第3節 長保寺の史料

 現在、長保寺の所在する所は海草郡下津町であるが、往時は海部郡浜中荘上村と称していた。
 浜中荘の開発は詳らかでないが、比較的早い時代に名主たちによって開かれた名田の集りで、これらが平安時代後期には藤原摂関家に寄進されたもののようである。
 文献にあらわれるのは、宇治関白忠実が天養元年(1145)高野山に金剛心院の伽藍再興を発願し久安4年(1148)その落慶にあたって、左大臣頼長が高野山に登り金剛心院の修理料としてこの荘園を寄進している。
 高野山がこの荘園を支配するにいたり、長保寺の維持とその宗教行事の保護につとめ、荘務を長保寺の塔頭吉祥院に委任した。
 鎌倉時代の長保寺は永仁6年(1298)の浜中南庄の田数目録を見ると、高野山金剛心院領に57町310歩の田があって、長保寺はその中心になっていたことがわかる。伽藍の堂塔はいらかを並び、衆僧が或は念仏会、或は千部経転読などの法会も執行し一大法城を形成した。浜中南庄というのは現在の下津町のうち、旧下津町の五ヶ字に方を加えた地域と見てよく、北庄に属する丁、丸田、大崎等にも或程度拡がっていたと見られ、これが長保寺を支える力であった。
 長保寺伽藍の外にも仏堂ができていて、長保寺の衆僧やその地域の人々で宗教行事が展開したと見られる。新興宗教が出来る以前の浜中庄は長保寺を中心として盛なものであったことが想像できる。
 長保寺中心の仏教は神仏習合の旧仏教で、仏寺と共に神社崇拝も盛であった。この文書では、橘本王子・小森・大森・四十八所・八幡宮などがあり、朝拝田や大般若田など神社における宗教行事を思わすものがある。八幡神社の行事など長保寺の衆僧によって行われたようで、いつ頃からか境内に正寿院という別当ができ、長保寺の子院のような性格もあり、祭事一切を掌どり、別に祀官がなく、明治に及んだようである。
 この八幡神社については古文献がないが、享保10年の調に永仁3年再営上棟の棟札の写が記録されている。氏下は三郷とあるが、三郷は上・白岩・小原で、その頃から苗主構といふ宮座があったと伝えている。この三郷は所謂浜中であり、長保寺を支えた中心の地域であったとも考えられる。
 荘園の地頭としては後藤左エ門入道、苗字未詳行種、梶原某等の名が知られるだけで、その他については詳しくない。高野山または仁和寺支配としての浜中庄は室町時代文明年間に及んでいる。室町時代には守護畠山の支配下にあったのである。
 長保寺の諸堂の沿革を知る史料としては、寺蔵古記録中に(一)『慶徳山長保寺縁起并勧進状之写』、(二)『長保寺記録抜書』、(三)『長保寺大門并食堂鎮守八幡宮棟札写』、(四)『長保寺堂社御改書留』、(五)『當山諸堂絵図面』等がある。これら古記録はいずれも近世に筆写されたものである。前述のように長保寺では天正の兵乱によって多くの古文書が亡失したため、中世の沿革を知るには甚だ不十分であることはいうまでもない。したがって、これら近世筆写のものに據らざるを得ないわけであるが、これらの資料については一面疑問の点がないわけでもない。とくに『長保寺記録抜書』については内容の分析が必要であろう。以下参考資料掲載に先立って、簡単に諸記録の概要を述べる。
 (一)『慶徳山長保寺縁起并勧進状之写』は標題のとおり、(1)「紀州海郡浜中庄長保寺縁起」と(2)「御影堂勧進状」の二部から成る。前者は応永廿4年に大門に扁額を掲げた際に編纂したものと見られ、応永廿4年9月廿1日の奥書がある。この縁起は天正の兵乱の際に亡失したが、その写しがあったため幸い伝えられたもので、現在のものは天正15年3月9日書写の奥書がある。「勧進状」は康永3年11月に記されたものの写しで、筆写年代は明らかでない。筆写時にすでに虫喰のため首部が失なわれていたらしく、現在伝わるものに欠字が認められる。『長保寺記録抜書』には、應永の時から長保寺が真言宗になったように記されているが、応永をさきだつ約50年前の康永年間に弘法大師の御影堂の建立のための勧進状を記していることを考慮すれば、真言改宗の時期は応永以前でなかったかと疑われる。応永24年には妙法院宮のご宸筆を大門に掲げており、妙法院と真言宗との関連から、長保寺改宗の時期を応永に求めたのではなかろうか。疑問が残る。
 また、この『慶徳山長保寺縁起』に「当寺は真言秘宗弘博の靈地」と記されているが、これは將来のことでなく回顧の要素をもっている。また、久安4年(1148)金剛心院領になっていること、永仁6年(1298)の同院文書「浜中南庄田数注進状」には次のように長保寺の行事、堂塔修理のための念仏、堂塔、千部経田、仏性田、湯屋と免田を用意しているし、貢納関係の事務を長保寺の塔頭吉祥院に委任していることなどから、高野山は眞言宗として認めたのではないかと考えられる。

