光の瞑想  解説

仏教の流れ

日本の仏教は、壮大な伽藍から始まり、平安時代に山岳仏教になり、中世に日本的な発展を遂げつつ地方へ伝播していきました。江戸時代に檀家制度が確立し、今日では各家庭に仏壇が置かれるところまできました。
中央集権的な時代には大伽藍で国家の威信を示し、平安時代には貴族の祈祷道場としての霊力を求められました。それが鎌倉時代にはいると、地方にも中央に拮抗するような勢力が芽生えはじめ、仏教の大衆に向けた発展が加速され、中規模な寺院が日本全国に作られました。江戸時代には封建社会を固定化するために、各村落にも寺院が作られ檀家制度が浸透しました。寺院は国家から地方、そして小さな村落へと変化しつつ発展してきました。そして今は各家庭に仏壇が置かれるようになり、違和感無く我々の生活に溶け込んでいます。

つまり、大⇒中⇒小と流れてきているわけです。で、次なる発展は、国家中枢⇒上流階級⇒地方豪族⇒地域社会⇒家庭ときて、こんどは個人でしょうか。たとえて言えば、大規模通信設備⇒公衆電話⇒固定電話の次に携帯電話がきたように、仏教の個人化がくると考えられます。
共同体の復活、連帯感の回復といったところで、作られ演出された空間だけのいわば、御祭りのようなものにしか見出されなくなるのでしょう。大衆を動員する大きなイベントはこれからも盛んに行われるでしょうが、人間が孤独を嫌う生物であるなら、これから益々必要になるのかも知れません。ただ、基本的な流れは、個人化へ向かっています。「個人化」と連帯感を味わうための「イベント」、これが次世代の心の行き場所でしょうか。

2004-03-01

 

寺院の性格が国家中枢(法隆寺や東大寺などの大伽藍に代表される)⇒上流貴族(比叡山や高野山など)⇒地方豪族(鎌倉期の地方の大寺院)⇒地域社会(檀家寺)⇒家庭(仏壇)ときたら次は⇒個人ということになるのだが、はて、これがどんなものになるのか?

仏教は歴史的にはどうしても上意下達の権威主義とセットになっていた。権威の中心は特権階級から徐々に大衆に開放されてきた。仏教もここに来てやっと直に本質に触れられるところにまで来たのではないか。

ところが、現在の仏教学は訓古学的な過去の経典読解が中心で、梵漢蔵巴といくらでも研究対象はあるし、過去の偉い人の研究などいくらでもできる。とりあえずなんの役に立たなくても文句は言われない。
また、現代の世俗的な生活があまりに快適なために、くそ真面目な原理主義的な信仰は煙たがれる傾向にある。ほどほどに修行したことにしておけば当面の生活に支障は無い。
サービス業としての寺院経営、ビジネスライクな寺院経営など、まだ意欲があるだけましなほうで、世襲化した寺の跡取連中の心の空洞化がいずれ表面化するだろう。

人生には今、自分の身の周りに起こっていることを、どう感じるか、という受動的な一面と、これから何をどのようにするのか、という能動的な一面がある、とする。
受動的な一面については楽天的でも悲観的でも現実的でも、とりあえず立ち入らないことにする。
さて、能動的一面、これから何をするのか、これはとにかく何かを信じていなければ一歩も進めない。俺は何も信じていないという人とは議論するつもりはないが、死ぬまでは生きているという現実については、素朴に、疑ってはいないのでしょう。自殺を企てないということであれば、生きるための算段が不可避的に必要になる。
この疑いを差し挟まない、つまり何事かを信じているというところがまことに曲者で、悪くするとアバタもエクボ的に歴史の英知の蓄積も、最高の知性の賜物もすべて無意味になってしまう。そうやって人類は愚劣な堂々巡りをするのかもしれないが、思い込みだけでは冷酷な現実は乗り切れない。
前置きが長くなったが、つまり、いずれ時間の問題で、幼稚な神様ごっこは行き詰まる。

臨死体験の研究、トランスパーソナル心理学、アメリカ輸入のニューエイジやヒプノ、などなど、現今の精神世界には色々な切り口があるのだが、つまりは宗教の個人化の流れの中で必然的に起こるべくして起こってきた試行錯誤の一端ということにも感じられる。一過性のブームのようなものに終わるとは思えない。
仏教は2500年以上、過酷な運命を乗り越えて、時代的要請に答えながら伝統をつないできた。正直あんまり克明には知らないが、これは事実である。今ある様々な精神世界の試みもいずれ吸収してしまうのではないか。大乗仏教の発展は異文化の消化吸収の歴史でもある。超感覚的な預言者による宗教であるキリスト教やイスラム教のようなトップダウン式の一神教と違い、仏教は瞑想によって検証されながら常に変容してきた。それでも、瞑想によって仏となる、という基本的なコンセプトは表現のしかた、強調する部分が違っても変化は無かった。

