鐘声


寂光庭

砂の中の石は島にも見えるし、雲海の中の山にも見えるが、砂紋を書いていると人にも見えてきて、砂紋のせめぎ合いが人間関係のようにも感じられてくる。

2003/6/14


咲き始めた沈丁花誘導催眠の現場では色んな事があるらしい。過去世と過去世の間を中間世というらしいが、ここで高度な神霊に出会って転生の意味を学ぶという。あるいはガイドというらしいが、魂の旅路を全て見通して、導き教える存在に出会うこともあるという。
まだ歴史といえるほどの蓄積のない方法だが、現場で鍛えられてセラピスト達の成長は目覚ましいものがある。水晶を使う人、香料を使う人、歌を歌って聞かせる人、真言を唱える人、チャクラの活性化など方法は極めて多彩で、新しい方法も次々と発見されている。ほとんどの人がアメリカで始まった方法をオリジナルに、自分なりの方法を加味しているようだ。
これが、密教にある概念と実によく似ていたりするのだが、セラピストの人達は密教についてはほとんど無知でしょうから、恐らく似ている事自体に気が付いていないだろう。実際問題、ハイアーセルフという概念など、仏教の歴史にある精緻さで突き詰めていったら、どうにもわけのわからない物になるのかもしれないアバウトな感じもする。大体密教は秘密仏教というくらいで、親切に教えてくれることがないのが悪いのだが、せっかくの叡智の宝庫も活用されることがない。

悪意のある拝み屋とか、低級霊に使役されているのも分からない自己中の祈祷師、とかといったカテゴリーの人もセラピストの間に出てくるかもと思うが、まだそこまで来てないかな。

前世や転生について、仏教の中には至れり尽くせりでなんでも答えがあるのだが、これがいいのか悪いのか。病気を治したり、運命を好転させたりの方法も密教には数限りなくある。なぜ拝んで病気が治るのかの哲学的理論的解明もイヤと言うほど克明精緻に膨大な研究がある。理論の辻褄はキチンとあっているしスッキリ整理されている。あーいえばこーゆうで、何を聞かれてもちゃんと説明がつく。
ただ、致命的に残念なことに、どうにも実感が乏しいのですな。いつからこんなになっちゃったんだろう。理詰めに考えると非の打ち所が無いのだが、身近な実感が無い。どうにも理屈の辻褄が合うことを最優先させた弊害がある。江戸時代の訓古学の悪影響とでも言うか、権威主義的・教条主義的で偏狭。用意されている答え以外のものは受け付けない。目の前で起きた事実に対してでも、教義に無ければ排斥する。排斥も大抵は高邁な理由ではなく、商売上の都合ということ。大体、後継者に自信を持って取り組んでいる人が案外少ない。真面目に批判などしなくても、いずれ自滅するのかも。

いずれにせよ、とどのつまりは自分の実感を信じるしかないのであって、神でも仏でも、それが良き存在かどうかは、やはり自分の感覚で見極めるしかない。我々は行きがかりで善悪正邪を演じるが、自分のしていることは魂の奥底では理解しているはずです。本当に問われているのは「人間という存在を、どこまで信頼することができるのか」でしょうね。

2003/02/25


このところ退行催眠にはまっている。前世療法とも言われるらしいが、料金をもらってセラピーをする専門家が日本だけで100人位いるらしい。いや、知りませんでした。

仏教では前世の存在を当然のこととして認めているのだが、自分の前世がどんなだったかということは、あまり語らない。

聖徳太子は南岳大師の生まれ変わり。弘法大師は、恵果阿闍梨と師となり弟子となること一度ならずと言われ、不空三蔵の生まれ変わり。など、伝説はあるにはあるが、前世の話は滅多と無いと言っていいと思う。釈尊にはジャータカなどで数十もの前世説話が残されているが、つまりは一切衆生にそれぞれ数多の前世があることは仏教の歴史の中では強調されることは無かった。前世の存在はなかなか証明が困難であるから、言いたいことを言い出したらデタラメをを言ってもわからないわけで、記録として残す作業からは外されたのだろうか。
ただ、一人の人間としては、全くかけがえのないただ一つの生命の記憶でありますから自分の前世が大事でない訳がない。まあ、実際は退行催眠で前世を見ても、それがほんとかどうか何とも腑に落ちないこともあるらしいし、ハイアーセルフはまだしもガイドとかチャネリングさらには天使の出現となると実存的な意義はあるとしても客観性はもてないだろうなー。
スプーン曲げにしても、「そんなことをする人もいる」と思う人もいれば、「ただのインチキ」と決めてかかる人もいるわけで簡単ではない。
思いつく限りの聖者や偉人の生まれ変わりがわんさかいらっしゃる教団も実際いくつもある。世界的に見たらこの手のカルト教団は数え切れない位あるのでしょう。

