問答有用

徳川夢声との対談

 

跋文

 週刊朝日に連載している「問答有用」の対談で、三時間近くいろいろお話を伺った。これはしかし、二度目の対面である。
 初対面は、富本岩雄さんが御案内で拙宅に見えた時だ。それは、頼貞さんの有名な古代楽器 を、某方面で買わないかという御依頼が、某氏からあって、どうも巧くいかなかったのであるが、その報告をそれとなく確かめに見えたらしいのであった。この時、絶好のチャンスと思っ て、対談の件をお願いしたように記憶する。
 同じ杉並区の同じ町内に住み(御別宅があったのである)ながら、それまでお目にかかる機会がなかった。
 しかし私の方は、大正三年から芸名を”徳川”と名乗り(つまりニセトクガワとなったわけ) 自然、ホンモノの徳川家に対してはいつもあいすまぬことに思っているので、徳川家正とか、徳川義親とか、徳川頼貞とかいうお名前に対しては、そのころから関心をもたざるをえなかっ た。
 同時に、ホン徳川家の人々も、私というニセ徳川の名には、自然と昔から関心をもたれてい たことであろうと思う。
 水泳の古橋選手一行が、南米を訪問した記録映画を、私は日伯協会の依頼で、ナレィションを吹きこんだ。頼貞さんはこの協会長でいらっしゃったから、その時以来、私の名に一層親し みをもたれたのではあるまいか。
 とにかく三時間も、さしむかいで話をすれば、もうアカの他人ではない感じがしてくるもの だ。ことに頼貞さんのお人柄が、じつに結構なものであって、そのオハナシにも人柄がにじみ だしていて、この対談記事は大好評であった。
 昭和二十八年五月、私たち夫婦はイギリスに出発したが、その時、富本さんがお願いしてく れて、あちらの名士に数通の紹介状を書いて頂いた。アーム・ストロング卿夫妻とか、クレー ギー卿とか、ピゴット少将とか、みな大した人たちである。相手があんまり大名士すぎるので、私はおそれをなして、ピゴット少将にだけお目にかかり、あとは無駄にしてしまった。
 この紹介状の封筒には、金で葵の御紋が入っていた。その紋章入りの紹介状をもって行った 私が、トクガワ・ムセイというのだから、ピゴット少将などは、てっきり御一門と感違いしたのであった。
 跋文の御依頼は、生前、病床にあって仰言っていたことだそうで、いわば御遺言のようなも のであるというので、この駄文を草したわけであるが、この際ぜひとも前記対談を巻尾においていただきたいと思う。初めてお読みになる方には、もちろん、大威張りでおすすめするが、一度読んだお方でも、もう一度静かに読み直してください。ほんとに故人の面目が、躍如とし ていますから。

徳川夢声

 

 頼貞
 どうなんですか、夢声さん。天才と狂人とは紙ひとえだっていうんだが。

 夢声
 天才というものが、気ちがいと共通した傾向をもってることは事実ですね。しかし、気ちがいは気ちがいでしてね、そのなかから天才をさがすの はむだですよ。

 頼貞
 ロンブローゾ (イタリアの精神続学者)のお弟子さんで、わたしの親友のイタリア人がいたん ですがね、それは文学博士、哲学博士、音楽博士で、 イタリアの帝室音楽院の総裁だった人です。

 夢声
 音楽博士ってのがあるんですか。

 頼貞
 あるんです。わたくしもケンブリッジでそ の称号をとろうとして、途中でまいっちゃった。まあ、それはそうとして、わたくしのその親友が「音楽家と気ちがいとは、紙ひとえだ」ってましたよ。

 夢声
 そりゃそうかも知れませんね。なんか音を出して、それでめしを食おうなんてえリョウケンを起すことがそもそもおかしいですからな。(笑)い やそれだけに貴重なことだともいえますがね。

