立正大学日連教学研究所紀要  第23号 平成8年3月10日発行

和歌山県長保寺蔵日連聖人遺文について    

庵谷行亨

一 はじめに

 和歌山県海草郡下津町の天台宗長保寺に日蓮聖人の御真蹟断簡一幅が所蔵されていることが確認されたため、その概要について報告したい。

二 調査に至る経緯

 最初に経緯について略述したい。
 平成6年12月、天台宗典編纂所編集長野本覚成氏より筆者宛電話連絡があり、長保寺に日蓮聖人遺文断簡が所蔵されている旨報告を受けた。写真の送付を依頼したところ、同月26日付で数枚の写真が送られてきた。拝見したところ日蓮聖人の御真蹟であることはまちがいないと思われたため、日蓮教学研究所の各先生方に御覧頂くと同時に、研究生諸氏に既に知られている日蓮聖人遺文中に該当する文章があるかどうかの検索を依頼した。 平成7年4月に検索結果を集約したところ、既刊の日蓮聖人遺文集の中には該当する文章はないのではないかとの一応の結論を得た。
 日蓮聖人の御真蹟について造詣の深い立正大学文学部中尾尭教授や仏教学部寺尾英智講師の御意見もたび重ねて聞き、長保寺所蔵遺文は、従来、公には知られていないものであることがほぼ確認できた。
 そこで4月26日、野本師に連絡して、日蓮聖人の御真蹟であることはほぼまちがいないこと、そうであれば新発見遺文であること、実物を拝見することができるかどうか、『日蓮教学研究所紀要』に紹介させて頂けるかどうかを問い合わせた。
 野本師は長保寺住職瑞樹正哲師、ならびに寄託先の和歌山県立博物館学芸員竹中康彦氏に連絡をとり、当方の意向が実現できるように手配して下さった。
 6月2日、竹中氏から手紙が届き、所蔵者の了解もとれているので調査が可能であるとの報を受けた。
 そこで、日蓮教学研究所運営委員会の承諾を経て、8月29日、寺尾講師・安中尚史助手(立正大学仏教学部)と共に、和歌山県立博物館に出張し御真蹟を拝することができたのである。

三 御新蹟の概要

1 文章の内容

 御真蹟断簡は縦30.1センチ、横13.5センチの一紙に5行にわたって記されているもので、軸装に装訂されている。その本文は次のように判読できる。

 るを法相と三論と地論と摂論等□
 経をすてゝ論に付ぬ。背上向下宗
 (の)天台伝教にわらわる□
 論の経に相違するこそなを此をすつ。
 何況人師の経に相違せんをや。但なけ

文章を現代語訳すれば概略次のようになろう。
 
 法相宗・三論宗、地論宗・摂論宗などの宗派は、仏の教えである経典を捨てて人師の説である論に依拠している。仏の教えを捨てて人師の説に立脚するこのような諸宗派は、経典に立脚して教えを立てた天台大師や伝教大師に笑われてしまうであろう。論が経と相違した場合でさえ論の説を捨てて経に付くのが当然であり、ましてや人師の説が経に相違したは、なおさら。人師の説を捨てて経に付くべきである。

 この法門教示は、経と論、仏の教えと人師の説を対比し、経典に立脚して仏の教えを受けとめるべきであることを述べたものである。このような主張は日蓮聖人の生涯を貫いた依法不依人仏教受容の態度と合致するもので、この遺文が、内容的にも日蓮聖人の御真蹟であることを示す有力な判断材料となろう。
 さらに、文中の「背上向下宗」の語句は、他の日蓮聖人遺文中にも用例を見ることができる。
  世間の法には下克上・背上向下国土亡乱乃因縁也。(『善無畏鈔』文永3年、或いは 建治元年、真蹟断片七紙散在)弥陀の名号をも人をも狂はし、法華経をすてしむれ  ば、背上向下のとがあり。(『小乗大乗分別鈔』文永10年、真蹟二十三紙散在 )  

