一条天皇

一条天皇は、枕草子・源氏物語の舞台になった、平安貴族文化の中心にいらっしゃる天皇です

一条天皇は寛弘8年(1011)6月22日に崩御されました。享年32歳

長保寺は、定子皇后(清少納言が女官)、彰子中宮(紫式部が女官)が並び立った、長保2年(1000)に創建され、年号を頂いて寺の名前とした勅願寺です
この長保2年12月には、定子皇后がお亡くなりになっています

もともと長保寺周辺は藤原摂関領で京都の公家社会とも密接な関係がありました
熊野街道の道すがらにあり、熊野信仰から、宗教的な場所として、現在の地が選定されたと考えられています

一条天皇との係りを示す具体的な資料は失われてありませんが、国宝に指定されている大門の額は、妙法院堯仁法親王の真筆と伝え、裏書に応永廿四(1417)年六月一日の刻銘があります
年号寺院であることは間違いなく、一条天皇との繋がりの証拠でもあります


御霊屋でご覧になれます(境内案内のご予約が必要です)

 

妙法院堯仁法親王は後光厳天皇の第六皇子。妙法院14代門跡、第142、149世天台座主、四天王寺別当。後小松天皇の叔父にあたる。
皇族が寺額を書くのを勅額といい、皇室ゆかりの寺であることを示すためです。

 

長保寺の創建は、史料として「慶徳山長保寺縁起并勧進状之写」に書かれていることから通説となっていることですが、
「長保寺以外の場に残る別系統の史料、例えば当時の天皇に近い貴族の日記である『御堂関白記』『小右記』『権記』『左経記』などでは全く確認することができない。」長保寺の歴史 和歌山県立博物館 竹中康彦
と、確実な証拠はありません
しかし、周辺が藤原摂関領であったこと、勅額のあること、国宝として評価されている建造物が3棟現存すること、他に時代を示す史料の無いこと、などから、長保2年創建を最も有力な説として差し支えありません

史料からは後一条天皇の時代になって造営が完了したことがうかがええます

一條院綸詔・・・・後一條院之御宇事終焉。「慶徳山長保寺縁起并勧進状之写」

長保2年に定子皇后が崩御されているので、これが長保2年の最も大きなドラマですから、この崩御を長保寺の創建と深く関わって考えがちです
しかし、定子皇后が崩御されたのは12月16日ですから、年の瀬で、勅願寺院の計画をするにしては時間がありません
後一条天皇は彰子中宮のお子様ですから、彰子中宮の父である藤原道長の影響力を考えざるを得ません
とすれば、 彰子様が入内されて中宮におなりなったことを慶賀して、年号寺院を創建した可能性もあります

皆様も御承知のとおり、このころの内裏の人間関係は複雑ですから、 寺院建立の動機を探すのは簡単ではないのは確かです
ただ、定子様、彰子様と二人皇后が立后されて、慶祝の気運のあるところ、年末に定子様がお亡くなりになり、疫病も猛威をふるい、神仏にすがる気落ちが強くならざるを得ない状況であったとは言えます

当時は、病気となれば加持祈祷しかなすすべがありませんでした
また、呪詛、生霊、魑魅魍魎も恐れられていました
目に見えぬ世界への恐れと畏敬の思いが、人々を宗教行事へ駆り立てました
安部晴明が活躍した時代でもあります

積善の功徳としての寺院建立に対する期待も、極めて高かったのです

長保という年号に改元されたのは、その前の年号が長徳で、「ちょうとく」は「ちょうどく長毒」に通じると噂されたからでもあります
疫病で多数の人が亡くなり、手当たりしだいに霊験にすがるしか無かったのです

当時の、皇族、貴族、庶民に至るまでの、除災招福への大きな期待をこめて、勅願の年号寺院が建立されたのです

 

長保寺が勅願寺であることは、本尊によっても証明することができます

長保寺の本尊は、釈迦如来なのですが、その祀りかたが、非常に特殊なのです
厳格に儀軌に基づいた、当時は天皇にしか許されない祀りかたです

鐘声3 一字金輪

Terra Free Talk: 太陽のイメージ

長保寺の歴史 保存管理計画策定委員会原稿

Terra Free Talk: 祈祷札の話

Terra Free Talk: 祈祷札の話2

Terra Free Talk: 悪意のある霊への対処法

釈迦如来が一字金輪仏頂(いちじきんりんぶっちょう)として祀られています
これは、天皇勅願寺でなければできません
古来より、金輪はその威徳から、天皇の別名だったからです

