仏教ロジックの模式図

まとめのような事を書こうかと考えていて、模式図にすることにしました

もっと美しく書きたかったのですが、めんどくさいのでこの程度のものでご勘弁ください

 
仏教は基本的に、意識が世界を把握している、と考えています
唯識観ですね

「三界は唯心の現すところ」とも言います

それを大まかに図解したのが下図です
ファイル 75-1.jpg

 
 
 
赤線がマナ識で、自他の境界を作ります

ピンクが感覚器官で、ピンクの線で「感覚の範囲内」の外界を認識します

緑の意識によってアラヤ識に蓄えられます

アラヤ識は、感覚器官の限界とマナ識によって脚色され、完全に外界と同じにはなりません

死は、眼耳鼻身が消滅した状態です
意識、マナ識、アラヤ識はどこまでいってもなくなりません

実は、青い線の感覚も、あります
第六感ですね、霊感でもいいです
神通力にもなりますが
アラヤ識を通過するため脚色され、妄想、誤謬、錯誤、などから離れられません
また、強弱、深浅があります

そして、感覚器官が認識している外界は、どこまでも繋がっています
それが如来蔵で、すべてひっくるめて法界とも言います
 
 
そういう意識が無数に存在しています
ファイル 75-2.jpg
近くの意識とは相互作用が強く、似たようなアラヤ識をもちます

近くとは、家族、友人とか、宗教、伝統や民族、あるいは、人、動物といった種のグループもあります


マナ識で境界が区切られた中に、意識があるうちは、因果応報から逃れられません

肉体がどんなに強くても、感覚が鋭くても基本構造は同じことです
青い線の霊感が強く深くても変わりません
 
 

それで、仏教の目的は

ファイル 75-3.jpg

意識の中心が「マナ識の外」にあることです

マナ識があって、意識が外にあるのを菩薩
マナ識が消滅して、意識があるのを如来と言います
 
これで、たいていの事は説明がつきます 
 
 

因果応報  自分(如来蔵)にしたことは自分に帰ってくる

輪廻転生  意識、マナ識、アラヤ識は死によっても無くならない

異なる神秘体験  アラヤ識によって脚色されます

異なる宗教  意識が勝手に創作します

悪意のある霊  アラヤ識がねじ曲がっています

自由  意識はなにものも束縛されない

などなど

 

----

よくある間違い

「偶然は無い」  意識は自由だから、偶然はある

「輪廻によって学ぶ」  何回輪廻しても、意識の在処が問題

「因果応報からは逃れられない」  意識によって変えることも出来る。懺悔し反省し改めることで変わる

「波動を上げる」  波動は印象に過ぎない。基本構造を変える必要がある

「神は永遠」  マナ識(我)があるうちは、いずれもとに戻る

--------   

 

識の分類ですが

眼耳鼻などの感覚器官と意識は、特に説明がなくてもそれが在ることはご理解いただけると思います

で、マナ識とアラヤ識ですが、アサンガ(無著)やバスバンドゥ(世親)が理論的に構成した哲学的観念という見方もできます

唯識論は弥勒菩薩からの教示をうけて作られたことになっていますから、まあ、ただの屁理屈ではないのでしょうけど
それにしても、精緻な理論が組み立てられています

現代の脳解剖学や脳機能科学との整合性も気になるといえば気になります
マナ識は、いったいどこにあるのか
といった問題ですね

辻褄合わせを優先すると、わけのわからない屁理屈になってくるので、僕は好きではないです
 
 
 
それで、僕なりに、マナ識について言えば

「見る者」と「見られる物」の分離をさしているんじゃないかと考えてます

「見る」と「光や形」
「聞く」と「音」
「嗅ぐ」と「臭い」
「味わう」と「甘い、しょっぱい、酸っぱい、にがい、旨い」
「皮膚の感覚」と「暑い、寒い、痛い、など」
「考える」と「楽しい事、怖い事などの、事」

