ご存知ですかこんな文化財    文化庁月報 平成7年2月

 

和歌山県は、本州の最南端に位置し、西から南を囲むように峻険な山並が続く山岳地帯である。海岸線は紀伊水道から熊野灘にかけて続き、広く海に面している。そのため良質な木材資源に恵まれ、熊野水軍の時代から近世まで、造船技術が発達し、主要な海上交通路として早くから海運業が盛んであった。また我が国の政治や経済の中心である奈良、大阪、京都に隣接したため、中央の文化は建築技術にもいち早く取り入れられ、その高度な技術が風向明媚なこの紀州に留まっている。さらに、当時の工匠達は建築技術の技法を模索して、他府県まで出向いていることが、現在に残る古文書や建造物などから伺い知ることができる。
近世には、紀州廻船が交通の役割を果たし、紀伊国屋文左衛門は、紀州みかんを江戸に運び大儲けをした。その大金で吉原で豪遊三昧をしたことは、講談や小説などでご存知の方もいると思う。
この時期は5代紀州藩主吉宗が、8代将軍となり、江戸のバブル崩壊を立て直すため「享保の改革」を断行した時期でもある。絢爛たる繁栄の後にきた経済破綻の時代、吉宗はいかに生きるか、まさにサバイバル時代であったと思う。今日の世情とあまりにもよく似ている。

<国宝 長保寺本堂、大門、多宝塔>
 長保寺は、海草郡下津町にあり、和歌山市から車で30分、下津駅から2キロメートルの距離にある。長峰山脈の裾野の小高い斜面に、国宝及び重要文化財の建築物が建ち並んでいる。
 寺伝によると、一条天皇の勅願所として、長保2年(1000)に創建し、後一条天皇の寛仁元年(1017)に完成したことが分かる。
 開基は慈覚大師の弟子で、書写山円教寺を創建した性空上人である。また寺の名は長保の年号を賜って寺号としたと伝えられている。
 その後、仁治3年(1242)に西から東に本堂を移し、再び延慶年間に再建されたのが現在の本堂や多宝塔などである。長保寺は、中世の主要建築物が現存する寺として重要である。
 宗派については、性空の開基であるので天台宗であるはずだが、その後、何度か転宗している。「長保寺記録抜書」によれば、後法相宗、天台宗、応永の時より真言宗となり、3たび現在の天台宗となったことが分かる。
 応永24年(1437)の奥付がある「紀州海部郡浜中庄長保寺縁起」に「当寺は真言秘宗弘傳の霊地、如来密教受持の寺」とあり、高野山真言宗との関係が伺われる。
 元和5年(1619)に紀州初代藩主頼宣は、駿河から転封、父徳川家康を祀るため、和歌浦東照宮を建立し、別当寺院を天耀寺雲蓋院とした。そして紀州徳川家菩提寺を長保寺とし、寛文6年(1666)に、天台宗に改宗し、墓地面積34ヘクタールに歴代藩主の廟所を建てた。 本堂は鎌倉末期の延慶4年(1311)再建と伝えられている。本尊は釈迦如来像で、文殊・普賢の両脇侍を安置する。明治37年古社寺保存法により特別保護建造物に指定され、昭和28年に国宝となった。
 構造は桁行・梁間とも五間、一重、入母屋造、向拝一間、本瓦葺の建物である。柱上に粽を付けるなど唐様の手法がみられるが、出入口の幣軸、連子窓・組入天井、欄間・妻飾り等の手法は和様であり、2つの様式をミックスした独自の意匠を模索している。特に計画においては正面外陣の一間を脇間より広くとり、一部を組入天井とする。この形式は、他県ではなく、道成寺本堂、靹渕八幡宮大日堂、地蔵峰寺本堂や戦災で焼失した松生院本堂等が同じ様式を持ち一つの紀州式とも言えよう。
 大門は「再営由来写」によって、南北朝末期の嘉慶2年(1388)に後小松天皇の勅宣を受け実然僧侶によって建立されたことが分かる。長保寺では、明治33年に最初に指定された建物で、昭和28年国宝となっている。
 構造は、三間一戸楼門・入母屋造・本瓦葺の和様の建物である。門に掲げられている「慶徳山長保寺」の扁額は後小松院御宇妙法院尭仁親王の真筆と伝えられ、裏面に応永24年の刻銘があり、附指定にされている。
 また両脇の仁王像は、運慶の子息湛慶の作と言われ、昔の修理の際に銘があったという。
 多宝塔は鎌倉末期の造立と推定され、三間多宝塔・本瓦葺の建物である。康永3年(1344)の弘法大師御影堂建立の勧進状に塔の名が記され、すでにこの時には建立されていたことが分かる。構造手法からみて、本堂より少し下ると思われる。
 塔は全体的に小振りであるが、亀腹は低く屋根のゆるやかな均整のとれた建物である。特に中備に美しい蟇股を入れ、内部は力強い折上小組天井とする。上層は腰を強く絞り軒が深く和様を基調とした佳麗な建物で、頂部には美しい相輪を建てる。
 内部の須弥壇は高欄に網目の巴紋と透彫を施し、腰には唐草彫刻を嵌め込む等、唐様の珍しい手法が取り入れられている。
 本尊は金剛界大日如来を安置する。本堂と同じ昭和28年に国宝となった。
(和歌山県教育庁文化財課副課長 高橋 彬)
 