精神世界の試みの成果は新鮮ではあるが、仏教の骨組みを粉砕するほどの説得力は感じられない。むしろ、一神教の独善を戒め、瞑想の技術を深め、生命に宿る仏性を際立たせることで、結果的に仏教の洗練に寄与するのではないかとさえ思う。
今の坊さん達が、自分達に磐石の既得権があるなどど思い込んでいなければ、仏教にはまだまだ未来はあると思う。

2004-04-04


覚知魔事

光の瞑想に手を加えて読んだだけでも実習しやすいようにした。なにかの参考にとは思うが、細かいことや、実は大事なことでも書かずにいることなどかなりある。

大慈悲の光明が降り注ぐイメージだが、実際はかなり強くイメージできないとうまくいかない。新興宗教や拝み屋にはまった経歴のある人などは、神をかたる化け物的存在が取り付く可能性がある。伝統のあるまともな霊場に参拝したとしても、この手の存在はしつこいから、なかなか本当の仏や神に気持ちが届かなくなる。まともな仏かどうかを見抜ける人が手助けしないと、振り払うきっかけがなかなかつかめない。理屈が先行して瞑想をやっている人は色々なところに平気で出入りするから、本人が気が付かないうちに脱線してしまう。凶暴になるとか、憎しみや怒りが抑えられないとか、猜疑心が強くなるとか、精神分裂病になるとかろくなことがない。

強烈な苦痛を味わって、そこから、自分がいままで罵り嘲り凶暴な暴力をふるった相手から大きな慈愛をそそがれて救ってもらうような経験をする必要があるのかも知れない。とにかく慈悲というものがどんなものか思い知っていないと、どうもほんとうのところはうまくいかないのではないか。一口に言って、徳のある人はここのところはうまく切り抜けられる。ただ,自分がうまくいったからといって、誰でも簡単にうまくいくということではないのである。

瞑想の奥深いところは、縁のある神僧か護法善神が守り導く。偉そうに無宗教を気取っていたら危険極まりない。ハッキリとした信仰心がなくて瞑想するのは眼をつぶってラッシュアワーの高速道路を歩くようなものだ。ニューエイジふうに宇宙の善意とか大自然の心とか言っても、徳の高い祖霊がこっそり守護してくれていなかったら、ほとんど確実に狐・狸・蛇に取り付かれる。ほんとに甘くはないのですよ。
法界定印を組んで座るのは、これは仏教だけのもので、仏教の修行をしていることが明らかなわけで、神僧の加護を得て色々な魔事を避けることになる。総礼伽陀をとなえれば天台の神僧が見守ってくれるでしょう。

目に見えることさえ疑ってかかる時代ですから、このようなことを言ったところですぐに真面目にうけとめてもらえるとも思わないが、大事なところですね。それなりの徳がそなわっているか、きちんとした信仰をお持ちの方で、大慈悲というところが体得できていると突き抜けていけますので、瞑想法をここに書いておけば、いずれ何かの参考にはなるだろうとは思ってはおります。

それと、これは心のバランスを取り戻すための瞑想ですから、なにか具体的な願望をもった瞑想はしないようにしたほうがいい。それは祈願法とか祈祷法とかの類になる。今自分に本当に必要なものは魂の奥底ではわかっているので、ただ光にひたればよいと思う。
この光は、キリスト教徒であれば復活されたキリストのお心です。イスラム教徒ならばアラーのお心です。漠然と宇宙の心と考えるのはお勧めしません。人間に国籍があるように、心にも住処が必要です。パスポートもなくジプシーのように心の世界を放浪するのはお勧めできません。色々な国がそれぞれの伝統と主権を尊重して地球が成り立つように、色々な宗教の伝統が共存しているのが本当の姿です。

さまざまな宗教紛争は、地上にある、宗教が生み出した副産物に執着するから生まれるのではないでしょうか。

2004-02-11


 

 

七仏通戒偈

諸悪莫作  もろもろの悪をなすことなかれ
諸善奉行  
もろもろの善を奉じ行ぜよ  
自浄其意  
みずから、その意を清くせよ  
是諸仏教  
これが諸仏の教えである 