    濱中南庄惣田数注進状
 注進 浜中南御庄永仁六年御目録事
   合惣田数伍十七町三百十歩内
    御正作三町六反小三十歩入之
 三反小 長保寺念佛免    一町七反六十歩  同堂塔免
 一反  千部経田      一反       仏性田
 一反  湯屋免       三反       薬師堂免
 二反  下津浦堂免     半        南畑堂免
 一反  方堂免       三百三十歩    小原堂免
 一反九十歩 弘長寺堂免   大        如空房堂免
 四反半五十歩 橘本王子免  一反半三十歩   小森敷地
 一反小 大森敷地      一反半      四十八所免
 一反六十歩 八幡宮朝拝田  一反半 北庄取  同朝拝田
 二反半 北庄取 大般若田  小四十歩 同   丸田堂免
       (中 畧)
   都合二十七町三百歩除之
  残定田三十町内高野金剛心院真光院分
                 (以下畧)

 この結果、初めは慈覚大師の徒の開基とすれば当然天台宗となり、法相宗になった事情、時期ともに不明であるが、鎌倉期にはすでに眞言宗になっていたのではないかと考えられる。
 寛文6年の改宗は国主頼宜が菩提所と定めたので、この時高野山善集院と折衝しているのである。
 (二)『長保寺記録抜書』は(1)「王代一覧抜書」、(2)「頼宜卿御在世の御時仰之趣并二光貞卿御在世同所」、(3)「慶徳山長保寺」、(4)「慶徳山之事」の四部から成る。これらはそれぞれ異筆であって、「王代一覧抜書」に追記していったものとみられる。(1)「王代一覧抜書」は長保寺の近世以前の沿革を箇條書にしたものであって、天正の兵乱で亡失した古記録がない現在、長保寺の沿革を知る貴重な資料である。内容から推察すると、記録あるいは遺存した古書類から抜書として年代記として編集したものであって、文中に長保元年ヨリ天和三年マテ六百七十七年の記があることから、この記録がつくられたのは、大門、食堂、鎮守堂の修理が行われた天和3年と考えられる。(2)「頼宜卿御在世の御時仰之趣并ニ光貞卿御在世同所」は紀州徳川家2代の光貞卿が宝永2年5月に逝去されていることを考慮すれば、宝永2年以後とみなされる。(3)「慶徳山長保寺」は寺蔵宝物等の目録を書写したものであって、前掲の「王代一覧抜書」と同様この「慶徳山長保寺」にも旧十二箇坊が五箇坊に改めて記されていることから考えると(2)に追記していったものとみられよう。(4)「慶徳山之事」は紀州徳川家4代の頼職卿が宝永2年に当山に参詣の際のお尋ねの事々を記したものであって、頼職卿逝去の同年9月以降に書かれたようである。
 (三)『長保寺大門并食堂鎮守八幡宮棟札写』は天和3年の修理棟札の写しである。この中には「大門再営由来写」があり、その裏に元和7年の住僧と天和3年の住僧名が記されており、旧小坊が元和に宝増院に改まり、さらに天和に本行院に改まったことが判り、天和以来五箇坊となったことが知られよう。(四)『長保寺堂社御改書留』は元禄8年3月に記されたもので、寺社奉行に長保寺の現状を示すためにつくられたものである。この中に光貞卿在世中諸堂の修理がおこなわれたことが記されており、寛文から元禄にかけての長保寺の修理が知られる。(五)『當山諸堂絵図面』は明治16年2月、四百年前の社寺堂取調べのため和歌山県令に提出の長保寺の文書の写しであって、大正修理前の本堂の外観が描かれていて興味ぶかい。なお、明治の記録としては明治18年9月の明細帳があって、寺宝等の目録が記載されており、由緒、沿革についての内容は他の記録とほとんど同様である。以上、略述したこれら寺蔵記録を以下に記載して参考に供したい。

