(1)和歌山県立博物館編『長保寺の文化財―仏画と経典―』75頁、同編『八代将軍吉 宗と紀州徳川家』191頁には、縦30.6センチ、横14.0センチと報告されている。


(2)『開目抄』584〜5頁(日蓮聖人遺文は立正大学日蓮教学研究所編『昭和定本日 蓮聖人遺文』による)等参照。


(3)拙著『日蓮聖人教学研究』121〜2頁、同『日蓮聖人教学の基礎』78〜9頁参照。


(4)『善無畏鈔』411頁。


(5)『小乗大乗分別鈔』778頁。


(6)『十宗事』2391頁。


(7)論を依拠として立てられている宗派。


(8)『断簡一』2477頁。


(9)『断簡二三一』2938頁。


(10)「此の二篇の断簡はその筆意極めて近似し御文章また脈絡相通ずるものあり。恐らくは同一御書の断片」『日蓮大聖人御真蹟対照録』中巻356頁。


(11)一枚の料紙を二枚に剥ぎ分けること。


(12)表具の裏面に直接記載されている。


(13)日裕の事蹟については、身延山久遠寺編『身延山史』192頁参照。

(14)宗直は正徳6年(1716)5月1日に紀州藩第6代藩主となった。享保8年(1723)は宗直が42歳の時である。


(15)和歌山県立博物館編『長保寺の文化財―仏画と経典―』では「久遠寺から永隆院に与えられたことが推測される」(75〜6頁)としている。


(16)身延山久遠寺編『身延山史』や稲田海素編『新編日蓮宗年表』には、このことに関する記述は見られない。また、『南紀徳川史』の享保8年の項にも日裕の極書の件については触れられていない(第二巻30頁)。なお、翌享保9年5月に宗直は長保寺へ直筆の紺紙金泥法華経寿量品一巻を奉納している(堀内信編『南紀徳川史』第二巻31頁)。


(17)三浦為春の法華信仰については宮崎英修著『不受不施派の源流と展開』311〜2頁参照。


(18)本来は、東宮の職員で皇太子の補導役を意味する。三浦為春は頼宣が幼少につき、補導役に任じられた。


(19)立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上530〜44頁。


(20)宮崎英修著『不受不施派の源流と展開』361〜422頁参照。


(21)右同 424〜5頁参照。


(22)養珠院の法華信仰については宮崎英修著『不受不施派の源流と展開』312〜4頁参照。


(23)加藤清正の法華信仰については立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上559〜65頁参照。


(24)影山尭雄編『新編日蓮宗年表』336頁。


(25)日蓮宗寺院大鑑編集委員会編『日蓮宗寺院大鑑』812頁、日蓮宗宗務院編『日蓮宗事典』696〜7頁参照。


(26)影山尭雄編『新編日蓮宗年表』339頁。正徳3年は徳川家継が第7代将軍になった年で、吉宗はまだ紀州の第5代藩主の時代である。


(27)影山尭雄編『新編日蓮宗年表』348頁。吉宗は正徳6年(1716)8月13日に第8代将軍となる。したがってこの年は吉宗が将軍になってから7年目にあたる。


(28)和歌山県立博物館編『長保寺の文化財―仏画と経典―』76頁。同編『八代将軍 吉宗と紀州徳川家』191頁。和歌山県立博物館学芸院竹中康彦氏によると、「長保寺には明治前期に政府や比叡山に提出した宝物古文書目録の類が数点あり、そのうち本断簡について記載したものは、明治12年から30年にかけて6種類ある。そのうち、明治12年7月17日の『長保寺宝物古器物古文書目録』には『年月不知 徳川家ヨリ寄附』、明治21年8月20日の『宝物古文書目録』には『日蓮上人御消息切 壱幅 竪壱尺 横四寸七分 紙地 宝暦年中徳川家ヨリ寄附』とある。その他の目録には長保寺施入の経緯について説明したものはない」(筆者の問い合わせに対する返信文。部分的に取意)とのことである。


(29)和歌山県立博物館学芸員竹中康彦氏は、本断簡が長保寺に寄進された経緯について次のように推測されている。「状況証拠のみで決定的な史料はないが、第七代藩主徳 川宗将が宝暦7年10月に諸公子の日蓮宗信仰を禁止したことと何らかの関係があるものと思われる。宗将の日蓮宗禁止の原因が、『南紀徳川史』によれば、身延山久遠寺院主の無礼(宗将が世子の時、身延山久遠寺に病気平癒の祈願を依頼したところ、院主が『いかに祈願をしても命は保ち難い。万一の時は当院で葬儀をして頂きたい』と答えたという。『南紀徳川史』第一六巻751〜3頁、取意)にあるとしている点はきわめて暗示的である。『南紀徳川史』によれば、その折、日蓮宗寺院にあった霊碑を悉く移動させている。同様に、とりわけ身延山の極書をもつこの断簡は忌み嫌われて、永隆院の手許から長保寺へ移管されたのではないか。ただし、なぜ長保寺に移管されたかは不明。なお、宝暦7年には永隆院は存命しており、江戸の紀州藩中屋敷に居していた。また、宗将は『挫日蓮』を著しており、紀州徳川家における日蓮宗排撃の空気も考慮すべきである」(筆者への手紙文、部分的に取意)。大変示唆に富んだ所見である。なお、宗将の日蓮宗禁止の真相は不明な点があることや、もし仮りに身延山久遠寺院主の件が原因であるとすれば、なぜ身延山久遠寺を批判の対象にしないで日蓮宗が禁止されたのか、あるいは徹底的に日蓮宗を批判した『挫日蓮』(寛延4年、1751)を著すほど宗将を反日蓮宗に駆りたてた真実の要因は何であったのか、そしてそれらのことがらが、永隆院所持の本断簡が長保寺に寄進されたこととどのようにつながるかなど、今後、検討すべき点も多いように思われる。


(30)筆者の問い合わせに対する瑞樹正哲師の返信文(部分的に取意)。


(31)筆者の問い合わせに対する竹中康彦氏の返信文(部分的に取意)。


(32)伽藍の完成は御一条天皇の寛仁元年(1017)と伝える。下津町史編集委員会編『下津町史』(通史篇)119頁。


(33)下津町史編集委員会編『下津町史』(通史篇)119・225頁。


(34)慶長5年(1600)、紀州藩主となり藩政の基盤をつくりあげたが、慶長18年(1613)に死去した。そのあとを弟の長晟が継承したが、元和5年(1619)に安芸(広島)に転封となった。


(35)歴代藩主の中で、将軍となった第5代吉宗と第13代慶福の墓碑はない。