長保寺の歴史

長保寺保存管理計画策定会議原稿   平成9年5月17日

長保寺住職   瑞樹正哲


はじめに

 長保寺の歴史についての詳しい考察は、すでに松本保千代氏(下津町史、昭和49年、下津町教育委員会)や竹中康彦氏(長保寺の文化財―仏画と教典―、平成4年、和歌山県立博物館)によりなされているのでそちらに譲ることにする。それぞれ、論文が書かれた時点で得られた資料に基づいて考察されているわけであるが、現在、長保寺に所蔵されている文献資料が、和歌山県立博物館に古文書を中心として約3000点、和歌山県立文書館に江戸時代の版本を中心として約1万点が寄託され調査中であるので、これらの資料の調査が進めばさらに新たな知見が得られる可能性がある。また、特に江戸時代の長保寺については、いまだ手つかずの長保寺歴代住職の日記等の膨大な資料が精査されれば、研究上の大きな成果が期待されるのである。
 そこで、ここでは先ず長保寺の歴史についてほぼ通説となっている考え方を概観しつつ今後理解を進める上での課題を指摘してみたい。また歴史の流れをふまえた、史跡の保存管理の意義について触れることとする。


創建

 長保寺は長保2年(西暦1000年)一条天皇の勅願により、年号を賜り播磨の書写山の開基の性空上人により創建されたとされている。これは長保寺に残された文書に書かれたことを根拠として言われている事であるが、外部の史料等では確認できない。創建にかかわる勅書、綸旨、院宣等の類は焼失したとされている。また長保2年には性空上人は90歳を越える高齢であったはずで長保寺の開基とするには疑問が残る。創建については確証となるものは無いと言ってもよい。したがって、ここでは傍証となるべきいくつかのエピソードを紹介することとする。
 先ず長保2年であるが、この年は一条天皇にとっては特別な年で、この長保2年に中宮の定子が亡くなっている。定子に従っていた女官である清少納言の「枕草子」にこの間の事情が詳しく触れられている。3人目の子の出産直後の死であった。この時すでに、変則的な形として藤原道長の娘の彰子が皇后となっていた。(彰子にお付きの女官に紫式部がいる。)一条天皇としては、都で外見をはばからずに定子の死を嘆くことができたであろうか。あるいは道長に対する配慮から、都を避け、皇室にとって身近な地である熊野街道の中にある摂関領に土地を求め寺を造営する発願を許したのかもしれない。一条天皇と長保2年、そしてこの長保という年号を寺号にした寺の創建を結びつける事件は、定子の死しかない。定子を偲ぶのに熊野を選んだことは記憶されるべきであろう。また、鎌倉時代に本堂が再建された時は仁和寺から印玄が派遣された。後宇多法皇が背後にあったことが考えられる。南北朝時代に、天台座主であった一品親王堯仁により大門の額が掛けられたことも勅願寺であることの傍証とすることが出来るであろう。皇室は長保寺を忘れていないのである。
 つぎに性空上人開基説であるが、年齢を考えれば当然無理とするべきであろう。しかし、開基説を誤りとも断定できない。書写山圓教寺の大講堂の本尊釈迦如来は普賢、文殊を脇士とし本来はそれを、今は摩尼殿にある四天王が囲繞していた。長保寺の本尊も釈迦如来で普賢、文殊を脇士とし、やはり四天王が囲繞している。これは陀羅尼集経の中の金輪仏頂像法という一節を根拠とするものであるが、両者の配置が極めて近似しているのである。金輪とは密教では天皇をさすことから、一般によくみられる配置ということでは決して無く、皇室と何らかの縁がある天台系寺院にごく希に見いだされる配置である。圓教寺と長保寺が釈迦如来をよく似た配置で祀ったところに、なんらかの形での性空上人の影響力が感じられるのである。
 

中世

長保寺に現在みられる主要な建造物は鎌倉時代後期を中心に整備されている。このことには仁和寺と高野山の金剛心院を共に管掌していた真言宗の禅助が深くかかわっている。長保寺には後宇多法皇宸筆と伝える弘法大師画像が伝えられているが、禅助は後宇多法皇の師である。
山間に中規模な密教寺院が形成されるのは中世期の特徴ともいえることで多数の類例があるが、地方の政治経済が充実しはじめ、同時に荘園制度が衰微していったここと無縁ではない。全国的な規模で、在地の勢力が中央の権門の影響力から逃れ、力強く自己表現をし始めたのである。長保寺の場合は、地方の経済力と中央の権威が相まって伽藍の再建を行わせたと言うべきである。長保寺には建造物の他、中世期の仏像、仏画、教典など大量の文化財がほぼ完全な状態で残されているが、中世密教寺院の代表的な史料として今後ますます重要性が認識されることになろう。史跡整備の上では中世期の伽藍の姿が追求される必要があるのである。


近世

江戸時代に至り長保寺は紀伊徳川の菩提寺となった。そのときまでに、勅願寺としてすでに600年の歳月を重ねている。伽藍の姿も整っていた。徳川家が長保寺の本質に付け加えた物は藩主廟所の設置だけと言ってよい。長保寺の本質は中世期に完成されていたと見るべきで、江戸時代の長保寺の姿を探ることは、とりもなおさず紀伊徳川の姿を全体的に把握するための一部分と捉えられるべきであろう。史跡整備を進める上では中世寺院としての姿が優先され、江戸期に造営された物は付け加えられた物であることを認識する必要がある。
さて、長保寺は現在天台宗であるが、これは中世には真言宗であったものを天台宗に改めたものである。このことは性空上人開基説を持つ天台系寺院として始まったことに理由を求めるよりも、紀伊徳川初代藩主の頼宣が天海僧正に私淑していたことに理由を求めなければならない。頼宣は自分の葬儀を天台宗により執行する事を遺言しているが、自ら天海僧正との約束によると説明している。頼宣の意図により、長保寺は藩主廟所と完全に一体化したものとして存在することになったのある。


まとめ

長保寺の歴史を振り返ると性空、禅助、天海といった密教僧が節目を形成していることがわかる。密教こそ長保寺の本質というべきであろう。将来、長保寺に受け継がれ連綿と伝えられてきた密教の伝統が注目される時が来ることになるだろう。
 そして、一条天皇と性空、後宇多法皇と禅助、頼宣と天海といった組み合わせで、国家を代表する人物と密教を代表する人物が長保寺で出会っている。今回の整備計画の策定会議で、史跡の保存管理等の整備は所有者としての長保寺の自主財源にたよることなく国、県、町の財源で措置すべきことが改めて確認されたことは、庶民の信仰が集積された寺院としての性格より国家と一体になった寺院としての性格を色濃く持つ長保寺のそもそもの成り立ちと歴史を振り返ってみれば当然ともいえるのである。ただ、その前提として整備計画の意義と史跡の意味が国民によく理解されることが必要で、そのためには境内要所に詳しく正確な案内板を設置するなどの努力を怠ってはならない。
 境内の中心にある歴史民俗資料館は、以上概観してきたような長保寺の歴史をふまえた活用が期待されるが、位置する所の史跡としての価値を優先するのであれば移転も考えるべきであろう。福蔵院も長保寺の一部を形成していることは歴然としているのであるが、少なくとも参道に面した境界を白壁に変えるなど、史跡との整合性のある整備を視野に入れるべきである。 また、歴史的景観と今まで事故のないことを考えれば、石段や石垣に手摺りを設置する議論は終わりにするべきであろう。参拝に快適さが求められるのが現代の風潮であるが、参拝者に厳しい自制と努力が求められることを史跡は教えている。