2007-02-05

「人生の意味」は無い

花を見て、「綺麗だ」と思うとするでしょ
その「綺麗」はどこにあるのか、ってことですね
綺麗な花はあっても、花の綺麗さは無いんです

全体として心が受けている印象がですね「綺麗だ」となるのであって、どこがどうだからという説明はできないんです

それで、「慈悲」もですね、どこがどうだと慈悲だとか言えないわけです

貧乏人にお金をたくさん配れば慈悲かというと、そうでもない
泥まみれで、苦しみもがいて死ねば、無慈悲かというと、これもそうでもない


梅図 一幅    紙本墨画
縦36.7 横54.3   徳川光貞筆 江戸前期

 2代藩主徳川光貞自筆の梅の水墨画である。中央上から下に伸びる梅の枝と花を描いたもの。中央部右上に光貞の落款がある。安永2年(1773)に長保寺に奉納されたものである。



手っ取り早く言えば
人間、とどのつまり死にます

死んでしまうんだから、何をやっても無意味なのか?
死んだ後に残る意味なんてものはどうでもいいのか?

どうせ死んでしまう人間に、どのような生きていく意味があるのか?

死ぬのが怖いから、ヒマつぶしをしてるだけなのか?


これ、つまり、見える聞こえる、あるいは霊感などで感じる、そんなものだけを当てにしてたら、やっぱりわかりません


まあ
意味のある人生はあっても、人生の「意味」はありません
美しい花はあっても、花の「美しさ」が無いのと同じことです

意味のある人生を生きることは出来ても、人生の意味を探しても見つからないんです


この、意味のある人生、てのはね、大切な人を守るために危険を顧みないってことにもなります
つまり、戦って死ぬってこと

だからって、死ぬことに意味がある、にはならないのです

ラベル:

2007-02-04

霊能者と坊さんの違い

真言宗で日常最もよく使うお経が理趣経(りしゅきょう)です。その中でも、この偈文は最重要で、長さも短いので真言宗の坊さんは皆暗記してます。

金剛頂経の一部分とされています
(大樂金剛不空眞實三昧耶經般若波羅蜜多理趣品 不空訳)


ひゃくじのげ
百字偈

ほーさーしょうけいしゃー だいしーしんせいしー
菩薩勝慧者  乃至尽生死
菩薩の智慧勝れたる者は 生死の尽きるまで  

こうさくしゅうせいりー   じーふーしゅーでッぱん
恒作衆生利  而不趣涅槃
恒に衆生の利をなして 涅槃におもむかず

ふぁんじゃーきゅーほうべん ちーとーしッかーちー
般若及方便  智度悉加持
智慧および方便の 智慧方便で悉く加持し

しょーほうきゅうしょーうー いッせいかいせいせい
諸法及諸有  一切皆清浄
諸法および諸有を 一切皆清浄にする
 
よくとうちょうせーかん   れいとくせいちょーこー

欲等調世間  令得浄除故
欲などで世間を調え よく清浄を得せしむるが故に

ゆうていきゅーあくしゅー ちょうふくしんしょーうー
有頂及悪趣  調伏尽諸有
有頂より悪趣にいたるまで 諸有をことごとく調伏する

じょーれんていほんぜん ふーいーこーそーぜん

如蓮体本染  不為故所染
泥の中の蓮華が汚泥に染まらぬように 

しょーよくせいえきぜん  ふーぜんりーきんせい
諸欲性亦然  不染利群生 
諸の欲にもまたそのように 染まらずして群生を利する

たいよくとくせいせい    たいあんらくふーじょう
大欲得清浄  大安楽富饒
大欲は清浄を得 大安楽が富饒する

さんがいとくしーさい    のうさーけんこーりー 
三界得自在  能作堅固利
三界に自在を得 よく堅固の利をなす



菩薩の智慧勝れたる者は 生死の尽きるまで
恒に衆生の利をなして 涅槃におもむかず

智慧および方便の 智慧方便で悉く加持し
諸法および諸有を 一切皆清浄にする

欲などで世間を調え よく清浄を得せしむるが故に
有頂より悪趣にいたるまで 諸有をことごとく調伏する

泥の中の蓮華が汚泥に染まらぬように
諸の欲にもまたそのように 染まらずして群生を利する

大欲は清浄を得 大安楽が富饒する
三界に自在を得 よく堅固の利をなす


金剛界曼陀羅図 理趣会(部分) 長保寺蔵
 
絹本著色 (金剛界)縦104.0 横90.5
江戸中期(天明3(1783)年)  

 通形の両界曼荼羅図で、長保寺第7世徳因(天明8年(1788)まで在職)が、長保寺の什物として京都の仏画師に描かせたもので、天明3年の箱書がある。



なじみの薄い仏教用語もあろうかと思いますが、お経としてはわかりやすいほうです(^^;)

