長保寺の伽藍に関する二、三の考察
    和歌山県立博物館 学芸員  竹 中 康 彦

和歌山県立博物館研究紀要 第3号 1998/3/31発行


はじめに

長保寺は、国宝に指定されている本堂(釈迦堂)・多宝塔・大門をはじめとする、諸堂舎によって伽藍を構成しているが(図1)、創建期から現在に至るまで、複雑な変遷がみられる。江戸時代前期までの変遷については、江戸時代に書写された古記録の写しに基づいて、次のように叙述されるのが、これまでのところ一般的である(1)。
 すなわち、長保二年(一〇〇〇)に一条天皇の勅願により性空が開山し、伽藍は寛仁元年(一〇一七)に完成した。仁治三年(一二四二)に、西から東へと移転し、延慶四年(一三一一)には本堂がさらに上壇へ移転した。天正一三年(一五八五)の兵火により、伽藍の一部が焼亡したが、寛文六年(一六六六)に紀州徳川家の菩提寺になり、伽藍の整備が行なわれた。この間、天台→法相→天台→真言(応永年間より)→天台(寛文六年より)という宗派の変更がなされた。
しかし、以上のような認識は、中世の史料が極端に少ないこと、近世・近現代の史料調査が遅れていることなどと相俟って、様々な問題があることは否定できないであろう。また、紀州徳川家の菩提寺となってから以後の推移に関しては、叙述されることは必ずしも多くはない。
 本稿では、これまでほとんど着目されてこなかった史料を援用しながら、現在に至るまでの長保寺の伽藍の変遷について整理することを目的としたい。


一 多宝塔の建立年代について

長保寺の三棟の国宝建造物のうち、本堂(釈迦堂)は一八世紀半ばころに作成された、「長保寺記録抜書」に収録されている「王代一覧抜書」などの諸記録(2)などによって、延慶四年(一三一一)の建立とされる。また、大門は主として「紀州海郡浜中庄長保寺縁起」(3)などによって、嘉慶二年(一三八八)の建立とされている。しかし、多宝塔(写真1)だけは、とくにこのような参照すべき記録がないことから、様式的にみて本堂建立の時期とほぼ同じか、やや下る時期(鎌倉後期〜南北朝時代)の建立とみなされてきた(4)。
ところで、近代以降、長保寺の建造物はほとんど文化財としての修理をうけており、その報告書を含め、関連する書類も多く残されていることが、現在継続中の和歌山県立博物館による長保寺文書の調査によって判明した。とくに、戦前の修理に関する資料については、これまであまり言及されることはなかったが(5)、きわめて重要な情報・結果が記述されている場合がある。例えば、本誌前号で紹介した明治四四年(一九一一)における大門の仁王像修理に関する件は、その一例である(6)。
そこで、長保寺文書のうち、昭和初年における多宝塔・鎮守堂修理に関する一括書類に着目してみよう。この書類群には、この時期に修理が開始された経緯や修理資金の確保などに関する公的な書類や私信の類が、現在のところ約七〇通残されている。これらを詳細に分析すれば、戦前における文化財修理の実態の一端が検出されると思われるが、ここでは、修理の経過についてのみ略述するにとどめる(7)。
長保寺多宝塔は、明治三七年(一九〇四)八月二九日に特別保護建造物に指定され、大正五年(一九一六)には修理のための補助金下附願が提出されたが、この時は認可されなかった。この間、破損が著しくなっていたところ、昭和二年(一九二七)四月二五日に和歌山県学務部より、修理費用の半額を負担できる寺社から優先的に修理を行なうという古社寺保存会の方針が伝えられ、自己負担金を確保した長保寺は、同年六月二〇日に、県を経由して文部大臣に多宝塔と鎮守堂の修理補助金下附願を再び提出した。同年九月末に補助金が交付され、一〇月一四日に県に修理工事を委託、翌年二月一一日に工事に着手して、同年一二月一一日に工事完了・引渡という経過をたどった(8)。
以上の修理工事について、昭和四年五月一四日付で長保寺住職瑞樹定海ほかが、文部大臣に提出した事業報告書(竣工届)の控が、「長保寺特別保護建造物多宝塔並鎮守堂修理工事精算書」という書類である(写真2)。これは、美濃判大の冊子(袋綴)で、署名の頁を除いて、罫紙にカーボン紙で謄写したものである。内容は、修理工事費収支一覧表・各工事区分の実施仕様書・工事費増減比較表・支出の内訳・工事資金銀行預金利息などであるが、末尾の二頁分に、付録として、きわめて重要な内容が記されている。以下、できるだけ原本にしたがって引用してみる。(□や…の記号は原文のまま)