(一)『慶徳山長保寺縁起并勧進状之写』

   紀州海郡濱中庄長保寺縁起
 夫當寺者眞言祕宗弘傳之靈地如来密教受持之妙場焉此處者大覚智慧之日光赫々而成照明世尊慈悲之満月團々而成除暗其佛化溢干邊地以○大渇其餘輝照干法界以○幽闇肆仰以麾惠風伏以無不浴悲澤焉於此權律師印玄承○房志願憤發而以所謂奏請人王六十餘一條院綸詔早應長保二庚子年 命良工長命肆賢等草創七堂伽藍并鎮守一社弘法大師之影堂一宇十二之僧舎造畢者
 後一條院之御宇事終焉本尊釋迦牟尼之尊像安中臺普賢文殊之二菩薩置左右佛工定朝上人彫刻之此像安置之寶殿名金堂其殿戸排南麗飾盡工玄鶴蒼鸞白虎赤○之功彫妙盡非人力之所及○夜六時承事供給宛真佛如在勸四邊之勝境聳太山東北彰涅槃山頂之高岑懐河水南指隨縁應物之能事湛巨海西表生死苦海之超絶呼々貴哉尊像之靈應日々加如来之神験夜々増契人情如響之應聲遂機欲似水之○器宜哉國民躡踵遠人駕肩募見聞虚請實皈併是佛身之威福焉勸請之鎮守者八幡大菩薩此則西方上首之變身或南方寶部之應用人王十餘之膺運主君於一天下界矣雖干靈神夥朝野薩○周洲○神用加干宇佐之本宅威權厭勸請之諸社是故國司仰之郷黨祟之皈者過朝供者超市矣亦以西方無量壽佛之尊像伽藍隨一之西浄院為本尊當毎歳玄英十五日之日十二寺之僧侶唱彌陀之寶号曲作大法之佛事又祖師之影堂者形高野山之靈廟移此佛庭故稱高野之末寺尊影者聖主後宇多院之宸筆開眼者國師前大僧正之供養也伏惟弘法大師者遍照舎那之垂應威光菩薩之化現凌萬里之枉汰傳密法於東花皈吾朝馬○弘祕旨於都鄙自尓以降緇素頻教風之恩薫衆庶浴甘露之餘潤霊験新焉普天率土之兆民不可不信乎不可不仰乎肆晨鐘夕梵之勸無懈矣○而數回之后雖○干大門頽破蒙 後小松之院勅宣爲當寺之沙門○然願主嘉慶二戍辰年課大工藤原有次再興之額者妙法院宮之真筆也綸旨院宣薄墨之御判等納置寶藏爲長保寺永代之亀鏡者乎寔哉勸祝諸聖則佛身各有異術功便佛日影現皈者之心水神明光交信士之情塵使詣参之○有縁之侶所憎之愁消動足趺下可愛之寶得挙手掌中此可見矣然今皈僧俗得益者罕預化者少是佛神非吝平穩方便論乎掩今化愚夫浮僞而帰馮敢非真誠調御髪珠秘霊○宣○良玉稱活哉所謂佛聖非無珠王岡人稱其道矣○貴賎一心永請道俗至誠祟敬所望定満所願成就而己仍長保寺縁起如件
 應永廿四丁酉歳九月廿一日

私云
綸旨院宣薄墨之御判并當寺之縁起其外聖教霊寶雖納置寶藏居諸推移命歟哉○歟哉天正十三乙酉年凶徒競起花野之騒動頻切遂使凶徒囲國揮權柄乎時獣犬之餘炎流罹當寺伽藍少々并寶庫焼亡雖或人疇昔之縁起之写所持故爲興隆子今如斯令書写置長保寺處如件
 天正十五丁亥季三月九日長保寺沙門快榮
 
