本覚讃 解説

 
これも、天台系で頻繁に使うお経です

実は真言でも使います
真言の坊さんでも知らない人が多いと思いますが、高野山の奥の院の御廟橋を渡るときに唱える偈文がこれです
本覚讃の一行目と二行目を唱えます
真面目に加行しなかった奴は、御廟橋を渡るときに偈を唱えることすら知らないかも、ですが(^^;)

滋賀の石山寺あたりで天台と真言はかなり混じり合いました
それで、細かい作法はかなり影響しあっています

まあ、本覚讃の考え方が、密教全般通じて基本的なものであるということです

 
 
帰命本覚心法身
本(来)覚っている心の法身に帰命したてまつる

常住妙法心蓮台
妙なる法が心の蓮台に常に住んでいる

本来具足三身徳
本来より(法身報身応身の)三身の徳が具足している

三十七尊住心城
(金剛界の)三十七尊が心の城に住んでいる

普門塵数諸三味
塵の数ほどの諸々の三昧にあまねく(開かれた)門がある

遠離因果法然具
因果を遠く離れ法然として具(足)している

無辺徳海本円満
無辺の徳の海が本より円満している

還我頂礼心諸仏
(外にするべき頂礼を)我に環して心の諸仏を頂礼する

 
と、言うことなんですが

三身(さんじん)というのが、ちょっとややこしい概念ですね
これ、いつ頃から言い始めたかよく知りませんが、お釈迦様が入滅して、それでも、その存在感が失われないという事実をどう説明するか、ということから出来てきた説でしょうかね

仏陀としての本質が法身(ほっしん)
修行の成果として仏陀となったのが報身(ほうしん)
衆生の願いに応じて現れたのが応身

で、同じ仏陀であっても、その性格を、本質・自利・利他と三種類に分けることができるという見方
なんですけど

どうも、時代や、学派によって違う解釈があったりして一定しません
軽く流しておいてください

お釈迦様の入滅後、応身として存在し続け、本質は法身として失われていない、などと理屈をつけるわけです
 
 
三十七尊というのは、金剛界曼陀羅の三十七尊ですね

長保寺蔵 金剛界曼陀羅図
 

五仏、四波羅蜜菩薩、十六大菩薩、八供養菩薩、四摂菩薩で三十七尊になります

転識得智といって
アラヤ識(記憶を貯蔵する心の作用)が大円鏡智になり阿しゅく如来となります
マナ識(エゴや自他の区別をつける心の作用)が平等性智となり宝生如来になり
意識が妙観察智となって阿弥陀如来になり
前五識(眼耳鼻舌身)が成所作智になって不空成就如来となります

これは、大日如来の徳を東南西北の四つに展開したものです
四仏をまた東南西北の四つに展開して十六大菩薩になり
四仏から大日に奉仕するために働くのが四波羅蜜菩薩
大日が四仏に供養して四供養、四仏が大日に供養して四供養、合わせて八供養菩薩です
その全ての徳を衆生に及ぼすために働くのが四摂菩薩となります

言うなれば、仏の働きの論理的な展開図です

 
 

三身や三十七尊について解説するのが目的ではないのですが

三身(法身・報身・応身)とキリスト教の三位一体説ですけど、勝手なことを書きますが、近いんじゃないですか

ただ、この仏教の三身説には歴史的にかなり幅があるので、言おうと思えばどんなことでも言えるわけです
しかしながら、どうしても、この三身を持ち出さざるを得なかった、あるいは、三位一体説を作らざるを得なかった理由があるわけです

それが、仏陀が入滅しても涅槃において存在し続ける、キリストが復活する、と、まあ、今でも影響力があるということの理論が必要とされるわけです

原本(と仮に言っておきます)---不滅にして常住なわけです
歴史的、肉体的な仏陀、あるいはキリスト---今はいません
時間や空間をこえて我々とコンタクトし続ける、ホトケあるいはGOD