一、中心柱ノ発見シタル墨書左ノ通リ
長保寺御塔修營□舊□□□□勧進諸人因下檀
遷□所奉修造之也 是偏聖朝安穏國土泰平
御本家領家當寺別当并預所六口供僧諸僧

将又勸進弘法経僧衆施主結縁助成之族先師
弘眞祐深□□一□□父母六親人民等
一切如来必神秘密全身□
執事 盛増
補瓦葺仗〓
勸進盛人□□正平十二年丁酉十月三日
寺□…□□敬白

ヒワ〓 〓 日諸壇施主六口供僧衆徒等
勸進聖人〓〓門徒阿闍梨□□
大工藤原有次□□□□□
鍛冶 沙弥□圓
藤原光眞
勸 進 増
□祐 □□□□
大工……………
□四枡左衛門□

「中心柱」とあることから、これは多宝塔上層の心柱に墨書された建立願文であると思われ、解体修理の際に発見され、重要な史料であるという認識のもとに報告書の末尾にとくに掲載されたものであろう。誤写をうかがわせる部分が多く、改行の位置や解読不能な文字の表記についても不審な点があるが(□は一文字分、…は文字数が不明ということを示していると推測される)、竣工届として文部大臣に提出した書類の控であるから、捏造された記述である可能性は低く、内容的には非常に重要な情報を含んでいる。しかし、この墨書銘に関しては、不思議なことにこれまで公にされたことはなかった。
近年、ようやくこの墨書の存在が認識されるようになってきたが(9)、このほど赤外線カメラによる調査を行う機会に恵まれ、以下のような墨書銘文を実際に確認することができた(写真3)。
 
 (南面)
□拾二年□□十月
御本家領□□□下并六口供僧□□人□□□□□□□
  諸人兩□□□□長□□現世安穏衆生善處二就西□□□
□□□□父母并本□□□聖霊也此儀祐實乃至四恩□親□□
□□□□□之
(西面)
□□□□□諸人因下壇遷築所奉修造之也
  是偏聖朝安穏國主泰平御本家領家當寺別当并預所六口供僧諸僧等
  将又勧進弘法経僧衆施主結縁助成之族先師弘真祐深□□一□□□
  此等 □□所之再願成就圓満而己
(北面)
 □□  因諸壇施主六口供僧衆徒等勧進聖人祐深門徒阿闍梨□□
      大工藤原有次□□□□□
        沙弥法圓
      鍛治
      藤原光真
(東面)
      執事盛増
      □瓦上葺□□□損
   勧進盛人□□□正平十二年丁酉十月三日 □□□□
   □之 □僧入寺□□□□敬白
    □□□□

