癒される瞑想

 

瞑想するのは簡単です とても気持ちいいですよ
あなたの孤独と不安を癒す、もっとも身近で本質的な方法です

 

今、パッと目をつぶってみてください

モニターは見えなくなります
見えなくなった間にモニターは月に行っている・・・わけはなく、そこに「ある」のですが、見てないから、わかりません
わからないけれど、「ある」

その、見てないモニターを「感じる」ということですよ

見ていない世界は、自分で今感じている世界より、広いのです

過去も未来も、地球の裏側も、宇宙の果ても、皆、見ていない世界にあります
その、見ていない世界に、あなたを救い導く存在がいます
これから出会う取引先かもしれないし、病気を治してくれるお医者さんかもしれないし、いつか、神仏と出会うかもしれません

敵や、仇もいるでしょう
もちろん、なるべく、出会いたくない

この見ていない世界を「感じる」ために、仏教では伝統的に瞑想をします
いわゆる「禅」です
敷居が高く感じるかもしれません

皆さんは、微笑んで、静かに呼吸に意識を集中してみてください
自分自身の中にある無限の可能性に、出会う方法です

微笑むのは、瞑想中に「善きもの」とだけ出会うために必要です
これ、一番大事なコツです

呼吸に意識を集中するのは、呼吸は、意識して早くも遅くもできますが、普段はまったく呼吸しているのを忘れています
つまり、呼吸は意識と無意識にまたがっているのです
それで、呼吸に意識を集中すると、手軽に無意識の領域に近づけるということになります

ボケーっとなにも考えないのがいいのですが、これが、やろうとすると案外難しい

一番効果があるのは、朝日か夕日を眺めることです
日中は、太陽光線が強くて見つめることができませんから

お寺とか神社にお参りに行って、お堂の前で拝む時のコツです

先ず 
微笑んで  (リラックスして、呼吸に意識を集中します)

次に
そのお堂の、本尊様の名前を呼んでください
 南無観世音菩薩、とか
 南無釈迦牟尼仏、とか
 南無東照大権現、とか

次に
息を吸います 「だいじょうぶ」
あなたを守る力が体に入ってきます
(ありったけのイメージで思ってください)

次に
息を吐きます 「うまくいくよ」
その力を、あなたの好きな人に分けてあげましょう
(ありったけのイメージで)                    

 

1,2分続けてみてください できればもう少し長く
あなたを守る力が、だんだん強く大きくなってきます

疲れたらやめて、あなたを守る力に感謝します

お堂の前で拝むのコツ

1 微笑む

2 本尊様の名前を呼ぶ

3 息を吸う あなたを守る力が体に入る と思う

4 息を吐く その力を分けてあげる と思う

 

それを繰り返します

http://chohoji.blogspot.jp/2015/11/blog-post.html

お堂の前で拝む時のコツ 理論編
http://chohoji.blogspot.jp/2015/11/blog-post_6.html

 

 

 


 

感じる前の世界には、生じることも滅することも、垢つき汚れることも清浄なることも、増すことも減ることも無く、一でも異でも常でも断でも去でも来でも無く、「完全な秩序」があります

しかし、自分の感覚器官を通じて、脳内にイメージを構成する時、「歪み」が生じます
妄想、誤解、間違い、思い込み、見落とし、などが生まれます

瞑想によって、歪みのない世界に触れ、バランスを取り戻し、素直で冷静な気持ちになります
悩みを解決し、窮地を救い、行き詰まりを打開する「慈悲と智恵」が自分の中から生まれます

 


Healing Meditation


長保寺 国宝多宝塔(1357) 国宝本堂(1311)

  

 

Please smiling(As Mona Lisa)

Breathe quietly
Imagine “OK”
Sigh gently
Imagine “Fine”

And end with thanks

I respect Buddha
I respect Christ
I respect Allah
I respect many Gods
And 
I believe in my good heart

