2006-09-15

ソウルミラー

心を鏡にたとえると、いろいろ説明しやすいんですけど、日本の神道にもあるし、古代インドでも行われていました

華厳経(No.279 大方廣佛華嚴經 實叉難陀訳)に詳しく説かれているらしいですけれど。帝網(たいもう)というのは、帝釈天が持っている網のことです。帝珠(たいしゅ)といって、宇宙全てを映し出す無数の珠玉を網のように繋げて、宇宙全体が成り立っていると。その帝珠が全てを映し出していて、となりの帝珠はそれをまた写し出して、ずーっと繋がっている、そんな意味です
帝釈天は、インドラ神ですね。

これは、弘法大師の即身成仏義にも説かれていることです

ぼくのブログで解説してます

で、この鏡は、つまり全ての人にあります。ですから魂には上下はありません。ひとつひとつが限りなくかけがえのない存在です
多神教的世界ですねぇ

鏡にたとえると、磨くか磨かないかという話になりやすいんですが、まあ、たとえ話ですのであんまりこだわらないでください

磨くという捉え方をすると、どうしても、悪いことをやめろ、反省しろ、という止悪の要素が強くなります
善いことをどんどんしよう、という一面もお忘れなく


この鏡にですね、五感と脳がくっついてるのが我々です
鏡から五感を通じて得た情報を、脳が解釈して、我々は自分なりの世界観を作ってます
よけいな話ですが、この頭と鏡を分離しちゃいけません
神仏分離ですねー
というか、分離しちゃったら、それが死後の世界で、霊界でしょうね
神様のご神体が鏡って、まんまじゃないですか
それで、僕はフト思うんですが、記憶というものは、脳の中に形成されるのではなくて、実は鏡の側に形成されているんじゃないか、ということです
脳は単なる出先機関というか受信機という考え方
そうでないと、前世の記憶とか、過去世のカルマとか説明できません

で、経験積んだ鏡が偉いかというと、これ、全てを写してるんですから、ほんとは経験積まなくてもなんでも知ってるはずなんです

問題は
五感からの情報を、脳が、どのように解釈するかです

なるべく、ゆがめず、素直に、解釈したいところなんですが・・・・ここで、転けるわけですね

高等生物である我々は、脳が自由に作り出すイメージから離れられません
そもそも五感の感度にも限界があります

各種神話も、僕に言わせれば、脳内イメージです
霊能者はおたがい仲良くないとか言うんですけど、まあ、ここらへんをよくご理解いただけば、仲良くやっていけるんではないかと
諸宗教の対話も、ここんところをきちんと押さえて欲しいと
瞑想は、つまり、五感と脳が勝手にイメージを作り出すのを制御して、鏡を直に感じる技術ということになります
右肩の「光の瞑想」はこのようなロジックに基づいてます
当然、シンプルになります
五感の性能は、どうでしょう、個人差があるでしょうし、限界があります
それがどんどん繊細になると、鏡の情報が沢山読みとれるようにはなりますが、まあ、霊感ですね、やっぱり、イメージを作ってるんです
はっきり言いますけど、ほんとに死んであの世に行ききらなければ、つまり、脳味噌と鏡が切断されなければ、絶対にイメージを作ることから解放されません
まあ、臨死は死ではないと、ヒプノもイメージですよと、チャネリングなどそれこそ受信したイメージですねと

イメージはつまり花の匂いでして、人と比べてもいいけど、自分が一番と言ってもしゃあないんです

自分の作ったイメージは自分で大切にすればいいんで、他人は他人のイメージを持っているのをお忘れなく

やっぱり瞑想が必要、って結論になっちゃうんだなー

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