 頼貞
 わたしが音楽の修行をしてたころのことを考えてみても、たとえは先生と生徒と話をしていて、どっかでボーン、ボーンと時計が鳴るとしますね。 先生が「あれはなんの音だ」ってきくと、ピアノの どの音だということを、生徒はすぐ答えなきゃなら ない。ですから、音楽で食っていくということがお かしいとおっしゃるが、それだけのセンシビリティ (感受性)が必要なわけで  。

 夢声
 歌のひとつもうたえ、楽器のひとつもひけるというのは、人間がたのしく生活するための必須 の条件だと思うんです。だけども、これで一生の生 活費をえようとする気もちは、純粋といえば純粋で すが、ある意味では、たいへん楽天的じゃないかと、 こういう意味なんです。

 頼貞
 そうもいえましょうね。ところがね、われわれがオーケストラの演奏を見てると、たいした努力でやってる。じつに、ご苦労さんだと思うでしょう。しかし、やってる人としては、ほかの仕事と違って、あれをやることによってひとつの快楽をえて るわけですね。働きながらたのしむという特典が、 かれらにはあるんじゃないですか。

 夢声
 そりゃあ、たいへんな特典です。藤原義江君がいってましたがね、昭和二十四年でしたかな、 帝劇でオペラをやった時に、上野をちゃんと出たテ ナーで立派な役をつとめてる人のお給金が、ニコヨ ン(日雇労務者)ぐらいなんですって。藤原君自身 も、損ばかりして苦労している。  その藤原君のいうところによればですよ、扮装を して舞台にならぶ、ベルが鳴って客席のざわめきが とまる、指揮者が出でコンコンコンと譜見合を鳴ら す、さて幕あきの曲とともに幕があく、その瞬間、 「もうこれでいい、ざまあみろ」って気がするって いうんですね。「どんなに苦労してたって、こんない いことがあるんだ。お前たちにゃ、これはわからな いだろう。ざまあみろ」という気もちなんですよ。

 頼貞
 芸術家というものは、そこにひとつのよさがあるんです。優越感でもないんだが  。なんていうかな。

 夢声
 大げさにいうと、絶対と結びついたっていうんですかね。

 頼貞
  ところが、それとは別に、非常な不安もあるらしいんですね。ひとつの例ですが、日本へきたヴァイオリニストのジンバリスト、あの人の奥さ んはアルマ・グリュックという名で、メトロポリタ ン歌劇場で鳴らした歌い手なんです。それが日本へ きてわたしのうちにとまっていた時のことですが、 「奥さん、初舞台の感想はどうでしたか」って質問 したら、十七の年にはじめてステージを踏んで「バ リアッチ」をやったが、相手はエンリコ・カルーソ ーだったっていうんですね。 おもしろいことには、幕がまさにあがろうとする 時に、あの大歌手のカルーソーがあっちへいったり こっちへいったり、じっとしていなかったというん です。  アルマが「わたしは初舞台だからブルプルふるえ ていますけど、あなたのように何回となく出でるか たが、なぜそんなに興奮しでるんですか」ときくと、 カルーソーは「あんたがきょうのできばえを心配す る気もちと、すでに名声を博した音楽家がその名声 を失うまいとする心配と、どっちが強いかというこ とは、あんたが、もっと大きくなったらわかるだろ う」といったそうです。ジンバリスト夫人ば「あとになって、カルーソーの言葉がよく思いあたりました」っていってましたがね。

 夢声
 そうでしょうね。芸術にたずさわるものがいつも絶対を相手にして演技をしてるとすれば、絶 えず不安であるべきばずですね。だから、ほんとう の芸術家であるならば、テングになぞなれないわけ です。

 頼貞
 そういう不安と、藤原さんのいわれるような気もちと、バランスにかけてみて、どっちが重い かはわかりませんね。

 夢声
 喜悦と恐怖、これはいつも二本建てで存在するわけで、そのバランスが破れさえしなけりゃい いんでしょうな。ぼくらのは芸術といえるかどうか わかりませんけれども、たまには「おれば案外うま いな」と思うこともありますが、おおむねくさりで す。たとえば三越あたりでやりますと、憂欝になっ て帰るにきまっとろんですよ。いまさらこの商売、 やめるわけにばいきませんしね。(笑)