 この銘文は、前記竣工届の記載のように、上重軸部の心柱の周囲に記されていたが、上部の約一〇文字分は井桁状に組まれた貫の中に隠れており、正面から観察することができない。また、虫喰や罅割・表面の剥離のために、昭和三年以後、次第に判読不能な部分が多くなっていく傾向にあり、物理的に調査には限界があることは否定できない。一方、この調査により、竣工届の釈読記録は、現在では判読不可能な部分も割合正確に記録しているものの、文章の配列などは関係なく、判読可能な箇所を順不同で書き上げていることが判明した。そこで、この二つの判読結果を総合して、以下のような仮説を提示してみよう。
 まず、現存する多宝塔の建立年代を南北朝時代の正平一二年(一三五七)と比定できることは、江戸時代の資料に主に依拠して建立年代を特定している本堂や大門以上に、信頼を置くことができる年代となるであろう(10)。そして、この年記は、多宝塔の建立年代について、様式的に本堂よりやや下るのではないかという、これまでの大方の見解とほぼ一致している。また、下壇より遷して修造したという文言は、康永三年(一三四三)の「御影堂勧進帳」(10)にみえる「宝塔」を移転したということになろう。ただし、なぜ移転する必要があったのかという点については、延慶四年(一三一一)の本堂移転の伝承(12)とともに、これまでのところ全く手がかりがつかめない。
また、人名の中に大工藤原有次の名がみられ、これまで本堂建立を有次によるものとする説(「王代一覧抜書」)と大門建立を有次によるものとする説(「紀州海郡浜中庄長保寺縁起」)とが存したが、年代的に考えると延慶四年の本堂建立を有次によるとするのは、無理であるように思われる。
次に、願文のなかにみえる本家・領家・当寺別当・預所・六口供僧といった諸職は、この時期の長保寺と長保寺の所属する浜仲庄の構造(13)を知るための、貴重な材料となる。浜仲庄については、一二世紀半ばころに摂関家(藤原忠実)から高野山谷上院谷の金剛心院へ寄進され(14)、寿永二年(一一八三)には近衛基通が木曽義仲の要請を却下して、仁和寺に金剛心院と浜仲荘の知行を元のように命じている(15)ことから、それ以前から近衛家が浜仲荘の本家職を持ち、仁和寺が領家職を有していたと考えられている。
しかし、鎌倉時代中期の建長五年(一二五三)における近衛家領所領目録では、浜仲荘は進止に及ばない旨が記されており(16)、すでに近衛家の実質的な支配力は低下していたものと思われる。また、文永元年(一二六四)には南北に下地中分され、南方を仁和寺、北方を地頭湯浅氏が支配するようになった(17)。永仁六年(一二九八)の「浜中南荘惣田数注進状写」(18)によれば、惣田数五七町三一〇歩のうち三〇町が金剛心院および仁和寺真光院分にあてられ、残りは長保寺などの寺社免田となっている。このころから、領家職を有する仁和寺の庇護の下で、浜仲荘に対する金剛心院の実質的な支配が強くなり、元応二年(一三二〇)には仁和寺真光院の御教書によって下地支配権を獲得している(19)。また、金剛心院(谷上院)内の評定(20)によって、元応元年(一三一九)に浜仲庄寺用米の相折支配を確定したり(21)、正中二年(一三二五)に「浜中庄年貢納所職」を設置したり(22)している。さらに応永一二年(一四〇五)には、仁和寺から谷上院内の引接院に預所職を宛行われたことに対して、元のように特定の預所職の名字を定めないことを評定で決定する(23)など、仁和寺から一定の距離を置くような事態にまで至った。
そして、このような金剛心院による浜仲荘支配の強化という過程(24)の中で、延慶四年(一三一一)とされる本堂の建立に始まる、一四世紀における諸堂造営を考える必要があろう。既知の資料を総合すれば、康永三年(一三四三)に御影堂造営の勧進がなされている(前掲の「勧進状」(25))ほか、正平一二年(一三五七)に多宝塔が下壇から移転・建立され、嘉慶二年(一三八八)には大門が建立されるなど、伽藍の整備が相次いで行なわれている状況がうかがわれる(26)。
ここで、多宝塔の建立願文にみえる諸職に話をもどすと、領家(仁和寺)と預所(金剛心院)のほか、形式的には本家職を有していた近衛家も意識されており、長保寺別当のほか六人の供僧が置かれていた(27)ことが判明する。ただし、荘園支配の実態を直接示す史料が、現在のところほとんど見あたらないため、他の高野山領荘園における支配との相違点(分田支配の有無など)や、どのように伽藍造営のための財源を継続的に確保したのかという点については詳らかではない。


