洗脳護身術 洗脳原論

苫米地 英人

こんな人がいるんだなー
オウムの裏返しみたいな人

アンカートリガー、興味深い概念ですね。
前世療法で、過去世のトラウマの原因になった事件を思い出すと、現在悩んでいる症状が消えるのだが、なぜそうなるのかよくわっていない。
前世の記憶がアンカーになっているとしたら、意識化されることで、記憶がコントロールできる所に浮上し原因不明の恐怖は消滅する、ということになる。

記憶の極深層、ここにたどり着けば、過去世からの呪縛から解放されるということか。

苫米地メソッドによれば、変性意識状態になることで、アンカーにアクセスすることになるが、前世療法では催眠によるってことか。

「洗脳護身術」は一番最後の章が大事だね。

ドクター苫米地ブログ

2005-09-14  TOP


輪廻について5

案外、輪廻転生を続けていくのを、かったるいことだと感じている人は多い。

ご安心ください
仏教が目指しているのは、転生の繰り返しから学ぶことではありません

もちろん、善因善果、悪因悪果で因果応報があると考えてはおります
しかし、そんなことにこだわるな、と考えている祖師がたが多い

地獄の底に沈んでいても、業にがんじがらめに縛り付けられていても、チャラにしてしまいましょう、というのが本当の慈悲です
ですから、転生の履歴がどのようなものかは問わないのです

まあ、考え方としてはこちらを見てください
色即是空のかなた

2005-09-08  TOP


輪廻について4

仏教独特の概念には、輪廻転生とセットで語らなければならないものが沢山ある。

涅槃もそうだ。輪廻から脱出した状態のこと。単純に「無」ととらえる人が多いようだが、違うね。有でもなければ無でもない状態。
有は、わかりやすい。しがらみにがんじがらめにされている状態。突いたり引いたり、果てしなき応酬が続く状態。因縁果報の報がまた因になり縁果報因縁果報因・・・とはてしなく続く状態。
無は、ややこしいながらも、仏教的には底の浅い概念になる。有という比較対照するものが無ければ説明できない。とにかく無なんだから、それ自体を説明のしようが無い。で、「説明のしようが無い」と言ってしまったら、「説明のしようが無い」という概念が有ることになってしまう。で、「それも無い」と言えば「それも無い」という概念があることになる。つまり、純粋の「無」というのものは無い。条件付きの幼稚な概念ならあるかもしれぬ、ってことになる。スピリチュアルなトークを展開される人は、知ったかぶりで「無」について語らぬほうがいいよ。1000年以上前に幼稚な議論だってバレちゃったんだから。「無」とか「闇」とか「全ての終わり」とかは、だから、案外不安定な概念で、消えて無くなることもなく、いずれなんらかのカテゴリーに分類されることになる。
「そこには、広大な無があった」なんて言わないでね。無なんだから、広さも無ければ、あることも無いのですよね。溜め息がでる。

さて、菩薩。あえて涅槃に赴かず、輪廻の世界に止まって、苦しむ者を救う。修行を完全に終えた状態の存在を指す場合が多いが、広義には、自分はいずれ必ず修行の完成した状態になると知りつつ、現在は修行を継続している存在も菩薩という。この広義の菩薩を想定しなければ、慈悲は説明できない。慈悲は、完成した存在だけにあるのではなく、完成途上の存在にもある。
わかりやすい説明かどうかわからないが、菩薩という言葉は、「目覚め」をさすbodhiと、「情ある存在」をさすsattvaから出来ている。目覚めているけど、情もあるという存在。目覚めから、他者の苦しみを自分の苦しみとして感じる感性が生まれる。
自分はまだまだ不完全だと知っているってことは、完成した状態を知ってることになる。完成した状態を知っているってことは、完成することが出来る可能性が与えられているということになる。まあ、そこのところは、より高度な存在の手助けが必要だと考えられているけどね。
菩薩こそ仏教の目指す生き様だ、と喝破したのが伝教大師。これが、日本仏教の世界史的な存在意義だと思うよ。

退行催眠は輪廻転生と「光との対話」で構成されるらしいけど、あらゆる宗教の出任せは化けの皮を剥がれちまうなー。まあ、仏教のコンセプトは生き残るだろうけどね。
むしろ、無駄な贅肉をそぎ落とした洗練をもたらすものとして歓迎いたします。

2005-06-03  TOP


輪廻について3

仏教における輪廻転生を考えるのなら、どうしてもチベット仏教を避けて通ることはできない。
日本ではチベットの無上ヨガタントラやおどろおどろしい憤怒尊の曼陀羅など、今では奇異な目で見る人も少なくなったかもしれないが、特殊な仏教という捉え方をしていると思う。がしかし。チベットに行けば、普通の常識的なあたりまえの正当派仏教である。チベットからみれば、日本仏教こそ、極東で勝手にねじくれた不思議な宗教としか写らないだろう。
それはさておき、転生については、チベットでは極めて重大な、チベット文化の核心といってもいいくらい重要な問題として考えられている。

パンチェン・ラマ

高僧が死ぬと、その生まれ変わりを探して跡目を継いでもらうのである。決め方は、占い・夢告・遺品を選ばせるなど、それなりに、かなり厳重である。選ばれた少年は、期待に違うことなく、天才的なひらめきを持っていて、英才教育を施される。あえて言えば、生まれ変わったのだから、別の人生を選んで歩む、などという自由が与えられないのが、ちとかわいそうな気もする。
チベットでは一家で一人出家するという文化があるから、前世が坊さんだった人は無数にいることになるが、高僧から転生してきた人でないと、資質が劣ると言って、跡目として受け入れられないらしい。まあ、生まれによる差別と言えば言える。ほんとに資質と意欲があれば、野に生まれてほったらかしておいても、艱難辛苦の末に高僧となる、などという発想はないらしい。

日本でも、宗教団体の長が死んだら、生まれ変わりを探すとか、社長が死んだら生まれ変わりを探すとかになったら、どうなるんでしょ。エリートの条件は転生した記憶だとか、前世で犯罪者だったら再犯性が高いとかね、なったらどうなるのかな。
魂の記憶を覗いて利用するって発想かな。怖いような気もする。
チベットでは坊さんに子供はいないから、ヒンドゥーみたいな生まれによる差別にはならないが、極めて似た発想ではある。一つ間違えれば、輪廻転生は差別の温床だね。

履歴書に前世の経歴を書くとかね、なったらどうでしょう。その方がうまく行きますかね。世の中。
まあ、輪廻による知恵の蓄積を認めれば、そういうことになる。

輪廻による知恵の蓄積は、あるにはあるが、光による救いに遠く及ばないと捉えるか、輪廻が繰り返されなければ、賢くはならないと捉えるか、同じ輪廻を認めても全く違う。これは、宗教観でもある。光の存在を、必要不可欠と考えるか、輪廻から学ぶことが重要と考えるか。

僕は、「光が絶対に必要」と感じてるけど、さあ、あなたはどっち?