三論宗  背上向下宗
     捨本附末宗

 (『十宗事』系年未詳、真蹟一紙現存)
 「背上向下」とは「上に背き下に向う」と訓み下し、「正に背き不正に心を寄せる」「優れたものに違背し、劣ったものを正しいと思う」などの意味で用いられている。とくに『十宗事』は本断簡遺文と同じ「背上向下宗」とあり、「本を捨て末に付く宗」のことでもあるとして三論宗に配されている。経を捨て論につく宗として「論宗」を批判する本断簡遺文と共通した用例である。このこともまた本断簡が日蓮聖人の御真蹟であることの有力な証左となるものと言えよう。

2 近似遺文

 執筆年次は運筆から建治・弘安(1275〜1282)頃と推定されるが、確定することは難しい。
 近似する遺文としては千葉県誕生寺蔵の断簡一があげられよう。一紙十二行の遺文で運筆・内容ともに長保寺蔵の断簡に類似している。
 ただし、立正安国会編『日蓮大聖人御真蹟対照録』では、誕生寺所蔵断簡一と和歌山県了法寺所蔵断簡二三一とは近似しており同一遺文の一部分ではないかと推定しいている。
 ちなみに、『昭和定本日蓮聖人遺文』では、断簡一は建治、断簡二三一は弘安に系年し、『日蓮大聖人御真蹟対照録』は断簡一と二三一を共に建治2年に系けている。
 誕生寺所蔵の断簡一の寸法は、縦31.8センチ、横30.6センチである。長保寺所蔵の断簡は紙面の周囲に破損がみられることもあり、縦寸においては両断簡に大きな差はないと見ることもできよう。
 なお、了法寺蔵の断簡二三一は一紙十五行で縦29.6センチ、横39.0センチである。 
 3つの断簡の一行の文字数は次のようになる。
 長保寺所蔵断簡
  一行目 十五字
  二行目 十四字
  三行目 十?字(一部、判読不能部分あり)
  四行目 十六字
  五行目 十六字
  平均  一行十五・二五字
 誕生寺所蔵断簡一
  一行目 十六字
  二行目 十五字
  三行目 十字+抹消五字
  四行目 十五字
  五行目 十五字
  六行目 十六字
  七行目 十五字
  八行目 十五字
  九行目 十三字
  十行目 十三字+抹消一字
  十一行目 十五字
  十二行目 十五字
  平均  一行十四・九二字
 了法寺所蔵断簡二三一
  一行目 十四字+不明一字
  二行目 十六字
  三行目 十四字+不明数字
  四行目 十八字
  五行目 十八字
  六行目 十六字
  七行目 十六字
  八行目 五字+抹消九字
  九行目 十四字+抹消五字
  十行目 十四字
  十一行目 十七字
  十二行目 十四字
  十三行目 十五字
  十四行目 十三字
  十五行目 十四字
  平均  一行十五・六四字
 日蓮聖人の文章は一般的に冒頭より紙数を重ねるほど一紙の行数や一行の文字数が増加する傾向にあるため一概に確定することはできないが、一行の文字数としては近似していると言えるのではないであろうか。
 
3 形態

 装訂は掛軸装であるが、前述の通り本紙は天地と右端に破損がみられる。あいへぎ(相へぎ)の跡がみられ、部分的に文字の判読が困難である。おそらく紙面表裏に文字が書かれていたものと思われ、裏面の文字跡が部分的に確認される。紙面左端には次の行に記されていた文字の一部が見えており、切り取られた形跡が明白である。

四 紙背の極書

 軸装の紙背面には享保8年(1723)2月16日付の身延三十四世日裕の極書が見られる。ちなみに2月16日は日蓮聖人誕生の日と伝えられており、この年は聖誕502年目にあたっている。
 極書の本文は次の通りである。