この三つが、絶対に必要だということですね
これつまり、ロジックです

ついでに脱線しますが、達磨大師は、ねたまれて毒殺されたが、復活して(つまり生き返って)西に去った、という伝説があります
墓場から抜け出して、歩いているのを見た者がいるらしいですよ

 
ああ、それでですね、本覚讃において、全ての衆生に三身の徳があると言い切っているわけで、仏陀でもキリストでも達磨大師でも、復活していただいてなんら不都合はないということになります

 
 
最近話題のハイアーセルフですけど、これは、似てるようでちょっと違うんだなぁ

ハイアー(高次な)セルフ(自己)ですね

このセルフがですね、仏教的にいえば妄想(無我を求めていますから)、キリスト教的には異端の神(神はだた一人ですよ)ですね
善いとか悪いとかは別にして、脱線した部分の概念になってしまいますね

僕的には、ハイアーセルフちゃんはホトケかGODの子分かなぁと・・・
ならいいんだけど、悪い奴だと、困るわなぁ
で、あんまりお薦めしない、と
統合失調性への最短距離でしょうなぁ
ま、危険極まりないので、わざわざ努力してまで付き合う相手じゃないね
コンタクトが切れない人は、ハイアーセルフちゃんはハイアーセルフちゃんで、自分は自分だということをお忘れなく

 

長保寺蔵 種字金剛界曼陀羅図

 

三身の続きなんですが

法身・報身・応身が父・子・聖霊の関係と似ているということですけど

キリスト教的には、これは、唯一イエス・キリストだけの属性です
しかし、仏教的には、一切の生きとし生ける者全てが本来もっている性質です

この父と子と聖霊は不可分だというのが、キリスト教一般ではどうしてもゆずれない一線なのです

それが、仏教ではホトケと言っても、釈迦如来や薬師如来、阿弥陀如来、大日如来、などなど、名前が経典に書かれているだけでも3000以上あります
基本的に、人間の頭数だけホトケがいて、全然困りません

キリスト教の最初の公会議になるニカイア公会議で、父と子と聖霊は別々だと言うアリウス派は異端にされてしまいました

別だと言うことになると、絶対的神(父)とイエス(子)、そして聖霊としての神からの力、は、条件さえ合えば、だれにでもありえることになります

父と(私)と(私を通じて感じられる力)

と、いうことも可能です
ま、仏教からすれば、当然のことなんですけど

一切衆生悉有仏性

という言葉がありますが、仏性が「神の力」の根源であり、イエスでなくても、その程度のものは持っていると考えるのが仏教です

現実には、くだらない奴も多いので、理屈の辻褄を合わせるために、無明とか、煩悩とか、仏性を邪魔する何かを想定しますが、キリスト教のように、イエスだけが、「神の一人子」とは絶対に言いません

シャカムニだけが大日如来の子、ではなくて、ホトケになろうと決心すれば、誰でも菩薩で、ホトケの子です

 
ややこしくなるのを承知でいろいろ書きますが

弘法大師は「法身は説法する」と、おそらく全仏教史上唯一人、言っています
インドにも中国にもチベットにも「法身説法」を言う人は、いません

日本でも、後の新義真言宗になって修正が加わり、「加持身説法」になります
まあ、今でも高野山は「法身説法」なんですけど、サンスクリットでしゃべってることになってるわけで、どうもその、言わせている意図の本体があったほうがいいような気がしますね
ロジカルに言えば

 
 
それで、密教は三密加持が基本ですが、つまり、身口意(しんくい)、印と真言と観念がホトケの決め事と一致すれば、それがそのままホトケになっていると考えます

これは、元々ホトケになる可能性を我々が持っていなければ成り立たない話で、やっぱり、天台本覚思想がですね根底で認められてる必要があります

それで道元さんなんかは、坐っていれば悟れると考えてるわけで、本覚思想を信頼してなければ出来ないことです

この本覚ということになると、元々人間が持っている自律神経というか自己保存本能、ホメオスタシスと言うらしいですが、この作用で、心の歪みを自動的に除く、というのとはちょっと違っているんです