二 長保寺十二箇坊

長保寺が紀州徳川家の菩提寺となった寛文年間までに、長保寺の子院は五箇坊(地蔵院・福蔵院・最勝院・本行院・専光院)に整理されたものと思われ、寛文一二年(一六七二)九月には、それぞれ二〇石が安堵された(28)のであるが、それ以前には十二箇坊の子院が存在していたことが、江戸時代に書写された古記録にみえる。
とくに、「長保寺記録抜書」には、この件について重要な情報が掲載されている。念のため、この冊子について整理しておくと、この史料は筆跡の異なる三つの帳面を合冊し、各々は複数の諸記録を基本的に一つ書の形式で書写したものである。文中にみえる文言から推測すると、原史料は紀州徳川家初代藩主頼宣・第二代藩主光貞・第四代藩主頼職らから長保寺の由来について調査を命じられたことに対して、収集した様々な資料を中心に書き留めておいたものと思われる。本文中で記述されている記事のなかで、最も新しいのものが享保一五年(一七三〇)に大門の前の仮土橋が流され、第六代藩主宗直の代にかけ直したという記述であり、この冊子の最終的な編集・合冊の時期は一八世紀半ばであるものと思われる(29)。
 さてこの史料の中で、南龍院(頼宣)から受けた質問に対する寺僧の回答を書き留めている部分が存する。そこには、以前の「長保寺十二坊」を羅列している部分がみられる。以下引用してみると、次の通りである。
     長保寺十二坊
一、普賢院   陽照院寺地内
一、宝光院 同是ハ十二坊之外也
一、専光院   同
  一、相応院   本行院寺内
  一、吉祥院   本行院寺地内
  一、小坊    同近年宝増院ト改其後本行院ト申候
  一、最勝院   最勝院寺地
  一、西福院   同
  一、西光院   同是ハ十二坊之外也
  一、西南院   今専光院寺地
  一、地蔵院   地蔵院寺地
  一、池之坊   同
  一、明王院   福蔵院寺地
  一、大坊    近年福蔵院ト改申候
ほぼ同様な記述は、同じ冊子の別の部分にもみられるが、この情報によって近世の五箇坊との位置関係がある程度判明する。なお、十二箇坊のほかに、別に二箇坊(宝光院・西光院)があったことも知られる。
これを、近世・近代に長保寺の境内を描いた絵図面と対照すれば、五箇坊だけでなく十二箇坊の位置を比定することも可能であろう。ここで利用する絵図は、一八世紀前半の景観を描いた「長保寺絵図面(廟所絵図)」(下津町指定文化財、写真4(30))・嘉永四年(一八五一)に刊行された『紀伊国名所図会後編』巻二に収録された長保寺の挿し絵(図2)・明治一六年(一八八三)に和歌山県の寺社古建築物調査に応じて提出された冊子(控)の「当山諸堂絵図面」(写真5)である。
 まず、紀州徳川家の菩提寺となった寛文年間以降における、五箇坊の位置を確定しておこう。現存する福蔵院の西隣には専光院がある。専光院から道をはさんでさらに西に最勝院が位置する。また、現在の下津町立歴史民俗資料館の位置には、本行院があった。以上の四箇坊については、三つの図の上では全く一致しており、問題はないであろう。地蔵院については、図2と写真5の間で差異があるので注意を要する。図2では地蔵院は鐘楼南の崖の下に描かれ、写真5では境内の南東隅の宮(布施)川沿いに表記されている。それぞれを写真4と対照すると、両方の場所に建物が描かれており判断しにくいが、他の子院の描き方(建物の前面と裏面が土塀で区画される)を参考にすれば、図2が示す位置(鐘楼南の崖の下)に描かれている建物を地蔵院とするのが妥当であろう。ただし、写真5が示す位置にも建物が描かれていることは、過去に地蔵院がもとはその場所に存したか、あるいはその場所に分散して二つの子院が併存していた事実を反映したものかも知れない。