  なをヨリ至但なけ之五行其中可六十
  七字許者
  蓮祖之御真翰焉所無疑滞之也仍裏
  奉加野毫矣
 享保八癸卯祀春二月十六日 賜紫身延山三十四法嗣上人日裕(花押)

 日裕が日蓮聖人の御真筆であることを証明したものである。
 日裕は正徳3年(1713)6月5日に身延山久遠寺に晋み享保17年(1732)5月に退いている。
 日裕は字を好弁、後に龍海と改め見龍院と号した。遠沾院日亨に師事し、飯高檀林で修学した後、山科檀林・水戸檀林・飯高檀林の能化となった。京都満願寺・小湊誕生寺を経て、身延山久遠寺に晋んだのである。身延入山5年後の享保3年(1718)4月23日、綸旨により参内、天皇から賜紫の詔を賜り上人号を授けられた。本断簡遺文の極書はこれより5年後に記されたものである。日裕はそのほかに、享保9年(1724)には奥之院再興、享保16年(1731)には宗祖へ大師号宣下を企てるなどの動向が知られている。身延退山後の元文2年(1737)正月8日に一円庵で入寂、75歳であったという。
 「賜紫」「上人」などの記述をはじめ、極書の内容は日裕の一連の足跡と合致している。 
 また、極書が日裕の筆蹟であることは、山梨県西八代郡六郷町浄善寺(享保3年11月3日付一幅)・山梨県南巨摩郡身延町北之坊(享保7年12月1日付一幅)などに所蔵されている日裕筆の大曼茶羅本尊との照合からまちがいないものと思われる。

五 箱蓋貼付の文書

 収納箱の蓋の裏面に貼付されている紙面は、明治12年(1879)7月に時の長保寺第16世瑞樹尭海師によって記されたもので、次のようにある。

  此壱軸者永隆院殿護持物之内先年
  宝蔵へ御納相成候処、過ル明治庚午年三月
  当院第十四世海弁先師へ宝物並宝蔵共拝領
  令下更ニ当院宝物中へ附之者也
    維明治十四※二年七月      尭海
            ※「四」を抹消し「二」と訂正されている。