これらは、「自分自身」と「観察対象」であり、当然、別々です

単純化して言うと

 
今、モニターの字を見ています(眼)
その字を読んでいます(脳の働き)

眼をつぶっても、そこにあるモニターが無くなってしまったわけではありません
でも、眼をつぶれば、モニターにある字は読めません

ま、脳の働きによって認識されたモニターと、そこにあるモニターは別々です、分離ですね
この分離が解消される、というのが仏教独特の部分です

この分離は、人が見ることによって引き起こされています
で、単に見るだけでなく、そこに心が介在してます
それで、この分離現象を「マナ識」と命名した

心によって分離しているから、心によって分離が解消される、ということですね

 
 
さらに言えば

モニターにサンスクリット語が書いてあると、
ファイル 77-1.jpg
なんの意味かわかる人は、ほとんどいません

でも、僕はわかります
これはサンスクリットで「識」の意味です
(アラヤ識をつかって認識しています。記憶と言うのが普通の言い方ですね)

当然ながら、記憶は各人まったく別々で、各人各様に様々に意味づけされています
脚色もあれば、勘違いも、妄想もあります
そして
昨日も去年も、記憶の中にあります
東京も大阪も、記憶の中にあります
記憶をアラヤ識として考えると、アラヤ識の中には時間も空間もありません


アラヤ識そのものは、記憶として思い出される前は、「見る、見られる」に分離してませんから、個別でありながら他者ともどこかで繋がっている、と仏教では考えられています
不思議な部分です
これは、瞑想などで検証された、ということだと思います

身近な人と、似通った神秘体験をしたりするのはこのせいかもしれません
幽霊が怖いのも、霊がもっている死んだ時の恐怖の記憶が共有されるんじゃないかと、僕は考えてます

  
 

 

それで、この模式図から、じゃいったい我々はどうしたらいいんだ、という教訓を導きだすとしたらどうなるんでしょうか


 
図の上では、「意識」をマナ識の赤線の外側に出すように書きましたが
つまり、「見る」と「見られる」の分離を越えます
 
 

お釈迦様の出家の動機は「苦の滅」です

極めて大まかに言うと、「自分」が存在するかぎり、喜怒哀楽、苦楽、幸不幸、禍福、からは逃れられません

で、マナ識こそが、自分と他者との境界線です

じゃ、マナ識が無くなればそれでいいのか、ということです
境界線がなくなれば「自分」は無くなり、苦も無くなりますが楽も無くなります


「見る」と「見られる」の分離(マナ識)の中に「意識」があるということは、私利私欲、自己中、独善があるということです

 
マナ識を越えるということは

慈善事業など人の為になることをする、という事ではありません
外には、自分と他人という境界線が無いんですから

自己犠牲でもありません、自己という自分の外ですから

無心でもないんです、有るとか無いとかは自分の中の問題ですから

いわく言い難し、なんですが

それが、仏教で言う、慈悲です  
 
「忘己利他」とはうまいことを言うなあと思いますよ
僕は天台ですけど、身びいきで言うんじゃありませんよ

「己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり」伝教大師

捨身供養でもなければ、滅私奉公でもないんです
忘れるんです
捨てないし、滅しません

平等、互恵、共存共栄、共生です
 
 
 
そして、「意識」が分離の外にあるということは、感覚器官で認識された「脚色された情報」ではないナマの情報に接するということです

つまり、智慧です

感覚器官からの情報、知識や学問は、智慧の一部分ではありますが、その根底にある真実への洞察が必要です

私利私欲、溺愛、勝手な思いこみなどにとらわれていたら、洞察は生まれません

もたらされた情報の、本質を把握するのが智慧です

 
 
それで

慈悲と智慧

でもいいんですが、一言で言えないか、ということで「菩提心」という言葉が仏教にあるんですが、一般的ではないですね
「菩提心」には、向上心も含まれることになってます

「苦しみ」がある限り、どうしても、「慈悲と智慧」が必要です

全ての生きとし生ける者の苦しみが無くならない限り終わりはない、とハッキリ自覚するのが「菩提心」です
 
 
まだ続きます

とっくの昔から、この菩提心を持って活躍してるのが、菩薩であり仏です

神と呼ぼうが、守護霊と呼ぼうが同じことですが、いちおう仏教のテクニカルタームです(^^)

