図解 般若心経

 

般若心経を、奈良時代の隅寺心経を使って図解します

般若心経は数あるお経の中でも、短くて、リズムよく唱えられて、威力も御利益もあるので、一番よく使われているお経です

それでいて、仏教の深い意味を含蓄してるわけです

読み継がれてきたお経は、たいしたもんです


で、この般若心経を題材にしてみようかと思っています


 
般若心経はいろいろな解説がありますから、意味を詳しくお知りになりたければ、本をお読みになるなり、サイトを検索すれば、ほぼ満足できる情報があると思います

で、僕なりに、今はどう感じているかという事を書いてみます


 
先ず、最初の二行にある、飾りの部分を取り除きます

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時

観自在菩薩が、深く般若波羅蜜(向こう岸に至る智慧)を行じたまいし時

照見五蘊皆空。度一切苦厄

五蘊(色蘊・物質、受・感受作用、想・表象作用、行・意志作用、識・認識作用)は皆、空なりと照らし見て、一切の苦(苦痛)と厄(災害や事故)を度(解決)したまいき


これは能書です
どのお経にもあります
効能書ですね

後半にもあります

菩提薩埵

菩提薩埵(シャリープトラ)よ

依般若波羅蜜多。故心無罣礙

般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)によるが故に心に罣礙(障げ覆うもの)無し

無罣礙。故無有恐怖

罣礙(障げ覆うもの)無きが故に恐怖あること無し

遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃

遠く一切の顛倒した夢想を離れ、涅槃を究竟す(涅槃に行き着く)


三世諸仏

(過去、現在、未来の)三世の諸仏(諸々の全ての仏)は

依般若波羅蜜多。故得阿耨多羅三藐三菩提

般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)によるが故に、阿耨多羅三藐三菩提(無上正等正覚、無上にして正しい覚りに正に等しきもの)を得たまいし

故知。般若波羅蜜多

故に知る、般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)は

是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪

是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり

能除一切苦

よく一切の苦を除き

真実不虚

真実にして虚にあらず


つまり、これも効能書ですね

 

それで、本文だけ取り出すと


舎利子

舎利子(智慧第一のシャリープトラ)よ

色不異空。空不異色

色(物質)は空に異ならず。空は色(物質)に異ならず

色即是空。空即是色

色(物質)はすなわちこれ空。空はすなわちこれ色(物質)

受想行識亦復如是

(感受作用、表象作用、意志作用、認識作用の)受想行識もまたかくの如し


舎利子

舎利子(智慧第一のシャリープトラ)よ

是諸法空相

この(物質、感受作用、表象作用、意志作用、認識作用の五蘊の)諸法は空を相とし

不生不滅不垢不浄不増不減

生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず


是故空中

このゆえに、空の中には

無色。無受想行識

(五蘊である)色無く、受想行識無く

無眼耳鼻舌身意

(五蘊を生じさせる)眼耳鼻舌身意無く

無色声香味触法

(五蘊によって生じる)色声香味触法無し

無眼界。乃至。無意識界

(したがって)眼界も無く、(耳界、鼻界、舌界、身界)ないし意識界も無く

無無明亦無無明尽。乃至。無老死亦無老死尽

(十二因縁の)無明も無く、無明の尽きることも無く、(行も無く、行の尽きることも無く、識も無く、識の尽きることも無く、名色も無く、名識の尽きることも無く、六処も無く、六処の尽きることも無く、触も無く、触の尽きることも無く、受も無く、受の尽きることも無く、愛も無く、愛の尽きることも無く、取も無く、取の尽きることも無く、有も無く、有の尽きることも無く、生も無く、生の尽きることも無く、)ないし、老死も無く、老死の尽きることも無く

無苦集滅道

(四聖諦の)苦集滅道も無く

無智亦無得

智も無く、また、得も無し

以無所得故

(空の中には)得るところ無きをもっての故に


で、これは三つに別れます


色と空の関係

舎利子

舎利子(智慧第一のシャリープトラ)よ

色不異空。空不異色

色(物質)は空に異ならず。空は色(物質)に異ならず

色即是空。空即是色

色(物質)はすなわちこれ空。空はすなわちこれ色(物質)