悪いことをせず(自分がされていやな事は、しない)

善いことをせよ(その前に、理解し共感する)

自らすすんで心を清浄にせよ(執着を離れる)

これが諸仏の教えである

平々凡々、なるべく善いことをしようと心がけて暮らす、と、それだのことです

 

ほんとうの世界

見えるもの、聞こえるもの、感じるもの、すべて脳の中のイメージ

各人各様、脳内イメージは必ず別々のものになる

別々だから、完全に自由で平等

記憶、信念、知識、自分という意識、など全部、脳内イメージ

国家、社会、宗教、人種、民族、習慣、家族、などは共同幻想

脳内にイメージされる前の世界が、ほんとうの世界

脳内イメージにしがみつくのをやめれば、ほんとうの世界が見える

「心」だけが、ほんとうの世界を感じることが出来る

ほんとうの世界では、全ての「心」は繋がっている

繋がっているから、自分のしたことは自分に返ってくる

喜びを与えれば喜びが返り、苦しみを与えれば苦しみが返る

ほんとうの世界にある、苦しみに至らない道筋を「慈悲」という

「慈悲」は
喜びを与え、苦しみを除き
喜びを与えてくれるものに感謝し、苦しみを与えるものを赦す

「慈悲」だけが、全ての「心」の共通の価値

イメージを棄て、「慈悲」を感じれば
なにをすればいいかわかる「智慧」を見つける事ができる

「智慧」に導かれて「今できること」を行えば、「心」が広がっていく

ほんとうの世界には「広々とした心」の先輩が沢山いる

「広々とした心」の先輩達は、未熟な「心」に「智慧」を授け、導いてくれる

死んでも「心」は無くならない

「心」は広がり続ける

そして「心」は、ほんとうの世界そのものになる

 

瞑想で、ほんとうの世界を感じることができます

「心」を広げるには慈悲を行うことが必要です

ソウルミラーネットワーク 

我々は

  • ソウルミラーネットワークに繋がっている
  • 他の鏡を傷つけたつもりが、実は自分の鏡がそれを写し取り傷ついている
  • 他の鏡を喜ばせると、それを写し取り、自分もうれしい
  • 五感から取り入れた情報を高度に発達した脳が「自由」に解釈し、イメージを作っている
  • イメージには間違いや妄想が含まれるので執着するべきではない
  • イメージが作り出した世界の価値観だけで生活すると、苦痛が生じる
  • イメージと鏡を調和させることを学んで、世界を豊饒にしている
  • 今の人生で鏡の歴史をつくり、それぞれ永遠に続く個性ある鏡となる
  • 「学びを終えた光」にいつも助けられている
  • いつか「学びを終えた光」になる
  • 自分の中にあるソウルミラーネットワークを感じることが大事です

 

Life of quantum sense

僕らの心は
感じあい、影響しあい
時空の無い世界の中で繋がっている

鏡のように照らしあい
他の心を傷つけると、それを写し取り、自分の心が傷つく
他の心を喜ばせると、それを写し取り、自分もうれしい

自由な心は、妄想と執着をつくり
救いの可能性もつくりだす

延々と終わりのない応酬が続く

かすかな「慈愛の感触」に導かれながら、長い長い旅を続け
喜びや多くの困難を通じて「慈愛の心」を学ぶ

そして、「次元の違う感触」に出会ったとき
全てを理解し、全てが赦される

いつの日か、学びを終えた光になって、光の中で生きる

 

 

 

 

輪廻

私は高野山と比叡山で宗教を学びましたが、伝統に寄りかかった一方的な権威主義や勿体をつけた儀礼だけでは、もはや人々を説得することは出来ません。我々一人一人が、生と死に対して、押しつけでなく真実に基づいたありのままの認識を持つ必要があります。

実は、「死後の生命」と「生まれ変わり」に関する科学的研究はかなり進んできているのです。救急治療の発達による臨死体験の増加と、誘導催眠の技法による潜在意識の探求等により、これからも飛躍的に研究が進むでしょう。

人は輪廻転生する。
人は慈愛の心を学ぶためこの世に生を受ける。
死別した人とはまた来世で出会う。
苦しみや困難から多くの事を学んで、魂の成長を続ける。

生きがいの創造 飯田史彦著 PHP研究所刊

WWW版『「いきがい」の夜明け』 生まれ変わりに関する科学的研究の発展が人生観に与える影響について

仏教は輪廻を前提に組み立てられていますが、輪廻すれば必ず賢くなるとは考えていません。
めぐる生死のなかで、悪をなさず、善をなし、心を清らかに生活しようと心がけなければなりません。