まあ、仏教では、菩薩と神は違うと考えてますけど
神は霊界の存在ではありますが、菩薩のように完全に自覚してはいません
僕らが、自称菩薩であっても、あるときは間違い、怒り、欲に負けるのと同じように、煩悩があると考えています

 
で、菩薩や仏の助けを積極的に受けよう、と考えてるのが密教です
菩薩や仏は、肉眼に見えませんから、秘密仏教という言い方をせざるを得ないわけです


  
 
ファイル 78-1.jpg
十八羅漢図 右側部分 長保寺蔵  絹本著色 室町前期

 

 

僕の模式図では、緑色の部分は如来蔵になってますが、見る前の世界ですね

天台的には「実相」です
感覚器官などを通してマナ識の中で作られるのが「造境」です

「意識」がマナ識の外にあれば、実相と造境がひとしくなります

(一でも異でもなく、同でも断でもなく、生でも滅でもなく、去でも来でもない)であり(諸法実相)であり(空でも仮でもなく、同時に、空であり仮である)です

「実相」は仏界であり霊界であり、全ての心有る者の世界です
時間も空間も無く、どこまでも繋がっています

こういうところを説明したくて、クラゲになりました


実はもっと美しい模式図があります
 

曼陀羅です
 


前五識(眼耳鼻舌身)、意識、マナ識、アラヤ識を

不空成就如来、阿弥陀如来、宝生如来、阿しゅく如来に配当(金剛界曼陀羅)

天鼓雷音如来、無量寿如来、開敷華王如来、宝どう如来に配当(胎蔵曼陀羅)

真ん中の大日如来は曼陀羅の全ての徳を合わせ持っています

 
 
ファイル 79-2.jpg
種字金剛界曼陀羅 成身会
 
 

一番美しい、尊形胎蔵曼陀羅の中胎八葉を例にしますと

ファイル 79-1.jpg

ちょっと見にくいですが

普賢菩薩が慈悲
文殊菩薩が智慧
観音菩薩が現世の福徳
弥勒菩薩が来世の安穏

を受け持っています

花弁の重なり具合も計算されていて完璧な世界観になっています

曼陀羅そのものは、もっと大きなものですから、意味の解釈ということになれば、かなり大がかりな深淵なものになってきます

これでもか、という位、様々な教えが凝縮しています

四方の如来は重複して意味が与えられていて、

たとえば
成所作智(前五識)、妙観察智(意識)、平等性智(マナ識)、大円鏡智(アラヤ識)、法界体性智(大日如来)
これを転識得智と言います
迷いを離れると(転識)、悟りに至る(得智)という意味です
 

曼陀羅図については、こちらを参考にしてください
http://www.chohoji.or.jp/dharma/butu2/buppou.htm

 
これが、真言では金胎両部が必要、になって、天台ではさらに法華曼陀羅も拝みます

これだけ、美しく、完璧に図示しても、充分に説明しきれないということでしょう

まあ、僕の緑クラゲよりは、ましかもしれませんが
曼陀羅を参考に日常生活をするのは、ちょっとややこし過ぎて無理かもしれませんね

それで、念仏、禅、題目といった単純仏教が鎌倉時代になって考案されたということです
これで実用上間に合いますからね
 

  
 
さて

なんだかんだ言っても

自分はどうなのか、ということに尽きるのです

どんなに偉い仏様や神様でも、自分のかわりにご飯を食べてくれるわけでも、かわりに便所に行ってくれるわけでもありません

ちっぽけな自分と向き合っていくしかないのです

お忘れなく

 

 


前のページに戻る
最初のページに戻る
長保寺の紹介
長保寺の法宝
聖地巡拝
長保寺と紀州徳川家
歴史の散歩道
参拝案内