2005-05-21  TOP


輪廻について2

天台大師の師匠であった南岳慧思大師は・・・はじめて天台大師が大蘇山でお目にかかった時、「よく来たね、昔お釈迦様が法華経を霊鷲山でお説きになっていらっしゃった時、並んで聞いたのを覚えているかい。その時結んだ縁がもとで、また遇うことが出来たのだな。もっと早く来てほしかったよ」といったそうです・・・・・観音経入門 大久保良順

南岳大師は天台大師に遇うまで3回生まれ変わって修行を続けたと自ら説明した。
また、南岳大師が聖徳太子に生まれ変わったという伝説もある。

弘法大師が唐の長安で恵果和尚に初めて遇ったときには、恵果和尚が「汝と私は師となり弟子となったのは一回だけではない」と言って挨拶した。ここから、弘法大師が恵果和尚の師であった不空三蔵の生まれ変わりという伝説が生まれた。
弘法大師は心経秘鍵で、霊鷲山で お釈迦様が般若心経を説くのを聞いた、と書いている。

それにしても、聖徳太子自身が前世は南岳大師だったと言った、とか、弘法大師自身が前世は不空三蔵だったと言った、という記録は無いし、自分で書き残したものも無い。伝説を作り神格化する過程で持ち出されてくるだけのものらしい。

主要な命題は、今、なにをするか、ということなのだろう。

2005-05-18  TOP


輪廻について

不思議なことに、仏教では真正面から輪廻転生を認めているのに、なぜか、いままで主要な命題として議論されたことがない。むしろ成仏論の一部分として取り上げられている。
もうすこし暇だったら、きちんと整理して仏教学会に論文として発表したいところだが、それは誰かもっと適当な方がなさることを期待して、およそのところを書いておく。

法華経などによると、悉地を成就するのに、つまり最高の悟りを得るのに三劫(ほとんど永遠ともいえる長い時間)かかる者と10回転生が必要な者、3回、2回、1回など様々あるという。
普通に勉強しながら善根を積んでいくと、修行が完成するのに三劫かかることになっている。突いたり引いたり、いつまで経っても埒があかないのである。善根を積むことは推薦されてはいるが、修行の完成を目指すなら、ほとんど意味が無い。決着がつかないのである。善根の集積では、因果応報の連綿と続く連鎖の輪から抜け出すのは容易ではないとされている。凡夫には事実上不可能なのである。
自分の力を信じて生きるのは結構なことではあるが、所詮、生死の淵は越えられない。何回も転生しても、様々なしがらみに流されて、いつまでも流転から抜け出せない。自己努力には限界がある。ほとんど、堂々巡りを繰り返すだけになる。それでも一応、三劫ともいう無限に近い時を経れば、いつか輪廻の輪から抜け出すことができることにはなっている。
つまり、輪廻を繰り返すことで、徐々に賢くなって、愛憎の連鎖から抜け出すということは不可能に近いと考えられている。大抵の場合、複雑に絡み合った運命の糸は、転生を繰り返しても、より複雑に絡み合っていくだけなのである。
よって、仏教では、良いことをすることによって悟りに近づく、などということは期待されていない。基本的には出家して世間的な生活を捨てて、もう転生しないように願うことになっている。あるいは、善悪の生き様にかかわらず、仏によって救われると説く。

簡単に言えば、輪廻転生による知恵の蓄積は期待されていない。だから、輪廻を認めてはいるが、さほどの関心が無いのである。
むしろ、修行が完成すれば転生はしない。転生を繰り返している間は、未熟な存在である。

じゃ、どうするのかと言うと、仏による救い、瞑想による修練が強調される。
「世間虚仮、仏道唯真」
とも言って、俗世間の生活は重視されない。転生を繰り返しても、俗世間にこだわる間は修行は成就しない。
特に、 ビルマやミャンマーに行われる上座部仏教では、社会奉仕そのものをさほど評価しない。世間と関わりを持つことは修行の妨げと考える。
日本で完成の域に達した大乗仏教各派では、慈悲に基づく善行を賞賛する。これはしかし、また生まれ変わって良き生活をするとか、あるいは、前世からの乗り越えられない精神的課題を克服するとかではなく、結果や評価を求めない、無私無欲な行為が求められている。

前世も来世も「幻の如し」ととらえて、今、仏の慈悲を体現して生きることが求められるのである。

釈尊は輪廻についての議論は意図的に避けたとされている。輪廻の存在を認めることはしても、仏教を実践するのに輪廻転生を重ねる必要はない、ということになる。
転生をいくら重ねても、業が浄化されるとは限らない。仏の力に頼る必要がある、というのが、仏教の立場になると思う。

輪廻転生をあてにしないで、今、できることをしましょう、ってこと。
退行催眠ふうに言うと、過去世を追体験することよりも、光との対話を重視する。光そのものを追求する。また、輪廻のキャリアは光からの学びにどうしても必要なものとは考えていないようだ。個々人の様々な問題を、権威主義的な教条主義で押し切ってしまう傾向がある。
このへんかな、仏教にさらなる改善の余地のある部分は。

僕は、仏教が退行催眠の技法を飲み込んで発展していくのではないかと考えてる。密教がヒンドゥー教を飲み込んでしまった様にね。

2005-05-17  TOP


アウト・オン・ア・リム シャーリー・マクレーン

山川夫妻の訳

前から、読もうと思って机の上に積んであったが、ようやく読めた

アメリカの自由な空気の中で育った人が、精神世界の真実に触れていく過程が美しく描かれている。ちょっとしたエピソードとか、ふとした情景が大きな意味をもって描写され、上手に構成されている。

私にすれば特に目新しい知見はないが、心の内面に関心を持つことを知らない人が、しだいに引き寄せられていく過程が興味深い

もう一つの興味はニカイア公会議について

カトリック的には神は教会を通じて礼拝すべきものとされていて、宗教的な見解は教会の中で統一されていなければならない。これは、きわめてシビアな話で、異を唱えれば異端者の烙印を押され、最悪、異端者にされた者は火あぶりにされたこともある。ジャンヌ・ダルクは男装が異端ということで火あぶりになった。ガリレオの天動説が異端にされたのも有名な話だ。終身刑を言い渡されたが、減刑された。
一神教世界では、唯一の神の掟には逆らえないわけで、八百万の神のいる日本では理解しにくい話ではある。

ニカイア公会議は、325年3月20日から小アジアのニコメディア南部の町ニカイア(現トルコ共和国ブルサ県イズニク)で開かれたキリスト教の歴史で最初の全教会規模の会議(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

公会議は現在まで22回開かれているらしい。で、その最初の会議で、神とイエスと聖霊が別々であるとするアリウス派は否定され、三位一体説が正当と決定された。このあたりをキリスト教による輪廻転生説の否定の起源とするらしい。
ご興味ない方も多いと思いますが、キリスト教では輪廻転生は否定している。仏教ではお釈迦様自身が数限りなく転生をくりかえし善根を積んだという、ジャータカ物語(本生譚)が大蔵経の中に多数収録されていて、輪廻転生は、宗教自体の当然の前提になっている。

本当のところはどっちだ?ということになるが、数多の退行催眠などの傍証を採用するなら、輪廻転生はあると考えざるを得ない。

仏教では「成仏」というが、読んでそのままのとおり、いつか我々は「仏に成る」のである。
キリスト教では「神」には絶対にならない。転生を繰り返しいつか神になると言えば、異端者である。

ヒンドゥー教では前世の悪業によって不幸があるのだから、生まれによる差別を正当化する。
仏教では、そこのところを、「行いが悪ければ、今良くても来世はわからない」お互い様なんだから助け合おうと考える。

興味深いのは
「 論議の結果、アリウス派の思想を退ける形でニカイア信条が採択された。この中で御父と御子は「同質」(ギリシャ語:ホモウジオス)であるという表現が使われたが、この語の使用は聖書にない言葉がはじめて教義の中にとりいれたという意味で画期的な出来事であった。 」
ここらあたりから、キリスト教は変わっていく可能性があるかもなー・・・