三十七尊住心城

とも書かれているわけで、心の中に曼陀羅の秩序が存在してるという感覚なんです
自然界の掟、とか、自然法則によって、ということじゃなくて、整然とした心の秩序が曼陀羅として備わっているということです

この「三十七尊」と言うのは金剛界曼陀羅になるわけですが、金剛界曼陀羅は系統から言えば、唯識観に属していて、心の秩序が整然と存在するという立場です

曼陀羅と言っても実際はいろいろあって、妖怪や化け物の曼陀羅さえあります
ま、なんでもかんでも曼陀羅ならありがたいということじゃなくて、金剛界三十七尊がありがたいということなんですけどね
 

長保寺蔵 織成 種字金剛界曼陀羅図

 

「心の秩序」はなぜあるのか?

あるいは、いつからあるのか?
 
 

その答えは仏教にはありません
少なくとも、お釈迦様は答えようとしませんでした

この答えのない場所が、法界であり「空」なんじゃないかと思いますね
言語を絶していて、有るでも無いでもない

キリスト教的には神ということになると思うけど、キリスト教の神に対する畏怖や敬虔な気持ちは、仏教の「空」に対する気持ちと近いかもしれません

ただ、どうしてもキリスト教では、人は神になれないんで、これは、僕的にはお釈迦様の発見した道筋が勝れているんだと思ってますけどね

 
その、「心の秩序」を図示すると曼陀羅になるわけですが、サンスクリットの意味から言えば、「輪円具足」といった意味になります
本質、神髄といった意味のmandaに成就の意味の後接語laを加えたものです

つまり、中心があるということなんです

自分の心を考えてみればわかることですが、実に混沌としています
あっちに行ったり、こっちに行ったり、なにを考えているのかわからなくなります

ですが、静かに内省すると、(これを心のさざ波を静める、とも言います)より深い心があることに気付きます

これを、一から発見しろ、ということだと無理ですが、お釈迦様がやってみせたわけで、やり方がわかってしまえば簡単な事です

本覚讃では、あれやこれや念入りに言ってますが、自分の心の中の事ですからね
あちこち探し回る必要は無いし、もっとも身近ですよ

混沌や闇から、自分の心を救い出す力が、自分の中に備わっている、ということです

大事なコツは、中心を感じることです

お釈迦様やイエス様が繋がったところに繋がることです

それは、自分の心の中にある、というのが仏教の教えです
 
 
え、具体的にどうするのか、ってですか

微笑んで、眼をつぶって、背筋をのばして、静かに呼吸に意識を集中してください
浮かんでくるイメージを全部、すっからかんに呼吸と一緒に吐き出してください
神もホトケも、損も得も、善いも悪いも、有るも無いも、全部吐き出して、その先の、そのまた向こう側が、中心です

 
一心不乱にお経を読誦する、真言念誦する、などでも同じことです
こちらのほうが簡単です

わかりきった事ですが、僕は簡単な方しかやりませんよ(^^)

長保寺蔵 種字法華曼陀羅図 中心部分 

 

「心の秩序」に、まだこだわりますが

キリスト教の三位一体説は、人工的に作られたものではあるのです
 

・・・・・
日本語では「異端」と訳され、辞書には、正しいとされる宗教・思想・学説などから外れたもの、とあり、「異端視」は、異端として排斥的に扱うこと、とある。
しかし、この日本語訳も源をたどれば、ギリシア語とそれを受け継いだラテン語の「haeresis」にたどりつく。ところが、ギリシア人もローマ人もこの言葉を、「選択」の意味で使っていたのである。ギリシア・ローマ時代の「異端」は、「執考した末に選択した説」であって、「正統な解釈から外れた説」ではなかったのだ。こうであれば選択の結果にすぎないのだから、排斥までは行きようがなかった。それが一神教が支配的になるにつれて、選択は姿を消し、正しいか誤りか、でしかなくなったのである。異端は、耳にするのも忌わしい、となってしまったのだ。「選択」ならば共生は可能だし、道理さえ認めれば相手に歩みよることも可能だ。しかし、誤りの意味の「異端」となっては、共生も歩み寄りも不可能になる。