 頼貞
 コメディアン (喜劇役者)もそういうもんでしょう。わたしが最初にイギリスへいった時に、曽我廼家五郎がきたんです。のちに東京商大の学長 になった上田貞次郎という人が、わたしのケンブリ ッジ時代の指導役としていっしょにいっていたわけ です。上田博士が東京へ帰るという時に、「長いシ ベリア旅行をひとりでやるのけ退屈だが、だれかい い相手はいないかしというんですね。ちょうど、曽我廼家五郎が帰る時だっだんですよ。 「曽我廼家五郎といつしょに話していったらどう です」といったら、「そりゃいいだろう」というこ とになって、ふたりで帰っていったんです。それか ら二年ほどたって、「あの時はどうでした」つてき いたら、「舞台じゃあんなにおもしろいのに、いっ しょになって話してみると、ちっともおもしろくな かった」っていっていました。

 夢声
 五郎なんてのは、気むずかしい男でしたよ。 お客をどうして笑わせようかってんで、年じゆう苦 労してると、笑いということも神聖な商売ものです からね、ふだんはみだりに使用しないのかな。(笑) 円左というのは、明治時代の落語家として一番うま かったといわれてる人ですが、うちにいる時はぐち やこごとばかりいってて、じつに気づまりなおやじ だったそうですよ。

 頼貞
 なるほど、そういうものかも知れませんね。

 夢声
 音楽博士たらんとされたっていうんですがね、音楽に興味をおもちになったのは、どういうところからですか。

 頼貞
 これは非常に皮肉にきこえますが、戦争ってものは、音楽を発達させますね。というのは、わ たくしの音楽志望もまさに戦争の影響ですな。わた くしがものごころついたのは、日清戦争時分なんで す。

 夢声
 しかし、まだ三つか四つぐらいだったでし ょう。(笑)

 頼貞
 ええ、そのころですがね。当時、陸軍でも 海軍でも戦死ということを非常に重く取りあつかっ たんですね。伍長が死のうが少尉が死のうが、葬式 にはかならず軍楽隊がついたもんです。その時分わ たくしは麻布に住んでいたんですが、青山斎場へい くおとむらいがブカブカやりながら、しじゆううち の前を通る。わたしァ乳母につれられて、それを見 にいったもんです。それにつづいて、日本が勝った わけですがね、祝賀の園遊会というものがはじまる。 われわれのところでも、園遊会に軍楽隊を呼んでく る。そういう雰囲気のながにいるうちに、だんだん 西洋音楽に対する興味が、つちがわれできたんです な。

 夢声
 日本で西洋音楽がはやってきたある時期には、軍楽隊がたいへんな力になってますね。あたし ども、音楽らしい音楽は軍楽豚ではじめて聞いたん です。日露戦争直後でしたが、日比谷の音楽堂で、 陸軍と海軍と交替で演奏したもんですね。

 頼貞
 楽長が永井建子さんと瀬戸口藤吉さんでね。そう、そう。

 夢声
 お宅では、著名な作曲家の自筆の楽譜など をずいぶんお集めになってるんでしょう。

 頼貞
 それもありますし、手紙もあります。南葵楽堂というものを持っていましたがね、そのころ、オーケストラはあっても楽譜がないもんですから、 楽譜がいつでもあるようにしたいと思って作った音楽図書館なんです。ですから、わたくしのところにはいつでも、八十人のオーケストラ用の譜は全部あ った。  わたしがべートーヴェンの「第九交響曲」の楽譜 をはじめて取りよせた時には、音楽学校のオーケス トラもそれが演奏できるだけにはなっていなかった わけですが、三年ばかりあとで、ドイツ人のクロー ン教授の指揮でやったのが最初なんです。これが日 本における「第九」の初演奏ということになってるんですが、じつはね、それよりも七年前に第一楽章 だけですけれども、徳島で「第九」が演奏されてる んですよ。

