2009/05/23

パラレルワールド

仏教哲学の模式図です




わかりやすくはないです


基本的に、仏教は、
「人は感覚器官で脳内にイメージをつくって、実態そのものでなくて、そのイメージにしがみついて生きている」
と、考えています


こうしてモニターを見て、字を読んでいただいていますが
字が見えているのは、自分の目でモニターを見て、視神経を通って信号が脳に行き、脳内で意味を考えているわけです


パッと目をつぶって見えていなくても、モニターはそこにあります
見えている字と、モニターに映っている字は別々なのです


で、これは、目だけでなく、耳で聞く音、鼻で嗅ぐ匂い、舌で感じる味、体で感じる外気の寒暖など、感覚器官で外界を感じて、自分の脳内に印象を作っています
そして、「外界」と「脳内イメージ」は、常に別々の現象です


 

もともと一つの現象も、脳内イメージは、人によって、必ず違うものになります

「見る」という一つのことで考えても、見る角度が別々ですから、必ず見える姿は違ったものになります 

 

先に結論を書くと、神とか仏というのは、人間の作った、脳内イメージです
宗教も、言葉で書かれた脳内イメージです

ユダヤ教のヤハウェ(旧約聖書)
キリスト教のゴッド(新約聖書)
イスラムのアッラー
などは、エルサレムの神の一つの神格の別々の脳内イメージだと考えることができるのです
もっと言えば、その唯一神は、仏教で言うところの大日如来でもあると考えることもできます

その脳内イメージの違いを議論していたら、いつまでも一致することはありません
もともと別々なのですから

で、見える前の世界を説明したいのですが・・・
説明してしまったら、その説明は脳内イメージです
そこんところが困るのです

目の前のモニターで、この文章をお読みいただいているのですが、
「言葉で説明される前のモニターをなんと言うか?」
などと、聞かれても困ります

「字を写す機械」「ブラウン管のようなもの」「発光する点の集まり」などなど、いくらでも説明のしかたがあり、そのどれも正しく、また部分的な説明でしかありません

観察者の数だけ世界があるのです
パラレルワールドですね

ですが、実際は、一つの世界しかありません

その一つの世界には、時間はありません
昨日と今日、過去と現在、など時間の経過は、脳内イメージです

空間もありません
感じる前の世界ですから、あっちとこっち、上と下など決めようがありません

仏教の般若心経では

「不生不滅不垢不浄不増不減
生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず」

と表現します

ナーガルジュナの中論では、八不(はっぷ)と言って説明しています

宇宙においては 

何ものも消滅することもなく(不滅)
何ものもあらたに生ずることもなく(不生)

何ものも終末あることなく(不断)
何ものも常恒であることなく(不常)

何ものもそれ自身と同一であることなく(不一)
何ものもそれ自身において分かたれた別のものであることなく(不異)

何ものも[われらに向かって]来ることもなく(不来)
[われらから]去ることもない(不去)

戯論(形而上学的議論)の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちでの最も勝れた人として敬礼する

◇引用◇   中村元著「龍樹」(講談社学術文庫)   320ページ

 

あなたが、自分のパラレルワールドこそ正義だと主張しても、それは限定的解釈です

お互いの解釈をぶつけ合っても問題は解決しません

一つしかない真実は、私利私欲や経験を離れて、智慧でなければつかめない、ということになります

 

「どこそこの神を信ぜよ」、などは、偶像崇拝

「死の恐怖」、などは、自分で作り出した感情

「厄年、手相」、などは、集団催眠

「体の痛み」すら、激しい脳内反応

それが、仏教の基本的考えかたということですね


2009/05/21

仏となる過程


仏涅槃図(重文) 長保寺蔵

 

ちょっと抽象度の高い話


 


仏教では、涅槃経で「一切衆生悉有仏性」と言い切って、つまり生きとし生けるものすべて、いつかは仏となると断言している
これが、お釈迦様の遺言で、一代の説法で、最後まで、このことは言わずにいた


どんなにクダラナクても、極悪でも、無気力無意味でも、仏となる過程ということになる
努力とか忍耐とか頑張りや自己犠牲など、してもしなくても、仏となるという結末に変わりはない


となると、修行とか、勉強は、どうでもいいことになってくる
慈悲や善行など、どうでもよくなってしまう
どっちにしろ、仏となるのです


で、これ、やっぱり、そんなにうまい話はないわけで


法華経寿量品に「得入無上道 速成就仏身」(無上の道に入ることを得させて、速やかに仏の身を成就せしめん)と、「無上」「速」とハッキリとした方向感を打ち出している


なにをしてもいいわけではなく、「無上の道」にはいり
いつまでもボンヤリしていていいわけでもなく、「速やかに成就」する


つまり


「仏になる性」を「無上の道」により「速やかに成就」して「仏身」になる


仏性-->無上道-->速成就-->仏身


ということです


で、仏教2500年の歴史は、すべて、無上道によって速やかに仏身を成就することを(さすがに、さまざまな混じりけはあるものの)目標にしてる、ということになります

無上の道を速やかに進んでいる状態が、つまり、仏となる過程であるということです


 


弘法大師は、「三密加持すれば速悉に現る」と言って、まあ、やはり、スピード感を重視してます
ただこれ、既に法華経にもあるわけで、正念株の最後の祈願で唱える言葉(真言で加行した人はわかるよね)は寿量品からとっているのです


 


無上であることと、速やかであることが、「なにをしてもいい」とか「努力は無意味」とかを否定しているのです

ま、ですけれど、その一方、なんでもかんでも、仏となる過程であることにもなるのです

いかに無上であるか、いかに速やかであるかが問われつつも、すべては、仏となる過程として肯定されます

仏の導きは、ですから、無上であること、速やかであることを念頭になされている、ということになります

昨日は有益でも、今日は無駄
今は正義でも、明日は悪

などなど、道を進んでいるから、変化していきます

決まった答えはないのですが、我々には仏性が備わっているのですから、どうしても無上で速やかな道を探してしまいます

それが、今のあなたです