とまあ、前世を認める仏教の中でさえ本流になれなかった命題ではありますが、私としましては退行催眠や催眠誘導の技法は密教の瞑想法の中への応用など非常に興味深く、十分に研究の価値はあると感じています。
瞑想を潜在意識へのアプローチとして捉えれば、色々な応用が考えられるが、独りよがり的な自己陶酔に終わる可能性も大いにあるわけで、それなりの困難はあることでしょう。

如何が菩提とならば、実の如く自心を知るなり。ー大日経ー
ヒプノセラピーと密教の融合。面白そうじゃありませんか。

2003/02/14


苦集滅道とは、苦しみ(苦)の原因(集)を取り除く(滅)方法(道)ということで、仏教の根本的な存在理由になっている。
苦しみの無い人には仏教はあまり意味が無いということにもなる。

仏教では我があるから(自分が存在するから)苦を受ける、と考えている。世界を作ったのは誰かとか、苦がどこから来たのかとかはそれほど重視されない。重要なのは苦の除去である。
苦を受ける自分というものが無くなれば、苦も無くなる。それはそうなのだが、自分というものが無くなるというのも、これは辛い。日本で今、自殺者が年間3万人いるそうだが、自分が無くなってしまう辛さよりも、いま受けている苦しみのほうが大きく感じられれば、手っ取り早く自殺という手段をとるということなのでしょう。

これが、「人は転生する」ということになるとどうなるか。我の消滅によって苦を受ける事は無くなるのだが、実際には我は永遠に無くならない。だから理屈から言うと苦も永遠に無くならない。影が体に従うように、生ある限り苦は付いてまわる。死んでもまた生まれ変わって、苦に脅かされることになる。自殺したら、今の苦しみはより大きなトラウマとなって転生したあなたを襲うことになる。

転生によって愛する人との再会も果たすことができるが、恨みを持った敵とも再会するし、何よりも我がある限り苦は無くならない。で、仏教では輪廻転生は苦からの離脱と直接の関係が無いと考えられている。転生が必ずしも進歩を約束するのではない。
最近の転生の研究の成果として、「人は自分の人生を計画して生まれてくる」という認識があるが、物は言い様で、つまりは自分の自由意志で選択した行為の結果として現在があるということに他ならない。ところがこの選択の自由が怪しい物で、過去の鬱積した業にとことん憑依されて選ばされているのが現実である。「因果は巡る小車」で、なかなかここから脱出できるものではないのである。
ここのところがわかっていないと、ニューエイジもなかなか愛憎の谷間から出られなくなる。我の強化、拡大は苦の滅とは関係ないのである。むしろ、まかり間違えばとんでもない惨劇を招くことにもなる。

我は消滅せずに転生を重ねるわけだが、最後にたどり着くとしたら、どんな状態だろう。終着駅があるとしたらそれはどこだろうか。
我というものが究極まで進化完成すると、我が無くなって欲しいのだが、どうにも無くならない。我が有るでも、無いでもない状態。我が限りなくゼロに近い状態。それはなにか。
我が限りなくゼロに近い状態ということは、自他の区別の無い状態。他人の苦しみが我が苦しみ、他人の楽しみが我が楽しみ、森羅万象と我が同化した状態である。つまり純粋な慈悲である。誰かの我欲の実現を助けるのは、慈悲に近くはあるが、純粋な慈悲ではないということでもある。この叡智に満ちた純粋な慈悲を大慈悲心という。

我が有る--->苦が有る
我の消滅--->苦の消滅
我は永遠に転生を重ねる--->我は無くならない--->苦は無くならない
我の進化完成--->我がゼロに近づく--->苦の消滅--->大慈悲心