 

分子栄養学

この食事法の基礎は三石理論です
http://www.megv.co.jp/theory/theory.html
高蛋白・メガビタミン・活性酸素の除去が中心になります

 

小食 長寿の秘訣 とにかく現代人は食べ過ぎている

高たんぱく 血管でも内臓でも人間はほとんど肉でできている

プロテインスコア100の食品を体重1キロにつき1グラム摂取する(70キロの体重の人で70グラム 肉だと一日300グラム以上になるが脂肪分に注意)

脂肪の摂取を減らすにはスポーツ用プロテインを飲む

メガビタミン 人間は必須ビタミンを体内合成できない

良質のマルチビタミン 

Cを一日1グラム以上(副作用は無いので、風邪をひきそうな時は10グラム以上)

天然Eを400IU

抗酸化食品 活性酸素は老化と病気の主要な原因のひとつ

乾燥プルーン 緑茶 ココア にんじん かぼちゃ ゴマ トマト 玉ネギ etc

還元水で活性水素を取り入れるのがお薦めです

リノール酸を減らす 大量の油を食べるようになったのは最近のこと

オリーブ油 キャノーラ油 しそ油 DHA(魚に多く含まれる油)

※マーガリンは食べない 

 

健康を維持増進するには、食事と運動と睡眠をおろそかにしないことが必要です。特に口から入るものには細心の注意をはらわなければなりません。これらのことを実践すれば、寝たきりにならず、成人病にかかりにくくなり、ボケにくく、健康で長寿となります。 

 

 

心を開いて

目に見える前の光を見てごらん
耳に聞こえる前の音を聞いてごらん
皮膚に感じる前の感触を感じてごらん

そこにあるのは
時間も空間もない
完全な自由

そこにあるのは
全てを受け入れ
全てを許し
全てを理解する
広大な心

そこに行けば
全てが見え
全てが聞こえ
全てが感じられる

そこに行けば
全ての苦しみ
全ての嘆き
全ての喜び
全ての至福
全ての想いが感じられる

そこには
輝く者達がいる
あなたを見守る者達がいる

あなたを待っている者達がいる

2005-09-17


 

悟り

悟るという字

「りっしんべん(立心偏)」と「吾」でできています

わが心ということになります

サンスクリットでいうとbodhi(菩提)
目覚めるというbudという語からできています

ですからbudha(仏陀)も語源はbudで、目覚めた人という意味になります

自分で自分の心に目覚めること、それが、悟るということです

それで、実は、自分の身体も、自分自身で感じる前の本当の姿があるわけです

その、本当の姿は、空であり、法界であり、実相であり、無尽重々縁起であり、涅槃である世界にいます

その、感じる前の自分に会うことはできません
とにかく、感覚で感じる前の存在ですから

ところが、そんなことに関係なく、自分は存在してます


→をクリックしてみてください
 
 

御自分の手の平をじっと見てみてください

この形は、眼に写って色とか姿とか、また、皮膚の感覚など、脳内に再構成されています

「これは手だ」という言葉になる前の「手」は、感覚器官の向こう側にあって、どうしても感じることはできません

自分の心もそうです
意識される前の意識を意識する、など、できません
意識される前の意識を、「無意識」と総括することも出来ます

あるのはわかっていても、感じることができません

ここで、「感じられる前の世界」にいる自分を考えてみてください

時間と空間は、感じられる、こちら側にしかありません
時間と空間を決める、ということは、「感じる」ということですからね 

時間と空間が無い、ということは、宇宙全体が1ミクロンより小さく、同時に全てが起こっている、ということでもいいわけです
(本当は、そういうことが決められないのですが、便宜的に)

感じられる、こちら側の世界では、あなたと僕は別々の存在ですが、感じられる前の、あちら側の世界では、無尽重々縁起の因果律で繋がっています
そして、1ミクロンより小さい世界に同居してることになります