2005-05-07  TOP


死の壁 養老孟司

新潮新書の帯に「最終解答」って書いてあったが。あー、恥ずかしくないのか。

雑談の聞き書きだそうで。居直った高級漫談なのでしょう。
読まないことをおすすめします。

2005-05-07  TOP


仏教と神道  ひろさちや

案外、仏様と神様の違いについて説明せよ、と言われても、きちんとした説明ができない

仏教 現世を越えた普遍的な価値を教える宗教
神道 現世を中心とした利益をもたらす宗教

という定義になるそうです

神道は民族宗教であり、土地や自然と切り離すことができない
ヒンドゥー教も神道と性格が似ているのだが、密教の中で仏教と融合している。同じような考え方をすれば、神道も密教と融合して本地垂迹の神になっている

「我」が痕跡を残していれば「神」
「我」が「空」に変質していれば「仏、菩薩」

という理解もできる

2004-07-10  TOP


輪廻する歴史  宮崎なぎさ

人が輪廻するというなら、社会も、国家も輪廻して不思議ではない
そんな発想からすれば、歴史も輪廻する

地名や、地形、建造物の形、などから推定することができるらしい
ただこれは、そうじゃない、という証拠を集めようと思えば、いくらでも可能だろう。しかし、歴史上の似たような条件から、似たような展開が生まれる可能性は高い

カルマの継続性、結論先行の原則などは、賛成しますね

2004-07-07  TOP


戦争論1.2.3  小林よしのり

是非、お読みになることをお勧めします

思想が心が、作り変えられてしまうことが、ある、ということ
個人的には、歴史認識に対して、事実の羅列ではない、「物語」の重要性に気が付いた

戦争には避けられない必然性がある
軍事力を攻撃的に使うことを考えている勢力があるかぎり、戦争はなくならない。戦争に到る過程を理解し、理性的な対応をしなければ、蟻地獄のように破滅に引きずり込まれる

過去の日本の起こした戦争を、美化もしなければ、誹謗もしない。事実を積み重ねて見れば、そこに、真実がある

外交の延長上にある戦争を、起こしにくくする工夫が必要だろう

日本の近代史に対する物語が必要だと思う
思想と言ってもよい
伝統、礼節、道徳、といろいろな言葉が並ぶが、少なくともアメリカの掲げる「自由」ではない

仏教では、「自由」を大自在天が代表するが、この大自在天は大魔王である
この大魔王はなかなか手ごわく、調伏できるのは不動明王だけである
不動明王の信仰は日本独自に発展してきた。日本密教独自の信仰形態が形づくられている
「自由」以上の価値はあるのである
それは「大空三昧」であるという。深い智慧で一切の煩悩を焼尽する、我執の無い、慈悲の活動である。

「正義の戦争」などと幼稚なことを言っているアメリカに、無反省に、いつまでも付いていく事はできない
智慧を復活させる必要がある

自己の利益を実現するにはどうするか、という発想から、敵が生まれる。利益を実現するための邪魔はさせないために、敵を滅ぼし、世界を征服する必要が出てきてしまう。自己と自己がぶつかれば戦争になる

智慧によって、鏡に全ての利害を映し出すように透明に世界を観察し、共存共栄の道を探すことが必要になる
それが、日本の取るべき唯一の進路だろう

2004-07-07  TOP


唯脳論  養老孟司

脳の機能としての知覚
脳に対応する機能が無ければ、知覚も無い、かも

精神活動が物質に還元されるという立場だが、私は、違うと思っている
脳は、精神の受信機のような物で、脳そのものが精神を作り出しているのではない、という考え方

したがって、唯脳論という方向性は、採用しない
瞑想が脳の機能を拡張する、という考え方をしている

2004-07-07  TOP


仏教の洗練

寺院の性格が国家中枢(法隆寺や東大寺などの大伽藍に代表される)⇒上流貴族(比叡山や高野山など)⇒地方豪族(鎌倉期の地方の大寺院)⇒地域社会(檀家寺)⇒家庭(仏壇)ときたら次は⇒個人ということになるのだが、はて、これがどんなものになるのか?

仏教は歴史的にはどうしても上意下達の権威主義とセットになっていた。権威の中心は特権階級から徐々に大衆に開放されてきた。仏教もここに来てやっと直に本質に触れられるところにまで来たのではないか。

ところが、現在の仏教学は訓古学的な過去の経典読解が中心で、梵漢蔵巴といくらでも研究対象はあるし、過去の偉い人の研究などいくらでもできる。とりあえずなんの役に立たなくても文句は言われない。
また、現代の世俗的な生活があまりに快適なために、くそ真面目な原理主義的な信仰は煙たがれる傾向にある。ほどほどに修行したことにしておけば当面の生活に支障は無い。
サービス業としての寺院経営、ビジネスライクな寺院経営など、まだ意欲があるだけましなほうで、世襲化した寺の跡取連中の心の空洞化がいずれ表面化するだろう。

人生には今、自分の身の周りに起こっていることを、どう感じるか、という受動的な一面と、これから何をどのようにするのか、という能動的な一面がある、とする。
受動的な一面については楽天的でも悲観的でも現実的でも、とりあえず立ち入らないことにする。
さて、能動的一面、これから何をするのか、これはとにかく何かを信じていなければ一歩も進めない。俺は何も信じていないという人とは議論するつもりはないが、死ぬまでは生きているという現実については、素朴に、疑ってはいないのでしょう。自殺を企てないということであれば、生きるための算段が不可避的に必要になる。
この疑いを差し挟まない、つまり何事かを信じているというところがまことに曲者で、悪くするとアバタもエクボ的に歴史の英知の蓄積も、最高の知性の賜物もすべて無意味になってしまう。そうやって人類は愚劣な堂々巡りをするのかもしれないが、思い込みだけでは冷酷な現実は乗り切れない。
前置きが長くなったが、つまり、いずれ時間の問題で、幼稚な神様ごっこは行き詰まる。

臨死体験の研究、トランスパーソナル心理学、アメリカ輸入のニューエイジやヒプノ、などなど、現今の精神世界には色々な切り口があるのだが、つまりは宗教の個人化の流れの中で必然的に起こるべくして起こってきた試行錯誤の一端ということにも感じられる。一過性のブームのようなものに終わるとは思えない。
仏教は2500年以上、過酷な運命を乗り越えて、時代的要請に答えながら伝統をつないできた。正直あんまり克明には知らないが、これは事実である。今ある様々な精神世界の試みもいずれ吸収してしまうのではないか。大乗仏教の発展は異文化の消化吸収の歴史でもある。超感覚的な預言者による宗教であるキリスト教やイスラム教のようなトップダウン式の一神教と違い、仏教は瞑想によって検証されながら常に変容してきた。それでも、瞑想によって仏となる、という基本的なコンセプトは表現のしかた、強調する部分が違っても変化は無かった。

精神世界の試みの成果は新鮮ではあるが、仏教の骨組みを粉砕するほどの説得力は感じられない。むしろ、一神教の独善を戒め、瞑想の技術を深め、生命に宿る仏性を際立たせることで、結果的に仏教の洗練に寄与するのではないかとさえ思う。
今の坊さん達が、自分達に磐石の既得権があるなどど思い込んでいなければ、仏教にはまだまだ未来はあると思う。

2004-04-04  TOP


遠隔透視術 秋山眞人

超能力について考えさせる本。

実際に軍事利用とか犯罪捜査に利用しているらしい。
ギャンブルに応用するというのは前半の格調高さから比べるとお笑いだが、編集者の無理強いだったのかどうか。
ただ、訓練して強くなるという考え方、サイキック・マッスという概念など興味深い。PKが「発揮する能力」でESPが「受ける能力」でPKはESPが土台になっていて遠隔透視はESPの集大成になるという。

