2007-02-14

祈祷札の話

今、どこのお寺や神社に行っても、祈祷札(きとうふだ)があります
紙札とか、木札に、お寺か神社の名前と、本尊さんの名前、祈願の種類などが書かれています

自分なりの祈願をたのんで、授かることもできます

実に、いろんな種類のお札があります


で、これ、いつ頃から始まったんでしょう

ま、ネアンデルタール人はやってなかったと思う
そこまでさかのぼらなくても、じゃ、日本ではどうだったんでしょうね

呪符木簡が、ま、どうやら古いと、今、ネットで調べました(^^;)
便利ですな


平安か、奈良かそれくらいかな
中国へ行けばもうちょい古いか

で、とりとめのない話になるので、仏教ではどう考えるのかということに話を限定します


もともとお釈迦様が在世のころは、祈祷はありません
禁じていたという研究もあります
黙認していたという説もあります

いずれにせよ、坊さんが、なすべき仕事とはみなされていませんでした

人間の救済を、極めて狭く、深く、厳しく考えていたと思います

歴史的にみれば、お釈迦様が亡くなってしばらくして、仏典結集が何回か行われました
お釈迦様が、「なにを説いたか」が重要で、それに従って修行しようと
ま、まっとうな、発想です

それから、次世代になると、お釈迦様の舎利(しゃり)つまり、遺骨ですね、その上に搭を建てて崇拝するようになりました

平成3年1月4日 サールナート ダーメーク大塔にて ダライラマ法王のカーラチャクラタントラの灌頂を待つチベットの巡礼者


仏舎利信仰ですね

今でも、インドには世界中から巡礼者が訪れます
多いのは、チベット、韓国、台湾、タイ、ミャンマーなど
インド人は、お釈迦様が、ヴィシュヌの9番目だったかの化身だということになっていて、大事に信仰してもらってます

仏滅後、教えを中心にしてたのが、仏舎利信仰になり、それが、1000年位して、密教になります
仏舎利が神格化して、大日如来になってきます

仏舎利の神格化には、プロセスがあって

お釈迦様--->仏滅--->結集経典--->仏舎利--->仏塔--->太陽(金輪[きんりん]とも言う)--->大日如来

と、大雑把に言えばこうなります

仏塔信仰と太陽信仰が合体した経典が、多数残されています

一字金輪仏頂(いちじきんりんぶっちょう)を中心とした仏頂系密教経典です

真言密教しかやってないと、こういう密教のホントの歴史を案外知らないです

真言では、弘法大師が金胎二部しか言わなかったんで、仏頂系は雑密に分類されていますが、それじゃ、僕の言うことはわからんよ


歴史的には、金剛界と胎蔵より、仏塔信仰は古く

お釈迦様--->仏滅--->結集経典--->仏舎利--->仏塔--->仏頂系密教--->金胎二部--->チベットで、無上ヨガタントラ
という変遷です

お釈迦様が亡くなった後を、どのように埋め合わせるか、という工夫の産物でしょうね

チベットでは、インド直伝ですから、創意工夫も限度があって、金胎の合一という方向で変遷しました
ま、金が唯識観で、胎が空観です
分裂したのが、都合悪いんで、融合に向かいます
これが、父母タントラで、男女合一になって、かなりセックス化するんですな
で、僕は、一皮むいたチベット仏教は好きじゃないですね


日本は、真言では金胎は車の両輪という認識で終わってます
弘法大師が偉すぎるんだと思いますよ

天台からは、自由な発想で、仏教のエッセンスを抽出しようとする天才達が輩出します
法然、親鸞、道元、栄西、日蓮など

平安時代には、伝教大師の次世代の慈覚大師、智証大師などにより、仏頂系密教が盛んに実習されました

で、今も、その流れが連綿と繋がっていると

やっと、ここまできた(^^;)

それで、僕の寺は平安時代に天皇家によって、仏頂系密教の中心として企画され建立されたのです

つづく・・・

ああ・・お札までいかなかった(^^;)

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