9代 治貞

 享保13年(1728)2月16日6代宗直の第2子として江戸赤坂邸にて生まれる、幼名春千代。寛保元年(1741)5月14日頼淳と改める。同年12月19日従五位下に叙せられ即日従四位下に転叙され左近衛権少将に任官す、同月21日修理大夫に任ぜらる。延享4年(1747)9月27日玄蕃頭と改める。宝暦3年(1753)7月25日伊予西條家を相続し左京大夫と改称す。宝暦5年(1755)10月1日今出川三位中将公言妹千種君定子と婚礼。安永4年(1775)2月3日重倫の隠居にともない紀州宗家を相続し、賜名治貞と改め正四位下に叙せられ転任左近衛中将即日転じ叙従三位参議左近衛権中将に任官す。同月23日従三位宰相中将兼官、安永5年(1776)2月15日権中納言任官。
 治貞資性賢明にして政事の才に富み西條藩にても善政を行い治績を残し名君とあおがれていたが、紀州藩政を行うにつき、節倹を主とし勘定奉行には服部八郎右衛に財政を司らしめ、京橋口に訴訟箱を設け、下情の疎通をはかり、常に「与民偕楽」をモットーとして領民の幸を願う政治を心がけた。文武を奨励し藩校を改修して、文学軍学を藩士が怠慢ないよう諸頭役へ申渡し、儒者軍学指南の者達へも尚精出相励むよう達せられた。又倹約令を出し、殖産興業にも力を尽くし、自らも木綿衣粗食に甘んじ、極力藩費の節約に努め疲弊した藩財政の回復に努力したが、天明4年(1784)より連年の飢饉に意の如くならなかった。しかし城溝の淕渫工事をおこし収入のない者に従事させて生計の糧を得させ、藩庫を開いて米や銭を施したことが後世に伝えられる。天明の大飢饉においても領内は平穏にすごし、他藩のように狼籍をはたらく者は出なかったと伝えられている。
 治貞常に封国は朝廷幕府の預かりもので決して私の物ではなく藩主の傲慢で百姓達を虐げたりするのはこれを私物化しようとするからであると謙譲の志ひろく又「童子訓」「五慎教書」を著し学問に対する憧憬も深く、常に善政を心がけ多くの治績を残している。世に「今の世に過ぎたるもの二つあり、紀州に麒麟、肥後の鳳凰」と当時名君として誉れ高かった熊本城主細川重賢と並び賞され、公もたゝえて紀麟公と称しあがめられていたが、寛政元年(1789)10月26日在府15年領民に惜しまれつゝ寿62才にて薨去し、下津の長保寺に葬られる、従三位中納言。
  法号 香巌院殿三品前黄門心斉圓通



木国文化財協会・会長  西本正治