そしてローマ帝国もますます、排他的になりつつあった。三位一体派が勝つか、アリウス派が勝つか、にかかわらず。一神教の本質そのものが、排他性にあるからだろう。
 
ローマ人の物語 キリストの勝利 塩野七生 p.79
・・・・・
 
 
コンスタンチノープルは最初にローマ帝国でキリスト教を公認したコンスタンティヌスが、大ローマ帝国の首都として建設しました

当時のコンスタンチノープルでは、「父と子は別」というアリウス派が主流だったのです
それを、公会議を繰り返して、ついに異端に仕立て上げてしまいました

僕に言わせれば、より排他的な一神教である三位一体派のほうが、ローマの専制強化には便利だったのでしょう

その後もアリウス派が公に認められていれば、かなり違った歴史の展開があったことでしょう
少なくとも、カトリックのような、教会だけが宗教的権威の卸元という仕組みはできなかったでしょうね

 
 
仏教では経典結集というのをやってますけど、公会議とは全く違いますね

経典結集では、「如是我聞」かくの如く我は聞いた、と、お釈迦様の言葉を正確に残すための検討会であったのです
公会議の方は、イエス様をどう解釈するか、といった派閥争いです、ひどい言い方をすれば

 
 
で、本覚讃ですが

この本覚という思想の根拠は、経典としては涅槃経の「一切衆生悉有仏性」にあるわけですが、仏教の最も基本的な要素として、2500年の仏教的瞑想の歴史の中で検証され続けたということです

こういう哲学的な要素は、日本の神道などにはないのですが、いかがですか、ボタンをかけるとき一番上のボタンからかけますが、「仏性が有るか無いか」といった問題は、人間生活の隅々まで影響を及ぼさざるを得ないのです

鎌倉仏教が勃興して、「大衆の救済」といった視点がもたらされましたが、特殊な人間だけが救われるのではない、といった考え方は、鎌倉仏教以前は出来なかったのです

鎌倉仏教の基礎に本覚があるのです

すべての人間に仏性がなければ、すべての人間が救われる、のは不可能です

日本の歴史で初めて、一般庶民が仏性を持った存在として認知されたのが、鎌倉仏教であったのです

人間の「自由」や「平等」「独立」「尊厳」といった問題も、すべて本覚思想に行き着くんじゃないでしょうか

その仏性が本来備わっている人間の「悪徳」「残忍さ」「無慈悲」は、必ず克服される、という理屈になるんですけどね

 国宝長保寺多宝塔 本尊 金剛界大日如来坐像 平安時代

 

仏性の無い人間がいる、という考え方があります

実は、奈良の東大寺、薬師寺など、唯識論に基礎を置く寺院は伝統的に、一闡提(いっせんだい)といって、仏性の無い人間がいて、ホトケになることは出来ないという考え方を採用しています

タイ、ミャンマー、スリランカなど上座仏教でも、仏性の無い人間がいる、という考え方です

実際、そう考えた方が現実をうまく説明できるような気もします

 
 
仏性が有るか無いか、といった問題は、いわば理論上の問題であり、哲学的課題ですから、どっちでも都合のいいほうを採用するか、どうでもいい、という考え方もできます

 
そもそも、仏性が有るとして、いったいどこに有るのか?
脳の一部に有るのか、ということは、脳が消滅すれば、仏性も消えてなくなるのか?
脳でないなら、いったいどこに有るのか?