 夢声
 聞きましたね、そんなことを。ドイツ人がやったんでしょう。

 頼貞
 そうです。青島の捕虜が自分たちの手で楽器を作って演奏したんです。わたくしァ当時の陸軍 大臣の特別の許可をうけて、暑いさかりをわざわざ 徳島まで聞きにいきましたよ。そうしたら、かれら はすっかりよろこんで歓迎してくれたんです。なか にゃベルリンの一流ホテルのコックもおり、大レス トランのボーイもいるわけですか、そういう連中が 腕をみがいて歓待してくれたんですから、たいへん 愉快でした。

 夢声
 大正七、八年ごろですがな。  

 頼貞
 七年だったと思いますね。

 夢声
 楽器は全部そろってたんですか。

 頼貞
 まあ、モーツァルトやハイドンのものをやるにはじゆうぶんですけれども、ベートーヴェンの 「第九」をやるには不完全だったと思います。しか し、捕虜生活のなかであれだけの演奏したのは、立 派なもんですな。

 夢声
 ここにも、戦争が音楽をさかんにしたという実例がありましたね。(笑) パイプ・オルガンを輸入されたわけですが、その前からすでに、日本 のどっかにあったんでしょうか。

 頼貞
 横浜にひとつと、築地の三一教会にひとつあったんです。大正七年でしたがね、日本にいいパ イプ・オルガンがないのははずかしいというわけで、 わたしはイギリスのリーズという町のオルガン屋か ら買ってきたんです。一番低い音のパイプの長さで パイプ・オルガンの大きさがきまる。それをダイアペ イスンといいますが、オーケストラの大きさがコン トラバスの数によってきまるのど同じく、一番低い 音のパイプが一番太いわけだから、その長さがパイ プ・オルガンの大きさをきめるわけです。  ふつうパイプ・オルガンと称せられるものは、その 最低音のパイプが十六フィート以上なければならな いのに、それまで日本にあったパイプ・オルガンは六フィート以上のものがなかった。わたくしのは十六 フィートです。これもじつはあんまりたいしたもん ではないんで、ほんとうは三十二フィートからない と、いいパイプ・オルガンじやないんです。

 夢声
 すえつける建てものがたいへんですね。

 頼貞
 ロンドンのセントポール教会のパイプ・オルガンのダイアペイスンは、幾フィートぐらいある と思いますか。

 夢声
 とにかく、十六フィートの何倍かですな。 (笑)三倍とすると、四十八フィート。

 頼貞
 いや、なかなか  九十六フィートです。

 夢声
 へええ・・ほぼ丸ビルぐらいありますね。

 頼貞
 そのくらいのものになると、音がわからないんです。聞いてて、ヘソのところがペコペコッとするだけです。(笑)それでも、音楽的効果はある んですね。ですから、十六フィートなんてのはあん まりよくないけれども、限られた金しか出せないか ら、それを買ってきた。当時の金で七万円です。と ころがね、夢声さん、ピアノなんかと違って、これ はバラバラにして、送ってきちゃったんですよ。

 夢声
 ただのパイプになってね。(笑)

 頼貞
 おどろいだのは税関です。パイプ・オルガ ンなんて見たことはない。パイプの上にスズが使っ てあるんですが、戦争当時ですから、スズは禁制品な んですね。そこへ税をかけるということになって、 税がオルガンの代金より高くなっちゃった。(笑) 時の文部大臣の勝田主計に会って、これは教育品だ からということでかけあって、無税にしちゃったん ですがね。  こんど困ったことには、それを組みたてる人がな い。しかたかないから、イギリスからパイプ・オルガン・ビルダー、パイプ・オルガンの大工さんといいま すかね、それを呼んだんです。大工さんの滞在費な どをまぜて、だいたい十万円かかりました。昭和三 年に上野の音楽学校へ寄付したんですが、それ以上 のパイプ・オルガンが入らないで、いまでもあれが 日本で最大のものです。