    勧進状写
    内建立弘法大師●宇状
  善逝私生之地眞言秘教弘通場佛閣並薨晨鐘夕梵之勧不懈僧庵連窓三密五想之観無侵有寶塔有鐘楼有鎮守有大門唯所其無者祖師影堂耳依之印心往年發建立之微願多日待○運之弊合則願高野山之廟堂欲寫長保之佛庭以彼山無女人之往来故欲此等結四衆之廣縁也然而有草創之懇情無檀那之施者不能欲止爲之如何伏惟弘法大師者遍照如来之●應威光菩薩之化現凌萬里観波傳密教於李庵●吾朝馬臺弘秘旨於華夷自○以降流傳数百歳門徒幾千萬一天併浴甘露之餘●兆民悉預教風之恩薫志恩銀恩者人倫之最也有心之輩盍隨喜此願乎就中當堂安置之真影己有或人之施入尋尊影者 聖主後宇多院之宸筆也丹青出叡襟訪開眼者國師前大僧正之供養也啓白通佛●吾國 明君也當所領主也謹願師資之尊行宛似四聖之共成抑影堂者聖者之廟所塔婆之美名也蔭庇靈像私益群生或功能聚又号界躰禮之得 安穩報造之感長命福一々之功能具載花又傳之貝葉然則緇素貴賎普天率土人而雖人不与斯願雖尺木不可○●●作山故雖半銭不可○渦滴湛海故各住三論清浄之意投一身 堪之財善○結縁与力衆子孫繁昌潤屋継富親●和睦一門無恙今生●保百年之壽算常被大師之擁護来世又證五智之正覚入諸佛之海會仍勸進知識所唱如件
  康永三年十一月
       日勸進沙門印心
             敬白

 とあり、前記の應永廿四年の縁起中に一条院の綸詔により、長保2年に大工長命律賢などの手で工を進め、後一条天皇の代に七堂伽藍及び鎮守一社、弘法大師の御影堂一宇、12の僧房ができ、仏工定朝により釈迦牟尼の尊像を本尊とし、普賢、文殊の二菩薩を脇侍として安置したと記されている。
 また、嘉慶の頃に大門が破損し、後小松院の勅宜を得て当寺の沙門 然が願主となり嘉慶2年大工藤原有次が再興し、應永24年6月妙法院真筆の額があげられたのである(写眞第98図参照)
 天正15年の文書においては「天正十三年凶徒起花野之騒動云々」とあるが、後述の『長保寺記録抜書』には「古之綸旨院宜薄墨之御判縁起其外寶物等乱世乱失仕候」、また「右之外古佛等数多御座候共或者朽チ損レ或者錯乱二乱失仕候」とあり、『長保寺大門并食堂鎮守八幡宮棟札』のうち大門再営由来写の項に「大門再興旧記紛失其 不分明也」と書かれ、詳しいことは不明である。  
『當山諸堂絵図面』には、「當山寺数ハ往古十二ケ寺アリシ処衰乱ノ世過半廃絶シテ現今本寺并支院合セテ六ケ寺ヲ存ス」とあり、戦國期の当寺の盛衰にも関係があるかとも考えられるが、一説には豊臣秀吉の根来寺焼打ちに関連があるとも云われている。

(二)『長保寺記録抜書』(抄)
             陽照院蔵
王代一覧抜書
一長保寺建立一條院勅願所後一條院代造畢
一長保二年ヨリ寛仁元年マテハ十八年也長保寺起立ハ十八年ニテ造畢有之歟
年代記
一長保元年ヨリ大治元年マテ百廿八年大治二年ヨリ嘉慶元年○二百六拾年嘉慶二年ヨリ應永元年○八年應永二年ヨリ元和元年○二百二十年元和二年ヨリ寛永元年マテ九年寛永二年ヨリ天和三年マテ五十二年也都合長保元年ヨリ天和三年マテ六百七十七年
一長保寺古書ニ云長保寺棟上延慶四年辛亥五月五日大願主僧承禅律師印玄并衆徒等僧浄明氏人等大工藤原有次
一當寺最初者長保二年建立也然仁治三年壬寅十月十五日釿始十一月廿二日立斯同廿六日棟上但自西移干東改造之大工長命律賢等云云其後延慶四年辛亥被移上壇釿始同正月廿九日壬寅卯時礎同三月八日庚辰時柱立同八日午時矣自長保二年庚子至延慶四年三百十二年也
   大門額筆者事
一妙法院宮御筆 牛車宣座主一品親王後光厳院御弟妙法院十四代目尭仁七月廿一日寂
一應永廿一年ノ額也應永廿一年ハ稱光院御代 御小松御子也
一南龍院殿御在世寺僧エ御尋之砌書上条々海士郡濱仲庄上村慶徳山長保寺者一條院御建立也本尊者釋迦如来七堂伽藍融勝仙人本家二品法親王沙弥性空法印大和尚位御住山被遊候但古之綸旨院宣薄墨之御判縁起其外寶物等乱世乱失仕候
一長保寺宗門根本天台宗其後法相宗其後天台宗其後應永之時ヨリ真言宗去年ヨリ天台宗帰入仕候
一本堂釋迦      定朝作
一普賢文殊      慈覚大師御作
一塔本尊大日     伝教大師御作
一西浄院阿弥陀    定朝作
一食堂文殊      運慶作
一護摩堂不動     智證大師御作
一八大童子      運慶作
一釈迦堂二天     傳教大師御作
一大門二王      運慶作
     長保寺十二坊
一普賢院       陽照院寺地内
一寶光院       同是ハ十二坊之外也
一專光院       同
一相應院       本行院寺内
一吉祥院       本行院寺地内
一小坊        同近年宝増院ト改其後本行院ト申候
一最勝院       最勝院寺地
一最福院       同
一西光院       同是ハ十二坊之外也
一西南院       今專光院寺地
一地蔵院       地蔵院寺地
一池之坊       同
一明王院       福蔵院寺地
一大坊        近年福蔵院ト改申候
   御佛殿起立之年号
 寛文六年丙午八月日 寺嶋甚兵衛藤原茂慶
  右之年号御佛殿鬼瓦之書付也
 壬子五月十七日 御供所御起立
 辛亥年 御拝殿御唐門御宝蔵御起立