ボーっとしてる時間がありますよね
その時
微笑んで」みてください
モナリザのように

お風呂場でも、トイレでも、どこでも

リラックスして
呼吸に意識を集中して

イメージしてください

息を吸うとき「だいじょうぶ」 

息を吐くとき「うまくいくよ」

1,2分続けてみてください
できれば、もうすこし長く

息を吸うとき
あなたを守る力が体に入ってきます(ありったけのイメージで思ってください)

息を吐くとき
その力を、あなたの好きな人にあげましょう(ありったけのイメージで)

疲れたらやめて
あなたを守る力に感謝します

 

 

大事なのは

微笑むこと
自分を信じること
「最高の自分になる」と決意すること

瞑想の成果が乏しいのは、「最高の自分になる」という決意が十分でないからです

普通、宗教というと、「神仏を信じなさい」と言う、と思ってらっしゃるでしょうけど、あなたが信じるのではなくて
ホトケがあなたを信じているのです
今、この時も

つねに自らこの念をなす 何をもってか衆生をして 無上道に入らしめ 速やかに仏身を成就するかと(法華経如来寿量品)

 
 
 
どんなに偉い神仏でも、自分の代わりに働いてくれたり、朝起きてトイレにいってくれたり、腹がへったら飯を食ってくれる、というわけではありません
生きていくのは自分です
自分を信じてください
あなたが信じる、自分の「良心」が、ホトケの心に続いています
 
自分の「良心」を信じてください
「良心」を突き詰めていくと、仏心に突き当たります
そこまで言い切るのは、仏教だけです
キリスト教やイスラムでは、人は絶対に神にはなりませんが、仏教は、なんてったって成仏を目指してますからね
 
 
 

 


癒される瞑想の仕方 

 

あなたが一番信頼する光に意識を集中します

リラックスして

目をつぶって

ほほえんで(大事なコツです)

無条件に全てを赦し救う心を感じながら

静かに息を吸って

 

無条件に全てを赦し救う気持ちで

体の力を抜きながら 息をゆったり吐きます

それを繰り返して

光だけになります

 

疲れてきたらやめて

光に感謝を伝えます

光のかけら

僕らは
どんなにつらい時でも
自分のことは自分でしなければならない

考えたこと 言ったこと したこと
すべて心の中に刻まれる

助けを求めている僕らの心

だけど
僕らの心のどこかに光のかけらが隠れている

か弱く無知な光のかけら
学びを終えた偉大な輝き達が護り導いてくれる

僕らは光の中でつながっている

苦しみと喜びから多くのことを学びながら
光のかけらは成長を続ける

光のかけらはこの体を離れても
またどこかに生まれ出る

そして いつか
偉大な輝き達に仲間入りして
だれも知らない明日を
共に創造する

 

光のかけらを感じるには瞑想が必要です
自分自身の中にある無限の可能性に、出会う方法です

自分に光が注がれるでけでなく、縁の有る人すべてに注がれると思いながらすると、より気持ちいいですよ

ほほえんで
無償の愛
無条件の赦し
深い感謝
さわやかで暖かい感触を感じながら
静かに息を吸い
体の力を抜いてリラックスしながら
ゆっくり息を吐きます
リラックスと適度な緊張が必要です

この瞑想は、光に手伝ってもらって、光の心を感じる瞑想です

自分が、自分に目覚めるだけのことです

守護してくださる光は、各人に縁のある聖者です
釈迦とかキリストとかのブランドに帰依するのではなく、慈悲の実感をセンサーにしてください
ここでは、お釈迦様にお願いします

自分なりに人生から学びを深めていくというのは、本筋ですが、密教では、すでに学びを終えた光に手伝ってもらったほうがスムーズにいくと考えています
優秀なコーチの指導でスポーツをするようなものですね

瞑想の準備

執着はほどほどにし
神仏を信仰し
死んでも心はなくならないとわきまえて
因果はめぐりめぐって自分にかえってくると覚悟して
慈悲をこころがけ
智慧を深める

朝日を浴びてください
両手をいっぱいに広げて、「太陽の力と優しさが体に降り注ぐーー」とイメージしてください
まぶしいですが、目を細めて、太陽を見てください
太陽の姿を記憶してください
瞑想するとき、ふりそそぐ太陽の光を思い出してください