最近は唯脳論といって、脳機能の生理的作用が、宗教の対象や心霊現象として認識される事象を引き起こしている、という考え方を主張する学者もいます
それでなんでも辻褄のあう説明ができるわけではないようですが、それは、脳の機能がまだ解明されていないからで、いずれ全て脳の働きで説明がつく、と推論しています
 
 
さて、じゃ、本当のところどうなんだ、ということですね


 
答えは、本覚讃に書いてあります

 
 
遠離因果法然具 おんりいんがほうねんぐ

遠く因果を離れ、法然として具している

 
この、因果を離れているということは
つまり、物理法則なり、カルマなり、の影響を受けないということです

そういう心が、我々にあるということです

ここがわかれば、あなたは仏教の精髄がわかったことになります

それで、物理法則を超越してますから、脳にも心臓にも、その心はありません
肉体的な器官には依存しないのです

 
カルマ、とか前世の影響とか、善因善果・悪因悪果とか、因果応報とかいって、皆さんよくご存じだと思いますが、「遠離因果」ですから、関係ないんです

遠く因果を離れた、カルマと無縁のところに仏性があり、ホトケと繋がる心がある、ということです

 
仏教は、輪廻転生があるという立場です
しかし、輪廻を遠く離れた心もある、ということです

 
輪廻をつづけて、学びを深め、心を磨く
こういった考え方は、否定しませんが、その必要は無いんです

今すぐ、仏性のあることに気が付きそこに心を止めれば、因果を遠く離れることができます

 
因果応報も輪廻転生も、仏教は否定しません
そのうえで、遠く因果を離れた心を見いだしたのです

原因の無い、病気や事故、不運はありません
しかし、そのすべてを越える心が、我々に備わっているのです

 
圓頓のところで、触れたのでここでは詳しく触れませんが、認識される前の、ナマの世界があります

今、あなたがパッと眼をつぶるとします
でも、パソコンのモニターはそこにあって、文字を写しています

眼に見える前のモニター、があるのです

これは、仏性が有ろうが無かろうが関係ありません

感じられる前の世界

無垢で、無我で、無分別です
そこで、全ての心が繋がっています

そこにあるのは混沌ではなく、感覚器官で感知すれば、色香声味触として整然と感じられる秩序があるのです

あなたが赤く見えれば、隣の人も赤く見えています

たとえ、感覚器官に個人差があっても、感じられる前の世界は共通です
 
それが、仏性の世界です

 
唯脳論とか、「転生による学習効果」、は本質の一面に過ぎません

脳の機能に我々は依存しています
また、転生によって成功や失敗から学ぶこともあります

でも、我々を因果から救い出す力を、我々自身が持っているのです
 
 

長保寺蔵 胎蔵曼陀羅図 

 

 

こうして本覚讃の解説をしていて気が付いたことがあります

それは、この短い文章の中に、唯識観と空観、その二つが一体化した妙法が説かれているということです

 
帰命本覚心法身 常住妙法心蓮台 「妙法」

本来具足三身徳 三十七尊住心城 「唯識観」

普門塵数諸三味 遠離因果法然具 「空観」

 
ちょっと、かなりややこしいので、説明するのに気が重いんですが
 
天台教学では、法華経が最高の経典です
法華経は、けっこう長い経典なのですが、中心になる部分があります
その中心部では、釈迦如来と多宝如来が、並んで坐って法を説きます
法華経では、釈迦如来が唯識観を表し、多宝如来が空観を表しています
並んで坐っていることで、唯識と空の合一を現しています

唯識観と空観は仏教の根本的考え方です

唯識観は、すべての事象は心で感じているから存在する、と考えます
華厳経などの「三界は唯心の所現」といった考え方です

空観は、一切の事象は因縁果報と果てしなくつづく連鎖の一部であり、定まった自性などない、という考え方です
般若経典の「一切皆空」という考え方です

唯識と空は、それぞれ独立した考え方ですが、
唯識(見る者)、と空(見られる物)が分離している限り、私という我執から離れられません
見る側と、観察対象の分離があるということは、「繋がって一つになった状態」ではありません