どうでもいい人にはどうでもいい話だろうが地道な研究の成果ですよ。実際にできる人が書いた本ということでは、第一次資料ということにもなるんだろう。潜在意識を説得するとか、飽きっぽいので色々工夫が必要などということは、他人の能力を評価しているような立場の人には考えつかないことですよ。いままで、いろんなわけのわからぬ超能力本が出てきたが、これからは実際にできる人が書いた本を評価していかなければならない時代のようですね。

2004-03-30  TOP


寂光庭(じゃっこうのにわ)

御霊屋(おたまや)の前の石庭に銘板を置いた。重森さんの作庭。

2004-03-18  TOP


涅槃会

今日は善福院(国宝)の涅槃会に出仕。天気もよく気持ちよかった。

お釈迦様の命日である涅槃の日は、2月15日だが、ちょっと寒いので昔からこの日に行っている。写真は世話人さんに撮ってもらった。

2004-03-15  TOP


生き方は星空が教えてくれる 木内鶴彦

人間の深淵を考えさせる本
著者は臨死体験をきっかけに人生が大きく変わった。その体験したことが真実なのか夢なのか興味のあるところだが、少なくとも著者の人生の全ては大きく変わってしまった。宇宙に夢を馳せるから宇宙大の夢を見たのか、宇宙大の意識につながっているから宇宙に興味を持つのか。
したいと思って出来る体験ではないのだが、なぜ限られた人にしか壮大な神秘的体験がゆるされていないのだろう。人間の意識はまだまだ進化の途上なのか。それとも、道を外れてしまった我々人間のなかに、時々正気に戻る人がいるのか。

「死ぬときにいちばんつらいのは、自分の才能を開花させることなく、人生を終える悔恨の思いです。」
これが、苦痛に満ちた人生にまた輪廻する最大の理由だろう。人生の中にある危険や苦痛より、やるべきことができなかった悔恨の苦痛のほうが大きいのかもしれない。

人間は死後、大きな意識に統合されるのだろうか。
仏教では、個性は維持され輪廻を繰り返しながら成長し涅槃を体得して、つまり仏陀となって輪廻を終えると考えている。この仏陀は一人しかいないというのではない。数え上げたら過去に1000人、現在に1000人、未来に1000人あるのだという経典もある。釈尊はそのうちの一人ということになる。仏陀にならず、生きとし生ける者を救う請願をたてて輪廻のなかに留まる菩薩もいる。いずれにせよ仏陀となるには、その過程、道筋があるわけで、これは一つとして同じものはない。そして、一つの意識に統合されたかに見えても、それぞれ千差万別の固有の歴史を刻んでいるのは厳然とした事実である。この歴史は消せない。ヒプノでは潜在意識を書き換えることがあるのだそうだが、書き換えたという事実は残る。
つまり、統合されても個性の記憶はどこかにある。だから、理屈で言えば、仏陀の数は無限に増え続ける。それを生命の豊饒と言うなら、宇宙はこの豊饒を作り出すために存在しているということになる。

今していることが、好きでも嫌いでも、成功でも失敗でも、大正解でも大きな過ちでも、忘れてしまっても、意図していなくても、それは意識に刻みつけられる。だからと言って、目隠しをして、目的地も知らされず、裸足で荒野をさ迷い歩くのだから苦痛から逃れられるはずが無い。目隠しをはずして一瞬でも世界を見ることができれば、自分の本当の使命を知ることができるのだろうが、このあたりが根本的な不条理でもある。
目隠しをはずす、というアイデアにたどり着いただけでも大きな進歩としよう。

2004-03-11    TOP


枝垂れ桜

大門横の両側の芝生に枝垂れ桜を植える。

写真の桜は去年亡くなった岩本章さんの供養のための植樹。

 

2004-03-08    TOP


バカの壁 養老孟司 

示唆に富む本。
人間の織り成す様々な社会現象は、人間の脳の機能に由来する。一元論に閉じこもって壁を構築するのが快いものだとしたら、それは人間の種としての限界なのか。インプットとアウトプットの間にaという変数が、どうしても挟まってしまう。下手をすると人は幻想の中でしか生きていないのかもしれない。つまり、不可知論でもある。
ただ、脳をバラバラに解剖しても、社会はでてこない。共同体も、宗教もなにも見出せない。aという変数の要素がどこかにあるというのでもないらしい。
僕など、背後にあって脳に何かの機能を起こさせるあるもの、たとえば魂とか、を想定してしまう。と言っても、無理解が理解に変わるわけでもないか。
でも、魂が響き合うとしたら・・・・力ずくの解決は無用ということになる。


2004-03-05    TOP


菩薩と密教と個人化

伝統仏教宗派はトランスパーソナルな突っ込み、臨死体験からの突っ込み、誘導催眠からの突っ込みにさらされている。トランスパーソナル的にはキリスト教やらイスラム教やら世界各地のシャーマンの霊的教示やらと、どこかで整合性がなければならない。臨死体験からの驚くべき知見と大きく矛盾していても困る。誘導催眠で知られてきた潜在意識の精妙な働きについての知見はまだまだこれから症例が増えてくる。そういう時代になってしまっていること自体を認識していない坊さんがあまりに多い。葬式と法事をしていれば宗教をしていることになっていると思い込んでいる人がほとんどだろう。僕は真言と天台については内情を知り尽くしているからね、反論があるならどうぞ。
自分のお寺の宗旨に囲い込もうという動きが盛んなわけだが、つまりは金勘定が主たる動機で、精神性が無くて、ちっとも魅力的でない。一体全体、金勘定抜きで囲い込みをやってる人などいるのかね。馬鹿げたカルト教団のほうがよっぽど何かを信じる純粋性がある。
伝統仏教各派はその歴史的役割を終えつつあるのではないか。それでも仏教は、現代の霊的な新たな知見とそれほど大きくかけ離れていないのでキリスト教よりは将来性があると思っている。キリスト教もイスラム教も輪廻は認めてないのですよ。ああ、認めましょう、となるかもしれないが、かなりバツが悪いね。まあ、面子丸つぶれだよね。仏教の唯識、中観といった基本的な考え方は、これから益々注目されることはあっても廃れることは無いだろう。ただ、悪いけど専修念仏とか折伏とか、愚民主義的な単純仏教はもう終わりだろうね。禅宗も複雑怪奇な心霊世界にたいして事細かな回答を用意せざるを得ないでしょうからご苦労なことです。
密教だと思うよ、これから色々と注目されるのは。
真言の人は戒律の問題をすっとぼけて語りませんが、弘法大師のイメージしてた密教は、プロフェッショナルな高度に洗練された坊さん達によって維持されるべきものですよ。あまりの大天才の開祖なんで、後の者が大変ですわな。伝教大師は密教よりも菩薩という概念をより重視していた。でも、結局天台は密教だらけになっている。菩薩と密教と個人化、この取り合わせが糸口になるのではないか。
菩薩の慈悲と奉仕を強調した生活と、密教の洗練されて具体的な霊的規範、これらを基調として個々人が自分の中に普遍的な意味と価値があることに気づく。と、その前提に密教が、秘密仏教のベールを脱いで、わかりやすく自分自身を説明しなきゃならんでしょうな。