受想行識亦復如是

(感受作用、表象作用、意志作用、認識作用の)受想行識もまたかくの如し

 
 
空の説明

舎利子

舎利子(智慧第一のシャリープトラ)よ

是諸法空相

この(物質、感受作用、表象作用、意志作用、認識作用の五蘊の)諸法は空を相とし

不生不滅不垢不浄不増不減

生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず


五蘊・十二因縁・四聖諦は無い

是故空中

このゆえに、空の中には

無色。無受想行識

(五蘊である)色無く、受想行識無く

無眼耳鼻舌身意

(五蘊を生じさせる)眼耳鼻舌身意無く

無色声香味触法

(五蘊によって生じる)色声香味触法無し

無眼界。乃至。無意識界

(したがって)眼界も無く、(耳界、鼻界、舌界、身界)ないし意識界も無く

無無明亦無無明尽。乃至。無老死亦無老死尽

(十二因縁の)無明も無く、無明の尽きることも無く、(行も無く、行の尽きることも無く、識も無く、識の尽きることも無く、名色も無く、名識の尽きることも無く、六処も無く、六処の尽きることも無く、触も無く、触の尽きることも無く、受も無く、受の尽きることも無く、愛も無く、愛の尽きることも無く、取も無く、取の尽きることも無く、有も無く、有の尽きることも無く、生も無く、生の尽きることも無く、)ないし、老死も無く、老死の尽きることも無く

無苦集滅道

(四聖諦の)苦集滅道も無く

無智亦無得

智も無く、また、得も無し

以無所得故

(空の中には)得るところ無きをもっての故に

 
 
ちょっと長くなりましたが

 

色と空の関係
空の説明
五蘊・十二因縁・四聖諦は無い

この三つしか書いてないんです

般若心経は、要点を書いたお経ですから、結局この三つが仏教の要点だという立場です

ただ、お経そのものとして考えると、前後についている効能書の部分も必要です

この効能書が、無味乾燥な要点の記述から、現実的な力を引き出しています

般若心経の場合は、最後に呪もついていますから、より力は強くなります

 
 
とりあえず、要点の整理をします

色不異空。空不異色

色=空 空=色


これ、順逆両方言ってるわけですが

色は、我々の存在の側です<見る側>ですね

空は、<見られる側>です
 

たとえて言えば、<鏡の影像(見る側)>とそれに<写り込む世界(見られる側)>の関係です

それを、どちら側から見ても、同じ、と言いたいわけです

鏡の影像=写り込む世界 写り込む世界=鏡の影像

ということです
 

で、この場合のは、五蘊・十二因縁・四聖諦を代表して言っていることになります

五蘊・十二因縁・四聖諦=空 空=五蘊・十二因縁・四聖諦

 
不生不滅不垢不浄不増不減と書かれていますから

五蘊・十二因縁・四聖諦=不生不滅不垢不浄不増不減
不生不滅不垢不浄不増不減=五蘊・十二因縁・四聖諦

になります
 
 
 
色即是空。空即是色

このですけれど、これをどう解釈するかですね
古来、様々に解釈されているわけです
般若心経の中には解説は書かれていません

少なくとも、言いたいことは 色=空 ではないわけです

それで

色-->空 空-->色

とします
完全な一致ではない、だけど同質である

即には、すなわち、ただちに、そのころ、そうして、とりもなおさず、そうなるときは、などの意味があります

まあ、縮めて要点を書いてるお経ですから、あまり言葉尻にこだわってもしょうがないでしょう
 
 

で、僕の解釈です

色--見る・見られるの壁-->空
空--
見る・見られるの壁-->色

これで、この般若心経の中に、自分自身が入り込みます

      

人間の側(色)から空を見ると、五蘊・十二因縁・四聖諦になり
空の側から人間(色)を見ると、不生不滅不垢不浄不増不減になります

 

 



 
五蘊・十二因縁・四聖諦--見る・見られるの壁-->不生不滅不垢不浄不増不減

不生不滅不垢不浄不増不減--見る・見られるの壁-->五蘊・十二因縁・四聖諦

という意味になります

 
 