仏教は、「神による救い」ではなく成仏、つまり自らがホトケとなることが最終で真実のゴールです
ホトケとなる、ということは、全てと繋がって一つになる、ということです

それが、唯識と空の合一、「常住の妙法」です

 
その妙法が

無辺徳海本円満 還我頂礼心諸仏 「我」

我が心にある、ということです

ただし、条件があります

頂礼しなければなりません

漫然と無為無策では、妙法とは出会えません

かけがえのない尊いものが、全ての人の心に宿っていて、気づきを待っているということでしょうか

 長保寺蔵 法華曼陀羅図 中心部分 左が釈迦如来  右が多宝如来 
 

 

この本覚讃は、元三大師の作という説や、不空訳の経典にあるという説があったりして、その起源がよくわかっていないようです

天台宗としては、元三大師が極めて重視していたので、今も採用されているということになると思います

元三大師(良源)は比叡山の長い歴史のなかでも、最も霊能力の強い、伝説の多い人です

元三大師wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%AF%E6%BA%90

それだけでなく、論議を重視し、つまりロジックですけど、論戦を盛んにしました
霊感だけでなく、学問も重視したのです
また、火災などで荒廃した比叡山の伽藍を再興した実務家でもあります
そして、元三大師の弟子達が、比叡山の黄金期を作りました

その黄金期にできた寺の一つが、長保寺です
元三大師(912-985)、長保寺創建(1000)

 
 
さて、天台は本覚なんですが、それでは高野山の真言はどうなのでしょう

本覚の反対語は始覚(しがく)ということになっています
本来覚っているんでは無く、徐々に覚っていくという意味なんです

高野山では、今は帰命(きみょう)と言っているようです
サンスクリットではnamoです
南無ですね

これは、修行によって覚るのだ、という立場です

ともすると、本覚思想は、なにもしないでボンヤリしていても、それで仏教の修行が完成している、という意味にとられがちです
それを、真言では、帰命、と言って、修行がなければ覚りはない
、ということを強調しています

僕に言わせれば、弘法大師風の考え方ですね
 

天台の場合、解説してきたように、緻密な哲学が背景にあります
天台は経宗とも言われ、経典に根拠のないことは言ってはならないという不文律があります
煩瑣な議論の占める割合が大きいのです
霊感や宣託が野放しにならないように歯止めにはなるだろうと思いますが

真言は、弘法大師はこう言った、ということで結論になります
あまりに弘法大師が偉かったからです
ですから、哲学的な煩瑣な部分はありません
そのかわり、膨大な量の、儀軌の精密な研究があります
 
天台--哲学、真言--作法、ですね
 
ま、性格の違いですが、この天台哲学の基礎があったから、鎌倉仏教が発展した、というのが歴史です

真言は、戒律も有部律で、僧侶は一般人と隔絶した専門家とされています(知らないと思いますが、タイやミャンマーの戒律と同系統です。今は高野山は世俗化してますが、どうなちゃったんだかわからんですね)
伝授の秘密性も厳格です(今でも印を隠して結びます。僕は比叡山で、印を隠せというのは教わらなかったです。愕然としましたけど。こだわらないんですね)
 
天台--大衆、真言--専門、でもあります
 
さあ、これがこの先、どう発展しますかね

僕の頭の中で、今いる人材を比べてみると
うーん、世襲化をどう決着させるかかなぁ

天台のほうが、開かれてるんだよね
ただ、間口が広すぎるんで、なにが言いたいかも一つよく分からない

真言は祈祷のhowtoが明確なんで、わかりやすいんですが、弘法大師個人崇拝だけでは普遍性は無いなぁ
 
比叡山と高野山、両方あってちょうどいい、ということにしておきましょう

長保寺蔵 紙本著色 元三慈恵大師良源画像 弘化2年(1845) 

 

 

 

 

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