2004-03-04    TOP


密教の個人化

仏教は釈尊の当時とは様変わりしてしまっている。それはそれでいいとして、様変わりの始まりはバイシャリの第二結集あたりらしい。釈尊の教えを金科玉条に固く護ろうという上座部と、時代に会わせて変えていこうという大衆部に分かれた。大衆部の側からは上座部を自分の救いしか考えない小乗だという批判も出たが、連綿と今に続いて東南アジアの諸国に受け継がれている。大衆部の中から、法華経の信仰や密教が出てきた。しかし、戒律には根本的な修正はなされずに中国まで大衆部の経典は伝播してきた。
日本では中国経由の大衆部系の仏教一色になっているのだが、やはり日本的な展開が加わることになる。奈良から平安にかけての仏教輸入時代には戒律は上座部と同じ250戒あった。これを、伝教大師が菩薩戒ということを言い出して破棄してしまった。鎌倉仏教は皆この伝教大師の流れから出ることになる。戒律から見れば伝教大師は世界の仏教の中でも特異な存在だが、大衆部の流れを考えれば、上座部の戒律が破棄されるのは時間の問題だったといえる。
釈尊の教えを時代に合わせてアレンジするという発想の続きに、密教も菩薩戒もあるということになる。寺院の性格が国家中枢⇒上流貴族⇒地方豪族⇒地域社会⇒家庭⇒個人と変わってきたという流れも、仏教の大衆化という根本的な路線があったから可能になったといえる。
最近、伝統仏教の宗派のなかに原理主義的な復古運動を考えている人が出てきたが、どうなりますか。
次の答えは「密教の個人化」だろう。寺院に依存しない、教祖様にも頼らない、自分の中にある仏心に基づく信仰。そんなことが可能かどうかではなくて、どうにもそっちに行ってしまうということになる。ニューエイジとかトランスパーソナルとか各種ミニ宗教とかカルト教団などなど、大きな流れの中の試行錯誤の賜物といえる。当然、自分勝手な思い込みや独り善がりは廃れる。何がしかのフィードバックによって真実性が実証されることが求められるのだろう。それが霊験あらたかなる治病なのか、深く心の底に了解される神秘体験なのか、あるいは、なにか新しい概念があるのか。ここまで煮詰まれば、なにかを見出すか、見出すまえにハルマゲドンで自滅するかだろう。

2004-03-03    TOP


「個人化」と「イベント」

日本の仏教は、壮大な伽藍から始まり、平安時代に山岳仏教になり、中世に日本的な発展を遂げつつ地方へ伝播していきました。江戸時代に檀家制度が確立し、今日では各家庭に仏壇が置かれるところまできました。
中央集権的な時代には大伽藍で国家の威信を示し、平安時代には貴族の祈祷道場としての霊力を求められました。それが鎌倉時代にはいると、地方にも中央に拮抗するような勢力が芽生えはじめ、仏教の大衆に向けた発展が加速され、中規模な寺院が日本全国に作られました。江戸時代には封建社会を固定化するために、各村落にも寺院が作られ檀家制度が浸透しました。寺院は国家から地方、そして小さな村落へと変化しつつ発展してきました。そして今は各家庭に仏壇が置かれるようになり、違和感無く我々の生活に溶け込んでいます。
つまり、大⇒中⇒小と流れてきているわけです。で、次なる発展は、国家中枢⇒上流階級⇒地方豪族⇒地域社会⇒家庭ときて、こんどは個人でしょうか。たとえて言えば、大規模通信設備⇒公衆電話⇒固定電話の次に携帯電話がきたように、仏教の個人化がくると考えられます。
共同体の復活、連帯感の回復といったところで、作られ演出された空間だけのいわば、御祭りのようなものにしか見出されなくなるのでしょう。大衆を動員する大きなイベントはこれからも盛んに行われるでしょうが、人間が孤独を嫌う生物であるなら、これから益々必要になるのかも知れません。ただ、基本的な流れは、個人化へ向かっています。「個人化」と連帯感を味わうための「イベント」、これが次世代の心の行き場所でしょうか。

2004-03-01    TOP


イーグルに訊け 天外伺朗

アメリカインディアンの精神性が窺えて興味深い本。
パイプセレモニーって面白そう。完全平等な共同体なのかな。狩猟生活が主体だからじゃないでしょうか。農耕が中心ということになると、階級とか貧富の差とかがでてくるから、難しくなりますね。
それと、非常にインディアンの精神性を高く評価しているわけだけれど、白人の武力に負けたことを考慮しても、本当の宗教性があれば、現代アメリカの競争社会でも芯の強さを発揮して生き抜いていけるはず。ギリシャのエトスと似た話。古代ギリシャにはエトスといって宇宙との関係性が確立していたが敗戦によって文明が滅ぼされて、エトスが失われたというのだが、ほんとにエトスが確立していたのなら敗戦くらいのことで失われるものなんでしょうか。仏教なんかインドで完璧に滅んだけれど、世界中で脈々と伝統が続いているんですよ。
スピリットって光ったり、道案内したりして凄い。けど、僕に言わせれば、スピリットにもピンからキリまでいろいろあるんじゃないかと思う。
スピリットであればなんでも凄いという思い込みは、宗教を考えるうえでは、あまりに幼稚すぎるんじゃないでしょうか。

2004-02-25    TOP


芝桜

今日は上の牡丹の花壇に芝桜を植えた。ちょっと余ったがもう植えるところが無い。これでブロックの花壇がかくれて見えなくなる。
天気がいいのでチーを洗う。ニャーニャーないていやがったが、かまわず手荒にゴシゴシ洗った。室井さんに写真を撮ってもらった時はきれいだったが、どうもあれから調子がおかしくて、喧嘩ばかりして毛もボサボサになってきた。これでツキも変わるかも。

2004-02-21    TOP


土塀修理
白壁の土塀の漆喰がはがれ落ちてくるので修理中。漆喰を塗ったうえに油性のペンキを塗ってみることにする。強度が倍位違うと思う。見た目は、説明されて手でさわっても分からないだろう。
漆喰壁は大体1,2年にいちど塗り直さないとはがれてくる。雨だれの落ちるところは黒ずんでくる。ペンキを塗って仕上げておけば剥げ落ちも黒ずみもない。
こうやっていつもどこか修理をしている。

2004-02-17    TOP


Jupiter

こうやって書いていると、ほんと僕って散文的な感性ね。ポエジーも叙情もない。Jupiter平原綾香いいですね。声の感じがユーミンみたいになるのね。19歳だって。それで、あの詩。取り巻きのおじさん達は大事に育てて欲しい。