必ず「光になる」と強く決意してください (この決意で、光と繋がります)
瞑想の成果が乏しいのは、この決意が十分でないからです
的の真ん中をはっきり意識してください

「光とはなにか」とか、「どうしたら光になれるのか」とか、考えるのは、後回しにしてください
時間をかけて考え続けるのが、瞑想的生活です 

 

心はそれぞれ別々の存在ですが、ほんとうの世界では慈悲を通じて繋がっています
ですから、ほんとうの世界に向かって「無条件に全てを赦し救う心」を送り出せば、ほんとうの世界から「無条件に全てを赦し救う心」が返ってきます

輝く「心の先輩」に手伝ってもらえば、それができます

釈尊は、無条件に手伝ってくれます

 

宝号

南無釈迦牟尼佛 なむしゃかむにぶつ 三返

読経

毎自作是念 如何令衆生 得入無上道 速成就仏身 一返

まいじさぜねん いがりょうしゅじょう とくにゅうむじょうどう そくじょうじゅぶっしん

 
瞑想
体をリラックスした姿勢にしてください。
息を三回位吐いて、肩の力と体の余分な力を抜きます
深くリラックスします 息を吐くときにあわせて力を抜きます コツですね

座るなら、背筋を力をいれずに伸ばした姿勢で、手は法界定印。

座っても、腰掛けても、寝ていても、歩いていても瞑想はできますが、始めのうちは背筋を伸ばして腰掛けるのがやりやすいでしょう。その場合はひざが腰より低くなるように椅子を高めに調節します。お尻の下に座布団をあてて足を組んですわる座禅のすわりかたも腰を痛めませんが、みなさん膝が硬くなってきていますから、無理しなくてもいいです。座る場合は左足を下にして上に右足を乗せる半跏座。

法界定印は手の平を上にして、左手を下、右手を上にして重ね、親指の先をかすかに着けます。これは密教の座り方です。印を組むのは仏とだけ交流するしるしです。

無条件に全てを赦し救う心が大慈悲の光明となって降り注ぐ様子を、強くイメージします

降り注ぐ大慈悲の光明は、涅槃に入られた釈尊のお心です。

 

リラックスして、かすかに微笑んで(非常に大事なコツです)瞑想してください

瞑想中は眼をつぶって

燦々と大慈悲の光明が降りそそいで

静かに息を吸うと全身の皮膚から光が体の中にどんどん溶け込みます

ゆっくり息を吐きながら肩の力をどんどん抜きます

体の余分な力を抜きながら、ゆったりと呼吸します

色々な思考が浮かんだら、吐く息といっしょに全て吐き出します

息を吐くと大慈悲の光明が全身から流れ出し輝きます

そして 光だけになります

 

瞑想を続け

光を感じつづけます

そして、光に満たされて、自我から解放されます

光だけになります

 

瞑想を終わるときは、目をつぶったまま手のひらをこすり合わせて暖かくして、ゆっくり顔をこすり目を開けます。

心を鏡にたとえると

鏡を磨いてピカピカにすれば、人知を超えたすべての世界が自然と心の鏡に写るようになります

無償の愛・無条件の赦し・深い感謝は大慈悲の一部です

それが、「無条件に全てを赦し救う心」になって降り注ぎます

大慈悲の光明は無条件に常に私たちを照らしています
鏡を磨きさえすれば、自然に写ります

鏡を磨くには
静座して 呼吸に集中し 沸々とわき起こる雑念を、息と一緒に吐き出します

呼吸に意識を集中すれば心のさざなみが静まります
雑念も、 いい思いつきも、心に浮かぶこと全て、捨て去ります

鏡に何を写すのかといえば
無限広大な大慈悲を写します
大慈悲はすべてと繋がっています
ありったけの想像力を膨らませて大慈悲を感じます

したがって
リラックスして、かすかに微笑んで
出入の息に大慈悲を観ずれば、瞑想はうまくいきます

 

ただ どちらにしても  どのような祈り方でも
大慈悲の感触がなければ、形骸化したうわべだけのものになります

大慈悲は我々がたよりにすることの出来る、蜘蛛の糸のようなものです
天上からこの世界につながる、ただ一つの道しるべです

 

