(五)五代藩主 吉宗(よしむね)  相つぐ幸運に将軍とな

1.生い立ち
 吉宗は、貞享元年(1684)10月20日、二代藩主光貞の四男として紀州吹上の屋敷で生まれた。光貞59才、母於由利の方(浄円院)30才であった。
 母の巨勢氏於由利の方の前身は、巡礼説等種々あるが、巡礼説をとれば、子連れの巡礼が和歌山市大立寺前で倒れ、大立寺住職の紹介でお城に登ったお由利が湯殿係として光貞に寵愛され、生まれたのが吉宗で、幼名を源六、新之助、頼方などと称した。
 元禄10年(1697)4月、将軍綱吉が紀州邸にこられた時、特に越前丹生3万石を与えられ、支藩葛野藩主となった。宝永2年(1705)長兄の紀州藩三代藩主綱教は、治政8年間、次兄の四代頼職が藩主就任後100日足らずで急死した。あとつぎがなかった為、22才で宝永2年10月6日五代藩主についた。綱吉から「吉」の一字を賜り、名を吉宗と改めた。
 宝永3年11月、伏見宮貞到親王の女理子を迎えて室となした。吉宗は庶子として長らく小禄に衣食し、辛酸、難渋をなめた為頗る世態人情に通暁していた。

2.治績
 吉宗公が藩主となったものの藩財政は極めて困窮の中にあった。即ち、藩祖頼宣が多数の浪人を雇用したこと、江戸紀州中屋敷が寛文8年(1668)、元禄8年(1695)にわたって焼失したこと、和歌山城が明暦元年(1655)に火災に見舞われたこと、将軍家からのお輿入れ等もあって費用の重んだこと、宝永2年(1705)5月には綱教、8月に光貞、9月に頼職と死去が相次ぎ大がかりな葬儀を行ったこと、宝永4年には津波による日高、有田両郡の災害復旧に多大な費用を要したこと等過去4年二代にわたるしわよせを一身に受けることとなった。

(1)質素倹約令の発令
 吉宗は、財政再建のため家中に質素倹約を厳命、徹底した緊縮財政を行うと共に自らも質素な小倉織の袴に木綿の羽織を通した。また家臣には禄高の20分の1相当の金の上納を求めた。この他新田開発殖産興業をはかると共に定免制施行により年貢の増徴をはかった。この結果享保元年藩主としての最後の年には城内金蔵に黄金14万887両、米蔵には11万6400石の米が蓄えられていたといわれる。

(2)武芸の奨励
 しかも、武備は、最も重んずるところであって、一朝変あらば列藩に先んじ、御三家の実をあげざるべからずとて常に士気の鼓舞に力め、藩士の武芸を奨励した。

(3)学問の振興
 また一面学問を振興、正徳3年(1713)湊寄合橋に学問所を設け、蔭山東門、祇園南海等を招いて学を講ぜしめ講堂と称した。聴衆常に百七、八十人学術の盛なること「天下無双」と室鳩巣をして感歎せしめたという。

(4)吉宗、将軍となる
 正徳6年(1717)4月将軍家継が8才で死去し、継子なきため吉宗が八代将軍となった。時に歳33才であった。享保中興の改革をすすめ、上米制の実施、定免制の制定、新田開発や目安箱の設置、法令の編纂も行ない、幕府支配体制の補強に大いに力を尽くした。又当時将軍落胤としてさわがれた「天一坊事件」もこの時代の詐欺事件であり「南紀徳川史」に享保14年(1729)4月25日御沙汰書として事件の顛末が書かれている。
 また、西条藩嫡子松平山城守の非業の死につても公が大きなかかわりをもった事件であった。

3.御逝去と遺品と御廟

(1)御逝去
 公は、延享2年(1745)9月隠居し、宝暦元年(1751)6月20日68才を以て江戸で逝去、江戸上野霊屋に葬られ有徳院と諡した。
 将軍吉宗公夫人、伏見宮貞到親王王女真宮、寛徳院は、宝永7年(1711)6月4日寂、和歌山市報恩寺に葬られた。

(2)遺品
 遺品としては、初代藩主頼宣の霊前に奉納した銅製香炉並堆朱香台が、保存されている。

(3)御廟
 長保寺にはなく上野寛永寺にある。



紀州藩主の治績と御廟   松江 繁広


ふるさとしもつ  第6号 下津町教育委員会 平成2年3月



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