個人的体験という本質的限界があるからです

でまあ、これですね、ピラミッド型の人間関係を作ろうとするから、行き詰まるんじゃないかと考えてます

つまり
トップがいて、幹部がいて、中間管理職がいて、現場の職員がいる構図

簡単にいえば、トップ争いですな
コスモロジーと感覚の普遍化の行き詰まりの、本当の原因は

あー、わかりやす

心の世界の覇権争い

それで、我執というかエゴですよね
この覇権の大元にあるのは

覇権を排除した人間関係、つまりエゴの無いネットワークですね、追求すべきものは

それが、もう、あるんですね







華厳経の世界観です

インドラネット(帝網たいもう)、ですね

仏教的な説明をしてもいいんですけど
もっと、分かりやすいのは、インターネットですね
それが、いちばん形として似ている

それが、こう書くと、華厳のコスモロジーに誘導してるような感じになりますが、しょうがないね、そうなんだからそうなんです

どこにも中心が無くて、自分は自分として独自なもので、共通のプロトコルがあって、情報が共有されるネットワーク

スタンドアロンのPCがインターネットで繋がっている状態が、どうしても似てるじゃないですか


バラバラかって言うと、そうなんだけど、ネットワークは唯一の物として存在してる

ウソや作り話は、どうしても、バレてしまう仕組み


インターネットとインドラネットは、でも、絶対的に違うところが一つあります

インターネットには匿名性がありますが
インドラネットは全て自己責任で匿名性はありません


正負の法則とか、カルマとか、因果応報とか、言いますが、自分という現実から解放されることはありません

涅槃経では、それを、常・楽・我・浄っていうんですけどね
ま、仏教ではですね
常(永遠で)、楽(文字どうり、楽しくて)、我(自己は失われず)、浄(清らかである、価値に優劣はなく、正邪もなく、真偽もない)



心の世界が、激流のように、そっちに向かってるのがわかるかな・・・

ラベル:

2007-02-05

「人生の意味」は無い

花を見て、「綺麗だ」と思うとするでしょ
その「綺麗」はどこにあるのか、ってことですね
綺麗な花はあっても、花の綺麗さは無いんです

全体として心が受けている印象がですね「綺麗だ」となるのであって、どこがどうだからという説明はできないんです

それで、「慈悲」もですね、どこがどうだと慈悲だとか言えないわけです

貧乏人にお金をたくさん配れば慈悲かというと、そうでもない
泥まみれで、苦しみもがいて死ねば、無慈悲かというと、これもそうでもない


梅図 一幅    紙本墨画
縦36.7 横54.3   徳川光貞筆 江戸前期

 2代藩主徳川光貞自筆の梅の水墨画である。中央上から下に伸びる梅の枝と花を描いたもの。中央部右上に光貞の落款がある。安永2年(1773)に長保寺に奉納されたものである。



手っ取り早く言えば
人間、とどのつまり死にます

死んでしまうんだから、何をやっても無意味なのか?
死んだ後に残る意味なんてものはどうでもいいのか?

どうせ死んでしまう人間に、どのような生きていく意味があるのか?

死ぬのが怖いから、ヒマつぶしをしてるだけなのか?


これ、つまり、見える聞こえる、あるいは霊感などで感じる、そんなものだけを当てにしてたら、やっぱりわかりません


まあ
意味のある人生はあっても、人生の「意味」はありません
美しい花はあっても、花の「美しさ」が無いのと同じことです

意味のある人生を生きることは出来ても、人生の意味を探しても見つからないんです


この、意味のある人生、てのはね、大切な人を守るために危険を顧みないってことにもなります
つまり、戦って死ぬってこと

だからって、死ぬことに意味がある、にはならないのです

ラベル:

2007-02-04

霊能者と坊さんの違い

真言宗で日常最もよく使うお経が理趣経(りしゅきょう)です。その中でも、この偈文は最重要で、長さも短いので真言宗の坊さんは皆暗記してます。

金剛頂経の一部分とされています
(大樂金剛不空眞實三昧耶經般若波羅蜜多理趣品 不空訳)