  於日光山書出候扣
    覺
一紀伊國海士郡慶徳山陽照院
一寺中 五ヶ坊 一末寺 四ヶ寺
一寺領五百五石 一境内六町四方
一寺領長保寺領之内高貳拾石相附
一寺地長保寺境内
      長保寺寺中惣代
           地蔵院 印
 年号年日

とあり、延慶4年の長保寺棟上は大願主僧承禪律師印玄や衆徒など、大工は藤原有次とあり、上壇の釿始は延慶四年正月廿九日、基礎、柱立は同三月八日などとかなり具体的に記されている。
 また、十二坊についてはその院の名が記され、縁起に創建時にはこれらの僧坊があったと記されているが、当初からこれらの坊が整備されていたかどうかは不明である。鎮守堂御正躰懸佛背銘(慶長七年十一月七日)には「泉光院」「西谷坊」「明王院」「普賢院」「大坊」「遍照院」「宗壽院」の名があり、当時はこれ位の僧坊があったのであろう。明治5年の「寺院明細帳控」には陽照院の本寺の下に地蔵院、福蔵院、最勝院、本行院、専光院の五ヶ坊となり、現在は福蔵院のみとなったが専光院は陽照院内に、本行院は庫裡より参道を隔てた南下に、地蔵院は福蔵院の西隣りに、最勝院はさらに西寄りに建てられていたのである。

頼宜卿在世の御時仰之趣并光貞卿御在世同断
一、当山大門額者後小松院御宇妙法院二品尭仁親王之御筆也 頼宜卿当山江被爲成候砌 憲海僧正江被仰出候趣ハ同様之勅筆同前之額ヲ直筆ヲ直二不懸もの二候間 李梅渓ニ写させ常ニ懸ケ正筆ハ宝蔵江可納置者仰在而下ロシ能ク見候得ハ弐重額也 是爲後代云云 今懸ルの額ハ梅渓所令模写也
一、或時先公仰テ云大門前之橋○様之旧跡等ハ自然石なと令相応之間相応之橋石見立候称ニト加納五郎左エ門殿飯島五郎右エ門殿ハ被仰出候処相応ノ石無御座由ニて打過御座候処光貞卿御比ニ相応之橋石ヲ見出シ注進申上 則御懸させ被遊候処天和年中酉ノ年洪水ニ右石橋流落有之候処 享保拾五庚戍四月廿七日洪水出假土橋流落候節宗直卿御代右之石ヲ再ヒ御懸させ被遊候事
一、当山者 公儀御寺ニ被仰付候迄ハ中古密宗ニ而高野善集院○諸事取計有之候処 先公憲海僧正江御内談遊シ高野江往復在之台宗ニ改宗被仰出候又或時僧正江仰テ云 一山台宗ニ帰シ我又台宗なれとも村人なとの内ニ台宗もなければ徒然敷心地なれは貴僧計ヒとし其村人を勧め台門に皈依あれかし口上国守の権威をもって改宗せしめてハ佛法之ニに叶はすと仰せられる間 此旨を僧正御請被成当山へ有縁之道俗改宗せしめ僧正御計ヒにて且那を五か坊へ配当せしめ御付被成候
一、当山改宗之後諸堂及破損之間 御修理被遊尚又諸堂本尊寺御再興も御在世之砌被遊候
一、先公寺僧江仰テ云 於釈迦堂千部読経可被致哉との御事 寺僧のいはく張り出仰付候へば執行可被致由申上候との事 寺僧ト申すハ遵海俊海等之事
一、先公御成之節 釈迦堂階ニ而寺僧江仰而云 此階自然石にて旧跡殊勝なり必ス誤而切石なとに願うことなかれと仰会云云
一、当村人台宗ニ改宗之後 御成遊シ当村之若キ女共を召させられ釈迦堂の庭において扇キ踊りを御付られ上覧御前におゐて赤飯御酒惣中へ下され候よし踊子へは帷子壱扇子ニ本つゝ下され候由
       (中 畧)
一、当御山杉之事 頼宜卿御在世之砌 杉之生立チ山門ノ景気又ハ那智山ノ山並ニ似たる之間 隨分杉ヲ生立山深く見へ候様ニと役人衆へ被仰付候由承候