感触がつかめたら、いままで乗れなかった自転車に初めて乗れたときのように
いつでも瞑想できるようになります

感触をつかんでください

癒される瞑想の模式図


模式図解説
「癒される瞑想」は仏教の伝統に基いています

 

 
仏教の空観、プラトンのidea論、量子論は、極めて似た構造をしています
つまり、極めて普遍的な考え方だということです

 

見える、聞こえる、感じるなど、感覚器官でとらえた印象が脳内イメージになって、世界を認識しています

脳内イメージは、各人各様、すべて独自のものになります(脳内世界)

しかし、感じる前の世界は、たった一つしかありません
生滅も垢浄も増減もない、時間と空間のない完全無欠な世界です(真実の世界)

 

自分が感じた世界は、自分だけのものです

感じる前からある、ありのままの世界とは違います

自分の作り出したイメージに執着するのが「我執」です

苦しみや悩みは、「我執」が根本原因です

 

感覚器官で感じる前の、ありのままの世界そのものが、自分というフィルターが介在しない、真実の世界です

今自分が感じている、苦しみや悩みが、全くない世界です

苦しみや悩みを救う力は、感じる前の世界にあります

その力に気づくのを、悟り、と言います
わがこころ、吾心ですね

 

見る側の我々と、見られる側の世界との間には壁があります

この壁を超えるのが「慈悲の感触」です
ここでは、光と言っておきます

「慈悲の感触」だけが至高の心に繋がっています

あなたが、全力で誰かのために働く時、自分自身の中にある、至高の心に出会えます

 

 

普段は感覚器官によって切り取られた、自分の脳内世界を自分自身であると思い込んでいるのですが(つまり我執)、実際の自分自身は感じられる前の「至高の心」そのものなのです(これが悟り)

心の重点を、私利私欲に置けば、迷いの世界が深まり
利他公益に置けば、「至高の世界」に直結する、と単純な理屈です

実は、「至高の世界」に気づけば、「死」の意味も変わる、ということですね

 

身近な表現で言えば、理想だけ追求してもダメで、現実だけ重視してもダメなんです

理想と現実、両方あるのが人生です

理想だけ求めて他人を非難し、欠点を探しても、なにも解決しません

現実の利害得失だけ求めても、出口のない堂々巡りが続くだけです

 

理想でもない、現実でもない、なにが重要なのかというと、慈悲ではないですか

 

誰かのために働く時、本当の力が湧き上がります

それを仏教では「慈悲」と言っています

 

 


解説

 姿勢

仏教では一般的には座って瞑想することになっていますが、これは釈尊が悟りを開いた姿が源泉になっています。しかしながら、仏教の長い歴史をひもとくと、行住座臥いろいろな姿で過去の高僧方は悟りを開いています。
阿難尊者は仏滅後の第一結集の時にまだ悟りが開けず、仲間に入れてもらえそうになっかたので、もうだめだとガックリとうなだれたところで忽然と悟りを開いたといいます。弘法大師は求聞持法を修行したとき明星が口に入ったといいますから、おそらく首を明星を見る角度まで上げています。白隠禅師は托鉢をして門前に立っていた時、無信心な婆さんに水をぶっ掛けられて、悟りを開きました。この白隠禅師の「軟蘇の法」は寝てします。キリストは荒野をさ迷い歩いて、これは座ったというのはないらしい。
悟りがひらける瞬間は、あまり姿勢とは関係ないと思いますが、長いこと瞑想しつづけるには、やはり負担の少ない方法ということで有史以前から、座って瞑想という姿に自然となったのでしょう。これが、だから、背筋を伸ばした優雅な姿勢であることが望ましいですが、姿勢が悟らせてくれるのではありません。

座る場合、右が上か左が上かで諸説あります。どうもインドの仏像、ビルマ、タイなども右が上のようです。左が上は中国に来てからかもしれません。宗派の伝統に従えばいいとしておきます。
ただこの瞑想は座るのなら加持を得るため密教式に右を上にしてください。

 