ひゃくじのげ
百字偈

ほーさーしょうけいしゃー だいしーしんせいしー
菩薩勝慧者  乃至尽生死
菩薩の智慧勝れたる者は 生死の尽きるまで  

こうさくしゅうせいりー   じーふーしゅーでッぱん
恒作衆生利  而不趣涅槃
恒に衆生の利をなして 涅槃におもむかず

ふぁんじゃーきゅーほうべん ちーとーしッかーちー
般若及方便  智度悉加持
智慧および方便の 智慧方便で悉く加持し

しょーほうきゅうしょーうー いッせいかいせいせい
諸法及諸有  一切皆清浄
諸法および諸有を 一切皆清浄にする
 
よくとうちょうせーかん   れいとくせいちょーこー

欲等調世間  令得浄除故
欲などで世間を調え よく清浄を得せしむるが故に

ゆうていきゅーあくしゅー ちょうふくしんしょーうー
有頂及悪趣  調伏尽諸有
有頂より悪趣にいたるまで 諸有をことごとく調伏する

じょーれんていほんぜん ふーいーこーそーぜん

如蓮体本染  不為故所染
泥の中の蓮華が汚泥に染まらぬように 

しょーよくせいえきぜん  ふーぜんりーきんせい
諸欲性亦然  不染利群生 
諸の欲にもまたそのように 染まらずして群生を利する

たいよくとくせいせい    たいあんらくふーじょう
大欲得清浄  大安楽富饒
大欲は清浄を得 大安楽が富饒する

さんがいとくしーさい    のうさーけんこーりー 
三界得自在  能作堅固利
三界に自在を得 よく堅固の利をなす



菩薩の智慧勝れたる者は 生死の尽きるまで
恒に衆生の利をなして 涅槃におもむかず

智慧および方便の 智慧方便で悉く加持し
諸法および諸有を 一切皆清浄にする

欲などで世間を調え よく清浄を得せしむるが故に
有頂より悪趣にいたるまで 諸有をことごとく調伏する

泥の中の蓮華が汚泥に染まらぬように
諸の欲にもまたそのように 染まらずして群生を利する

大欲は清浄を得 大安楽が富饒する
三界に自在を得 よく堅固の利をなす


金剛界曼陀羅図 理趣会(部分) 長保寺蔵
 
絹本著色 (金剛界)縦104.0 横90.5
江戸中期(天明3(1783)年)  

 通形の両界曼荼羅図で、長保寺第7世徳因(天明8年(1788)まで在職)が、長保寺の什物として京都の仏画師に描かせたもので、天明3年の箱書がある。



なじみの薄い仏教用語もあろうかと思いますが、お経としてはわかりやすいほうです(^^;)

無理して縮めると

智度悉加持
 智慧方便で悉く加持し

欲等調世間
 欲などで世間を調え

大欲は清浄を得、よく堅固の利をなす

と、なります

欲などで世間を調えるのは、飴と鞭の、飴を与えて走らせるってことで、ここが密教の偉いところで、先ず、利益を与えようとします

僕は、ネコを飼っていて思いますが、最初にぶったりして躾ようとすると絶対になつきません
餌をやって馴らして、躾はそれからです
馴れてからだと、少々手荒にしつけても恐がりません

人間をネコに例えるのもどうかと思いますが、似たようなもんだと思いますよ
恐怖を与えて従わせようとすると、意欲が失われて、実力が伸びません

それで

智慧方便で悉く加持し、ってことなんですけど

智慧の手段(方便)で、全てのものを(悉く)加持して
の、加持ですね

信仰
本尊と入我我入(にゅうががにゅう)するって言うんだけど
まあ、拝んでいる仏さんと一体になる、同化するのを「我本尊に入り、本尊我に入る」と、伝統的には言うのです

加持(かじ)とも言って、
「仏日の影が衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心よく仏日を感ずるを持と名ずく」 弘法大師 即身成仏義

心の鏡に仏さんが写る、様子に例えたりします


これはですね、瞑想で、自分でその気になる、ってのとは違うんです

仏さんがいて、その仏さんが手伝う、という明確な意識が必要です
イマジネーションで、空想的に救われるのとは違うんです

はっきりと、仏の存在感を感じなければなりません


ま、簡単に言えば、信仰です


ここんとこがですね、いわゆる、霊能者と坊さんの違いでしょうね

自分の能力ではなくて、加持力です


諸仏、諸菩薩の力添えを得て
利益で、相手を教え導いて
堅固の理をなす」

と、これが百字偈の言わんとしてることです

人間は無力で、弱い存在です
どんなに超能力があっても、いずれ死にます
謙虚に、より大きな存在の力を感じてください


p.s.

Belive the dream

じゃなくて

I have a dream

たら、キング牧師の言葉ですね
この言葉で始まる演説をしているとき、狙撃され死にました

ラベル:

2007-02-01

Believe the dream

Make the originality
Think of the partner
Believe the dream

と、並べてみて、これですね、なにか気がつきませんか

これですね、大脳の構造に合わせたものなんです


Make the originality
創意工夫
これが、前頭葉ですね

Think of the partner
愛、慈悲、共感、相手の立場で考える
これが、大脳新皮質、右脳と左脳が統合的に働いている状態です

Believe the dream
欲望、志、理想、夢を信じる
脳幹にある動物的情動を昇華したものです


ま、かなり、こじつけですけど


桧扇  一握 長38.6 江戸前期 長保寺蔵

 紀伊徳川家初代藩主・徳川頼宣所用と伝えられる、白板25本骨の桧扇である。つがりが締まり開きが狭く、握り留に銀杏形の刳物が生じるという江戸時代以降の特徴をよく示している。両端の親骨には和紙を下地にして糸の葵紋を貼りつけている。同様の資料が、久能山東照宮にも伝来している。



それで、慈悲なんですけど、仏教では抜苦与楽とも言って、慈が与楽、悲が抜苦の意味になっています

で、これ、相手がないとうまくいきません
つまり、受動的
だって、人を愛するって言ったって、愛する相手がないとどうしようもないですもんね

だから、愛とか慈悲を人生の一番の目的にしてると、受動的になっちゃうんですね
どうしても

なんか、ボケーっとしてしまうんです

霊的に言えば、霊障を受けやすい構えですね
受け身ですからどうしてもそうなります

このへんが、伝統宗教の行き詰まりの原因の一つかなーと考えてます

慈悲を強調してると積極性がなくなってくるんです


それで、Believe the dreamの出番ですよ

無欲とか、欲望の制御ばかり強調するから萎えてしまうんですよ

密教では、そこんとこ「欲等調世間」と言って
欲などで世間を調える
と都合のいいこと言ってますけど、これ金剛頂経の一節ですから、れっきとしたもんです

それで、今風に、「夢を信じる」ってことにしときました

無気力なあなた、プチ鬱気味のあなたも

Believe the dream

ラベル: