2006-01-12

宇宙のシンフォニー

以前このBlogに書いたことですけど、弘法大師の声字実相義ですね

弘法大師は「声」ってことですけど、今風には波動かな、ゆらぎ、ですね
単なる波動ではなく、意味というか意志をもってるから「声」なんですけど

心の波動
「声」つまり「意味のある波動」は各人の感覚器官の内側にはなくて、感じられる前の「存在そのもの」ということになります
感じとられた「字」は各人の中にあって、相対的であり、幻想でもあります

「意味のある波動」は各人各様の我執からはなれて存在し、見る前の色、聞こえる前の音、感じられる前の感触です

つまり「意味のある波動」は時間も空間もない、悟りの世界そのものです

「声」を眼耳鼻舌身の感覚器官で感じたのを「字」としてるんですけど、これは各人各様、まちまちです

一つの林檎を観察しても、見る角度で見え方はみな違います
同じ物を観察しても、見る人の位置で感じ取られる事は、全く違ってくるのです
で、相対的であり、林檎そのものでないイメージが脳内に作られるのですから幻想です

これは、弘法大師は「声字」が実相、つまり、大日如来であり、悟りの世界だと言ってるんですけど
僕は、素直に、「声」を発する「心」が存在する、と考えてます

これを、一神教世界に浸っている人は創造神とか唯一の神とかすぐ言うんですけど、仏教的には、いままでご説明したように、僕らもいつか神になっちゃいます

なので、神様仏様はこれからも増え続けます
仏教では過去七仏と言って、お釈迦様の前に七人の仏がいたとか、いやいや三千だとか、言って、いずれ混じり合って一つになるとかは考えてません
だって、たどる道筋というか、人生経験は千差万別なんですから

まあ、薬師如来、阿弥陀如来、大日如来なんかは有名なところですけど、お経の中には他にも一杯いろんな仏様が登場します

アショカ王なんかは、お釈迦様のことを神様と呼んでました
宗教の教理的にはいろいろややこしく考えても、実感としては、そんなもんだろうと思いますね

僕的には、キリスト教とかイスラム教は、どれかの偉い神様と契約するのだと思いますね
まあ、シルバーバーチなんかもですね

唯一絶対至上の創造神、などというのは砂漠の古代社会が生んだ原始的宗教観じゃないですかね



10人の人がいれば、10の脳内にあるイメージは全部別々ですよ
相対的であることは宿命なんです

相対的な各個人のイメージなど幻想としてかたづけて捨て去っちまえと、そして、一番ホントの事をいたしましょう、とね

それを止観の、「執着を棄て思考停止し感覚遮断」して「誰かのために一生懸命、なにかをする」と言うのが仏教のロジックです

だんだんやってて、先に行ってる先輩が神仏だと
他にもいろいろいるぞ、ってことで

仏教のロジックを頭ごなしに否定しても、瞑想によって真実に近づいていくってことは、いずれ否定しきれなくなりますよ



それでですね

密教では「執着を棄て思考停止し感覚遮断」して、「声」と「心」をイメージしようということです

「声」はイメージとして脳内に作られる前の「存在そのもの」です
「心」は「声」を発する意志です
「声」と「心」は、つまり、実相であり、悟りの世界であり、神仏であり、涅槃であり、です

その「声」と「心」をなんとかそのままのイメージで自分の体感としましょうと

密教では三密と言って、印・真言・観念ですね身口意とも言います
真言は「声」、観念は「心」、です、これに印を付け加えて実習しやすくしてます

「声」だけが念仏、「心」だけが坐禅、ですかね

それで、印がですね、ハワイのフラダンスの手の動きとか、ミャンマーの踊りの手の動きとか、意味を表すジェスチャーですね、つまり

僕的にはスイッチかな
印で遊ぶなって、よく言われました
遊んだりしてふざけて印を組んでると効かなくなります

でもって、印・真言・観念でなにをするんですか、ということで
慈悲です、と言ってるわけです
「慈悲の極み」をどうぞ

ここのところで、誰かを支配し操縦しようとすると、とんでもないカルマを作ります
踏み外す人も、やっぱり、います
輪廻の中で、苦痛を通して学ぶことになります
慈悲に立ち返ってください



この慈悲も、けっこう長い歴史の中で難しく考えられてきました
行くところまで行けば、苦しみは無いし、楽しみたって、なんでもあるというか、すべて自分なんですから、新たな創造くらいですね、退屈しのぎは

自受法楽っていうんですけどね
理屈ではそうなりますね

それを、迷いの世界から見てると慈悲と表現したくなる、と

病気の原因を仏教では四大不調って言って、世界の構成元素の「不調和」ですね、それと「鬼」と「業」があると
「鬼」は不成仏霊や悪神など全般、「業」は不快感を伴う過去世からの宿題、ですかね
不快感なければ果報者とか言いますからね

まあ「不調和」は外科的手段や薬、慈悲ある波動でなんとかなりそうですが、、「鬼」は供養かなー、慈悲ある応接ですね
「業」は本人の心がけが変わらないとだめでしょうが、慈悲に基づいた仏教的ロジックの学習ですかね

それで、まとめて、慈悲だよ、となります

慈悲とは、とどのつまり「苦悩に行き着かない道筋」です
自他の分離と、輪廻の果実への執着は、ですから本当の意味での慈悲は無いです


「声」と「心」は、つまり宇宙のシンフォニーですけど、ただやみくもに、でたらめに、鳴り響いているわけじゃないってことでしょう

無心に、無邪気に、素直に、なれたら、誰にでもわかることですけど

♪心で感じるんでしょうね 他にないですね 感じる方法が♪

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