次に、以上の結果とさきに引用した「長保寺十二坊」の記事とを用いて、近世以前の長保寺十二坊(十四院)の位置を想定してみる。この記事においては、一二(一四)の子院は近世の五箇坊の寺地との関係が注記されており、記載順に次の六つのグループに分類することができる。
  @普賢院・宝光院・専光院 A相応院・吉祥院・小坊(本行院) B最勝院・西福院・西光院
  C西南院 D地蔵院・池之坊 E明王院・大坊(福蔵院)
 ところで、前掲の「長保寺絵図面(廟所絵図)」(写真4)をよく観察すると、子院は土塀や生け垣で囲まれた敷地の中に描かれているが、その周囲にも生け垣で区画され、灌木の生えた空閑地が見受けられる。おそらく、これが近世以前の子院の跡地であると思われ、Dのグループを除いて、各子院の寺地が分散していないと仮定すれば、寛文年間までに途絶した子院も隣接した区画に立地していたと考えることができよう。すなわち、@のグループは現在の庫裏・霊屋のある区画、Aのグループは大門から本堂に向かう参道の東に接した区画、Eのグループは参道のすぐ西に接した区画、Bのグループは境内の南西隅の区画、CのグループはBとEの間の区画、そしてDのグループは本堂伽藍の南西の崖下あるいは境内南東隅の宮川沿いの区画に立地したのではないかという仮説をここで提示しておく(図3)。
寛文年間以前の近世前期における、これら子院の活動については、ほかに慶長七年(一六〇二)一一月の長保寺鎮守堂御正体の背銘(31)に「泉光院」「明王院」「大坊」など、元和七年(一六二一)の恵尊逆修五輪石塔・恵尊供養地蔵石像(32)に「最勝院」とある。また、「長保寺大門并食堂鎮守八幡宮棟札〔写〕」に引用された「大門再営由来写」(33)には、元和七年の現住の僧として「池之坊快秀」「最勝院恵尊」「宝増院快円」「専光院快智」などの名がみえる。ちなみに、同じ史料の中で元和七年の段階で「宝増院」とあり、前掲の寛文一二年の規定では「本行院」と表記されていることから、寛文一二年までに本行院への改名がなされていることが判明する(34)。
 ところで、さらに時代をさかのぼると、この十二箇坊のうち、吉祥院の名が高野山・金剛心院文書(35)のなかに登場する。この史料群は、金剛心院の唯一の所領であった浜仲庄に関わる史料を含み、そのうち最も古いものは永仁六年(一二九八)までさかのぼるが、とくに永享一二年(一四四〇)から文明一七年(一四八五)までの間において吉祥院の活動がうかがわれる(36)。
これらの史料の大半は浜仲庄の年貢勘録状であるが、この時期吉祥院が金剛心院への年貢納入について責任を有する存在であったことがうかがわれる。また、興味深い点としては、「土産」として吉祥院・浜仲庄へ銭が振舞われているほか、「東山(紙)」(高野紙)が多く贈られている点があげられる。このことは、何を意味するのかは不分明であるが、年貢勘録状の出費項目にみられるだけでなく、文安四年(一四四七)一二月の「谷上院主坊評定事書案」(37)で、「浜仲吉祥院、如先々、雑紙三束可被遣事」というように、とくに定められた事項であった(38)。
文明一七年(一四八五)一二月の「金剛心院湯料借銭日記」(39)を最後にして、仁和寺・金剛心院と浜仲庄との関係を示す史料は残されていない。この間、仁和寺も領家職を有することを盾にして、守護畠山氏との抗争関係にあったのであるが、一五世紀の終わりころには、支配が及ばなくなったものと推測されている。その後、浜仲庄は代官梶原氏によって支配されたようであるが、長保寺の動向については不詳である。「紀州海郡浜仲庄長保寺縁起」の天正一五年(一五八七)三月九日付の快栄奥書によれば、天正一三年に伽藍の一部と宝庫が焼亡したということであるが、詳しいことは分からない。
ちなみに、寛文六年に長保寺が天台宗に改宗するにあたっては、和歌浦雲蓋院の僧憲海が高野山西院谷の善集院と交渉していることから、この時点では金剛心院に代わって、金剛心院の南西隣にあった善集院との間に本末関係が存していたのであろう(40)。