 夢声
 お宅へ備えつけたパイプ・オルガンを、最初 に演奏した人はだれです。

 頼貞
 日本人じゃないんです。あなたがた、中学生時代に英習字をしましたね。ペンマンシップ(ペ ン習字)の大家といわれているガントレット、例の 恒子さんの御主人ですな、この人が最初にひいたん です。当時、日本におけるただひとりのパイプ・オ ルガン演奏者でした。

 夢声
 めったに鳴らなかったんですか。

 頼貞
 一週間に一回ぐらいですね。

 夢声
 人を呼んで聞かしたんですな。

 頼貞
 そうです。その時に、おやじ (頼倫)とけんかしたんです。わたくしは切符を売るっていうし、 おやじは「徳川ともあろうものが、切符を売るとは なにごとか」というんですよ。(笑)わたしが切符 売ろうってのば、もうけるためじゃない。一般の人 に、聞いていただくチャンスを与えたいからなんで す。そうしないと、うちの知りあいの人しか聞けな い。  そういうわけで大げんかしたんですけれども、結局、おやじに従わざるをえなくなって、切符は売ら なかった。おかげで門をこわされましたよ、「聞か してくれ」って押しかけた人たちによって。(笑)

 夢声
 乱暴なもんですね。さすがは十六フィートのパイプ・オルガン。(笑)

 頼貞
 夢声さん、竹のパイプ・オルガンが世界にたったひとつあるんですが、知っていますか。

 夢声
 竹のカーテンの向うじゃないでしょうな。 (笑)

 頼貞
 マニラです。百八十年ばかり前にベルギーの坊さんが作ったもんですがね、フィリピンの国宝 であり、同時に世界の国宝なんです。ところが、大 東亜戦争中にまさに朽ちようとした。その時、わた くしは軍の文化顧問としてフィリピンへいったんで す。

 夢声
 虫かなんかついたんですか。

 頼貞
 アリがついたし、調子がとっぴょうしもなくはずれちゃってるんです。わたくしは「自分の給料をさいてこれを修理することはわけないが、これ はお前たちのものじゃないか。フィリピン人の手で なおされてこそ、価値があるんだ」といって、フィ リピンの有志、カトリックの坊さん、政府などのし りをたたいで、わたしのすこしばかりの給料を加え て、完全になおしてやったわけなんです。わたしァ 文化顧問としていったんだが、なんにもしなかった。 したことば、ただそれっきりです。(笑)

 夢声
 竹のパイプ・オルガンをなおして帰ってこられた。(笑)

 頼貞
 一昨年、パリのユネスコ総会へ政府を代表していったんですが、その時の会議で、日本のユネ スコ加盟に猛烈に反対したのがフィリピンなんで す。ところが、そのあとでわたしのところへ、フィ リピンの代表団から招待状が舞いこんできたんです な。ほかの国の代表もよばれているんだと思ったら わたしだけなんてすよ。いってみると、向うの代表 団の団長が「お前、フィリピン協会の会長を十五年 やっていだ徳川か」というんです。「そうだ」「お れの国じゃ、お前の名を知らない奴はいないんだ」 「どういうわけか」「竹のパイプ・オルガンをなおし たのは、お前だろう」(笑)「そうだ」「いまあすこには "This organ has been restored by Marquis Tokugawa"(このオルガンは、徳川候によって修復された)と書きこまれている。日本人 というのは、みんな人を殺す奴ばかりかと思ったら、 こんな奴もいるというんで、だれ知らないものもな い。そういう奴がユネスコの会議へきたのがうれし いから、お前を招待したんだ」というわけなんです。

