Superpositionと仏教 理論物理学との親和性

仏教は、理論物理学と親和性があります

ノーベル物理学賞を、長い仏教文化の伝統のある日本人が時々受賞するのも、偶然ではないと思います

 
「空」とはなにか?

ここが難しいところで、説明してしまったら、それは「色」になってしまいます
感じる前の世界なわけですから、まあ、「果分不可説」なわけです

それではあまりに不親切なので、仏教の代表的な解釈をご紹介しますが、仏教史最大の学者のナーガルジュナ(龍樹)の説ですけど

「空」とはなにかを、八不(はっぷ)といって
一異、同断、生滅、去来と定義していて、いわば仏教の基本セオリーです

一つでもなく異なってもいない、同じでもなく断絶してもいない、生じるでもないし滅するでもない、去るでもなく来るでもない

それで、僕はこれを量子論でいう、Superpositionと近似する概念だと考えているわけです

Quantum Sense
http://www.chohoji.or.jp/archives/quantumsense.htm
このリンク先は長文で、しかも、わかり易くはないです(^^;;

さわりは、こんな感じです

 
 
i半導体中で量子もつれの生成と検知に成功

「重ね合わせ という概念は、何らかの物体が同時に2つの状態で存在できる現象を意味しています これはとても妙なことで、私たちの日常生活では経験できないことです?当然、量子力学を創り出した物理学者さえも理解に苦しむ大難問でした
たとえば私がここに座っている状態と向こうの方に座っている状態は想像できます
でも、同時に両方に座っている状態は想像できません
しかし、量子力学では、まさに重ね合わせの原理によりこれが可能です
このように原子、電子、分子などは同時に2つの状態で存在することができ、この概念が量子技術を強力なものにします
重ね合わせのさらに延長上にエンタングルメントがあります
これには2つの量子的物体が必要です
この2つが絡み合う(エンタングルメントentanglements)と、個々の物体を分けて考えることはできません
エンタングルした2つの物体を宇宙の両端まで引き離したとしても、片方の状態はもう片方の状態に影響を及ぼすという時空を超えた相関をもちます」

entanglementsと慈悲 

量子もつれ(エンタングルメント(entanglements))
2つの物体を宇宙の両端まで引き離したとしても、片方の状態はもう片方の状態に影響を及ぼすという時空を超えた相関をもつ
 
「時空を超えた相関」が、実際に実験室で検知されているのです
「量子もつれ」が、華厳経でいう「無尽重々縁起」や仏教の考える「慈悲」と物理学との接点だ、と考えています
 
いつもの図ですけれど
この「空」は、世界に「一つ」しかありません
ま、これは正確な言い方ではなく、「一つ」というのは、数えた後で脳内に形成される認識であって、実際の「空」は、数える以前の状態でそこにあるわけです
こういう時、仏教に便利な言い方があって、「一如、いちにょ」(ひとつのごとく)と言います
数えたら「一つ」なわけですが、それを言ったら「色」になってしまうので、「如」をつけて「空」であることを表現します
「空」は、そもそも数えてしまったら「色」になってしまいますから、数えませんが、いくつもあるということでもなくて、「一如」であると
たとえば、仏は向うから来るから、来るが如きで、如来です
祈ったからとか、拝んだから、頼んだから来るのではなくて、仏の都合(つまり、衆生を救おうという請願)で向うから来ます
それを、「仏が来る」と言ってしまったら、脳内に形成される「色」になってしまうから「如来」と、厳密に表現してるわけです
 
ですから、ちょっと常識というか日常の感覚とかけ離れていますが
目の前のモニターは、ぱっと目をつぶれば、「空」になるわけで
地球の裏側と繋がって「一如」になります
これを、人間の存在や、心にも当てはめることができます
 
 
我々は、地球のこちら側と裏側とでは、別々の角度から、身の回りのことを、見たり聞いたり、全く別々のことを感じているのですが、地球は一つしかありません

これは、ご理解いただけると思います

 

同じように、「空」も「一如」ですから、あっちとこっちで別々の世界を認識していても、実は「一如」の世界を感じているのです

つまり、原則的に言って、こちら側でしたことは、反対側にも影響します
感じる前の世界は全て「空」ですから、どこまでも、宇宙の果ての向こう側どころか、過去や未来とも繋がっています
これを華厳経で「無尽重々縁起」と言ってるわけです

「片方の状態はもう片方の状態に影響を及ぼすという時空を超えた相関をもつ」まさにentanglementsですね

繋がっているのですから、「共感」や「感動の共有」が可能です
仏教で言う、他心通(他人や動物の心がわかる)、神足通(遠隔地にあるものに触れることができる)なども、その延長上で可能になってきます

それが
「他人の苦痛」を我がことのように共有する
「他人の喜び」が我がことのように嬉しい
困った人がいれば、何かせずにいられない
といった、素朴な感情の理由です

ですから仏教的には、「慈悲」は「空」から生まれます
打算、利害、損得といった「我」から生じる思惑とは別世界に、慈悲はあるのです

私利私欲を忘れて誰かを助けるのは、実は、他人を助けているのではなくて、自分自身を助けているのです
だから、喜んでもらえれば我がことのように嬉しいし、見返りがあればそれに越したことはないけれど、特に見返りを求めない
それが、慈悲です