三 近世・近代における伽藍配置の変遷

一七世紀の後半に、長保寺は紀州徳川家の菩提寺となり、真言宗から天台宗に改宗されたが、その時期に、紀州徳川家によって伽藍は大幅な修繕と新築が行なわれた。その内容は、棟札や棟札を書写した古文書によって知ることができる。まず、現存する棟札(41)からは、寛文七年(一六六七)に御仏殿(紀州藩霊殿)が新築され、阿弥陀堂の修理がなされたこと、寛永六年(一六二九)・天和三年(一六八三)・宝永三年(一七〇六)・享保二年(一七一七)の数度にわたって八幡社(鎮守堂)の修理が行なわれたこと、さらに享保二年には護摩堂にも修理がなされたことが判明する。
 また、棟札を書写した「長保寺大門并食堂鎮守堂棟札〔写〕」(42)「諸堂棟札写」「(釈迦堂棟札写)」などの古文書からは、上記のほか寛文七年と享保二年の釈迦堂の修理、天和三年の大門と食堂の修理などが行なわれたことがうかがわれる。このように、一七世紀の後半から一八世紀の初頭にかけて、近世の長保寺の伽藍は整備されたと言ってよいであろう。なお、元禄八年(一六九五)三月の「堂社御改書留」(43)に列記された諸堂社は、この時期の整備結果を反映している。
ところで、それ以後の伽藍の変遷については、これまであまり指摘されることは多くなかったように思われるので、ここでは、とくに大きな変動があった護摩堂と食堂を中心にして、近世・近現代における長保寺の伽藍の推移について整理してみる。
前掲の「長保寺絵図面(廟所絵図)」(写真6は伽藍の中心部分を拡大したもの)には、紀州徳川家第四代藩主頼職の墓所が描かれ、第六代藩主宗直の墓所が描かれていないことから、頼職の墓所が築かれた宝永三年から宗直の亡くなった宝暦七年(一七五七)まで、すなわち、ほぼ一八世紀前半の景観を描いているものと思われる。着目点として、@多宝塔の東に護摩堂があること、A本堂の西隣に渡り廊下で連絡した食堂があること、B本堂の南西に袴腰形式の鐘楼があることを指摘しておく。
この伽藍配置は、貞恭院(紀州徳川家第一〇代藩主治宝正室の種姫)埋葬後の寛政六年(一七九四)〜同八年ころに描かれた長保寺境内の絵図(仮に「長保寺境内絵図」とよぶ。写真7)や嘉永六年(一八五三)に描かれた「長保寺小屋等之図」(図4)(44)においても、変化はみられない。
ところが、明治一七年(一八八四)に編まれた「多宝塔及仁王門営繕食堂再建願諸記」という冊子には、「食堂再建願」という文書(長保寺住職瑞樹尭海らが和歌山県令松本鼎あてに明治一七年四月二日に提出した書類)が書写・収録されており、そのなかで食堂は「慶応二年八月暴風ノ為ニ倒破セラレ取除御座候」とあり、慶応二年(一八六六)に暴風により食堂が大破し除去されたことが判明する。また、前掲の「当山諸堂絵図面」の各堂塔の解説文には、護摩堂について「但近年及大破損候付去ル明治十年十月当住尭海等私財ヲ以修営之仕候」と記され、近年の破損をうけて明治一〇年(一八七七)に護摩堂が修営されたとあり、末尾に付属する前掲の絵図によれば、護摩堂が現在地に移動していることが分かる。ただし、付属の建築物の詳細な側面図によれば、鐘楼は現在とは異なる袴腰形式の姿で描かれている。
そして、前述の「食堂再建願」の提出によって食堂が再建されたものと思われ、明治一八年(一八八五)九月二〇日に天台宗庁へ提出された「明細帳〔控〕」には、食堂一宇が書き上げられ、末尾付属の伽藍配置図には、食堂は鐘楼の東隣に描かれている。
 以上のことから、幕末期に破損・倒壊した護摩堂・食堂については、まず明治一〇年に護摩堂が本堂西の食堂跡地に移転・再建され、遅れて食堂は明治一七年中に鐘楼の東隣に移転・再建されたことになる。ちなみに、『和歌山県の中世未指定社寺建築』(和歌山県教育委員会編、一九九〇年、一一〜一三頁)において、長保寺護摩堂に関する調査結果が報告されているが、以上の移転・再建については全くふれられていない。また、建立年代は一六世紀末にさかのぼる可能性があり、大幅な修理・改造が建立後さほど降らない時期、すなわち一七世紀中期になされたという推測がなされている。しかし、前述のように護摩堂に修理がなされたのは、江戸時代では享保二年(一七一七)であり、また明治一〇年に当初の部材(一六世紀末のものか)の大半を用いて移転・再建が行なわれた際に、大きな改変が加えられたと考える方が、上述した古文書・記録類との間で矛盾が生じないものと思われる(45)。
 なお、明治二一年(一八八八)八月三〇日の暴風雨により、阿弥陀堂と鐘楼が倒壊し、明治二二年一一月に同じ場所に再建されたことの詳細については、「明治廿壱年八月暴風阿弥陀堂并鐘楼倒壊及再建諸記」という資料によって判明する。また、修復の仕様・見積りなどの資料も一括して残されている。ただしこの際、鐘楼は以前のような袴腰形式では再建されず、鐘衝き堂の形式で現在に至っている。
 こうして成立した近代の長保寺の伽藍配置は、あらためて明治三一年(一八九八)六月二三日に天台座主に提出された「長保寺明細帳〔控〕」によっても確認できる。ただし、食堂については、昭和三六年(一九六一)九月一六日の第二室戸台風によって、子院の本行院や大門脇の大杉などとともに倒壊したため、現在は残っていない。


おわりに

約千年に及ぶ歴史を持つ長保寺には、膨大な史料・情報が残されており、未だ完全に整理されていない状況であり、これまで一般的に叙述・報告されてきた内容は、かなり一面的・部分的なものであったといえよう。今後とも、保存・活用を念頭に置いて調査をさらに発展させていく必要があるが、本稿はその中間報告的なものとして位置づけたい。諸賢のご批正を希望して、このあたりで擱筆することにする。