天台宗の比叡山西塔、書写山円教寺などにありますが、極めて稀な例です

 

陀羅尼集經txt

T18n0901_p0790a22(00)金輪佛頂像法

欲畫其像。取淨白疊若淨絹布。闊狹任意。
不得截割。於其疊上畫世尊像。
身眞金色著赤袈裟。戴七寶冠作通身光。手作母陀羅。
結跏趺坐七寶莊嚴蓮華座上。
其華座下豎著金輪。其金輪下畫作寶池。
遶池四邊作鬱金華。及四天王各隨方立。其下左邊。
畫作文殊師利菩薩。身皆白色頂背有光。
七寶瓔珞寶冠天衣。種種莊嚴乘於師子。
右邊畫作普賢菩薩。莊嚴如前。乘於白象於其師子。
白象中間畫大般若。菩薩之像。面有三目。
莊嚴如前。手把經匣端身而坐。於佛頂上空中。
畫作五色雲蓋。其蓋左右有淨居天。雨七寶華

 

ざっと内容をかいつまんで書くと

 

畫世尊像 釈迦如来の像を書け

結跏趺坐七寶莊嚴蓮華座上  七宝で荘厳された蓮華座の上に結跏趺坐したまう

其華座下豎著金輪        その蓮華の下にたてに金輪をつける

金輪下畫作寶池          金輪の下に宝池を書く    
遶池四邊作鬱金華        池をめぐって四辺に鬱金華がある

四天王各隨方立         四天王がおのおの方にしたがって立つ

左邊 畫作文殊師利菩薩   左に文殊菩薩を書く
右邊畫作普賢菩薩       右に普賢菩薩を書く

中間畫大般若菩薩之像   中間に大般若菩薩の像を書く

上空中。 畫作五色雲蓋   上空の中に五色の雲蓋があり  
其蓋左右有淨居天      その雲蓋の左右に淨居天あり

 

それで、長保寺の本尊の祀りかたを見てみると

左邊 畫作文殊師利菩薩   左に文殊菩薩を書く
右邊畫作普賢菩薩       右に普賢菩薩を書く

真中が本尊の釈迦如来で右が普賢菩薩、左が文殊菩薩

これは、よくある三尊形式で、これだけで金輪佛頂像法だとは言えません

須弥壇の腰を見ると

金輪(輪宝)がついています

其華座下豎著金輪  その蓮華の下にたてに金輪をつける

書かれている意味は、釈迦如来が座る蓮華の茎が金輪だということですが、蓮華の茎ではなく須弥壇に金輪がついています

この須弥壇と厨子は国宝に指定されている鎌倉時代(1311)の傑作です
堂内にもうひとつ屋根のある厨子を作った、もっとも古い作例とされています

四天王各隨方立   四天王がおのおの方にしたがって立つ

本尊を囲んで四天王が安置されています
右が毘沙門天、左が広目天です
持国天・増長天は厨子の中にあります

   
左に増長天、右に持国天                  

 

 

天蓋(てんがい、天井に吊られている、日除けをかたどった傘)の中に飛天が描かれています

見にくいので拡大しました

上空中。 畫作五色雲蓋   上空の中に五色の雲蓋があり  
其蓋左右有淨居天      その雲蓋の左右に淨居天あり

 

以上のとおり、ほぼ金輪佛頂像法に忠実に作られているのがわかります

 

中間畫大般若菩薩之像   中間に大般若菩薩の像を書く

ただ、この大般若菩薩だけは、祀ってありません
しかし 、長保寺には、世界最古の般若心経である隅寺心経が伝わっており、大般若菩薩の功徳を充足していると言えます


般若心経 一巻   奈良後期(8世紀) 長保寺蔵

 

また、大般若600巻が本堂裏堂に安置してありました

 

大般若経  室町前期(1406)

 

 

長保寺本尊の釈迦如来は、金輪佛頂として礼拝すべきものとして計画されていた、ということになります

密教においては、金輪佛頂を、その威徳のゆえに、天皇に例えています

半径500由旬(今の16000キロ位)で、修行をする行者は、金輪の行者に、その功徳を奪われるとされています
これは、太陽が出れば、あまたの星が天にありながらその輝きを隠されるように、金輪の行者の威徳が全ての行者の功徳に勝っていることに例えています

金輪佛頂は威徳が最勝最尊であるから、天皇に例えられているのです
天皇勅願寺以外にありえない本尊、ということになります