長保寺には歴代藩主の墓があります。広さ一万坪の本堂裏手の山腹に、五段構えになって広く展開しています。(国指定史跡)

長保寺絵図面吉宗当時の長保寺絵図

初代・2代・3代・4代・6代の藩主の墓碑の前後左右、台座にも全く何も刻まれていません。これが長保寺の墓碑の大きな特徴です。(5代藩主は吉宗。吉宗は22歳で紀州徳川家5代藩主となり、33歳で8代将軍となったため廟所は東京の寛永寺にあります。)

2代藩主光貞(吉宗公の父)の墓碑 長保寺廟所 81kb

  墓碑には何も書かれていません

なぜこのような事をしたのか記録が残されていないのではっきりした理由はよくわかりませんが、ひとつには、高貴な身分の者は他と墓を区別する必要が無いため墓碑銘を刻まない作法があって、これに倣ったためと考えられています。(歴代の天皇の御陵には必ず墓碑銘がありません。)大きな石は御神体だから傷をつけないという思想もあったようです。

紀州徳川家の言い伝えでは、万が一、戦が起った時、簡単に墓が敵に暴かれないよう用心のため、どこが誰の墓かわかりにくくするためであったと言われています。しかし、大きな石ですから、偉い人の墓だということはすぐ見当がつくわけですが、沢山いる家臣の者に、「回りが敵に囲まれているから油断するな」という気持ちをはっきりと伝えるためでもあったのでしょう。
江戸時代にはどこが何代藩主の廟所かということは、住職だけの秘密事項でした。近在の者も1年のうち8月15日一日だけしか参拝が許されませんでした。


6代藩主は吉宗が将軍になったとき西条藩から養子にきて紀州の留守番役になりました。紀州出身の吉宗が将軍になっても6代藩主の墓碑銘は書かれませんでした。長く続いた戦国時代にまた後戻りするのではないかという恐怖感がどれほど深いものであったか伺い知ることは出来ませんが、墓碑銘を見る限り、かなりの恐怖心があったことがわかります。残された墓碑銘から、当時の人々の気持ちがわかるのです。
7代藩主に至り「それには及ばず」という理由で、墓碑銘が書かれるようになりました。調べてみると吉宗の子の家重が将軍を世襲した後のことです。将軍職を世襲することで、やっと徳川の世が安泰であると安心したのでしょう。

吉宗は2代藩主光貞、3代藩主綱教、4代藩主頼職と三人の紀州藩主の長保寺本堂での葬儀の喪主を務めました。長保寺の境内にこの三人の廟所を建立していますが、三人とも墓碑銘はありません。



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