徳川家茂 (とくがわいえもち)

4才にして紀州藩主。僅か13才で将軍に担ぎ出された病弱の家茂。

婚約者と引き裂かれ政略結婚した和宮。

外国の軍船が襲来し、300年続いた江戸幕府の崩壊が迫る大動乱の中、21才で家茂は戦病死する。

 


 

 

水晶製子犬豆人形    一点

幅3.5 高3.5
江戸後期

 水晶で作られた子犬の人形。桐箱内の包紙に墨書で「昭徳院様御 幼時御手遊御品」とあり、昭徳院(13代藩主徳川慶福、のちの1 4代将軍家茂)が幼少のおりの玩具であったとされる。

 

藩主奉納品  和歌山県立博物館「八代将軍吉宗と紀州徳川家」より

 


 

夜具断片       一枚

縦45.9 横44.2
江戸後期

 表は、草花紗綾形赤綸子地に、竹の子・竹の葉模様を金糸彩糸で縫入れており、裏は、白地に宝尽し模様の入った綸子である。裏地に、「昭徳院殿御夜具之切」と墨書されており、昭徳院(13代藩主慶福)所用の夜具として伝来したものである

 

藩主奉納品  和歌山県立博物館「八代将軍吉宗と紀州徳川家」より

 

子守役であった田川を通じて奉納されたものであろうか。幕末の大動乱のなか歴史の波に翻弄された病弱の幼君を思う心が伝わる。

 


 

13代 慶福(よしとみ)(後の14代将軍 家茂(いえもち)

 弘化3年(1846)5月24日斉順(なりゆき)卿嫡子として江戸屋敷で生まれる、斉疆(なりかつ)卿より戴き幼名は菊千代と称す。弘化4年(1847)4月22日斉疆の養子となる。
 嘉永2年(1849)3月27日憲章院薨去につき50日の御遠慮を致したが4月2日公方様より御許しが出て、4才にて紀州徳川家を襲職嗣する。幕府の命にて松平頼学・水野忠央・安藤直祐・公方にて国政を司る、嘉永4年(1851)10月9日元服して名を賜り、慶福と改め従三位左近衛権中将に任叙す。嘉永6年(1853)4月18日湊御殿諸役所を城内へ引移す。世はまさに騒乱となり西洋流大砲鋳造、大船製造、中軍船を製造す。また友ヶ島御台場を建築し外敵防備を行う。
 安政5年13代将軍家定の養子となり、同10月25日11才で名を家茂と改め14代将軍となる。文久2年(1862)2月11日第120代仁孝天皇姫宮で和宮のち静寛院宮と御婚礼。御台所を御迎えしたが幕末の動乱期故、慶応2年(1866)8月20日長州征伐の途中僅21才で薨去なされ、将軍家菩提寺の増上寺に葬られる。正一位太政大臣。
  法号 昭徳院殿贈正一位大相國尊儀

 

歴代藩主   木国文化財協会・会長  西本正治

 


 

紀州藩十三代慶福(よしとみ)公  13才で十四代将軍家茂(いえもち)となる

1.生い立ち
 慶福は、斉順の遺腹で、母は、松平氏女実成院である。弘化3年5月(1846)出生、弘化4年(1847)4月藩主斉彊の養子となった。嘉永2年(1849)3月斉彊が没したため僅か4才で13代藩主となった。

2.治績

(1)異国船に備え海岸警備を行う
 嘉永4年(1851)大砲鋳造、6年7月武備手当金を下付、7年正月和歌山海岸武備手当金を下付、7年正月和歌山海岸防禦持場を決定した。9月には和歌山近海へ異国船が渡来人数をさしつかわす。11月友ヶ島奉行を設置、安政元年(1854)9月15日始めて異国船が紀伊水道を北上した。ロシアの使節プーチャチンが和親通商条約締結のため函館から大阪を目指す途中であった。大崎の見張番所(つぶねの鼻)のろし台(荒崎)砲台(田ノ浦)が設置されたのはこの時である。

(2)田辺与力騒動 (中公新書に”幕末武士の失業と再就職―紀州藩田辺詰与力騒動一件  中村豊秀著”という本がある )
 安政2年(1855)6月田辺与力に安藤家家来となるよう命じたが3年2月、古参与力は、これを不服として田辺与力騒動が起こったが長保寺住職の助力もあって松阪御城番となって再出仕することゝなった。

(3)13才で将軍家茂となる
 「癇癖将軍」とあだなされた将軍家宣の継嗣問題では、一橋慶喜と対立、水野土佐守、井伊直弼等の南紀派に推されて5年6月家宣の世子となって江戸城に移る。7月家宣が逝去したため名を家茂と改めて、10月14代将軍となる年僅か13才であった。

(4)公武合体論
 この頃、時は幕末、日本の政治情勢は大きなうねりと変革の波にゆすられていた。即ち、尊王攘夷運動は時を経るにつれて倒幕運動の色を濃くして行った。これを食いとめるためには朝廷と幕府が結びつくしかなかった。「公武合体論」である。文久2年(1862)2月将軍家茂のもとへ孝明天皇の妹和宮が降嫁された。15才の同じ年、幕府の危機を救うための政略結婚だった。だが効果は上らず倒幕運動は激しくなるばかりだった。
 14代将軍となった家茂は慶応2年(1868)5月第2次長州征伐に出陣、翌年7月20日病没。

3.御逝去と遺品と御廟

(1)御逝去
 大阪城中で病没された時、年21、御遺体は海路江戸に運ばれ、芝増上寺に葬られた。諡して昭徳院という。

(2)遺品
 幼少の頃、玩具として使われた水晶の小犬と、夜具として御使用の布地が保存されている。

(3)御廟
 芝増上寺

紀州藩主の治績と御廟   下津町教育委員会  松江 繁広

 


 

幕末の紀州藩大奥女中、田川

 

幕末の紀州藩大奥に田川という気丈な奥女中が仕えていた。紀州藩の11代、12代、13代、14代の藩主に仕え、幕末の混乱期を紀州藩大奥で過ごした。明治初期、紀州徳川家内の権力闘争にかかわり一時期幽閉され、毒殺されかけたこともあるという。晩年、長保寺で出家し尼となり祖廟を護り、この長保寺で没した。大奥のしきたり作法に詳しく、香道具、飾り結びの型、和歌の短冊など紀州藩大奥の日常の教養を物語る興味深い物が多数遺品として残されている。また、長刀の達人であったとも言われ、長刀の名刀が残されている。言い伝えでは、すばらしい美女であったという。自然石で作られた慎ましい墓が今長保寺にある。

 

老女 田川  (南紀徳川史 第7巻 P.574)

 


 

 

関連リンク

 

徳川家茂 - Wikipedia

江戸東京博物館|「徳川家茂とその時代」展

 

皇女和宮(こうじょかずのみや)について  箱根 阿弥陀寺  

 

amazon.co.jp   和宮様御留 有吉佐和子著

amazon.co.jp   幕末武士の失業と再就職―紀州藩田辺詰与力騒動一件  中村豊秀著

 

御城番屋敷

御城番屋敷 -wikipedia

 

 

 

 


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