ですから我々は、好むと好まざるとにかかわらず、選択の余地無く、大慈悲心に向かって転生を重ねているのです。苦痛から離れるにはそれしかないのです。
寄り道、道草、失敗、間違い、後戻り、休憩、など色々とあるでしょうが結局は大慈悲心に向かっていくのです。
その過程では、誰かに助けられているか、誰かを助けているか、このどちらかしかありません。

なにも出来ない、無力だというあなたにも出来ることがあります。
大慈悲の世界には自他の区別はありません、つまり、あなたの心の深層は全ての心有るもの達に慈悲を通して繋がっているのです。ですから、縁ある人々に大きな慈愛の心を送ってください。心の中で縁ある人々を慈しんでください。
心の中で、慈悲とはなにか、慈悲有る行いとはなにかを思い、慈悲が実現されることを祈ってください。よく考えたら、これ以上の価値有る行いはそんなにないんじゃないですか。

2003/1/15


輪廻転生は仏教では成立前からある概念で、おそらくは古代インドでは常識的な考え方であったのだろう。

ジャータカという形で釈尊の様々な前世について語られている。一身を犠牲にし善行をなしながら不条理な殺され方をした前世も何回もある。聖者であった前世で瞑想の木陰を作っていた大きな木が一番弟子のシャリープトラになっているとか、助けた小さな虫が王様になって恩返しするとか、膨大な前世がある。
ヒンドゥー教では釈尊をビシュヌ神の7番目だったか9番目だったかの生まれ変わりだとしている。当然にビシュヌ神は釈尊より上の存在だと言いたいわけだが、仏教の側ではビシュヌ神は毘沙門天で仏教を護る護法善神になっている。
また、過去七仏といって釈尊以前にも仏陀がいたことになっている。時代と共にこれがだんだん増えて過去と未来と三千仏までの名前が書いたお経があって、私なども加行で三千仏名礼といって五体投地を3000回やらされた。

まあとにかく、「人は生まれ変わる」ということを前提に仏教は説かれている。
ただ、前世を思い出すのが信仰の前提であるとか、前世の記憶が必要であるとかの立場はとらない。来世については今生の行為の結果がもたらされるので地獄に行く人もいれば極楽に行く人もいるから、ストレートに迷わず極楽世界に行くように勧めている。
たとえ神に生まれ変わったとしても、延々と輪廻を続けるのは苦痛であると規定している。

思うに口に念仏を唱えても、今生に未練があればまた生まれ変わってくるのでしょう。
仏教では四苦八苦といって苦痛を忌み嫌う。仏の境地とは一切の苦痛のない境地とも言える。苦痛も神の計画、とは考えない。
退行催眠で自分が惨殺された場面を見たいと思う人はあまりないだろう。仏教ではその必要は無いとされている。仏の与える大慈悲力、加持力、神力、観音力によって無量の過去世の業が消え速疾に悉地成就することになっている。

一切の法に自性無く、空・無想・無願なり。ー大日経ー
そこのところを越えたところに仏心がある。仏心とは茫漠とした虚無の闇の中に燦然と輝く太陽であって、この苦痛に満ちた世界を創造した造物主のような存在ではない。
混沌から抜け出た一縷の望み、完全な調和、苦の原因を滅ぼし去った存在、全てを学び終えた智慧、が仏心である。密教で三密加持というのは、仏心を己の魂にコピーする方法とでもいいましょうかね。今生で結果が出ることになっている。念仏は来世で結果が出る。
生まれ変わって素朴に学び続けた場合は、全てを学び終えるのに三劫(約38億3,952万年。 )かかるとされている。

凡夫は、仏の差し伸べた手にすがるのが一番手っ取り早いと気がつくまで、延々と輪廻転生し続けるのでしょう。

2003/01/03


私が読んで、是非皆様にもお勧めしたい本。

「宗教クライシス」 上田紀行著

 これからの宗教のあり方を考える時必読の書です。私は、自分で要約をつくり上記のリンクに掲載しました。
我々の今いる世界は過去と全く異質です。 大量破壊兵器や大規模な環境汚染は全人類を根こそぎ破滅させる力を持っています。人間の心が憎しみに支配された時の危険性は、まさに地球規模の大きさになってしまっているのです。