とあり、現在も大門に掲げている扁額は初代頼宜公の命により李海渓の模写したもので、実物は宝蔵に格納されている。
 頼宜公は元和5年(1619)5月に紀州藩主となったが、「紀伊続風土記」に記されているように、寛文6年(1666)この寺を菩提所と定めて天台宗に改め、寺内に靈殿を建立し、紀州徳川家の廟所と定めて憲海僧正を中興開山とし、和歌浦東照宮の別当運蓋院の末寺とした。
 同11年正月10日頼宜が薨去すると遺命によって(注1)ここに葬り、この年に寺領として加茂谷中村と上村の内合わせて五百石を寄進した(注2)。その後、歴代藩主、夫人、側室などこゝに葬ったものは多く墓地の面積は34ヘクタールに及んでいる(遺言状と寄進状は長保寺蔵)。


(注1)
吾可必以天台宗葬葬儀有輕重只於本寺可従其輕以營之是無他以興南光大僧正有舊約也若有欲問吾後者則八宗九宗各可以其宗旨之所志焼香捧花吾皆可受其弔也諸人宜承知之勾以違背焉
    年 月 日          源 頼 宣 (花押)

(注2)
慶徳山長保寺者長保中所創建也去歳安葬 光考南龍院於此山且於當院内在世日所預設堂安置靈牌倶遺命也 因茲新新附五百石田土并山林於當寺以爲香華之資合舊領五石総計五百零五石也 領地疆界并各村田租各料所充載在別紙自今而後且暮法務遵守規矩永遠不可怠廃者也
                    權中納言 源 朝臣
   寛文壬子九月十日               光 貞(花押)
      陽照院

(注2)の文中旧領五石とあるのは慶長6年に旧藩主の浅野家より寄進されたもので左の寄進状がある。

  爲當寺領於海士
  郡濱中上村五石
  所令寄附之也以
  如件
        左京大夫
  慶長六
   十二月六日 幸長(花押)
    長 保 寺


『慶徳山之事』の文中
 二品法親王性空宮居之所モ不知又何レノ王子ト云事モ不知 天正十三乙酉年宝物縁起乱失之後 諸事慥不知其外所司箱大帳ニ粗記之

 とあり開山性空については、この寺に留ったようにとれる記述もあるが、書写山の性空は寛弘4年(1007)80才で入寂しているので寛仁元年(1017)の工を終えた時にはすでに他界していた筈で、開基として疑問が持たれる。

(三)天和三癸亥十月十八日
   長保寺大門并食堂鎮守八幡宮棟札写
                      陽照院
 大門棟札写(表)
  卍聖主天中天 迦陵頻伽聲
   哀愍衆生者 我等今敬禮
  紀州主正三位行権中納言源朝臣光貞公 奉行 寒川弥五太夫源景吉
                       青木四郎左エ門藤原重尚
 奉再営長保寺大門國家安全所
  入佛御導師長保寺陽照院大僧都法印豪珍 大工 角井又右エ門政次
   天和三癸亥歳十月十八日
 (裏)   ○○如律令