(一九九八年二月二二日稿) (一九九八年三月二六日補訂)


《注》

(1)社団法人和歌山県文化財研究会編『国宝長保寺本堂修理工事報告書』(長保寺、一九七二年)、四頁、安藤精一編『和歌山県の文化財』第二巻(清文堂、一九八一年)、二六四頁。
(2)下津町史編集委員会編『下津町史』史料編・上(下津町、一九七四年)、二五六〜二六三頁に掲載されているが、誤りが多く注意を要する。ほかに、「諸堂棟札写」という冊子のなかの注記には、「釈迦堂角ノ(未申ノ)木ニ延慶四年トアリ」と記されている。
(3)応永二四年(一四一七)九月二一日の年記を持つ原本を天正一五年(一五八七)三月九日に書写したものを、一八世紀前半に「慶徳山長保寺縁起并勧進状写」という冊子に収録したもの。これも、『下津町史』史料編・上、二六六〜二六八頁に掲載されているが、誤りが多い。なお、「長保寺大門并食堂鎮守八幡宮棟札〔写〕」(『下津町史』史料編・上、二六八〜二六九頁)に収録された「大門再営由来写」にも同様の記述がある。
(4)文化庁監修『国宝』14建造物U(毎日新聞社、一九八四年)、一七五〜一七六頁、など。
(5)前掲注1『国宝長保寺本堂修理工事報告書』では、一部の内容を掲載している。
(6)拙稿「長保寺木造金剛力士立像像内納入文書断簡」(『和歌山県立博物館研究紀要』二、一九九七年)。
(7)同じ史料群のなかに、墨書・謄写によって、罫紙に日付順に整理して記録された綴が残されており、工事の申請から完了までの詳細が判明する。
(8)その後、昭和二八年(一九五三)三月三一日に、多宝塔は本堂・大門とともに国宝に指定されている。
(9)鳴海祥博氏のご教示による。
(10)これは、南朝の年号であるが、この時期、紀州においては一時的に南朝方の勢力が回復し、「正平」の年記を持つ古文書が多いことから、とくに問題はない。和歌山市史編纂委員会編『和歌山市史』第四巻(和歌山市、一九七七年)、一二九五頁参照。
(11)前掲注3「慶徳山長保寺縁起并勧進状写」所収。
(12)「王代一覧抜書」(「長保寺記録抜書」)。
(13)下津町史編集委員会編『下津町史』通史編(下津町、一九七六年)、九七〜一〇五頁、『角川日本地名大辞典 30 和歌山県』(角川書店、一九八五年)、八五〇〜八五一頁。
(14)前掲注12 『角川日本地名大辞典 30 和歌山県』。
(15)「摂政近衛基通御教書案」(「仁和寺文書」所収、『平安遺文』五〇八五号、『下津町史』史料編・上、二一〇頁)。
(16)「近衛家文書」所収、『鎌倉遺文』七六三一号。
(17)「足利直義下知状案」(「仁和寺文書拾遺」所収、『紀伊国阿〓河荘史料』三五九号)。
(18)「又続宝簡集」所収、『大日本史料』家わけ一ノ四、一六八号、『下津町史』史料編・上、二一一〜二一三頁)。
(19)「金剛心院文書目録」(「又続宝簡集」所収、『大日本史料』家わけ一ノ四、一七二号、『下津町史』史料編・上、二一三〜二一四頁)。
(20)和多秀乗「中世高野山の僧侶集会制度」(『空海と高野山教団 和多秀乗論集』上巻、宝蔵館、一九九七年、初出は一九五九年)。
(21)「浜仲庄寺用米相折支配院内衆置文」(「続宝簡集」所収、『大日本史料』家わけ一ノ二、二九七号、『下津町史』史料編・上、二一四〜二一五頁)。
(22)「浜仲庄年貢納所職置文案」(「又続宝簡集」所収、『大日本史料』家わけ一ノ四、一三三号、『下津町史』史料編・上、二一六〜二一七頁)。
(23)「浜仲庄預所職置文」(「又続宝簡集」所収、『大日本史料』家わけ一ノ四、一七〇号、『下津町史』史料編・上、二二一〜二二二頁)。
(24)一方、地頭方の濫妨・非法も一四世紀中には顕著であり、仁和寺・金剛心院は数度にわたり、室町幕府に地頭の押妨を停止するよう訴えている。前掲注13 『角川日本地名大辞典 30 和歌山県』、参照。