 

「死者は生きている」 萩原玄明著

他にも「精神病は病気ではない」「精神病が消えて行く!」など、{死者の霊魂とどうつきあうか}のシリーズ。

精神病は死者からのメッセージであるので、死者と心を通わせ、心から理解し語りかければ病状は好転するのです。多数の症例から、我々は死んでも意識は生き続けるということがわかります。人間の生と死を率直に真剣に考えるのなら、是非これらの本をお読みください。

 

「人生の価値」 飯田史彦著

他にも「生きがいの創造」「生きがいの本質」「生きがいの催眠療法」など

生きがいの夜明け
「死後の生命」と「生まれ変わり」に関する科学的研究は実はかなり進んできているのです。これからも飛躍的に進むでしょう。じゃあどうするか、という事なんです。

人は輪廻転生する。
死別した人とはまた来世で出会う。
苦しみや困難から多くの事を学んで,魂の成長を続ける。

これらの事を多くの方にご理解して頂けると思います。

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人生の本質と自分がマジで直接向き合うために、是非ご一読ください。

既成宗教は、儀式や行事に明け暮れ、本質を忘れて気の抜けたサイダーの様になってきています。理論体系は難解複雑化し、お世辞にも取っつきやすいとは言えません。常人にはとうてい無理な難行苦行を強いたりもします。多くの言葉と厳かな儀礼作法で飾られてはいますが、安らぎや慈愛の実感に乏しいのです。上記の本には今の閉塞感をうち破る大きなヒントがあります。

人は輪廻転生をつづけながら、喜びや多くの困難を通じて慈愛の心を学ぶのです。

 

釈尊成道の日 2002/12/8


諸悪莫作 諸善奉行 自清其意 是諸仏教

(諸々の悪を為さず、諸々の善を賛嘆し行えば、心が清らかになる。
これが諸仏の教えである 。)

悪いことと知りつつ改めず、善を求めることも実行もしない。
そのような人は、名門の生まれであっても、学歴が高くても、金を沢山持っていても、立派な人とはいえない。人々の尊敬は得られず、大きな苦痛を受ける。

悪いことをすれば悪いことが起こり、善いことをするから善いことがある。

心が汚れている者は、周囲の者に苦痛を与え、自らも苦痛から逃れることはできない。

2002/11/27


そろそろお彼岸も近づいてきました。法事や墓参りを計画されている方も多いと思います。

彼岸というのは、そもそもの意味は「向こう岸」ということで、「この世」に対する「あの世」で、死後の世界のことになります。
彼岸は、死後に極楽浄土に生まれ変わるように願う日、でもあります。

死後などない、極楽浄土などない、と言う人の多い今日この頃ではありますが、人間の本質はそれではなかなか済まされないのです。
信じるものなどない、死んだら無に帰る、と言う人でも生きて行くには「生き甲斐」が必要です。常に「生きる意味」を求めています。また、「生きた証(あかし)」を残したいという願望もあります。

人間は完全な「無」には耐えられないのです。
歪んだ心、病んだ心、狂った心、といろいろありますが、「無を厭う心」に率直に従ってみてください。
「無を厭う心」が、つまり、死によっても失われない心なのですよ。

2002/09/07


今年のお盆は、珍しく雨がちになりいくらか過ごしやすい気候となりました。お墓参りには行かれたでしょうか。

徳川家には立派な系図があって歴代の治績なども分かるようになっています。また長保寺には克明な過去帳があって幼少で亡くなったお子様のことなども細かく分かります。

ところで、あなたのお家には系図があるでしょうか。あなたは、ご両親の名前はご存じでしょうけれど父方母方の祖父母の名前を知っていますか。生年月日をご存じですか。さらに祖父母の両親や兄弟のことをどこまでご存じですか。子供のころ亡くなった方、再婚した方、養子縁組みなどどこまでご存じでしょうか。
案外と知らないものです。三代前のこと、四代前のこと、その家族構成、さらに十代前のこと、どこまでご存じでしょうか。