2004-02-14    TOP


光の瞑想 解説

光の瞑想に手を加えて読んだだけでも実習しやすいようにした。なにかの参考にとは思うが、細かいことや、実は大事なことでも書かずにいることなどかなりある。
大慈悲の光明が降り注ぐイメージだが、実際はかなり強くイメージできないとうまくいかない。新興宗教や拝み屋にはまった経歴のある人などは、神をかたる化け物的存在が取り付く可能性がある。伝統のあるまともな霊場に参拝したとしても、この手の存在はしつこいから、なかなか本当の仏や神に気持ちが届かなくなる。まともな仏かどうかを見抜ける人が手助けしないと、振り払うきっかけがなかなかつかめない。理屈が先行して瞑想をやっている人は色々なところに平気で出入りするから、本人が気が付かないうちに脱線してしまう。凶暴になるとか、憎しみや怒りが抑えられないとか、猜疑心が強くなるとか、精神分裂病になるとかろくなことがない。
強烈な苦痛を味わって、そこから、自分がいままで罵り嘲り凶暴な暴力をふるった相手から大きな慈愛をそそがれて救ってもらうような経験をする必要があるのかも知れない。とにかく慈悲というものがどんなものか思い知っていないと、どうもほんとうのところはうまくいかないのではないか。一口に言って、徳のある人はここのところはうまく切り抜けられる。ただ,自分がうまくいったからといって、誰でも簡単にうまくいくということではないのである。
瞑想の奥深いところは、縁のある神僧か護法善神が守り導く。偉そうに無宗教を気取っていたら危険極まりない。ハッキリとした信仰心がなくて瞑想するのは眼をつぶってラッシュアワーの高速道路を歩くようなものだ。ニューエイジふうに宇宙の善意とか大自然の心とか言っても、徳の高い祖霊がこっそり守護してくれていなかったら、ほとんど確実に狐・狸・蛇に取り付かれる。ほんとに甘くはないのですよ。
法界定印を組んで座るのは、これは仏教だけのもので、仏教の修行をしていることが明らかなわけで、神僧の加護を得て色々な魔事を避けることになる。総礼伽陀をとなえれば天台の神僧が見守ってくれるでしょう。
目に見えることさえ疑ってかかる時代ですから、このようなことを言ったところですぐに真面目にうけとめてもらえるとも思わないが、大事なところですね。それなりの徳がそなわっているか、きちんとした信仰をお持ちの方で、大慈悲というところが体得できていると突き抜けていけますので、瞑想法をここに書いておけば、いずれ何かの参考にはなるだろうとは思ってはおります。
それと、これは心のバランスを取り戻すための瞑想ですから、なにか具体的な願望をもった瞑想はしないようにしたほうがいい。それは祈願法とか祈祷法とかの類になる。今自分に本当に必要なものは魂の奥底ではわかっているので、ただ光にひたればよいと思う。この光は、キリスト教徒であれば復活されたキリストのお心です。イスラム教徒ならばアラーのお心です。漠然と宇宙の心と考えるのはお勧めしません。人間に国籍があるように、心にも住処が必要です。パスポートもなくジプシーのように心の世界を放浪するのはお勧めできません。色々な国がそれぞれの伝統と主権を尊重して地球が成り立つように、色々な宗教の伝統が共存しているのが本当の姿です。
さまざまな宗教紛争は、地上にある、宗教が生み出した副産物に執着するから生まれるのではないでしょうか。


2004-02-11    TOP


初薬師

今日は多喜寺の初薬師に出仕。小さな田舎の寺ですが、檀家さんも熱心でお参りしていて気持ちがいい。天台の拝み方には細かい決め事がたくさんあって、住職になっても、まだまだ覚えなければならないことが沢山あります。けっこう手順を間違えたりしますので、行事が終わったあとは、皆で反省会と勉強会になります。一年の終わりには、いろいろあった行事のNG大賞は誰だ、とか言って盛り上がります。


2004-02-08    TOP


言葉にすると

慈悲、善意、善、愛etc言葉にすると、それなりの歴史やら行きがかりやらがあって、実際ややこしい問題を引きずることになる。これらのことについて書かれた本も数え切れないくらいあるだろう。
「美しい花」はあるが「花の美しさ」はどこにあるのだろうか。「美しい花」を押し花にすることはできるし、写真に撮ることもできる。絵にも書けるだろう。それが、「花の美しさ」となると、まさか物差を持ってきて計る人はないと思うが、捉えることができるとすれば言葉位だろうか。言葉で表現したものが必ずそこにあるかというと、これが難しい。哲学的な考察は省くが、あまりあてにはできないというのが結論だろう。
余談だが、悟りの内容について、不立文字という禅宗に膨大な書籍があり、法身説法の密教に案外書籍が無いのはなぜだろうかと興味深い。
さて、ダスカロスも言っているが、塩水の「しょっぱさ」をどう言葉で伝えるのか。これは、塩水を口に含めばわかるというのが結論でしょう。で、慈悲とか善意とか言いますが、自分が先ず愛された経験がないと、どうにもわからんのじゃないでしょうか。本など何冊も読んで理論武装したところで、「絶対的な愛」を経験したことの無い人は、やっぱり「絶対的な愛」はわからんと思うよ。
それをなんとかいたしましょう、と言うのがつまり宗教の目指しているところなのであって、霊能力や超能力は副産物ではあっても目的ではないということになる。
世界は益々狭くなるが、仏教は多神教だからね、目指しているのが「絶対的な愛」なら、八百万の神にキリストとアラーを加えても別段困らないんで、唯一の神が二人も三人も居ちゃ困るだろうけど、この際表現された言葉は横に置いておいて、「この指止まれ」って言いたいところなんですけどね。

こう書いても、別に私が神秘体験を否定しているわけじゃありません。神秘体験から先に書くと、どうにも誤解されてしまう恐れがありますんで、念のため書いてるということです。「絶対的な愛」を経験するのが本当の神秘体験、とも言えますね。


2004-02-07    TOP


那智

那智は熊野三山があって、もともと霊域だったとも考えられますが、どうなんでしょうね。私は、霊域と呼ばれる地域は日本全国にたくさんあるわけで、熊野はそのうちの一つということでいいと思います。それが、中心に青岸渡寺があるので熊野はこれほどの霊場にはなったということじゃないでしょうか。滝と青岸渡寺が周辺の神域と組み合わさって渾然とした熊野信仰になったと。皇族の熊野参拝も根源に観音信仰があればこそですよ。皇族の往来があったので枝葉も茂ったと。明治以降は熊野地方でも仏教の破壊が深刻に行われましたから、成り立ちについては近年になって神道よりにかなり脚色されたんじゃないの。まあ、このへんの議論をしたい人は好きなようにやればいいですけど。こんど世界遺産になるそうですが、高野山と熊野をこじつけて合体させるので、「信仰の道」とか言ってかなり無理をした政治的屁理屈を考えだしましたから、また議論がややこしくはなるね。
で、その青岸渡寺ですけど裸形上人といってインドからの渡来僧が那智の滝で修行を始めたのが、そもそもの始まりです。なさけないことに名前はわからないらしい。インドではこちらの鎌倉時代位の時のグプタ朝までに、完璧に仏教は消滅するわけで、心有る仏教徒は忍び寄る仏教消滅の危機を肌で感じて、伝導に活路をもとめていった、というか、海のかなた大陸のかなたに出かけようという心を持ったほんの一握りの僧侶だけが結果として生き残ったというわけですな。裸形上人は観音信仰を伝えたわけでが、観音信仰がインドのどのあたりで盛んだったか、今となってはよくわからんわけです。如意輪観音は密教の仏ですから、後期密教のあったナーランダーか、そのあたり。いずれにしても、爛熟した仏教がもたらされたということになります。紀三井寺もインド渡来僧の為光上人が始めていますが、インドから黒潮にのった渡来僧が、多数東の海を目指したのは間違いありません。で、那智は裸形上人の心と滝と三山の神力があいまって世界有数の霊場になったと。
ちなみに、熊野三千六百峰ともいわれる深山幽谷に囲まれた中に那智山があります。那智の滝は高さ133mで日本一。水源の那智山原始林は国天然記念物。青岸渡寺は西国三十三ヶ所の第一番札所。那智大社には桓務天皇の書いた日本第一大霊験処の偏額がある。山裾の熊野灘の黒潮を望む海辺には勝浦温泉があります。


2004-02-04    TOP


節分

那智の節分の祈祷の手伝いに行ってきた。朝4時半起床。5時勤行。7時からご祈祷。千人以上の方のご祈祷をした。私は毎年太鼓を叩く役。霊界や超能力とは無縁の世界ですね。素朴で真面目な信仰の世界です。