大門再営由来写

夫慶徳山長保寺諸堂者長保二年
一条院御宇草創也 然而自長保二年至嘉慶ニ戍辰年、大門再興旧記紛失其○不分明也、嘉慶二年戍辰当寺住侶沙門實然為願主、依 後小松院勅宜再興之、此○旧記顕然、其後元和七辛酉十月最勝院恵尊以勧進檀那助成、寺僧等擲自己財宝修覆之、爰紀州 太守源朝臣頼宜公法諱南竜院殿御入寂、寛文十一辛亥祀肇歳上旬於此山入窟○ 以来為靈廟之定地 是以嫡子 光貞公鎮 恭敬尊崇而慇懃厳重之靈場也 而寛文年中大門并鎮守社食堂柱傾棟崩頽毀乱墜仍而僧徒等皈依渇仰而再興志願依之当国之主嗣英黄門光貞公造修○業不獲黙止 即三箇所之修営 天和三癸亥自始無射下旬至應録●付 同○造畢訖
  長保寺陽照院大僧都法印豪珍
  天和三癸亥十月十八日 年行事専光院天空
   (裏)
 元和七辛酉現住之僧徒池之坊快秀 専蔵院恵善 最勝院専尊 大法師眞円
 宝増院快円 専光院快智 良深房 大法師快真
 天和三癸亥現在之僧徒地蔵院遵海 福蔵院蓮海 本行院良圓 最勝院盛舜

 鎮守八幡宮棟札写(表)
  卍聖主天中天 迦陵頻伽聲
   哀愍衆生者 我等今敬礼
  紀州主正三位行権中納言源朝臣光貞公 奉行 寒川弥五太夫源景吉
                       青木四郎左エ門藤原重尚
 奉再営長保寺八幡社御武運長久所
  遷宮御導師陽照院大僧都法印豪珍 大工 角井又右土門政次
   (裏)
   ○○如律令
長保寺鎮守八幡社寛永六己己寺僧等以自力奉再興之○以来天和三癸亥紀州当国主正三位行権中納言源朝臣光貞公令再営之遷宮儀式厳重令修之給而己 寛永六己己現住僧徒寶増院快円 専光院快智 福蔵院快印 最勝院恵尊 地蔵院快盛 天和三癸亥現住僧徒地蔵院遵海 福蔵院蓮海 本行院良円 専光院天空 最勝院盛舜

食堂棟札(表)
一切日皆善一切宿皆賢諸佛皆威徳
羅漢皆行満以斯誠実言我成吉祥
紀○主正三位行権中納言源朝臣光貞公奉再営長保寺食堂一宇国家安全所
入佛導師長保寺陽照院権大僧都法印豪珍
天和三辛亥歳十月十八日
奉行 寒川弥五太夫源景吉 青木四郎左エ門藤原重尚
大工 角井又右衛門政次
  (裏)
   ○○如律令 寛永十七年庚辰現住僧徒
   宝増院快円 清賢房           地蔵院遵海
   専光院快智 良賢房     天和三癸亥 福蔵院蓮海
   福蔵院快印 良乗房・教深房  現住僧徒 本行院良圓
   最勝院専尊 尭俊房           専光院天空
                       最勝院盛舜
  天和三癸亥自始九月廿日至十月十八日造畢訖

 また、現在、長保寺内福蔵院墓地に高さ約2.3mの五輪塔があり、その正面に次の文字が刻まれている。
      元和七辛酉年
    奉當寺大門再興并
       橇橋同供養之儀
    爲最勝院恵尊逆修七世父母
    六親旦那乃至法界衆生皆成仏道
     十一月十四日

とあり、前述のように最勝院住職恵尊が勧進し大門の再興と大門前の橋の架け替えを行った時の供養塔であるが、元和7年(1621)にはすでに2年前に頼宜公が入封しているとはいえ、菩提寺となった寛文6年より45年前であり寺僧が自己の財宝を擲って修覆した如く記され、かなりの難事業であったと推察される。
 その後、天和3年(1683)に2代藩主光貞公の助勢を得て再度大門と鎮守社(八幡社)、食堂が修営されたのである。