無理して縮めると

智度悉加持
 智慧方便で悉く加持し

欲等調世間
 欲などで世間を調え

大欲は清浄を得、よく堅固の利をなす

と、なります

欲などで世間を調えるのは、飴と鞭の、飴を与えて走らせるってことで、ここが密教の偉いところで、先ず、利益を与えようとします

僕は、ネコを飼っていて思いますが、最初にぶったりして躾ようとすると絶対になつきません
餌をやって馴らして、躾はそれからです
馴れてからだと、少々手荒にしつけても恐がりません

人間をネコに例えるのもどうかと思いますが、似たようなもんだと思いますよ
恐怖を与えて従わせようとすると、意欲が失われて、実力が伸びません

それで

智慧方便で悉く加持し、ってことなんですけど

智慧の手段(方便)で、全てのものを(悉く)加持して
の、加持ですね

信仰
本尊と入我我入(にゅうががにゅう)するって言うんだけど
まあ、拝んでいる仏さんと一体になる、同化するのを「我本尊に入り、本尊我に入る」と、伝統的には言うのです

加持(かじ)とも言って、
「仏日の影が衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心よく仏日を感ずるを持と名ずく」 弘法大師 即身成仏義

心の鏡に仏さんが写る、様子に例えたりします


これはですね、瞑想で、自分でその気になる、ってのとは違うんです

仏さんがいて、その仏さんが手伝う、という明確な意識が必要です
イマジネーションで、空想的に救われるのとは違うんです

はっきりと、仏の存在感を感じなければなりません


ま、簡単に言えば、信仰です


ここんとこがですね、いわゆる、霊能者と坊さんの違いでしょうね

自分の能力ではなくて、加持力です


諸仏、諸菩薩の力添えを得て
利益で、相手を教え導いて
堅固の理をなす」

と、これが百字偈の言わんとしてることです

人間は無力で、弱い存在です
どんなに超能力があっても、いずれ死にます
謙虚に、より大きな存在の力を感じてください


p.s.

Belive the dream

じゃなくて

I have a dream

たら、キング牧師の言葉ですね
この言葉で始まる演説をしているとき、狙撃され死にました

ラベル:

2007-01-14

台宗法蔵

台宗法蔵のページを追加しました

こちら

天台宗で使うお経のほぼ全てが網羅されてます

膨大な量です

全国の天台宗の電子仏典員のボランティアが経典からスキャンしてそれを厳密に校正してテキストファイルにしました
僕もやってました
それを天台宗典編纂所がCDにして、シリーズで1,2とあって、今3を準備中です

データそのものは同じですが、CDでは検索しやすいように秀丸エディタで加工するマクロをセットでつけています
専門家はこちらが使いやすいと思います

つまり、このデータがあれば、コンピューターで縦横に検索して仏典で使われた言葉を突きとめることが簡単にできます
仏教学を学ぶ者にとっては画期的なものです

僕が大学生のころは、どこでどんな言葉を使ったか研究するだけで大学教授をやってるような人がいくらもいました
まあ、お経を全部細かく読まないとわからないわけで、大変なことは大変です
丹念に調べると、思想の流れが見えてきて、重要な研究です
それが、今ではコンピューターであっという間です




法華経       八巻

紙本墨書 縦25.7? 25.9 横813.5?1141.1
平安後期(12世紀) 〔巻五・八は明治18年(1885)〕

妙法蓮華経すなわち法華経は、数ある経典の中でも、釈迦如来の教えの精髄が説かれているとされ、今日まで幅広く信仰を集めてきた。
本品は、雁皮紙に銀泥で界線を引き、銀の切箔を天地と紙背にちらし、雲母を全面にほどこした装飾経である。光明皇后筆と伝えられるが、奈良写経をテキストにして平安時代後期に端正に書写された上代様の代表的作品である。文中の加筆訂正は、書写時とそう隔たらない時期のものと思われるが、文の区切りを示す朱点や部分的にみられる朱の仮名書きは、鎌倉時代にほどこされたものと思われる。各巻末には、願主として片岡橘兵衛尉信隆の名がみられるが、平安時代末期に伊予守・修理大夫などを歴任した藤原信隆(1126?1179、母は橘家光女)であるかどうかは疑問であり、むしろ室町時代の人物と考えられる。
長保寺には数多くの法華経が奉納されているが、本品はその中でも年代的に最古のものである。明治の宝物目録によると、明治5年に徳川茂承が長保寺に寄付したものであるが、八巻のうち巻五および巻八は、明治18年に新調・増補されている。




ちなみに、このような便利なデータは天台宗だけしか作っていません

天台宗は経宗とも言って、お経に書いてないことを言ってはならないという伝統があって、非常にお経の言葉にこだわるのです
だから、こんな手間のかかるものを作るエネルギーがあるんでしょう


僕など、とんでもないってことになりますな(^^;)

ラベル:

2006-01-11

忘己利他

ここまで、いろいろと書き連ねてきましたが、僕の独創なんてものはありあません

「己を忘れて他を利するは 慈悲の極みなり」伝教大師

忘己利他

ですね 比叡山の最澄さん、つまり伝教大師の言葉にすべて尽きてるのです

僕の本職のほうのホームページは1996年からやってます
これより古い年から始まったホームページは無いはずですよ
インターネットの商業利用が始まって、一般の人がホームページをつくることができるようになったのが96年ですから

そのときから、僕は「己を忘れて他を利するは 慈悲の極みなり」を一番最初に掲げてます


「己を忘れる」のが「感性と理性の統合」、「見る者・理」と「見られる物・智」の統合、「執着を棄て思考停止し感覚遮断した状態」です

「他を利する」のが慈悲ですよね、「誰かのために一生懸命、なにかをする」です

それが「慈悲の極み」と

理屈は、「理智不二」、「棄恩入無為」、「止観」、「輪廻して三界の中でいいポジションを持つのと違う」、とまあ、かなりややこしいですが要するに忘己利他です



僕は、高野山で修行者の監督をしてたことがあるのですけど、きちっとした仏さんを、きちっとした伝授で、監督者がついて拝んでれば、修行の初めの頃はいろんなことがありますが、最後にはうまくいきます

拝んでいるのを見ると、行者に金色の後光が見えるのですよ
拝みたくなりますよ

ですが、残念なことに、うまくいかないことも、たまにあります


すごい霊能力のある行者がいて、先輩のお父上でしたね
かなりの年輩でしたが、年下の僕のところで加行しました

これが、すごかったのは、僕は皆が勤行してるときは、いつも別室で護摩を焚いてたんです
かなりややこしい護摩で、加行道場にあるいろんな仏さんを勧請して拝んでました
それが、別の所にいるのに、なんの護摩かわかるのです
いや、たいしたもんです
僕は、若かったせいもあって、ものすごく怒られたりして怖かったですよ

でも、護摩は見抜いてました

九州の方だったですね
九州は霊能の強い人が多いです
僕は、温泉や火山が多いのと関係あるかなと思いますけど

ま、パワーですね 強い

それが、加行終えられて2,3年後だったかな、消息を聞くと、多臓器不全で、ありとあらゆる病気にかかって亡くなったということでした・・・

ある程度、予想はしてました

なんというか、加行中からね、力の信奉者でした


真言宗の修行では「慈悲」ってのをそんなに強調しないんです
言葉として、あんまり出てこない

キリスト教なんかのほうは、多いかなって印象ですね


それで、僕は、勘違いしないように、脱線しないように、それにはどうするかと、無い知恵をめぐらして、やっぱ慈悲を強調しようと、これは、経験から確信してます

フォトンベルトがどうたらこうたら、とか、なにかがどうかして、とかで、霊感が強くなるとか、今まで見えなかったものが見えてくるとか、言いますが、勘違いしないように

修行無しで霊感があったりすると、どうも、慈悲の感触がわからなくなることがあるので、最初から霊感強いと、むしろ難しいんですよ

パワーじゃなくて、愛ですよ  くれぐれもよろしく



ヒーリングされる方は特に、カルマはやっぱり必要だから現れてくるんですから、簡単には消滅しないんです
こうすればこうなる、などと、機械みたいに考えてるとひどい目に遭いますよ
脱線してみて学ぶのもいいですけど、引き返せなくなった人を沢山見ましたからね
今も、沢山いるようにお見受けしますね

やっぱり、本当に、慈悲をわかってないとね

それには、やっぱり忘己利他の意味を理解してください



この三界にはいろんな存在がいて、輝いているのもいれば、腐った奴もいる
輝きだけまねするのもいますな
それで、慈悲の感触っていつも言うんです

オーラなんか、コントロール出来るよ
知ってるチベットの坊さんですけど、どんな色でも出すことが出来た
人間ってほら、化けるとか、なりきるってこともあるのでね
霊的な存在もそういうことになりますね

まあ、紫だから、金色だから、いい、とかは、これ、初心者の話で
病気が治った、てのも、カルマのつけ回しだったり

慈悲の感触っても、ヤクザの親分にも仁義はあるので

子供じみてお目出度く考えてる人が多いよ
やっぱり、けっこう難しいもんなんですよ



霊媒体質ってよく言うけど、己をむなしくすれば、自然と自他の境界は消えてきます
ですから、どうしても通っていかなければならない道です

見える、聞こえるは、智慧が開かれてきているのですから、後戻りはしません
自分の能力を無視することは出来ますが、愛に背を向けることになりますよ

怖がらないで、もっと深く慈悲を感じるしか進む道はありません

沢山の輝き達が守り導いてくれる、ってのを信仰というんだけれど
信仰をもってくださいね


♪そろそろネタ切れかな♪

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