長保寺木造金剛力士立像像内納入文書断簡

和歌山県立博物館研究紀要 第2号   平成9年3月31日発行

和歌山県立博物館学芸員  竹 中 康 彦


1 長保寺大門と木造金剛力士立像の修理について

 和歌山県海草郡下津町大字上に位置する長保寺には、本堂・大門・多宝塔の三棟の国宝建造物が存する。このうち大門は、近世の書写にかかる『慶徳山長保寺縁起并勧進状之写』という冊子に収録された「紀州海郡浜中庄長保寺縁起」(応永24(1417)年9月21日付)や、天和3(1683)年10月18日の『長保寺大門并食堂鎮守八幡宮棟札』という冊子に収録された「大門再営由来写」などによると、嘉慶2(1388)年に後小松天皇の勅宣をうけて、長保寺の沙門実然を願主とし、大工藤原有次により再興されたということである。また、裏面に「妙法院宮御筆応永廿四年六月一日」という刻銘のある扁額も、「王代一覧抜書」(「長保寺記録抜書」という冊子に掲載)などの資料から、大門と同じ時期の妙法院宮尭仁親王筆と伝えられる。ちなみに、現在大門に掛けられている扁額は、紀州徳川家初代藩主頼宣が儒学者李梅渓に命じて模写させたものである。
 その後、元和7(1621)年には搭頭最勝院の恵尊が、天和3(1683)年には二代藩主光貞が、それぞれ修復を行なっていることも、「大門再営由来写」などによって判明する。
 さらに近代に入り、大門は明治33(1900)年4月7日に特別保護建造物に指定され、明治43(1910)年から同44年にかけて解体修理がなされた。なお、昭和28(1953)年3月31日には、文化財保護法にもとづき、扁額とも国宝に指定されている。
 この近代の修理については、これまであまり注目されることはなかったが、平成3(1991)年度から和歌山県立博物館で継続中の長保寺文書(下津町指定文化財)の調査により、関連する書類が数点発見された。とくに、明治〜大正期の長保寺住職瑞樹尭海師による『大門修繕要件扣』は、修理にいたるまでの具体的な事務処理の過程・実態を克明に書き留めており、非常に興味深い。それによると、明治37(1904)年に一度、大門の修理のための国庫補助金交付願が出されたが認可されず、明治43年6月の内務省宗教局長などの調査を経たのち、6月22日付の追願書により、同年8月に補助金の交付が認められ、11月から修理が着手された(工程表によれば、作業終了は翌年8月という予定であった)。
 ところで、これらの一連の建造物修繕関係の書類のなかに「仁王像修繕受負契約書」がある。これは大門の木造金剛力士立像二躯(下津町指定文化財)に関して、損傷部位の所見・修理の仕様・修理費用の内訳などを記した「設計仕様書(写)」などとともに、奈良・東大寺勧学院内にあった日本美術院第二部が作成したもので、明治44年1月14日の日付を持つ。工程表が現在のところ発見されていないため、着手・終了の日程は詳らかではないが、契約書の日付から考えると、大門の修理が開始されるとすぐに、大門内の金剛力士立像の修理も決定・実施されたものと思われる。