 この記録によると本断簡は永隆院の護持物の内の一つであったものが、ある年に宝蔵に納められた後、明治3年3月に第14世海弁上人の代に宝物と宝蔵を共に長保寺で拝領したため、寺宝の中に加えたという。
 永隆院は服部氏の出身で、紀州徳川家第6代藩主宗直(1682〜1757)の室、第7代藩主宗将(1720〜1765)の母にあたる。
 身延日裕が極書をした享保8年(1723)は宗直の代にあたっている。
 極書と箱蓋貼紙の記述から、身延日裕が永隆院に授与したものではないかとも類推することができるが、確定はできない。長保寺と身延山久遠寺との双方にわたる資料の検討が必要であろう。
 さて、紀州藩徳川家初代頼宣は徳川家康の十男で、母は家康の側室養珠院お万の方、夫人は加藤清正の五女瑶林院(八十姫)である。養珠院は三浦為春の異父妹にあたる。頼宣は慶長8年(1603)に2歳にして水戸藩主となるが、この時、家康の命により三浦為春は頼宣のとなった。これを縁として、元和5年(1619)8月頼宣が紀州の藩主となるや頼宣に従って三浦為春も紀州に移り、家老として仕えたのである。
 三浦為春の父正木頼忠は小湊誕生寺の熱心な信者であったことから、為春も日蓮法華宗の信仰が篤かった。
 為春は紀州へ移って4年後の元和9年(1623)、父頼忠の菩提を弔うために日正山了法寺を建立し、小湊誕生寺第20世興善院日為を開山として迎えている。
 為春は慶安5年(1652)7月に80歳で没し、その子為時の代に了法寺は天台宗に改宗している。
 その背景には不受不施派禁圧という幕府の宗教政策があったものと思われ、紀州藩家老職にあった三浦家は改宗を余儀なくされたものであろう。了法寺は寛文6年(1666)12月3日、正式に天台宗雲蓋院の末寺になり、了法寺住職は12月11日に退山したという。
 近世における為政者からの不受不施弾圧は、文禄4年(1595)の秀吉発願による大仏千僧供養会への出仕要請に端を発し、教団を分断する事件へと発展していった。
 秀吉没後、慶長4年(1599)家康は大阪城内に妙顕寺日紹・堺妙国寺日暁と妙覚寺前住日奥・本国寺前住日を召し出して対論せしめ、不受不施義を主張した日奥を対馬に流罪にしたのである。
 しかし依然として関東を中心とする日蓮教団が不受不施義を主張していたため、幕府は寛永7年(1630)2月21日、江戸城に身延派(関西教団)と池上派(関東教団)を召し出して対論せしめ(身池対論)、不受不施義を主張する池上派の諸師を、法門上ではなく、先の家康の裁きにのっとり流罪に処したのである。
 こうして関東の諸本寺は身延側の拠点と化していった。
 幕府はさらに権力支配を強めるために、寛文元年(1661)には本寺帰属令を出して末寺の統制をはかり、寛文5年(1665)から6年(1666)にかけては朱印地調査を行って本末支配の強化をはかった。こうして、これに反する関東の有力諸寺院の住職を次々と流罪に処したのである。
 さらに元禄4年(1691)にはいっそう不受不施派に対する弾圧が強められ、多くの人々が流罪に処せられた。
 このような幕府の宗教政策の中で、紀州藩内における不受不施信仰の堅持は困難を極め、三浦家も改宗の決意を迫られたものと思われるのである。
 頼宣の母養珠院や義父の加藤清正がいかに熱烈な日蓮法華の信仰者であったかは多く歴史の語るところである。
 このような、紀州徳川家の初期の動向を見ると、紀州徳川家並びにその関係寺院に日蓮聖人遺文が伝来していても不思議ではない。
 寛文から元禄にかけての幕府による不受不施弾圧は三浦家とその菩提寺(了法寺)の改宗を生んでいったが、日蓮法華信仰そのものが消滅したわけではない。むしろ摂受的立場に立つ日蓮教団はよりいっそうその地盤を強固なものとしていったのである。
 例えば紀州第5代藩主吉宗の正室真宮理子(伏見宮貞致親王の王女)が、宝永7年(1710)6月4日に20歳の若さで死去した折には、紀州報恩寺に埋葬されている。
 報恩寺は紀州初代藩主頼宣の夫人瑶林院の菩提を弔うために建立された寺院である。すなわち、寛文6年(1666)正月24日、瑶林院が没したため、頼宣は要行寺に葬したが、子息光貞(第2代藩主)が、諸堂を造立して要行寺を報恩寺と改め、寛文9年(1669)に小西檀林能化三位日順を迎えて開山としたのである。
 また、正徳3年(1713)10月24日、吉宗の側室で第9代将軍家重の母である深徳院が江戸赤坂の館で死去した折には、池上本門寺に埋葬されている。
 さらに、享保8年(1723)2月21日、吉宗の側室本徳院が死去した折にも、池上本門寺に埋葬されている。
 このような事例は幕府や紀州徳川家と日蓮法華宗との繋がりを示すものと言えよう。
 紀州徳川家におけるこのような一連の日蓮法華信仰の動向を見ていくと、第6代藩主宗直の室永隆院が日蓮聖人遺文断簡を護持していたとしても不思議ではないと思われるのである。
 さて、長保寺の宝物目録によるとこの断簡は宝暦年間(1751〜1764)に長保寺に寄進されたものであるとのことであるが、その経緯については審かではない。
 前述した箱蓋貼付文書の記録では明治庚午年(明治3年)3月に宝蔵ともども拝領したとある。
 これについて長保寺現薫瑞樹正哲師は次のように説明されている。

