2006-09-12

ツインソウル4

「自由」というものには肯定的な雰囲気があるわけですが、実際は、ここらへんから様々な問題も派生するということなんですね

今、我々は自由主義社会に生活しているのですけれど、信仰の自由、言論の自由、経済活動の自由、旅行移動の自由、etc、自由というのはけっこうなもんです
そのうえで、お互い譲り合い、協力して、まあ、とりあえず仲良く暮らす、と
大きな矛盾をはらんだ制度なのかもしれませんが、これこそ、人間の本質に根ざした制度なのではないですか
自由主義社会の矛盾というのは、実は、人間存在の矛盾でもあるのです


で、本題に戻しますが

お前は、みずからの意志でその使命を選び、人として生まれていった p87

これは、「お前は」というところを見落とすわけにはいかないですね
「飯田先生の場合は」ということは言えるのだろうと思います

このような私の経験は、あくまでも私個人の経験にすぎないものであり、人間として生きるすべての方々が、私と同じ経験をなさるのかについては、保証することはできません  p94


と、自らも書いてらっしゃいますが、残念ながら、こうすればこうなる式の、単純な構造ではないということです


人の運命とか宿命ですね、占ってあてることもある程度できるのですが、生まれる時に自分の人生の使命を決めている、あるいは計画してきているとしたら、この世でやることは、もう決まってるんでしょうか

人間に、脳の機能として「自由」が備わっているのに、敷かれたレールを走るだけなんでしょうか





さて、僕は、この、「自由」ということ、そして「使命を選ぶ」ということ、そして生まれ変わっていくということ、これらの事は相互に深く関係があると考えています

人間は、自分の脳が作り出したイメージに基づいて、判断やら思考やらしていきますが、これが、見える前、感じられる前の、本当の世界と違っている場合、やることなすことうまくいくわけがありません
というか、感覚器官を通してしか外界を感じられないのですから、箱の中から回りの世界を観察するようなもので、写りの悪いカメラと、感度の低いマイク、精度の低いセンサーを使って、限られた一部の情報しか知ることができないのです。ですから、ほんとうの世界などわかるわけがありません。それでも、その限界のある情報をもとにして、なんとか箱を運転しているのです。
センサーを経由して加工された、不鮮明な景色を見ながら、まともな運転ができるわけがないのです

それで、自らを傷つけ、他人を傷つけるようなことを平気でする

死んで、素になって、そのことに気がついて、生まれ直して、自ら造った傷を癒したい
愛する人達が、傷つけあわないように教えてあげたい
それが「使命」だと思う

それでも、お互いの行為は複雑に幾重にも絡み合って、簡単に修正できない

新しい人生の計画をいろいろ練って、何回も生まれ変わって、本当の世界に近づいていく、つもりなのだが・・・・

いかんせん、高度に発達した脳は、「自由」にイメージを造り続ける
いろいろな人が、いろいろな計画を持って生まれてくるわけですから、当然ぶつかり合うし、相手のあることですからいつもこちらの都合よく運ぶわけでもない
人生の計画は、いわば紙に書かれた予定表に過ぎなくて、なかなか思い通りにならない
堂々巡りが終わらない

ということではないですか

で、僕は
輪廻の回数がいくら多くても自慢にならない
何回も生まれ変わって、経験を積んでも、それだけでは勘違いを避けることができない
使命を果たすつもりが、大惨事を引き起こしてしまうこともありえる
世界をひっくりかえすような才能があったとしても、勘違いから離れなければ、無意味
と、考えています

それでも、やはり徐々に賢くなります
「自由」なのだけれど、自分勝手な思いこみや、勘違いを減らすことはできます
それを、「学び」と言うのではないでしょうか

死んでから

充分に、学んできたか? p77


と、聞かれるらしいですが、「自由」の副産物である、勘違いが作り出した自分勝手な世界でない、本当の世界に基づいた生き方を学ぶ、ということなのでしょう

そのためには、本当の世界である「究極の光」と繋がらなければなりません
ネットワークの側から人生を見なければなりません

わかりずらい言い方をしないのなら

、です、慈悲、です、あたたかな心、です、共感と深い理解、です


価値があるのは、ただ、学ぶ努力、愛する努力、使命を果たす努力・・・・・この三つの努力だけだ  p80
こちらの世界に戻る時には、その結果は、いっさい問われない p81


注意していただきたいのは、その結果どうなったか、は問われていないのです
成果ではなくて、あくまで、努力したかどうか、だけが問われているのです。大事なところです

まあ、死んでしまえば、完全な世界がすでにあるんですから、結果がどうであれ、どうでもいいですわな

まえのブログで書いてますけど

諸法従本来 常時寂滅相 仏子行道已 来世得作仏

諸法はもとより常に寂滅の相をしている(仏の目から見れば完成された世界である)
仏弟子は道を行じおわって来世に仏となることを得る


てなわけで、別に新発見でもなんでもないんですけどね

「自由」と「愛」を、いかに折り合いをつけるかを学ぶために人生はある

ってことでどうでしょう


続く

ラベル:

0 件のコメント:

コメントを投稿

この投稿へのリンク:

リンクを作成

<< ホーム