長保寺 紀州徳川家の菩提寺

高橋彬 (元和歌山県教育庁文化財課参事官)

週間朝日百科 日本の国宝
朝日新聞社 1997年11月16日発行
「039 和歌山/熊野速玉大社 長保寺 道成寺」より


 和歌山県の下津町は、多くの文化財がある町として知られている。その中でも天台宗長保寺は、3件の国宝建造物をもつ代表的な寺であり、海岸線に沿って走るJR紀勢本線から2キロほど東の山裾に建てられている。
 この付近には、古くから熊野三山へ参詣する道、熊野古道が通る。有間王子(640〜658)が薄幸の生涯を閉じた地として知られる藤白峠を越え、塔下王子社跡、橘本王子社跡を道沿いに残しつつ山間をぬう古道である。その山麓一帯は黄金に輝くみかん畑が広がっている。長保寺は境内全域が国の史跡に指定され、国宝の大門、本堂、多宝塔や重要文化財の鎮守堂、県指定の客殿、仏殿(御霊屋)などの建造物が建ちならぶ。境内の東斜面には、和歌山藩主徳川家の墓があり、初代から15代まで、墓碑が建立されている(5代吉宗は、8代将軍となったため東京の寛永寺に、13代の慶福は14代将軍家茂となりやはり東京の増上寺にそれぞれ祀られている)。
 長保寺には重要文化財の「絹本着色仏涅槃図」をはじめ、数多くの仏像や絵画、経典、書籍などが所蔵されている。また、下津町立歴史民俗資料館が境内にある。

11世紀からの由緒ある寺

 長保寺の創建は寺伝によると、一条天皇(980〜1011)の勅願により、慈覚大師の弟子で播磨国書写山円教寺を創建した性空上人(917〜1017)が長保2年(1000)に草創したという。後一条天皇の寛仁元年(1017)には、本堂、鎮守社、弘法大師の御影堂など七堂伽藍の造営と子院12か坊が完成していたといわれる。
 寺号については、長保の年号を賜って長保寺と名付けられた。また宗派については、性空上人の開基とするならば天台宗であるはずだが、「長保寺記録抜書」の写しによると、一時法相宗となり、そして天台宗、さらに応永のころは真言宗となって、徳川頼宣入府後、寛永6年(1629)、紀州徳川家の菩提寺になるとき、三たび天台宗に復したことがわかる。
 なお、応永24年(1417)の奥書のある「紀州海部郡浜中庄長保寺縁起」に、「当寺は真言密教弘伝の霊地」とあり、如来密教受持の寺として、高野山真言宗との深い関わりが窺われる。
 建物については、仁治3年(1242)に西から本堂を移し、再び延慶4年(1311)に一段高い壇上に新たに再建されたのが現在の本堂である。また、このころには多宝塔や鎮守社も建立されていたと考えられる。さらに、嘉慶2年(1388)には、大門が再建されている。
 これらの建物は、鎌倉末期から南北朝時代に造られたもので、明治33年(1900)から37年に古社寺保存法により指定され、昭和4年(1929)に旧国宝に指定された。昭和25年、文化財保護法改正に伴い重要文化財に、さらに昭和28年には3棟の建造物が新国宝に指定された。



長保寺本堂
1953年3月 国宝指定 附 厨子一基
1棟、正面5間、側面5間、一重、入母屋造、向背1間、本瓦葺
延慶4年(1311)

組入天井をもつ本堂

長保寺は再三にわたり、境内の伽藍配置を変えているが、「長保寺記録抜書」の写し(天正15年=1587)によると、平安期の長保2年(1000)から寛仁元年(1017)までに伽藍がほぼ完成したことが記されている。
 その後、仁治3年(1242)の10月ちょうな始め、11月22日に立柱、同26日上棟されたと記されている。前身建物を西から現在の東の地に移したようだが、このような非常に速いスピードで建て替えられたのは、よほどの理由があったのかと興味深い。
 さらに、延慶4年(1311)正月29日のちょうな始め、3月8日柱立、5月5日上棟され、仁和寺の僧承禅律師印玄が願主となり、大工棟梁は藤原有次であると記されている。記録には「上壇に移された」とあるが、現在の建物の建立年代が仁治3年まで遡ることはありえず、前身本堂の位置より一段高い壇上に、新しく本堂を再建したのが現在の本堂であると考えられる。
 天正15年の奥書のある「長保寺縁起写」には「伽藍少々並宝庫焼亡」とあり、天正13年の兵火により文書類が焼失したことが記されている。一段低いところにあった庫裡や蔵などが焼失したと思われる。
 当初の平安期の本堂がどのような規模の大きさで、どんな様式の建物であったか、仁治3年に西から東の地に移されたのはなぜなのか、興味は尽きない。