時間がありませんから
釈迦もイエスもマホメットも、あちら側では健在です

ご先祖様も、自分の未来の子孫も同居してることになります

諸仏・諸菩薩、八百万の神々も、世界中の神様達も、全部、繋がっています

さてと

それらを全て丸めて、ピンポン玉くらいの大きさにして


そのピンポン玉を、「感じる前の自分」と名付けることにしましょう

ですから
あなたの無意識は、全知全能です

それが、わかっていないだけのことです
わかってしまえば、それが、悟りです
 
 
「感じる前の自分」には、我がありません
でも因果律はあります

さて、そこまでわかったら、どうするか、ですね

「感じる前の自分」に、全くなにも求めず、感謝と愛を送り続けたら、全ての善きことが起こる、ということになりませんか

 

無我

仏教は、「我は無い」という立場をとっています
無我ですね

でも、普通考えると、我々には、自分という感覚があって、あなたと私は違うし、当然ながら別々の人格です

「我は有る」としか考えられないわけです

で、それを、魂とか、自我とか言うのですが・・・
 

しかし、それは、感覚器官で感じるこちら側の世界のことで、「感じる前の世界」には、やはり我はありません

とにかく、自分とか自分以外とか感じる前のことですから、実際は、我も無我も両方無いことになります
 

 
銀河系には2000億以上の恒星があるそうですが、宇宙全体には、そのような銀河が1000億以上あるらしいです

しかし、それは、眼で観測して数えるからで、響きとしてとらえれば、実はたった一つの響きしかありません
 


Barred Spiral Galaxy NGC 1300
->をクリックしてください 

 

響きは、華厳経でいう、無尽重々縁起で繋がっています
般若心経によれば、不生不滅不垢不浄不増不減です

まあ、波動のようなものと思えば、どこまでも無尽重々縁起で繋がっていて不思議は無いです

「感じる前の世界」なんですから、生滅とか浄不浄、増減など、感じてないわけです

感覚器官でとらえて、心に再構築された、こちら側では個別の存在も、「感じる前の世界」では、響きあい繋がって、不可分の存在です


  

 
 
自分を自分で、見る、聞く、感じる、その前は、これはどうしても、どのような状態かわかりません

絶対に、わかるはずがありません

見ても、聞いても、感じてもいないんですから

目の前の手の平を見て、ぱっと眼をつぶっても、もちろんそこに手の平があります
でも、見てないんだから、どのような状態か、絶対にわかりません

「感じる前の自分」を知ってる人はいないのです
 
 
それで

想像力を働かせてください

「感じる前の自分」はいったいどうなっているのか

 
 
宇宙飛行のような無重力状態

真っ暗闇で無音の温水プールに浮かぶ瞑想

自律訓練法による、感覚制御

一点集中による、制感

など、普段の生活の感覚から解放されると、「感じる前の自分」に一歩近づくわけです

「感じる前の自分」は、整然とした因果律を持ち、2000億の恒星のある銀河が1000億集まった輝きを持ち、過去現在未来の全ての叡智と繋がっています

つまり、それが、仏教で言う無我です

 

慈悲と空

仏教でどのように考えるかというと

慈悲は、空から派生します
が先決問題です

については、仏教には厳密な定義があって、歴史の蓄積がありますから勝手なことを言っても噛み合いません

因縁果報という因果関係の連鎖のなかで、どこかで連鎖を凍結して時間を止めれば、なにか固定した存在を定義できますが、実際は、連鎖は止まらず(諸行無常)、粛々と因果が流れていきます(諸法無我)

つまり、物事には定まった自性は無い、と考えられます
そのことを、、と言うことになってます

時間を止めればいいということなんですが、止めると言ってもその刹那をどんどん細かくしていっても、どうしても幅があります、理論的には
ですから、どうしても、物事の自性は止めて観察できません、極めて厳密に言うとですけど

で、もっと厳密に考えると、その因果関係は、心の中で生じています

まあ、たとえば、氷が水になって、お湯になって、水蒸気になって、雲になって、雨になって、また水に戻るとします

水、といった定まった自性は無い、と考えるわけです

で、その氷なり水なりは、眼で見、手で触り、それを心で感じています
つまり、脳内現象です

ところが、実際の水は、たとえばコップの中にあるのであって、脳の中にあるのではありません

だから、眼で見なくても、手で触らなくても、水はそこにあります
感覚器官で感じられるまえの存在です


たとえて言えば、量子力学でいう、Superpositionです
(粒子としての光子は、観察される前には、複数の場所に波動として同時に存在できます)
観察されて初めて、一カ所の場所が特定されます

観察される前の存在は、分割されていません
全てが、一つに繋がって、時間もなく空間もありません

観察されて、人間の意識のなかで限定されて初めて、形となります
つまり、脳内現象になる以前の存在は、感覚で感じられ特定されていませんから、時間も空間も特定できません