 夢声
 話は、ついにユネスコまでいきましたな。 (笑)竹といえば、あたしのうちの玄関にビルマの竹があるんです。直径七寸ぐらいの大きな竹てすが ね、これはおもしろいところでもらったんです。あ たしはシンガポールの病院を退院してから、クアラ ランプール、セレンバン、クルアンなどの慰問をす まして、またシンガポールへ帰ってきた。黒田(重徳)中将がわれわれをよんでくれたので、いきまし たよ。部屋のすみに、竹の形をした瀬戸ものがある んですね。中将に、めずらしい焼きものですな」っ ていったら、「焼きものじゃない。ほんものの竹だ よ」っていうんです。感心してほめたら、「そんな に気にいったか。あげるから、持って帰りたまえ」 っていうんです。ちょっとひっこみがつかなくなっ て、苦労して重い竹を持って帰ったわけです。  あとでそのことを小説に書いたんですが、「のち にフィリピンの総司令官となった黒田中将、いまはすでに処刑されているが」と事いちゃった。そうしたら、こないだ生きて帰ってきましてね。(笑) これで、竹の話がフィリピンとつながるわけですがね。

 頼貞
 そこでね、クアラランブールとつながる話があるんです。クアラランプールのサルタンのとこ ろで、一生涯に二度とあわないようなごはんをたべ たことがあるんですよ。ごちそうのなかに、山バト かなんかのカツレツが出てきた。あぶらが充ちてい て、すばらしくおいしいんですね。わたくしァあぶ らっ気のものが非常に好きだから、ムシャムシャた べちゃって、ボーイがおかわりを持ってきたのもたべた。王さまは向うのほうから見てて、「いまの料理がしごくお気に召したようですな」というんで す。「まことに結構です。これはいったいなんの肉 ですか」ときくと、「わが国の国産である」という んですな。「国産というと、なんですか」「コウモリである」(笑)「うそいっておどかしちゃいけま せんよ」「サルタンはうそはいわん。うそだと思う なら  」というわけで、お盆にのっけで持ってこ さしたのが、長さ一尺もある大きなコウモリです。 それを見たら、胸がムカムカしちゃってね。(笑)

 夢声
 そうすると、あの辺では両徳川の名を知ってるわけですな。(笑)

 頼貞
 あの辺をまわった時に、二度おもろしい経験をしましたよ。一度はね、自動車でウワバミをひ きました。ニシキヘビですな。

 夢声
 道に出ていたんですね。

 頼貞
 ところば安南で、ショファー (運転手)は安南人です。夕ぐれでしたがね、車の進んでる道に 木が横になってるんです。ショファーに「木がある からとめろ」っていったが、いうことを聞かないで、 どんどん走らした。わたしのフランス語が通じない のかナと思ってるうちに、その木が動いているのが 見えた。(笑)  まさにヘビですよ。「とめろ、とめろ」っていっ ても真正面にむかっていくんですな。わたしァ命 がないものと思って、ナムアミダブツ、ナムアミダブ ツ」といってるうちに、ヘビの上へのっかっちゃっ た。ガタンとゆれましたよ。しばらくいってからう しろ向いて見たら、なあに、平気なもんです。やっ ぱりクニャクニャ動いている。(笑)  ショファーに「とめるっていった時、なぜとめな かったのか」というと、「あすこでとめたら、向う から襲いかかってきたでしょう」というんです。「あ あいうヘビはどんな時がこわいのか」「一番こわい のば、木の枝から下へぶらさがっで、頭を下へさげてる時です。そんなところへ通りかかれば、自動車 にまきついで、ベリベリッとやられちゃうでしょう」 (笑)ぞれを聞いて、ヒヤッとしました。

 夢声
 もうひとつの御経験てのは?