2004-02-03    TOP


善意があるか無いか

今、膨大な数の心霊、超心理、超能力、死後生、転生、霊界などの本が出版されている。人間には霊的部分があるから興味が湧くといえばそれまでだが、不思議な体験をしたことのある人は結構多くて、ちゃんとした説明を求めているともいえる。
こういうものにハマルのは現実逃避だ、という指摘は昔からある。作り話にだんだんと念入りな尾ひれがついたと考えている人も多いと思う。科学的、あるいは唯物的な態度が発見されてから、つねに科学は非科学的なものの挑戦をうけてきた。たいていは科学が勝つのだが、たとえば、生きがい・善意・愛情・憂鬱・憎しみ、などなど非科学的分野はたくさんある。向神経薬などでかなりコントロールができるらしいが、限界はある。また、実際に不思議な経験をした人は、誰かに話すか話さないかだけのことで、経験自体を否定することはできない。
私は、この手の話は、真実と、善意の勘違いと、悪意のある作り話が交じり合った状態にあると考えている。
ヒーリングが出来る、チャネリングが出来きる、オーラが見える、未来予知が出来る、などの人がいるということだが、こういう人たちを霊能者ということにして、はたして霊能者が善意ある人かどうかということを考えてみたい。
霊能者は人間にもともとある感覚の領域が広がった状態の人達だ、とはいえないだろうか。第六感ともいえる感覚でとらえたことをネタにして宗教を考え出す人もいる。人々を救う人もいるし、だます人もいると。霊能力はつまり能力だから、それ自体に倫理的な意味は無いと考えるべきだろう。オリンピック級の身体能力があっても、人格高潔かどうかは別の問題である(立派な人が多いとは思いますが)。
自分の第六感で感じたことを説明するとき「えもいえぬ」とか「筆舌に尽くしがたい」とか言わなければ、その人は知っている限りの世界観で自分の経験を説明しようとする。したがって文化的背景が、たとえば一神教的か多神教的かで物語りはかなり違ったものになる。感覚というものはもともと主観的なもので、同じ気温でも寒いと感じる人もいれば暑いと感じる人もいる。第六感で感じたことの説明は、同じことを経験していても内容が違ってくることがあるということになる。食べ物の好き嫌いと似ている。霊能者の話を色々聞くよりは、自分の第六感で直に経験するのが一番手っ取り早いとは思う。
皆さんの第六感が開発されてくれば、自然と嘘は淘汰されるでしょう。
で、私は霊感のある人は霊感を大事にしてお暮らしになったらいいと思いますが、そんなことより善意があるか無いかの方がより大事だと思っている。霊感に程度の差があって、まるで「ゼロ」から「凄く強い」までの人がいるとして、その人達が善意を追求して生きるのか、ボンヤリと流されて生きるのか、悪意を隠して生きるのか、が大切なとこだと思う。
それはまた自分自身のことでもある。霊感を追求するのと、善意を追求するのは別の問題である。宗教ということで言えば、カスを取り除いて煮詰めて蒸留して結晶として取り出したのが、「善意の追求」ということになると思う。
来世があると、ありとあらゆる傍証を挙げても、死んで見るまで結論はでない。どんな聖者とつきあっても、三度の飯は自分で食べなければならないし、かわりに便所にいってくれるわけでもない。至れりつくせり何不自由なくても、「生きがい」だけは自分で探さなければならない。
それにしても、誠実で一生懸命な霊能者の方々のことを思うと、私なんぞ住職をやってられませんわな。「善意に満ちた霊能者」、こりゃもう鬼に金棒です。ただ、実際とんでもない勘違いした奴が多いということでね。皆さんも、能力というのはわかりやすいんですが、善意というのはなかなかわからん時もあるので慎重にお願いします。
どうやって見分けるかって。そりゃ、あなたの人生の年輪で感じるしかありませんよ。


2004-01-30    TOP


カルマは「お金」のようなもの

カルマの問題は奥深く難しい。カルマはある、ってことにすると、良いカルマを溜め込もうって動きが出てきて、それがかえって我執を増長する。せっせと良い事をするのだが、自己にたいする執着は益々強くなる。カルマは無い、ってことにしたら、説明のつかない事が多すぎる。
カルマは「お金」のようなもの、てのはどうだろう。溜め込んでリッチになるのは結構だけれど、ガリガリ亡者はいやよって。貧乏もそれなりに楽しい。「お金」はいらないって偉そうに言うけど、ほんとにこだわりが無いなら、どんなに「お金」があっても平常心でいられるし、無ければ無いで気楽だよってね。
「お金」はあるに越したことはないが、大事なのは「稼ぎ方」「使い方」だろうね。まあ、生き様ですね。生き様が真っ当なら、自分だけでなく回りの人も幸せになる。そこが天国か地獄か、ってことより溌剌と充実して生きてるかってこと。いつでも稼げるってわかれば、「お金」なんか無くても平気。でたらめしなきゃ、心配しないでも自然と天国に行けると思いますけどね。
失敗や間違いはよくあること、悪気がないなら反省してやりなおせばいい。悪事が露見したということならば、それなりに学ばなければならない、ということですよ。どっちにしても、今ある環境から学んで、良いほうに向かおうとしなければ行くあてがない。


2004-01-21    TOP


イラク

国連決議無しで始めた戦争。大量破壊兵器は出ず。戦争終結宣言から後の戦死者の方が多い。そこへ、「安全な地域」と言う理屈でまともな交戦規定の無い自衛隊が行く、、、、、、、、と。戦争は終わっているって勝手に言ってるけど、向こうはまだ聖戦継続中よ。
知ってますか、自衛隊の危険手当、日額3万円で志願をつのり、志願が集まったところで2万4千円に減額した。敵を欺くには先ず味方から、ですか。大量破壊兵器の証拠を見た、ってあたりから嘘が始まっていたんでしょうな。
日本の安全のために自衛隊は必要だと思ってますが、日本の領土から出たところで活動するなら国連決議に従うべきだよ。まだ、憲法9条があるんだから専守防衛じゃなかったの?屁理屈にもならんような理屈を積み重ねて、戦争に突き進むわけね。世界中に大量にある戦争の道具のことを考えたら、こりゃ-いずこの国も、いずれ全部持ち出して使うんでしょうな。とにかく戦争を放棄したって言ってる国でさえ、もっともらしい理屈つけて戦争始めるんですからね。戦争を放棄してない国は戦争始めて当然だわな。
あーあ、これで日本の憲法などだれも信用しなくなるだろう。
日本は国連の枠組みを尊重する
敵国条項をはずして常任理事国になったら国連軍に参加する
国連決議が得られれば憲法の範囲で自衛隊を出す
これじゃだめなんかね。どの国も国連を無視するようになったら、いずれハルマゲドンになるよ。


2004-01-21    TOP


メッセンジャー ストロヴォスの賢者への道


面白かったー一気に読んでしまいました。
この人本物よ。うーん不満を言えば、仏陀の涅槃を「無」だということにしていますが、仏教を知らない読者のために説明しときますけど、涅槃のことを書いてあるお経である涅槃経のテーマは「一切衆生悉有仏性(すべての生きとし生けるものには仏となる性質がある)」ということと「如来常住(仏は不滅である)」の二つなのです。「無」は書かれていません。また「常・楽・我・浄」を涅槃の四徳と言います。誤解無きように願います。まさか、これも誤訳にされちゃうの?キリスト教文化圏の人とかニューエイジとか言われる人は、どうも仏教について無知な人が多いのが一般的な特徴ですね。幸か不幸か、仏教を知悉していてコケにしてる人はいませんな。知らんとイメージだけで評価してる。
それはさておき、あーこの人、生きてたら会いたかった。日本は面白いところだから生まれ変わってこないかな。密教についても学べるよ。天台は釈尊起源の密教で、真言は弘法大師起源の密教になります。天台は仏教全体の流れの中で密教のイメージがつかめますが、話の合う友達がいるのは真言かもね。
人は皆、神への道を歩まないと、苦痛から開放されることはないのですが、ヒーリングという行為は最終目的と言うよりはその道程の一部でしょうね。とは言え、ダスカロスにヒーリングが無かったら、彼の世界観や教説はただの妄想としか思われなかったでしょうけどね。弟子の人たちはがんばって教説を伝えていって欲しいです。しかし、ヒーリング無しでどれだけ教会の権威に立ち向かえますかな。難しいところです。
「祈祷師の狂い死に」って言葉があるんですが、生半可な祈祷をしてると、終いに発狂するか奇病にかかって死ぬことがあるんです。皆さんは本を読んだ位で簡単に真似できると思わないほうがいいよ。


