歴史と文化財

本堂・塔・大門とそろって国宝である寺は奈良の法隆寺と長保寺だけです。

紀州徳川家歴代の廟所があります。
約1万坪の広さで、山中に広く展開する廟所は他に例がありません。
藩主廟所は大名墓所としては全国一の規模です。

長保寺は長保2年(1000)に一条天皇の勅願によって創建され、鎌倉時代に現在の伽藍の姿が整いました。

 

 

本堂 (国宝・1311)

和様と唐様を折衷した建築様式を代表する建造物です

長保寺 本堂内陣

折衷様式について

屋根の形式について

二軒飛燕繁垂木と隅伸

  

多宝塔
(国宝・1357)

国宝の多宝塔があるのは、石山寺、金剛三昧院、慈眼院浄土寺、根来寺と長保寺です

金剛界大日如来坐像(平安時代)

 

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大門
(国宝・1388)

長保寺 国宝 大門

中世瓦の保存

立身出世の大門

 

 鎮守堂
(重文・1295)

  

仏教の大衆化が進み、地方が独自の経済力と文化の力を誇示し始めた、日本の「中世」を代表する建造物群です。

 


 

江戸時代の寛文6年(1666)に紀州徳川家初代藩主徳川頼宣(よりのぶ)により菩提寺に定められました。 

 
紀州徳川家歴代の御廟があります。吉宗公は22歳で5代藩主となり、33歳で8代将軍となったため東京の上野の寛永寺に御廟があります。
 
 
 

紀州徳川家

 

 

長保寺は長保2年(1000)、一条天皇の勅願をうけて性空上人により創建されたと伝えられています。一条天皇には定子様と彰子様のお二人の皇后がありましたが、定子皇后のお付きの女官が「枕草子」を書いた清少納言、彰子皇后のお付きの女官が「源氏物語」を書いた紫式部です。ですから、これらの文学作品は一条天皇の長保時代の宮廷生活を題材にして描かれています。長保時代は、平安貴族社会が頂点に達した時代であるのです。また、長保寺が創建された長保2年に定子皇后がお亡くなりになっています。長保という年号を名乗る寺の建立は、一条天皇にとって特別の意味があったに違いありません。
 本堂(1311)、多宝塔(1357)、大門(1388)、鎮守堂(1295)といった主要なお堂は鎌倉時代に至り再建されたものです。長保寺は天台宗として創建されましたが、その後、法相、天台と変わり、現在あるお堂が再建されたころは真言宗のお寺でした。仁和寺から印玄という僧が来て本堂の再建を指導しています。
 寛文六年(1666)に紀州徳川家初代藩主頼宣により菩提寺に定められました。その時に、頼宣と天海僧正の約束により天台宗に改められました。江戸時代に、本堂背後の山の斜面に広大な藩主廟所が造営されました。「周囲が山に囲まれ要害堅固である」という頼宣の言葉が残されおり、万が一の時の陣地として利用することを考えていた様です。

長保寺の歴史

 

 

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Youtubeによる文化財案内

 

 

長保寺の法宝
膨大な量の文化財を豊富な画像と解説でご紹介いたします

 

  

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長保寺の美術工芸品

 

PROMENADE歴史の散歩道
長保寺に残されている古い写真をご紹介します

 

平成24年 国宝 長保寺大門ほか二棟修理工事報告書 PDF 56MB 2014/04/10

 

長保寺木造金剛力士立像像内納入文書断簡
大門の仁王像が弘安9年(1286)の造営であるという文書が確認されました。大門よりも古いことになります。建立年代がはっきりした鎌倉時代の仁王像は、たいへんに珍しいものです。今後、重要文化財の指定が審議されることになると思います。
(県指定文化財)

 

長保寺国宝建造物CADデータ (WINDOWS用)98/03/01

再建和歌山城天守の建築構成  松岡利郎  和歌山城郭研究第11号掲載 pdf 2012/04/01

長保寺 紀州徳川家の菩提寺 97/12/21 

ご存じですか?こんな文化財

長保寺保存管理計画策定会議 長保寺の歴史
 長保寺住職 瑞樹正哲 97/07/16

国宝 長保寺本堂修理工事報告書

『慶徳山長保寺縁起并勧進状之写』98/03/01

『長保寺記録抜書』98/03/01

和歌山県指定天然記念物 長保寺の林叢

海南市の国・県指定文化財一覧

千年の風格と文化遺産を現代に伝える密教寺院 

 


 

2011年 一条天皇1000年御遠忌

一条天皇は、枕草子・源氏物語の舞台になった、平安貴族文化の中心にいらっしゃる天皇です

一条天皇は寛弘8年(1011)6月22日に崩御されました。享年32歳

長保寺は、定子皇后(清少納言が女官)、彰子中宮(紫式部が女官)が並び立った、長保2年(1000)に創建され、年号を頂いて寺の名前とした勅願寺です
この長保2年12月には、定子皇后がお亡くなりになっています

もともと長保寺周辺は藤原摂関領で京都の公家社会とも密接な関係がありました
熊野街道の道すがらにあり、熊野信仰から、宗教的な場所として、現在の地が選定されたと考えられています