法界定印。一般的な仏教の形ということです。密教の場合は印と真言と観念の三つが必要になりますが、難しいので、シンプルにしました。
シンプルにしても難しいことは難しいのです。慣れれば印はいらなくなります。布団の中などで寝てするのなら印はいりません。手のひらを上に向け、光を受け取ることをイメージします。寝入りばな、覚醒時などに練習すると深い瞑想に入れるようになります。
法界定印を積極的に否定する人は、魔が近づくのでこの瞑想はやめてください。

補足 氏神様かその土地の神様を信仰してください。それと有縁の霊を十分供養してください。お金をかけることとは関係ありません。心が通じることが大事です。たとえば、近くの神社にお参りして、お墓参りをちゃんとするということです。ここらあたりが、かなり奥深い問題になりますが、独り善がりで瞑想に打ち込んでも、瞑想が深まれば深まるほど、大きな問題になってきます。

 

呼吸

これも諸説あります。一般的に言って、普段は呼吸を無意識にしています。意識的にすることに切り替えることも出来ます。つまり、意識と無意識の両方にまたがっています。で、呼吸に集中すると無意識の領域に近づけるという理屈。
難しく考えず、慣れるにしたがって深くゆっくりした呼吸になります。何秒吸って何秒吐くなどと言ったところで、すぐにも効果があるわけでもありません。緊張せずに、自然にゆったりしてくるのを待ちます。
呼吸に意識を集中するのは、精神集中と言っても捉えどころがなく、すぐに雑念が起こるからです。無意識に心が向くもっとも身近な方法です。

息を吐くときは、自分の中にある、恐れ・満たされぬ思い・悲しみ、などが体から抜け出て法界の大慈悲にゆだねられることをイメージします。ゆだねて、受け止めていたただけるわけですから、感謝の気持ちで息を吐きます。

体の力を抜きながら息を吐くのがコツです

深くリラックスします

力を抜きながら呼吸をしていると、次第に体の感覚がなくなってきます

 

補足 瞑想が深まれば、呼吸は意識されなくなります。

 

目をつぶる

半眼といってかすかに目を開けるという説もあります。目をつぶると自動的に寝てしまうように人体ができているのではないかというのが根拠。ただ、光をイメージするのには目をつぶらないとうまく出来ません。

仏像とか仏画、はては荘厳な伽藍などは、イメージの強化のためにあると言ってもいいのです。これはこれで大変に意義深いものですが、つまりはこれらは物質であって、この物質を維持管理するためにいらぬ苦しみが生じてくることになるのです。目を閉じて瞑想することに習熟すれば、いらぬ心配はしなくてよくなります。

補足 私の寺は、本堂・塔・門と国宝で境内15000坪は国史跡です。目をつぶるのは、思いつきや洒落で言っているのではありません。

 

かすかに微笑む  とても大事です

微笑むのは、瞑想中に「善きもの」とだけ出会うために必要です
これ、一番大事なコツです

インドに残されている仏像はどれもかすかに微笑んでいます。仏頂面という言葉がありますが、口をへの字に曲げてしかめ面をするのは瞑想の時の面構えではありません。奈良の大仏さんの顔は、威厳のあるちょっと怖い顔ですが、あれは国家の威信を示すためあんな顔をつくったのだと思います。
皆さんは、安らかな微笑みを浮かべて瞑想してください。

 

 

サールナート博物館  初転法輪の釈尊

 

宝号

円頓章や本覚讃、総礼伽陀もいいが長いので。宝号は魔事をさけるため唱えてください。三帰・三境もいい。門徒であるなら念仏もいい。大師宝号や真言とか陀羅尼もいい。五体投地もいい。と、だんだん長くなってしまうので簡単なものを探してください。無宗派でいいという指導があるが笑ってしまう。瞑想は実際そんなに甘くありません。健康法とは違います。厳粛なものです。

補足 自分勝手に作ったものはだめです。少なくとも500年、出来れば1000年以上の伝統のある宝号か経典の一節を唱えてください。神僧や祖霊が聞いてわかる必要があります。自分の命に、宇宙のもの、大自然にあるもの、といろいろ理屈をつけても、お父さんお母さんがいなければ生まれてはこれません。同じように、いずれかの宗教の伝統の流れに入らなければなりません。この瞑想ではお釈迦様に帰依してください。

