2006-09-10

ツインソウル2


スウェーデンボルグとか丹波哲朗などの霊界通信や、シルバーバーチやバシャールなどのチャネリング、あるいはヘミシンク、など、数え上げたらきりがない程、つまり、死後の世界を書いた本があります

また、仏教で言う極楽と地獄、キリスト教の天国と地獄、あるいはイスラムやヒンドゥーやその他諸々の宗教にある死後世界の記述

どれもが似ているようで、違うようで、いい加減なのか、本当なのか・・・・・唯一一致するのは、死後にも意識があるということでしょうか
そして、今我々が生活している人間社会だけで価値観が完結しないで、死後にも生きている時の生活態度などが影響するという考え方も、どうやら、一致した見解のようです

「死んだら終わりで、死後の意識などない」というお説は、僕的には関係ない議論で、まあ、死んでからあわてるだけだろうとしか思えませんが、根強い妄想と言えば妄想だし、在るとか無いとか、いつまでも平行線をたどる議論といえばそういうことでもあります

ですけれど、困ったことには、死後があるという立場の人達のお説は、どれも、かなり違うのです
自分に都合のいいお説を信じ込めばいい、という考え方もあろうかと思いますが、ほんとのところどうなんだという疑問も湧いてはきます

ここのところはですね、仏教的には解決可能です
「自分で体験すればよい」ということです
冷暖自知とか自灯明法灯明とか言います
そのために、仏教には多種多様な瞑想法があります

で、手軽な方法として「光の瞑想」を右肩をクリックしていただければ、やり方が書いてありますから、試してみてください
これは、検証可能な方法ですから、こじつけて言えば科学です。飯田先生みたいに死にかけてみる必要はありません
飯田先生は
科学を越えた p7
そうですが、できれば、再現性のある検証可能な体験をぜひ次回はお願いしたいですね


この著書で、光との対話は227ページある本のうちの100ページほどです(p62ーp160)
せっかく生死の境をさまよったんですから、もうちょっといろいろ聞いてきて頂きたかったです。こういう分量で意味深なことを述べると、解釈やら評価やら、だんだんと派生してきて、オリジナルの何倍もの分量になってきて、わけがわからなくなってくるのが歴史の教訓です

ですが、話題として取り上げられるのは、認められている証拠でもあるわけで、ここで回をわけて少しずつ論じてみようかと思います



まず、臨死体験ですけど、これはもうよくあることになってしまいました
救急医療の発達したせいでしょう。おそらく医療の先進国では増え続けると思われます
それがただ、体験することは千差万別なのです

僕も直接臨死体験をした人の話を聞いたことがありますが、残念なことに人によってかなり内容に違いがあります
夢でも見たのかと言うと、夢とは明らかに違うリアリティーがあると言います
で、まあ、人によって違う体験をするんだというあたりを、つまり、一つの体験を絶対視できないという事実は踏まえておく必要があります


さて、本文に入りますけど


私の魂は、同時に、あらゆる存在と「つながって」いました p65

これなんか、僕と一緒じゃん

飯田先生の「残存思念 p171」という表現も、実はここらへんから解き明かされたりします

自我というか、自分という意識は表面的なもので、その根底は全てに繋がっているネットワークです

で、その表面的な自分という意識は、かなりの勘違いやら執着やらにまみれていて、肉体があれば生きてる人でしょうけど、そのまま死んでしまえば、さまよえる亡霊と同じようなものです
で、この自分という意識は、ネットワークにはそもそも時間とか空間とかいう仕組みがないので、ネットワークの側から見ると、時間的空間的な制約を離れて同時に存在します

だから、残存思念という表現で言い切ってしまっても、それは、それなりの意志と思考力をもった存在です
と言うか、残存思念であっても、その本体と繋がっています
ですから、語りかけることで説得もできますし、つまり、慈悲の心を繋いで、供養して成仏させることが可能です

「悪霊」など、けっして存在しません p143

ということなんですが、まあこれは気休めで、有害な残存思念というか、伝統的な表現で言う、悪霊はいる、と僕は感じてます



続く

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