いまご覧になっているモニターは、つまり、あなたの眼を通して脳内に形成された印象です
モニターそのものは、眼をつぶってもそこにあります

実際のモニターと、脳内の印象は、別々のものです

自分という感触も、実際は、感覚器官によって作られた印象です

実際の自分は、「感じられる前の世界」にいます

「感じられる前の世界」は、これは、そこにあることはわかっているのですが、どうしても、感じられません
当然ですよね、感じる前の世界ですから

だから、絶対に、わかることができません
でも、今ここにあります

「感じられる前の世界」がです


「感じられる前の世界」は、因縁果報という因果関係の連鎖が無尽重々縁起となって繋がっています
波動を、ぶつ切りに出来ないのとおなじことです

繋がっていますから


存在を傷つけるということは、自分を傷つけることです

存在を喜ばせば、自分に喜びがあります

ちょっと不思議な感覚かもしれませんが、全ての心は一つに繋がっています


我執(自分がいるという思いこみ)にとらわれていると、繋がっていることを忘れています

気がついていてもいなくても、「感じられるまえの世界」は一つに繋がっています だから、自分を愛することと、他人を愛することは、全く同じことです

 

それが、慈悲が空から派生するという意味です



で、その

空は絶対的に信頼出来ます



これはですね、には我がないからです

仏教的には、我とは「印象に対する執着」です
つまり、自分がいるという素朴な感覚ですね
で、他人がいて、沢山知らない人達が生きているという、ありふれた感覚です

しかしながら、見える前の世界、「感じられる前の世界」は、印象じゃないわけで、我から切り離されています

だから、は善悪、正邪、損得、苦楽、好き嫌い、愛と憎しみ、私利私欲、など、人間生活にまつわる価値観とは無縁です

実際のところ「仏は慈悲深い」、とは、ものの例えで、我のない心のことをそんなふうに例えるんじゃないでしょうか

ですから、には因果律があるのですが、このの因果応報には勧善懲悪的作用はありません
なにせ、我がない心の作用ですから

我々は、を本来知っているのだが、それを妄想(煩悩や我執)が邪魔しています

だから、障害となる煩悩や我執を減らしていけば、が自ずと現れると考えます

具体的には、相手の立場で考える、我が儘は言わない、気配りを忘れない、分配は公平に、などでしょうか

まあ、私利私欲は、ほどほどにしましょう


繋がっていることが本当に腑に落ちるまでは、「慈悲のようなもの」、又は「我執による錯覚」、と我々は付き合わざるを得ませんが、それは真実に至るプロセスです

人間に、自由意志があるから、妄想も作るし、真実に至るプロセスを歩むこともある、と

ほとんど無限ともいえるプロセスが生じるのですが、それがこの世界の豊饒さではないでしょうか

ポツンと悟った人が突っ立ているような世界ではなく
我々は、豊饒な、まだだれも見たことの無い世界を生きていくのだと思います


 

仏教が考えている、信仰

 

過去は終わってしまい、未来はまだ来ていない

「今」は、時を刻む秒針のように、時間を超えて存在し続けている

 

未来は、まだないんだから、未来に「今」が縛られることはない

過去に「今」が縛り付けられることは、あるだろう

でも、過去は、終わってしまったんだから、無視することもできる

過去を無視し、未来になんのイメージも持たずにいたら、「今」は、まったくの自由なのだけれど・・・

ぼんやりしていたら、結局、過去に縛られてしまうことになるだろう

無垢な白布が小さな汚点で汚されるように

 

つまり

過去を忘れ、「今」、未来を強くイメージできれば、どのような未来でも作ることができるということです

ここで、新たな苦痛や不幸を作ってしまってはいけない
苦痛や不幸の原因にならないようなイメージを持たなければなりません

 

強く、よりよい未来をイメージする

これが、仏教が考えている、信仰です

 

人は過去世の業を背負い生まれてくる

過去の全ての結果が、「今」に凝縮している

過去の全ての責任を、今とらされている

今ある絶望と苦悩は、過去の集大成だ

「今」は過去の結末なのだ 

 

だけど

 

「今」は未来の始まりだ

「今」心を変えれば、「今」から未来は変わり始める

 

過去は終わってしまい、未来はまだ来ていない

あるのは「今」だけだ

変えることができるのは「今」だけだ

生きることができるのは「今」だけなんだ

 