 

読経

毎自作是念 如何令衆生 得入無上道 速成就仏身 一返

まいじさぜねん いがりょうしゅじょう とくにゅうむじょうどう そくじょうじゅぶっしん

意味 つねに自らこの念をなす 何をもってか衆生をして 無上道に入らしめ 速やかに仏身を成就するかと

 

法華経如来寿量品の最後の部分です
全てのお経のエッセンスです 最低限これだけは必要です

これは、お釈迦様が、つねに、今この時も、自分で自発的に、あなたを無上道に導こうと念じている、ということです
「救って欲しい」とお願いされたからではありません いつも一方的に無条件に念じていらっしゃいます

つまり、お釈迦様が念じてくれます

しかも、なんの条件もありません

 

大慈悲

無償の愛、無条件の赦し、深い感謝、これらは大慈悲の心の一部です

ここでは、それが、無条件に全てを赦し救う心となります

もっと深く、大慈悲を感じてみてください

大慈悲は我々がたよりにすることの出来る、蜘蛛の糸のようなものです
天上からこの世界につながる、ただ一つの道しるべです

ただ、お釈迦様というイメージを自分で作って、おすがりするのではありません

自我という夢から覚めて、大慈悲の光そのものになります

 

燦燦と大慈悲の光明が降りそそぐイメージ

釈尊は涅槃にはいることで、大宇宙に遍満することになりました。三界を越え、因果を超え、時空を越え、存在しています。これが嘘なら、仏教は2500年も続きません。これは、はっきり感じられないうちは、頭上から優しい愛の光が降り注いでいる様子をイメージしてください。

補足 無量義経に「釈迦牟尼如来を毘盧遮那遍一切処と号す」と書かれていて、 釈迦、大日一体の根拠とされているのですが、慈覚大師と智証大師は入唐して大興善寺の元政阿闍梨に釈迦、大日一体であることを念を押して確認して、仏教の正しい伝統であることをはっきりさせました。涅槃経にも「仏は常住である」と書かれています。
お釈迦様は歴史上に実在した人物です。この心は実在したし、今も活動を続けています。いずれ感じられるようになります。

ここでは釈尊の光ですが、ご縁のある本尊があれば、いろいろ工夫することも出来ます

 

心の中で慈愛の光が輝く

難しく講釈すれば天台本覚思想ということになります。生ける者すべてに仏性があります。なにか、自分以外の別の者になるのではありません。生まれ出た命の根源には、必ず光り輝く仏心があります。
これが日の目をみるのか、見ないままで終わってしまうのか、ということです。
常・楽・我・浄を涅槃の四徳というのですが、皆様の仏心にもこの四徳が備わっています。仏心は、不滅で、限りなく楽しく、自我は消滅せず、清らかです。生死を越えた心が皆様の中にあるのです。

心のよりどころを自分自身の中に求めてください。集団とか教祖様ではありません。家族、夫婦でさえありません。
しかし、あなたの中の仏心がすべての存在とつながっています。あなたは孤独ではありません。確固として独立した存在でありながら、身近な人とは強く、そしてすべてと深くつながっているのです。 

補足 法華経の法師品に「如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心なり」とあります。密教の月輪観は照らされる瞑想ですが、これは照らす瞑想です。皆さんが深い瞑想に入れるようになれば、その深い意味がおのずと体得できます。
涅槃経に「一切衆生に悉く仏性あり」と書かれていますが、ここのところが仏教の本質ではないでしょうか。また、「自灯明、法灯明」とあるのも有名ですが、ある特定の場所とか、人物とか、経典ですらよりどころではありません。それが釈尊の遺言です。最後のよりどころは、自分の心の中にあります。瞑想は拠り所を外に求める「おすがり」ではありません。ご自分の中に仏性があることを、深く安堵してください。

 