見る・見られるの壁ということなんですが

「見る前の世界」がつまり(見られる側)です

あなたは今、目の前のモニターを、見てますが
パッと、目をつぶってください

目をつぶったら、その間にモニターが月に飛んでいった
などと考えてる人はいないと思います
見て無くても、モニターはそこにあります

ですが

見てないんだから、どうなっているかは、結局、わかりません

目をつぶっていたら、わからないのですが、どうしても、そこに有るという事はわかっています

それで、ですが、見る前の世界なんですから、見てないんです
それを「わかる」なんて言ったら、嘘です

でも、そこに有るんです

どうしても「わからない」、でも、そこに有る
それがです
 
 
それでを説明することは出来ない、というのが本当だと思いますよ

でも、そこに有る、と

 
それを、眼耳鼻舌身の五感全部で考えると

今、自分がいるという感覚も、五感に感じられる前は

貧・病・争も、五感に感じられる前はだと

前世の業も、宿命も、運命も、五感に感じられる前はだと

そこのところが、腑に落ちていくのが、般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)ですよ、と
なにかを信じるとか、念じるとかではありません。智恵で把握するということですね

 


この般若心経で図示するとわかりやすいですが
 
 

赤枠
この経の功徳が書かれてる部分です

(向こう岸に至る智慧)を行じ
五蘊は皆な空なりと照し見て
一切苦厄を度(解決)した
 
 

緑枠 

色=空 空=色

色--見る・見られるの壁-->空
空--
見る・見られるの壁-->色

空=不生不滅不垢不浄不増不減

色=五蘊・十二因縁・四聖諦

五蘊・十二因縁・四聖諦--見る・見られるの壁-->不生不滅不垢不浄不増不減
不生不滅不垢不浄不増不減--
見る・見られるの壁-->五蘊・十二因縁・四聖諦


このゆえに、空の中には

五蘊・十二因縁・四聖諦は無い

無色。無受想行識
無眼耳鼻舌身意
無色声香味触法
無眼界。乃至。無意識界
無無明亦無無明尽。乃至。無老死亦無老死尽
無苦集滅道
無智亦無得


赤枠
後半の効能書きですね

心に罣礙(障げ覆うもの)が無いので、恐怖あること無し

顛倒した夢想を離れ、涅槃を究竟す(涅槃に行き着く)

(向こう岸に至る智慧)によるが故に正覚を得る

 
それで、青枠の部分ですが


般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)は

大神呪。大明呪。無上呪。無等等呪

であると知る

つまり

智慧は呪である

と言ってるわけです

ですから呪の定義が問題になるわけです

呪をサンスクリットで言うとdharaniですけど陀羅尼ですね

呪文、真言、まじないの言葉、などの意味に使われることが多いわけですが

もともとは精神統一の意味で、それが、だんだんと精神統一する時に使う呪文そのものをさすようになりました

呪=精神統一

 
ですから

般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)は

大いなる神のごとき(精神統一)であり
大いなる明らかなる(精神統一)であり
この上なき(精神統一)であり
無等等(比べるものなき)(精神統一)である

という意味になります
 
 

続いて最後の部分がですね
 

故説般若波羅蜜多呪

ゆえに般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)のを説く

即説呪曰

すなわち、を説いていわく

 

呪が2種類あるんです

精神統一の、と、呪文の意味の


般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)の(精神統一)、と
呪を説いていわく、の(呪文)


 
 
この「呪が2種類ある」というあたりがわかると、般若心経はわかりやすくなります

それで

向こう岸に至る智慧=精神統一=呪

なわけですが

たとえて言えば

我々は、いっぺんに幾つものことに集中できないわけです

こうやって字を読んで考えながら、昨日の朝飯は何だったか思い出し、人指し指で三角形を書け、とか

足の裏に神経を集中させながら、おでこを意識し、字を読んで考えろ、とか

できません

ですから、般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)に集中している間は、他のことは出来なくなります

般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)に集中しているということは、呪(精神統一)である

ということになります

で、その精神統一をするための呪文が

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶

ギャーテーギャーテー、ハーラーギャーテー、ハラソウギャーテー、ボージソワカ

だと

 
 