和様と禅宗様が融合

 現在の本堂は、正面(桁行)5間、側面(梁間)5間、入母屋造
、向背1間、本瓦葺の建物である。資料的には中世のその後の経緯についてはまったく記録がないが、柱の取り替えなどから、数度の修理があったことが知られる。
 江戸時代の天和3年(1683)の記録では、寛文6年(1666)から元禄8年(1695)にかけて修理が行われている。近代では、大正9年(1920)と昭和47年(1972)に修理がされている。
 本堂は、内陣方3間、四周に庇をめぐらした平面で、特に正面の外陣梁間の柱間を広くとる。そのため天井の一部を組入天井とする。また、内陣柱上には粽を、組物には笹繰、拳鼻など禅宗様の手法が見られる。一方、出入口幣軸、連子窓、天井、吹寄菱欄間、叉首組妻飾などはいずれも和様の禅宗様がうまく融合し、独自の意匠を模索している。



長保寺多宝塔
1953年3月 国宝指定
1基、3間多宝塔、本瓦葺
延慶4年(1311)頃

安定感と優美さに特徴

 多宝塔は、延慶4年(1311)の本堂とほぼ同時期の建立と推定される。康永3年(1344)11月の「長保寺御影堂勧進状写」に宝塔ありと記され、すでにこの時期には建立されていたことが知られる。
 方3間、本瓦葺の建物で、軸部、組物など上層と下層とではまったく異なる。下層は平面3間角の内部には四柱を建て、背面に来迎壁を造り、その前に須弥壇を納める。上層は12本の柱を円形に建て、柱踏上に牛梁を架け、中心に真柱を相輪まで建てている。
 下層柱間の各中央間は、内外ともに幣軸構えとし、両開板唐戸を吊る。脇間は連子窓をはめ、側回りの内法長押は当初の位置より低い所に取り付けられている。そのため、板唐戸や連子窓の高さが切り縮められている。

須弥壇は禅宗様

この建物の特徴は、全体が和様であるのに、須弥壇は禅宗様形式であることである。須弥壇の腰には牡丹唐草彫刻をはめ、高欄は地覆と架木間に編目の透彫に中央巴文の彫刻を入れる。高欄端には蕨手を造り、繊細で非常に珍しい須弥壇となっている。
 建物の組物は、出組(一手先)斗きょうで、中備に牡丹、菊、柘榴、竹の花に蝶のかえる股彫刻を各面にはめこむ。
 上層は、下層柱間に対し、2.4割も逓減し、亀腹も小さい。組物は四手先斗きょうに尾垂木を入れ、軒の出を大きく取る。そのため建物全体が引き締まった安定感を呈している。
 軒は、二軒繁垂木で、屋根は本瓦葺に相輪が高く聳え、鎌倉から南北朝への変わり目に造られ、建築様式上も過渡期にあたり、他の多宝塔と比較するためにも重要である。全体的に小振りであるが、安定感があり、多宝塔建築の醍醐味が感じられる建物である。



長保寺大門
1953年3月 国宝指定
 附 扁額 1面(応永24年6月1日の記がある)
1棟、3間1戸楼門、入母屋造、本瓦葺
嘉慶2年(1388)

南北朝の代表的大門

 寺蔵文書の「長保寺大門並食堂鎮守八幡宮棟札写」の中に、天和3年(1683)10月18日の「大門棟札写」と「大門再営由来写」とがあり、後小松天皇の勅宣を受け、実然僧侶によって、嘉慶2年(1388)に大門が再建されたことが記されている。
 その後の経緯については明らかでないが、元和7年(1621)には塔頭最勝院恵尊が大門の修理を行っている。
 当時は紀州藩初代藩主徳川頼宣が入府して2年目の年で、和歌浦東照宮の建立や天曜寺雲蓋院を別当寺院とするなどの整備が図られていた。
 頼宣は寛文6年(1666)の熊野巡検の折、長保寺に立ち寄り、その後、紀州藩の菩提寺として長保寺を選んだ。頼宣は寛文11年に他界したが、12年後の天和3年「大門棟札写」には、願主2代藩主光貞によって修理がなされている。その時の大工は、角井又右衛門政次で、導師は長保寺陽照院豪珍が務めていることがわかる。
 大門は、3間1戸楼門、入母屋造、本瓦葺で、1、2階とも組物は3手先、2階のみ尾垂木と支輪を入れ、軒を深く出している。
 また、1階中央間の飛貫と頭貫間には、鯉と波、背面に雲竜、虎と竹、中央に三宝珠と椿の彫刻をはめ込むなど、全体の形もよく整った建物で、南北朝の代表的な楼門である。
 なお、大門に掲げられていた扁額は妙法院二品堯仁親王の真筆とされ、表には「慶徳山長保寺」、裏には「妙法院宮御筆応永二十四年六月一日」の刻銘がある。現在掲げられているのは紀州徳川頼宣が李梅渓に命じて模写させた扁額である。当初の扁額は大門の附指定であり、寺に保管されている。