今、絶望・恨み・怒り・愚痴・無力感にひたるのか
今、感謝・希望・夢・目標を持つのか

今を大切にしよう

今を真剣に生きよう

今だけでいい

出来る限りのことをしよう

 







「唯識と空」いう視点

 

「科学になりきれない何か」があって、説明を求めてる
それで、とりあえずの理解をしてみるのは当然のことなんだけど

 

 
とりあえず「波動」だけど

何度も言うけど、スピリチュアルな人達が安易に「波動」というのは賛成しません

なんにもなくても、胡散臭く見られてるのに、なにがどう「波」で、それがどう「動く」のか、わかってもいないのに、「波動」だと断言するのは、まあ、良く言って、幼稚です

波動が高い
波動が低い

波動が良い
波動が悪い

波動が強い
波動が弱い

波動がある
波動がない

これなど、ほんとうに、主観的なものなんですよ

僕は、その主観も無い、などとは言いません

霊感のある人(僕に言わせれば、感覚が比較的するどい人)は、たとえば「波動」で表現するような感覚を持つことがあります
その程度の感覚なら、僕にもあります

ただ、それを他人にあてはめる客観的な事実と混同してはいけません
感覚は感覚なんであって、個人的なものなんです

似たような感覚を持つことはあると思います
友人とか地域、あるいは国で

だからと言って、自分の感覚を誰にでも通用する事実として強要はできないでしょう

 
アイスクリームが好きな人は多いかもしれませんが、嫌いな人もいるんです
たとえば、それを、アイスクリームに良い波動があるので、嫌いな人は悪い波動になって不幸になる、などとは言えないんです

 
「おすすめのパワースポット」

などというのは、その最たるもので
これがいかにいい加減かは

その、パワースポットの推薦者に、良いパワーを感じる音楽を選んで貰えばわかります

それを自分で聞いてみると、なんじゃこれ、てのが多いんですよ

そりゃ、趣味の一致する時もありますよ
でも、それは、それだけの話で、パワーの有る無しについては、慎重にならざるを得ないでしょう

これは、審神(さにわ)にも言えることで、ある特定の文化圏には当てはまっても、異なる文化圏にはあてはまらないと考えるべきでしょう

 
 

仏教には説一切有部というのがあって、たとえば「悪」なら「悪」という実体が有る、と考えるんです
有部律の授戒の時は、「戒律」という実体があって、実際に授戒の時、この「戒律」の実体である、ある物を授かります
戒体と言って、箱に入ってます
有部の授戒をされた方は知っています

(善を詰め込んだ注射をすると、善人になる、ということになります
冗談ではなくて、教祖様の清らかなDNAを頂戴すると、福を授かる、なんてカルトはいくらでもあります
DNAは、まあ、精液とか爪の垢とかです)

 
実は、密教は有部の考え方を基本に組み立てられていて、仏なり菩薩なり天部なりが実体として存在し、考えたり働いたりする、と考えてます

それは、そう考えるしか説明のしようがない現象があるからですが、「有」も識の一部であると解釈すると、実はもっとスッキリした考え方になります


 
で、「波動」なり「パワー」なりが実体であるという考え方は、まあ、有部なら言いかねないけど、主観的な感触だというのが、精一杯の理解ではないですかね

それを、どうしても「波動」や「パワー」に固執するならば、不純な動機が別にあると思わざるをえない
 
 
ええと、それはそれとして

「有」も識の一部であると解釈すると、実はもっとスッキリした考え方になる

ということなんですが

つまり、「唯識と空」です

これは、誰が何と言おうと、仏教の中では、それなりに辻褄があってます

 
 
長くなりました
続く

ファイル 70-1.jpg
絹本著色 (龍猛) 室町後期(16世紀) 長保寺蔵

ナーガールジュナ(龍猛)
2世紀中葉〜3世紀中葉。南インド゙のバラモン出身。大乗経典の注釈書を多く著し、八宗の祖と仰がれている。南インド゙の鉄塔を開き、金剛サッタより密教の秘奥を直受した。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9wiki


 


Eセラメダル御飯用

お米の内部まで熱を浸透させ、ふっくらとした美味しいご飯に仕上がります。【使用期限】半永久的。
ファイル 71-1.jpg

これが、どうにも不思議な代物
炊飯器に入れて焚くと、ご飯粒一つ一つが際だって、ふっくら美味しくなります
べとべと感がなくなってモチモチした感じになります
入れた時と入れない時と歴然と違う
備長炭を入れたときとも違うんだなぁ