それで、結論的に言うと
 
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶を唱えると、「向こう岸に至る智慧」に集中できる、ということですね

これは、お経によって定義されたルールですから、茫漠とした空の中から「向こう岸に至る智慧」が呪によって選択されて現前します

 

 

 我々の側(色)と向こう岸(空)の間には壁があります

色--見る・見られるの壁-->空
空--
見る・見られるの壁-->色

見る・見られるの壁が大問題になってくるわけです
 
自己が存在する限り、見る・見られるの壁は無くなりません

これは、肉眼で見る聞くだけでなく、霊感で感じる見える、瞑想で経験する、自分が神の啓示を受ける、などを含めて、「自分」と「自分意外の存在」の間の壁、すべてにおいて言えることです

自他の分別が壁です

自分と、自分以外を隔てる壁は、自分がいる以上、なくなる事は絶対にありません

 


もっと考えると、世界を存在せしめているのは、見る見られるの壁があるからで、この壁がなくなってしまうと、世界も雲散霧消してしまいます
ですから、死んでも、この壁はなくなりません

あなたが生きてきたという、厳然とした事実は、あなたが死んでも、死後の世界に残ります
あなたが死んでも、記録や記憶、痕跡が消失するわけではありません
生きた痕跡の消失が無い、ということは、見る見られるの壁の消失もありません

仏教でいう輪廻転生は、このあたりが根拠です
仏教では、生まれ変わるのは当然の常識で、生まれてきて、いかに生きるかが重要なのです

そして、仏教の最終的な目標は、色=空、になることです
経典では「仏身を成就する」と表現されます
つまり、仏と成る、ことです

キリスト教などの一神教と、ここが根本的に違います
仏教は多神教です
そして、あなたも、いつか神の仲間入りをすることが求められています

精進努力して、来世の自分に恥じない生き方をしてくださいね
努力は、必ず報われるのですから

 
 

 
眼の前にモニターがありますが

見てる自分と、モニターは別々です

見えているモニターは、自分の眼でとらえた影像です

影像と、そこにあるモニターは別々です

影像は本当のモニターではありません

本当のモニターを知るには、「自分」と「自分意外」の間の壁を越えるしかありません

影像とモニターの間にある壁を越えるには、自分がモニターになるしかありません

モニターには、どうしてもなれず、本当のモニターを知ることは出来ないのですが、モニターはそこにあります

 


 

自分の眼でとらえた影像としてのモニターは「顛倒した夢想」です

本当のモニターは「空の中」にあります

「顛倒した夢想」と「空」の間の壁を埋めるのが、般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)です

 
向こう岸に至る智慧は、自分自身で獲得しなければ問題解決になりません

壁は自分の中にあるからです

自分の素朴な感覚や感情、経験だけでは壁は越えられず、本当の姿はわかりません

智慧が、どうしても必要なんです

智慧による新陳代謝で、影像が本当の姿に近づいていきます
 
  
壁は無くなりませんが、実は、「影像」と「本当の姿」は繋がっています

なぜなら、「影像」も「本当の姿」の一部だからです

 
「空の中」に住む観自在菩薩によって説かれる呪によって「影像」と「本当の姿」は繋がっています

呪が見る見られるを繋いでいます

繋がっていますから、一気に、スッキリ、全てが解決します


 

こちらは、仏教的な考え方の要点です 仏教用語をなるべく使わないで説明しています

いろいろ仏教を勉強すればするほど、書いてあることの意味がわかると思いますよ

 

Quantum Sense 今風に言うとどうなるか、参考にしてみてください

 

あなたは仏教を知っているか? 「空と唯識」が仏教の基本です それを図式化しました

 


 

 


 
p.s.