2004-01-19    TOP


蛇にピアス 蹴りたい背中

蛇にピアス蹴りたい背中ですか。
新感覚新しい感性ですよね。
オッチャンみたいにくたびれてくると、こう、どうも誰もやらなかった題材の新感覚ってのは食傷気味なのよ。やっぱり閉塞感はそのまんまですね。「あ、そ」てな感じでね。
トム・クルーズがラストサムライでリスペクトをテーマにしたけど、あーゆーのは日本にはないな。感覚・感性だけじゃ人生をつき動かすような感動には出会えないんじゃないの。衛星誘導の兵器で世界史を力ずくで塗り替えちまえって時代に、日本人のチマチマした感覚には笑えてくる。
砂漠の真っ只中で一人ぼっちになってどっちいくべえかって時に、手のひらの指紋の陰影を耽美するって趣ですかね。


2004-01-18    TOP


エソテリック・プラクティス

仏教の欲界・色界・無色界によく似た概念があるんですね。瞑想してると同じようなことを感じるのかな。東洋の瞑想についてはあんまり知らないみたいですけどね。
密教から見れば、この人のやりかたは素朴で実践的な技術ですね。でも、チャクラについては密教ではあんまり言わなくなってしまったんですよ。自分の肉体的な力を、神秘的な力の源泉のように扱うようになってしまうんで、ま、我執というアリ地獄にはまってしまうのですな。イメージを作る前に、イメージが神の御心から生じるように、って祈りを入れたらいいんじゃないでしょうか。この人天才だからいちいち書かなかったんでしょうね。
宗教の理論というのは反論されないように飾り立てて、細かいところも辻褄があうようにして、いずれ真実とかけ離れた空想的でややこしくて陳腐なものになってしまうもんですけどね。こういう実践主体の人にしては理論的なことを色々考えているほうですね。それにしてもこの人、よっぽど前世で腐った宗教家をたくさん見たんだろうね。ご苦労なことです。
なんの話かって。
ダスカロスのエソテリック・プラクティスです。
メッセンジャーはこんど読むつもりです。
それから一言。
無償でヒーリングしたって経歴の部分でたびたび強調されてますが、あんまりこだわってると怪しまれるよ。あなたも明日から無給で働いて、善い事したつもりになったらどうですか。イチローや松井は高いギャラとってるけど、彼らは卑しい人間?心臓移植の手術に金がかかるってよくカンパするけど、医者が手術するのに金がかかるのはとんでもないこと?大きなお寺が拝観料とってますが、文化財の維持に最低限の平等な負担を求めるのは許せないこと?善い事したって、金のかかることはいろいろあるのですよ。ガンジーの説教聴いたら、聴衆は身に付けていた金銀や宝石などの装身具を全部ガンジーに布施してしまったそうですけど、ガンジーは聖者失格?変なたとえかな。


2004-01-15    TOP


サプリメント

サプリメントをかなり研究してる。研究といっても動物実験を繰り返してるのじゃありません。本をそうね40冊位読みましたかね。朝鮮人参がいい、プロポリスがいい、アガリスクがいいとか色々あります。それぞれごもっともです。で、私がたどり着いたのが分子栄養学。何じゃそれは?ってですか。三石巌ってご存知ですか。Amazonなどで検索してみてください。パーフェクト・コーディング理論とカスケードモデルが理論の骨格です。パーフェクト・コーディング理論とは、細胞なり内臓に必要な栄養素を完璧に補給すれば、完璧な健康により近づくという考え方です。いろいろ食べているようで、健康にとって本当に必要な栄養素が十分摂取されていないので、これを補えばヒトのDNAの限界である120歳位までは無病息災に暮らせるということなのです。カスケードモデルとは必須ビタミンなどを摂取した場合、一番必要なところから徐々に使われて、いろいろな効用をもたらすが、摂取量が少ないと全部にいきわたらない、といった考え方。ここらへんがつまりメガビタミン主義のよりどころとなるわけです。どうせ副作用がないなら目いっぱい摂取しとけ、と。ガバッと必須栄養素を補給しとくと、体質や遺伝の違いを超えて、DNAの限界性能が引き出せるというわけです。
研究するようになったきっかけは、身の周りの人で中年過ぎに突然死する人が多いのですよ。頑健な人がね。これは、いくら拝んでも全く無力ですね。死を受け入れなさいとか、そういう方向にいくかというと、まあ、そんな簡単に死ぬわけにはいかないでしょ。知ってると知らないとでは、そうね、肉体のパフォーマンスが10%から20%は違うのじゃないですか。
ああ、ですから精神的に不安定だとか気が滅入るとかの場合は、まず十分な栄養が摂取されているかどうか疑ってくださいね。


2004-01-14    TOP


ラストサムライ

下の子と、マレーシアの子と三人でラストサムライを見に行った。すんげーお寺が出てきて、まさかこれもセットかよと、ハリウッドに肝を潰したが、あれ書写山なのね。納得。アカデミーとったら、レセプションをスター総出で書写でやったらいい。
ちなみに書いときますが、書写の開山は性空上人、うちも伝説では性空上人開基なのです。トム、次はうちでロケしろよ、待ってるぜ。
マレーシアの子も感動してたよ。トムありがとう。


2004-01-09    TOP


勘違い

国宝など指定文化財があると、なんでも行政が面倒見てくれていると勘違いしている人が多い。
文化財所有者は公務員じゃありませんから、お金を貰おうと思ったら大変な努力をしなければならないのは、皆さんと同じなんです。すべての関係する行政担当者に陳情を繰り返し、時には知事や町長に直接陳情もします。行政の担当者は担当者で、内部の稟議を通すのに、これまた大変な努力を重ねるわけです。補助金を貰うと一口に言いますが、つまりは税金の分配の取り合いなわけで、道路を作るか学校を直すのか文化財を保存するのか、せめぎあいは常にあるわけです。文化財保護法という法律がありますが、これは「補助金を出すことができる」という法律で、自動的にお金を貰えるわけじゃありません。自分のお金で修理するといっても、国宝の場合は文化庁長官の許可がないと修理事業はできません。なかなか一筋縄ではいかないんですよ。


2004-01-07    TOP


ホームステイ

今、マレーシアの17歳の男の子がホームステイに来ている。マレーシアの子はこれが二人目。ペルーの大学生。ロシアの女の子もホームステイしたことがある。
みんな英語が上手ですね。これからますます国際化が進むでしょうし、社内の会議を英語でやるところも増えてきているけど、日本人の英語は相変わらずお粗末ですわ。日本の英語教育っていったい何を目標にやってるのかね?大学受験ですか?大学行くのは何のため?先生方は生徒にちゃんと使える英語を仕込んで送り出してくださいよ。
まあ、日本語でもちゃんと挨拶できないのがいるんだから高望みかな。


2004-01-05    TOP