 頼貞
 野象に会ったんです。これも夕方ですよ。自動車のいくだいぶさきのほうの道を、象のむれが 横切っていくんですな。これを見ると、ショファー がエンジンをとめで、ヘッドライトを消しちゃっ た。「ヘイヘイ」ってなこといいながら通っていっ たのをかぞえたら、子象もいれて十六頭です。十五 分間ぐらいでしたがね、お通りになるまて、こっち は待ってなきゃならないんです。(笑)

 夢声
 象の行列には、大名もとめられちゃった。 (笑) 「下あに、下に」ですな。

 頼貞
 イギリスの友人が話してましたがね、ベルギー・コンゴには、野生のライオンのいる公園があ るそうです。  夢声 物騒な公園ですね。(笑)

 頼貞
 野生のライオンがいる砂漠を自動車で通る のが、非常なスリルだというんです。スピードを出 さないで、ゆっくりいかなきゃいけない。ときたま、 ライオンが昼寝しでることがあるそうです。そこへ ぶつかった場合に、ブウブウ鳴らして通ったりした ら、たちまちかみ殺されちゃう。昼寝してるライ オンにぶつかったら、起きるまで待ってなきゃなら ない。(笑)

 夢声
 お目ざめになってから、かかってこないんですかね。

 頼貞
 そろりそろりといけば、喰いかかってこないんですって。ライオンというものは、腹がへった時にかかってくるんですから、しじゆう腹がへらな いようにエサさえやりゃあ、わりに柔順らしいんで す。

 夢声
 動物ってものは、一定の速度で進行してるものにゃかかってこないらしいんで、立ちどまった り、逃げようとすると、ワッとくるんですね。バイ コフの小説に書いてありますが、なれた旅びとがト ラに出っくわしたら、知らん顔してサッサッサッと 等速度で歩いてくんだそうです。飛びかかるすきが ないから、トラはじっと見送っちゃう。それだけの 度胸、なかなかつかんですね。(笑) 水にもぐって魚つかまえる名人が、東宝にいまし てね、光一という男なんです。コツを聞いてみます とね、コイならコイに出あうと、向うも「あ、なに かきたな」って顔して立ちどまる。そこをつかまえ るんですって。(笑)人間だとか敵だとかわかると、 逃げちゃうから、パッと会って、向うがアレッと思 った瞬間につかまえる。(笑)絵にかいてある魚をつ かまえるように、たやすいもんだそうですよ。(笑)

 頼貞
 その時は、人間もあんまり立ちどまってちゃいかんわけですな。(笑) ロンドンてところ は、あのとおり儀礼を重んじるところでね、相当のうちを訪問してペルを押すと燕尾服を着たボーイが 出てきて、お客を案内するでしょう。ある友人のう ちへいったら、チンパンジーがそのボーイのかわり をするんです。チンパンジーが燕尾服を着てて、客 の手をとって案内してくれる。「ベルが鳴ると玄関 へ出るってのを、どうやって教えたんだ」って友人 にきいたんです。 「もっともな質問だ。ここへきたまえ」といって、 別室へつれていってくれました。チンパンジーがし じゆうすわっでる椅子があって、椅子の下が銅板なんです。そこへ電線がきてるから、ベルを押すと、 鋼板にジリジリッとくる。おしりがビリッとするか ら、飛びおりるんです。(笑)うまく考えたもんで すね。

 夢声
 議会でまずい野次がはやったころに、議長席にボタンをつけて、それを押すと議員席に電気が かよって、やじれなくようなしかけを作ったらいい と思ったことがありますよ。

 頼貞
 いや、それがあるんです、ウルグァイの議会に。(笑)

 夢声
 「ウルグァイ!」 (うるさい)といって・。 (笑)

 頼貞
 椅子がはずれるようになってるんです。ガアガアいう奴がいると、バッと押す。バタンところがっちゃう。(笑)

 夢声
 進歩した国もあるもんですな。(笑)

 

(昭28・2・5日 対談)


「頼貞隨想」に収録  徳川頼貞遺稿刊行会 昭和31年6月10日 発行 河出書房 非売品

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