ですから
前世、チャクラ、パワーストーン、パワースポット、オーラ、ヒーリング、占い、まじない
など、否定はしませんが、雑多な豆知識なんです
いずれも、感覚器官で感じる、こちら側の世界の出来事です

守護霊様はありがたいけど、とどのつまり、自分のかわりに飯を食べてくれるわけでも、便所に行ってくれるわけでもありません

智慧に意識を集中することを思い出してくださいね


 
 
 




色と空

造境と法界

能観と所観

主と客

影像と本当の姿

見ると、見られる

と、難しく考えてもいいのですが

「言葉」と「真実」の関係も、似たような事なのです
 
 

リンゴという「言葉」と、実際スーパーで売ってるリンゴの「現物」は別々です
リンゴという言葉は食べることが出来ません

なんだ、あたりまえじゃないか、ということなんですが

「寒い」という言葉と、実際の寒さ

「宗教」という言葉と、実際の宗教

「救い」という言葉と、実際の救い

やっぱり、間に壁があって、絶対に同じ物にはなりません


 
「波動」を感じるとか簡単に言いますが、額にジーっとしたチリチリ感を感じているのか、指で押すような圧迫を感じているのか、体全体に風が吹いてきているような輻射を感じているのか、様々なわけです

それでも「波動」という言葉にすると、まるで、計器で測定出来るような客観的な事実として解釈することも出来てしまいます

感触は、再現性や客観的な測定が難しいので、科学の対象としてそもそも不向きです

音楽や絵の感動を、科学的に解明するなど、まあ、する人は無いです

ところが

「この石の波動は、あなたを慰め癒します」
「よい波動の人の回りには幸運が多い」
「いい波動の音楽」

とか、どこにでも通じる事実のように「波動」を一人歩きさせる事ができます

エネルギー、パワーなども同じです

「宇宙のエネルギーを、あなたを通じて流します」
「この神様はパワーが強いので御利益がある」
など

主観的な感覚が、言葉によって、あたかも独立して存在する事実になって、他人に通用する力として扱えることになってしまいます

こういうのを、「広義の魔術」と言うこともできます

 
 
 
それで、「理解する」ということなんですが

そもそも無理なんじゃないのか、ということになってくるわけです
 
 

こうやって、モニターの字を読んでいるのも、言葉を使って、理解してるわけです

「理解」と「実体」ですね

この間にも壁があるのです


ソクラテスの「無知の知」

最澄の「極愚」

親鸞の「愚禿」

 
まあ、夢から覚めれば、このあたりが本当のところです

それで、「理解」を新陳代謝させ、よい部分を残し、不十分は補い、間違いは正し、深めていくしかない

それを、たとえば宗教で言うと、原理主義とか、教条主義、権威主義、一方的独断、は新陳代謝が止まっているわけで、生命で言えば、死んでるのです

「古師、謬(あやまり)あらば、新師、改むべし」最澄

なのです 
 
 
色即是空。空即是色

色--見る・見られるの壁-->空
空--
見る・見られるの壁-->色

 
理解即是実体。実体即是理解

理解--見る・見られるの壁-->実体
実体--
見る・見られるの壁-->理解


 
自分が、あの人はいい人だと判断する

理解-->実体


誰かが、自分のことを噂してるが、まったく見当違いしてる

実体-->理解

 
どっちもどっちなんですよ
それでも、人は人を求めてる


 
さて、これで般若心経の話は終わります

般若心経の場合は、最後に呪があるのが救いですね

 

 

般若心経の祈祷法

般若心経は、空について説かれています
哲学的な空についての説明もありますが、実際は、哲学が知りたくて般若心経を読む人はほとんどいないでしょう
読誦して功徳がある、霊験がある、ということを目的に唱えられています

なんにもなければ、とっくに廃れてます

その霊験の引き金が呪です

空ということを言えば、たとえば、地球の裏側の人たちから見れば、我々の存在は空の中です
見る、聞こえる以前の世界の総称が空ですから、漠然と、広すぎる概念です

で、その空には整然とした秩序があり、ルールに従えば、空の中から実際的な力を取り出せる、というのが密教です
主たる方法が、呪です

般若心経によれば、呪には2種類あり、それは「精神集中」と「呪文」です
それで、般若心経を読誦すれば、「精神集中」と「呪文」により、霊験がある、と

呪が仏によって定義され示されたから、間違いなく空の中から約束された力を取り出すことができます
それで、もう2500年にわたって読誦され続けているということですね

 

 

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