きれいさっぱり無関心ではありませんか。

あなたの心身はその先祖から連綿と受け継いだものです。あなたも、誰からも忘れ去られたら悲しく寂しいでしょう。せめて、自分が骨肉を受け継いだ先祖とその家族のことくらいは思い出しましょうよ。あなたが思いださなかったら、一体誰が思い出してくれると言うんですか。
損した・得した、あれはダメだ・こうするべきだ、とあくせくする前に、ご自分のことをちっとも知らないのじゃありませんか。
経済的繁栄や文明や文化も大事でしょうけれど、ホントに大事なことを忘れちゃいけませんよ。

2002.8.21


五色の意味

青 空 前五識 妙観察智 阿弥陀如来

黒 風 意識 成所作智 不空成就如来

赤 火 阿頼耶識 大円鏡智 阿しゅく如来

白 水 如来蔵識 法界体性智 大日如来

黄 地 末那識 平等性智 宝生如来

 

前五識   眼 耳 鼻 舌 身 の五つの感覚器官

意識     起きている時の普通の意識

末那識   自意識 自分という感覚を作る

阿頼耶識  潜在意識 記憶を蓄える

如来蔵識  仏心

 

仏教は唯識観と言って、自分が生きている世界は心によって把握されているということを根本の基礎にして組み立てられています。
暑い寒い、嬉しい悲しい、全て心が感じているということです。このこと自体べつだん不思議でもなんでもないことです。
 
この心は原因と結果が連綿と続いて働いています。
これが「縁起の法」で、
因----縁------果--------報---------因
原因--条件----結果------喜怒哀楽---それがまた原因になる
切れ目無く無限に続いていて、自分と他人の心も網の目の様に繋がっています。
これを空観と呼んでいます。唯識観空観が仏教の根本的な考え方です。
 
悪魔になるのも仏になるのも心次第、地獄を作るのも極楽をつくのも心次第ということです。不平不満や過去の栄光に執着していたら、いつまでもたっても、より良い人間関係は作れないということでもあります。
 
人間のもつ心が、仏の心に変わる、変わることが出来るというのが仏教です。
見ず知らずの人であっても、喜んでいるのを見て自分も嬉しい、という感情が仏心に通じているのです。
 
赤青黄色は光の三原色でこれに白と黒を足せば作れない色はありません。同じように心も世界の全てを作り出しています。心の動きを色に配当したのが仏教の五色です。

深い意味のある五色を仏事の中で様々に使っているのです。

2002/3/10


当節、密教といえば真言宗の弘法大師ということになりますが、密教輸入時代には天台宗の方が活躍していたのは経典の数量からして明らかです。

天台宗は真言宗の約3倍の経典を中国から持ち帰っています。
八家秘録(平安時代入唐した八人の僧の請来目録)によると
真言宗関係の請来書  465部  888巻
天台宗関係の請来書 1201部 2326巻

真言宗は弘法大師があまりの大天才であったため、弘法大師以後教学的にはさしたる進歩がなく、宗教史に名を残すような傑出した人物もほとんど輩出しませんでした。天台宗は慈覚大師、智証大師(三井寺)などにより、最新の経典を根拠に広い視野で密教をとらえるようになっていきました。
長保時代(1000)頃には高野山は荒廃しきって住む者もありませんでしたが、比叡山は天皇家を中心にして隆盛を極めたのです。

一口に「比叡山は日本仏教の母山」と言いますが、主な宗派の開祖は皆、一度は比叡山で学んでいます。

法然(1133-1212)浄土宗
15才の時、比叡山で得度

親鸞(1173-1262)浄土真宗
始め比叡山に学び、後に法然の弟子となる

栄西(1141-1215)臨済宗
比叡山に学び、密教の一派、葉上流を興す。
二度入宋し天台山にて禅を学ぶ

道元(1200-1253)曹洞宗
始め比叡山に学び、栄西の弟子となる
栄西没後入宋し曹洞禅を学ぶ

日蓮(1222-1282)日蓮宗
比叡山にて法華経を学ぶ

日本文化の根元を知ろうとするなら、比叡山の仏教を知る必要がある、ということです。

2001/09/14


98/09/27---98/10/24
98/10/28---98/11/23
98/11/28---98/12/28
99/01/01---00/09/12

00/12/03---00/12/15


静かに自分の心を見つめるためのリンク集です。どうぞご覧ください。 -->GO


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