<史跡 和歌山藩主徳川家墓所>
 初代藩主頼宣により寛文6年から7年にかけて建立された仏殿〔後の位牌殿(御霊屋)〕に面する山腹を中心に頼宣以降、将軍となった5代吉宗(8代将軍)、13代慶福(14代将軍)を除く歴代藩主とその子息・夫人等の墓所が営れ、最後の藩主となった14代茂承の後も、3代の紀州徳川家の当主が祀られている。
 国宝の山門をくぐった東側に御成門が西面し、これを入ると御霊屋への参道がのび、その脇に7・8・10代藩主の側室等の墓所への参道がわかれている。内御成門ともいうべき門の手前で歴代藩主の墓所への脇参道があるが、現在は廃道同様となっている。内御成門を入って御霊屋の前を通る歴代藩主の墓所へ通じる参道は本堂前の階段下から庫裡へ通じる通路と御霊屋の前で合流している。
 歴代藩主の墓所は御霊屋をみおろす南向きの山腹におよそ3段となって造営されている。
 最下段の中央に初代頼宣の墓所が設けられ、山腹に沿って設けられた参道に面して、右に6代宗直、左に14代茂承、2代光貞、8代重倫、9代治貞、3代綱教、4代頼職が祀られている。中段に墓所が設けられるに当たって初代と2代墓所の間に階段がつくられ、、その正面に7代宗将の墓所が営まれた。この中段にも下段と同様に参道が設けられ、7代墓所の右に10・11代の両夫人、左に15代頼倫、16代頼貞、17代頼昭、さらに11代斉順、12代斉彊が祀られている。7代墓所の左には最上段にただ一人祀られている10代治宝の墓所への階段参道が設けられている。
 これら歴代藩主の各墓所は山腹を切込み下方前面に城郭を思わせる石垣を組み、二段(壇)からなる墓域を造成している。下壇正面には門の礎石が残り、上壇中央の階段につづく石畳の墓道がみられる。上壇の中央部には廟門をもつ瑞垣を四方に繞らした一段高い切り石敷の廟所基壇があり、その中央に墓碑を建立している。
 灯篭は下壇の墓道の左右に密に並ぶことが多いが、上下壇・廟所基壇の周辺にも立ち並び一定ではない
 墓碑には三形態あり、初・6・7代が無縫塔、2・3・4・9・14・15代は扁平角柱、8・10・11・12代は八角宝塔の形式をとる。また、墓碑銘は6代までが無銘であるが7代以降は正面に院号と側面に没年を刻んでいる。  
 藩主墓地下段では2・8代、3・9代が、中段では11・12代及び10・11代両夫人の廟所が同一墓域内に並置して祀られている。これは、単独で造営された10代以降、10・11代両夫人、11・12代藩主から同一墓域内に並列合祀する形態が生じたようで、このころ、本来単独墓であったろう8・9代墓地を2・3代墓地に合祀したものと推測される。
 なお、4代藩主までの墓所が描かれている長保寺保管の下津町指定文化財「紙本著色長保寺古図」によれば、初代墓所は下壇の石垣中央に面し一間向唐門を置き、その左右から側面にかけて土塀を築き、門の背後に桁行三間、梁間二間の入母屋造りの参篭所とみられる建物を配している様子が伺われる。
 歴代藩主墓所は本史跡のほか、伊都郡高野町高野山に所在する史跡金剛峯寺旧境内奥の院にも営まれているが、長保寺墓所は奥の院墓所のみならず、全国に所在する各藩主墓所に比較しても格段の荘厳さを示しており、徳川御三家の一つとしてその勢力を今に伝えている。


(同課主任 藤井保夫)