  長保寺は江戸時代には徳川家の菩提寺であったので特別の地位を保っていたが、明治維新により国家体制が変動することによって、五ヵ坊の支院が二ヵ坊に廃合されるなど大きな状況の変化が生じた。よって寺内の宝蔵並びに宝物は明治3年に、新しい政治体制下で改めて長保寺の所有と認められたものと思われる。

 また、和歌山県立博物館学芸員竹中康彦氏は次のように説明されている。

  宝暦年中に長保寺にやや不明確な扱いで奉納された当該資料が、明治3年に長保寺宝物として、紀州徳川家から正式に確認・認知されたのではないかと思われる。このことは貼紙の年紀が明治12年7月17日の目録作成の時期と共通しており、目録作成時の宝物整理の際に確認のために貼紙が付けられたと想定される。

 宝物目録と箱蓋貼付文書から類推すると、本断簡は宝暦年間に長保寺に納められ、明治3年に改めて長保寺の所有と定められたもののようである。

六 長保寺の縁由

 長保寺は長保2年(1000)一条天皇(980〜1011)の勅願によって建立されたと伝えられている。創建当初は天台宗であったが、後に法相宗、天台宗、真言宗と変転していった。
 寛文6年(1666)に、紀州の初代藩主徳川頼宣が長保寺を菩提寺と定めることによって再び天台宗に改められた。爾来、長保寺は浅野幸長から寄進された5石に2代藩主徳川光貞から封入された500石を加えて、合計505石の寺領を有し、紀州徳川家の菩提寺として大いに盛えた。長保寺にまつられている墓碑28基のうち12基が歴代藩主のものである。
 大門、本堂、多宝塔、扁額が国宝に指定され、その他、重要文化財、和歌山県指定文化財など多数の寺宝を護持しており、その数は1万点を超すものと推定されている。紀州藩主徳川家の墓所は国指定の史跡となっているほか、長保寺周辺の林叢は和歌山県指定の天然記念物となっている。
 このように紀州徳川家に深いゆかりのある長保寺にどのような経緯によって日蓮聖人遺文断簡が所蔵されるようになったのか、その詳細は今後の研究を必要とする。
 徳川幕府の宗教政策、とくに不受不施派に対する幕府の施策と日蓮法華宗の動向、および、紀州における日蓮法華信仰の動態などを詳しく検証する必要があろう。

七 むすび 

 長保寺の宝物調査は和歌山県立博物館・和歌山県立文書館・下津町教育委員会などで進められている。その調査研究のなかで、今後、日蓮聖人遺文断簡にまつわる資料が確認されることを期待したい。
 調査過程において、その一部がすでに平成4年1月15日から3月1日まで、特別展「長保寺の文化財―仏画と経典―」と題して和歌山県立博物館で公開された。その折、本断簡も展示されたのであるが、日蓮宗関係者の目にとまらなかったようである。重ねて同館で平成7年4月29日から7月2日まで、「八代将軍吉宗と紀州徳川家」と題する特別展が開催され、その折にも本断簡が展示された。
 これを機会に天台宗典編纂所の方々の御協力により、日蓮教学研究所の調査が実現したのである。
 今後よりいっそう具体的検討が進められて、本断簡にまつわる事実が明確になることを望みつつ、報告とさせて頂きたい。
 調査にあたり、本断簡を所蔵する長保寺住職瑞樹正哲師、和歌山県立博物館学芸員竹中康彦氏、天台宗典編纂所編集長野本覚成師、立正大学の中尾尭教授・寺尾英智講師・安中尚史助手、日蓮教学研究所の諸先生・研究員・研究生諸氏の御協力を頂いた。加えて報告書作成にあたり、立正大学仏教学部冠賢一教授・文学部北村行遠教授の御協力をも仰いだ。深謝申し上げる次第である。