(25)前掲注3「慶徳山長保寺縁起并勧進状写」所収。この御影堂造立が、長保寺の真言宗化の具体的  な指標と思われる。
(26)鎮守堂については、永仁三年(一二九五)再営の伝承がある。前掲注1『和歌山県の文化財』第二巻、二七〇頁参照。
(27)前掲注18の「浜仲南庄惣田数注進状写」には「番頭六人職」という記述があり、何らかの関連性が推測される。
(28)「慶徳山長保寺南龍院府君霊牌所墓地領田租并山林竹木記録」(『下津町史』史料編・上、二六五頁)。和歌山県立博物館編『長保寺の文化財―仏画と経典―』(一九九二年)、参照。
(29)前掲注1『国宝長保寺本堂修理工事報告書』七頁では、記事の下限を宝永二年(一七〇五)とするが、明らかに誤りである。
(30)和歌山県立博物館編『八代将軍吉宗と紀州徳川家』(一九九五年)、B―3。
(31)『下津町史』史料編・上、二五四頁。
(32)『下津町史』史料編・上、一五八〜一五九頁。
(33)『下津町史』史料編・上、二六八〜二六九頁。
(34)専光院の移転については、寛文六年の南龍院仏殿の建立をきっかけにし、西南院の跡地に移転したとするのが自然であろう。
(35)「続宝簡集」二一(『大日本史料』家わけ一ノ二)、「又続宝簡集」二一〜二三(『大日本史料』家わけ一ノ四)。
(36)原史料ではないが、年代的に吉祥院の初見記事は、「長保寺記録抜書」に引用された「不断念仏式奥書」(『下津町史』史料編・上、二五七頁)で、応永三二年(一四二五)に吉祥院で「不断念仏式」を書写したというものである。なお、長保寺に現存する「不断念仏式」には、こうした文言はみられない。
(37)『大日本史料』家わけ一ノ四、一三九号、『下津町史』史料編・上、二二六頁。
(38)ちなみに長保寺では、応永六年(一三九九)から同一三年まで、僧堅海が一筆の大般若経を書写している。拙稿「長保寺伝来の不断念仏式と大般若経について」(『和歌山地方史研究』二二、一九九二年)、参照。
(39)『大日本史料』家わけ一ノ四、一四七号。
(40)金剛心院は、江戸時代には大日堂と呼ばれ、谷上院谷の中心的な位置にあったようであるが、現在は残っていない。『紀伊続風土記』巻五三、高野山部二谷上院谷の項、『日本歴史地名大系 第三一巻 和歌山県の地名』(平凡社、一九八三年)、八五〜八六頁。
(41)『下津町史』史料編・上、一八九〜一九四頁。
(42)『下津町史』史料編・上、二六八〜二七〇頁。
(43)『下津町史』史料編・上、二七〇〜二七一頁。
(44)堀内信編『南紀徳川史』第一六巻(名著出版、一九七一年)、六三五頁。
(45)明治三一年(一八九八)六月の「明細帳」以降の史料が、護摩堂建立を延慶四年とするのは、大半の部材の転用がなされ、当初の姿をかなり忠実に保っていたことを示そうとした可能性がある。

《付記》本稿をまとめるにあたっては、長保寺住職瑞樹正哲師のご教示・ご協力を得た。深く感謝の意を表したい。また、多宝塔心柱銘文の判読については、財団法人和歌山県文化財センター鳴海祥博氏・和歌山県教育委員会文化財課寺本就一氏との共同調査の成果によるものである。




図1 現在の伽藍配置図 <作成>

写真1 多宝塔全景  <ポジフィルム・紙焼>

写真2 修理工事精算書(竣工届)    <紙焼>

 写真3 多宝塔心柱墨書銘赤外線写真(部分)      <紙焼>

 写真4 長保寺絵図面(廟所絵図)           <紙焼・ポジフィルム>

 図2 挿絵「慶徳山長保寺」             <コピー>

 写真5 当山諸堂絵図面               <紙焼>

 図3 近世以前における子院配置想定図   <作成>

 写真6 長保寺絵図面(廟所絵図)(部分)        <紙焼>

 写真7 長保寺境内絵図 <紙焼>

 図4 長保寺小屋等之図 <コピー>