大慈悲に繋が

加持でもあるし感応でもあります。サンスクリットではヨーガでもあります。(英語のyokeの語源らしい。)
仏心は遍満しているから、当然つながっています。以心伝心。心が通じる。これは、必ず釈尊の心とつながらないといけません。つまり、ここが信仰心が必要なところです。
もの欲しそうな瞑想をすれば、もの欲しそうな霊とつながります。慈愛を念じてください。瞑想している間だけでいいですから、全てを許し、受け入れ、慈しみ、感謝してください。そして、明日はもっと深い慈愛を念じてください。お願い致します。それと、案外我々は自分で自分を罰しているのです。自分自身の全てを許し、慈しんでくさい。大慈悲にゆだねてください。

ほかに適当な言葉がないので、大慈悲という言葉を使っています 意味や印象は、感触として、ご自分で感じることが大事です

補足 ほんとに瞑想している間だけでいいんです。だんだんと自然に身についてきます。

 

息を吐くとき、肩とか体の力を抜きながら、リラックスをつづけると、体の感覚が消えてきます

深く大慈悲の光を感じられるようになったら、光で、ご縁のある方を包み込むこともできます

心はそれぞれ別々の存在ですが、ほんとうの世界では慈悲を通じて繋がっています
ですから、ほんとうの世界に向かって「無償の愛・無条件の赦し・深い感謝」を送り出せば、ほんとうの世界から「無償の愛・無条件の赦し・深い感謝」が返ってきます

「光になる」と決めてしまえば、どんなに時間がかかろうとも、あなたはいずれ光となります
現在どういう境遇であっても、今の生活は光にいたる必要不可欠のステップです
過去の行いはすべて、光となったあなたに生かされます
細かいことをクヨクヨ心配するのは無駄なことです

生まれ変わり、死に変わり、必ず、あなたは光になります

輝く心の先輩に手伝ってもらえば、それができます

釈尊は、無条件に手伝ってくれます

 

自我からの解放

善でも悪でも、振り返ってみて嬉しくても不快でも、過去の行為(カルマ)は、全て心の最深部にしまわれています
カルマは、心の一番奥底にあって、表面意識では全くアクセスできません

しかし、カルマが心の中にあるうちは、それは想念であり、幻想であるので、想いが変われば消しさることができます

微笑みつつ、自分のカルマにアクセスして、無条件に赦す、とカルマは消滅します

大慈悲の光に対する、心の最深部からの信頼感が、自分自身がコントロールできない、深い心の奥底にある自責の念と入れ替われば、滅罪生善します

善も悪も、全てのカルマは心がつくった影で、大慈悲の光によって消滅します

 

下座行

自分の中にある仏心に導かれて、今自分が置かれた立場や環境の中で、やれるだけのことをやる、ということです。

 

瞑想する場所

当然のことながら、誰にも邪魔されない、安全で静かな場所であることが望ましいのですが、慣れれば、どこでも出来るようになります。気分よくリラックスできるところ、どこでもやってみてください。聖地といわれている所の感触にひたるのもお勧め致します。香を焚くのなら、出来る限り高価な良い香を焚いてください。

 

時間

最低15分はしてください。長くて90分。個人差がありますが、リラックスして、なおかつ集中力が継続する必要があります。ちょっとづつでも毎日おやりください。
1分でも5分でもやってみてください。

 

食事

わかりきったことですが、酒をのんで瞑想はできません。カフェインは深い集中が出来なくなります。タバコに中毒している方は、集中力が長時間続きません。

肉食については、半年位食べずに瞑想して、今度は肉を食べてから瞑想すればわかります。避けたほうがよろしいかと思いますが、必須アミノ酸が補えなくなりますので乳製品を食べなければなりません。乳製品の場合、乳耐性が年齢と共に衰えてきて下痢するようになります。現実的には植物タンパクを主体にして、乳製品、そして魚、肉で補うということでしょうか。

人間はそもそもほとんど肉でできていますので、低タンパクはお勧めできません。

 

 

釈尊涅槃の日 2004年2月15日

 

もう少し詳しい解説はこちら

 

仏教聖地巡拝紀行 インド、ネパール、タイ 仏教聖地巡拝  写真紀行