二 木造金剛力士立像像内納入文書断簡について

 以上のような経緯で、長保寺大門と木造金剛力士立像は明治44年を中心とした時期に修理が行なわれたのであるが、この修理の過程で発見されたものと思われるのが、以下紹介する文書断簡である(釈文・写真は末尾に掲載した)。
 長保寺文書は、全体として、原秩序がかなり失われているために、にわかに断定することは困難であるが、現時点においてこの断簡は、上述した「仁王像修繕受負契約書」と同じく、近代の建造物修繕関係の書類が多く含まれる収納単位に属している。資料の現状はきわめて簡易的な巻子状を呈し、やや厚めで柔らかく新しい和紙の上に、比較的腰のある和紙四片(第一紙〜第四紙)が貼られ、さらにその上に墨書の記された黄楮紙断片を貼付けたものである。台紙の痛みが少ない一方、各断簡は虫蝕痕などが著しいため、貼付けられる前にすでにかなり破損していたものと思われる。第四紙に象徴されるように、とりあえず残存する墨書を仮に貼り留めておくために作成されたような体裁であり、貼った際に使用した刷毛の毛も貼り残されていることから、表装を専門とする表具師の仕事とは到底考えられない(使用されている糊も弱いものである)。
 内容的には、第一紙・第二紙は第一紙の方の貼継部分が大きく欠損しているものの、第一紙冒頭に「長保寺弐天造営助成結縁寺僧交名事」と書かれているごとく、金剛力士像の造営に結縁した僧侶の名前を書き上げた一連のものである。第二紙末尾の行にみえる年紀については、年号の部分が欠損しているが、下一桁が「九」の年で、干支が「丙戌」にあたる年は弘安9(1286)年の後は、文政9(1826)年まで存在しないため、書風とあわせて考えるならば弘安9年と結論づけることができるであろう。天地は両紙とも、左右は第二紙について判明するので、紙高は26p程度、一紙の長さは24p程度と推測される。
 第三紙は二つの断簡からなるが、一連のものかどうかは不明である。前半部分には、「法橋幸憲」「同幸實」なる人名がみられるが、詳細はまったく不明である。後半部分には、「銭百文」「四郎兵衛尉(不詳)」などとあり、造営に結縁して奉納した金品・奉納者名が書き上げられた部分のほんの一部であろう。ただし、前半部分と後半部分とが第三紙にまとめられている理由や、これらと第一紙・第二紙・第四紙との関係は不明である。
 第四紙は、墨書のある断簡13片を寄せ集めたものである。なかには、文字の一画分のみという、小断片も二つある。紙の色もまちまちであることから、おそらく相対的な位置関係もなく、単に貼り集めたものであろう。比較的大きな断簡には、「以此功徳」「安穏後生」などといった目的を述べた部分や、「大佛師」「(造)営佛師」などの文言がみられるが、残念ながらこれ以上の情報を提供するものではない。ただし、「丙戌六月一日」という年紀を記した断簡とあわせて推測すると、この第四紙の大半は6月1日付の願文を構成する断簡と考えるのが適当であろう。
 以上を要約すると、第一紙・第二紙は結縁交名、第四紙は願文の大半、第三紙については現在のところ断定不能ということになろう。また、他の像内納入品の類例から考えると、結縁交名と願文は別々に仕立てられていたものと思われる。そして、このような金剛力士像造立に関わる断簡が、ごく新しい紙に急遽貼り集められているのは、やはり明治44年の修理の際に二躯いずれかの像内から発見されたと考えるのがもっとも自然であろう。 国宝建造物である長保寺大門については、早くから調査・検討がなされてきたが、不思議なことにその中の金剛力士立像については、運慶作あるいは湛慶作という伝承がある割には、管見のところ本格的な調査がなされることはなかった。今回確認された貴重な像内納入文書や修理記録などにより、金剛力士像造立の年代は弘安9(1286)年の可能性が強くなったが、約百年後の嘉慶2(1388)年という大門再興の年代との関係が問題になる。今後さらに重要なのは、像そのものの精査・検討であろう(和歌山県立博物館編『長保寺の文化財−仏画と経典−』では、鎌倉時代のものとする。一方『下津町史』史料編上では、南北朝ころの慶派系統の作としている)。また、損傷の著しいこれらの資料の修理・保存も必要になってくるものと思われる。

《釈文》

(第一紙)

長保寺弐天造営助成結縁寺僧交名事
月輪房□寺 日浄房 禅林房 三人塔
善智房    □房壹達
□悟房

(第二紙)

□           □□
智浄房 聖忍房 □聖  □□房
覚願房 禅信房壹頭 日前房 □□房
道浄房 俊甚房 良俊房 如一房
常体房 智月房 □□房
龍年房 道順房 禅□房 覚□□
月   覚浄房 禅徳房 賢間房
    定蓮房

    九年丙戌 三月廿

(第三紙)

 □    □□□□
 法橋幸憲 同幸實

   及□一枚 銭百文 四郎兵衛尉殿菓政
      □ □

(第四紙)

         □□
□□□ □□   奥腹□    □越登

         □ □□□  営佛師□

以此功徳□           □□
安穏後生□    □
 □□      □□     大佛師  □
丙戌 六月一日   所□□□
               月始□六月一日

                □□乃焉


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