どうしてそうなるか理屈は一応あるけど、やはり不思議です
でも、口は正直ですから、美味しい物は美味しい

その理屈というのが「波動理論」で
EM菌の良い波動を焼成したセラミックに移した、という代物です

まあ、理解に苦しむわけですが、うちでは家族そろって、「わけわからん」と思いながら使ってます

気のせいじゃありませんよ
否定される前に、一度おためしください

家族そろって「美味しくなーれ」と電気釜に言い聞かせると、もっといいのかもなぁ・・・・ 

これなど、似非でもなんでもいいわけですが、再現性のある結果がでるんだからしょうがない

ただし、味覚というのが主観で、「おいしさ」をどう感じるかの指標はありませんから、これも、しょうがないですね

アミノ酸とか、粘度、とか測定方法を工夫しても、どう感じてるか、までは指標化できません
まあ、アンケート調査くらいかなぁ、指標は
 
 
で、何が言いたいかというと
「客観的事実」と「主観的経験」の境界線は、けっこう難しい、あるいは、意識して引かないとわからなくなる、ということです

これは、実は控えめな表現で、僕に言わせれば、客観的という理解そのものが主観的な区分です
客観性の実体は、わけのわからないことだったりします
 

案外、事(善悪、愛憎など)や物(水や石など)には、固有の「波動」があって、「波動」には応用の利く再現性のある活用法があるのかもしれません

「波動」の実体は、物理学的な「波」や「動き」とは違うかもしれませんが、極めて似たような「なにか」(Rゆらぎ、とかPsiエネルギーとかいろいろ言葉がつくられてますが)であって、人間が願望成就に利用できる、と

本山博とか関英男などという名前を知っている方は少ないと思いますが、極めて真面目に、わけわからなく、研究は進んでいるようです

宗教は、願望成就などの私利私欲よりも、もっと高度なものを追求するのが建前ですが、接点はあります
 
 

ああ、そんな事どうでもいいという人は、心が健康だからです

迷路にはまり込んでいる人は、ここから先をお読みください
 

事物と心の関係を統合して考える「場」が求められるのですが、その一つの答えが唯脳論です
で、唯脳的に考えれば、それは科学の範囲に収まるはずです

たとえば、
「愛」もドパーミンの分泌量で量れるとか、
「爽やかさ」は脳波に現れるとか
ヘミシンクで瞑想状態をコントロールするとか
精神活動をバイオフィードバックで指標化するとか
眼球運動や筋肉反射に、心の活動が反映されるとか
死を合理化するために、死後の世界の幻覚を見るとか
心霊体験は、自己暗示と妄想による、幻覚症状だ、とか

 
 
これですね、仏教の唯識論は、そういった科学の範囲の方法論は否定しないんですが、全く違うんです
 
 
唯脳論では、生身の脳が死ねば、認識作用は終わります
当然です、火葬場で灰になったら、もう脳はありませんからね

唯識論は、死んでも続きます
というか、死は、識の一部分でしかありません
水や石も識の一部で、愛憎も生死も識の一部です

唯脳論は科学で、唯識論は哲学だ、という分け方もできます
そうすると、唯脳論は、唯識論の一部ということになります


 
 

 

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仏教を、本を読んで理解した、という人を、全く信用しません
そんなことが可能だと思ってる人は、わかってないです

今でこそ、仏教という言葉が普通に使われ、それで意味が通じるようになってますが
本来は、
仏道、です

柔道、剣道、華道、茶道、仏道です

柔教、剣教などとは言わないように、仏教という言葉は、おそらく明治期にドイツ式の教養主義から出来た造語です
あるいは、キリスト教と対比して使われるのでしょう

神の教えを、迷える子羊に「教える」というニュアンスでしょうかね
仏道は、自覚するんですから、上から下に教える、という風にはなりません


で、仏道ですから、実践が主で、理論はオマケです
普通の住職さんなら、理屈などにほとんど興味はないと思いますよ
日々、実践ですからね

それで、ヨーロッパ風の主知的な仏教理解は、信用しませんね
ま、日本やタイできちんと基礎から修行した人もいますから、そういう人は別ですけど
 

大雑把に言えば
仏道は
修行や実践を通じて、全人格的に把握するものだと思います

仏教学者は、修行を重視しない人がほとんどですが、だから彼らの本をいくら読んでも悟りが開けないんじゃないですかね

修行無用論というのもありますが
自分を越えた向こう側に行くんですから、ボケッとしてたらダメだと思いますよ

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