(四)元禄八乙亥年三月
    長保寺堂社御改書留
                   陽照院
一山号慶徳山寺号長保寺一条院勅願所長保年中之草創慈覚大師門弟開基之由并日光御門跡御書出ニも御載候へ共大師門弟之諱不相知應永之頃○寛文五巳年○眞言宗、同午年寺中天台改宗
一釈迦堂 一宇 多宝塔 一宇 阿弥陀堂 一宇
 護摩堂 一宇 鐘楼堂 一宇 食  堂 一宇
 右先御代○御修理所
一釈迦堂料五石 浅野幸長寄附状在之当御代御墨印之内ニも右段御書載被遊候
一南龍院様御仏殿并御寺寛文六丙午年御起立
一御供所御拝殿御唐門御宝蔵四足御門等当御代御起立
      代々日光御門跡陰宝當官大僧都法印 陽照院豪珍
一高弐百石 寺中五ヶ坊
一高弐拾石 先住快秀弟子当官権大僧都法印   地蔵院道海
一高弐拾石 一陰僧正憲海弟子当官権大僧都法印 木行院良圓
一高弐拾石 先住俊海弟子当官権大僧都法印 地蔵院蓮応
一高弐拾石 陽照院空盛弟子当官権大僧都法印  専光院天空
一高弐拾石 先住宗存弟子当官権大僧都法印   最勝院盛舜
 当御代長保寺御墨印高五百石之内也
 右五ヶ坊及破損候付元禄七戍年御修理被仰付候自今も御修理所也
一御寄附状并四至 示之御書出有之
一山林并寺内御免許御書出し有之
        以上
   元禄八乙亥三月
 右之書付六月廿六日寺社奉行丹羽弥四郎、芝田才右エ門両人へ相渡ス者也


『當山諸堂絵図面』(明治16年2月御取調)

  和歌山縣下紀伊國海部上村字寺口百四拾七番地   長保寺
一 本堂
正面七間妻七間壱尺貳寸 坪数五拾坪四歩 朱塗瓦葺
一條院天皇勅願長保二庚子年草創其後仁治三壬寅年十一月自西移干東改造之大工長命律賢等云云現存ノ本堂及諸堂ハ距今五百七十三年延慶四辛亥年僧承禅印玄并衆徒等爲願主再建其後寛文七丁未年十一月徳川頼宣修営之以来御一新○徳川家ヨリ修覆仕来候
一 阿弥陀堂 但三間四面此坪数九坪白木造リ屋根瓦葺
正面三間貳尺四寸妻○断 坪数拾壱坪五歩六厘 白木造屋根瓦葺 
創立改造及再建并修繕共本堂ト 時
一 護摩堂 但二間四尺四面此坪数六坪九合七勺白木造屋根瓦葺 貳間四尺五寸四面坪数七坪五歩六厘二五 白木造屋根瓦葺  
草立改造并再建修繕等○上但近年及大破損候付去ル明治十年十月当住尭海等私財ヲ以修営之仕候
一 二重塔 但二門二尺七寸四面此坪数五坪四合朱塗屋根瓦葺 貳間四尺五寸坪数七坪五歩六厘二五
 創立改造及再建修繕共本堂ト○時
一 鐘楼 但一間二尺七寸四面此坪数二坪五勺朱塗屋根瓦葺 貳間三尺四面 坪数貳坪貳歩五厘 朱塗屋根瓦葺
 創立改造及再建修繕共本堂ト○時
一 仁王門 但桁行四間梁行二間此坪数八坪朱塗屋根瓦葺 正面四間壱尺貳寸妻貳間三尺 坪数拾坪五歩 朱塗屋根瓦葺
 創建○上現存ノ建物ハ距今四百九十六年嘉慶二戍辰年当寺住僧実然爲願主依後小松天皇勅宣再興之其後元和七辛酉年十月當山最勝院惠尊以勧進檀那助成寺僧等擲自己財宝修理之其後天和三癸亥年徳川光貞修營之以来御一新○徳川家ヨリ修繕仕来候
一 民有地第一種一千八百八拾坪 長保寺持
一 縣廳エ五里二拾丁
 ○境内六百八十八坪 民有地第一種長保寺持
一 寺仁ニ云當山諸堂ハ
一條院天皇ノ勅願ニシテ長保年中ノ草創慈覚大師門人等ノ開基ナリ宗旨ハ最初天台宗其後法相宗又天台ニ改メ應永年間ヨリ眞言宗トナリ寛文六年更ニ天台ニ復宗セシ旨去ル享保度ニ取調へタル長保寺記録書抜ニ記載有之候
一 當山寺数ハ往古十二ヶ寺アリシ処衰乱之世過半廢絶シテ現今本寺并支院合セテ六ヶ寺ヲ存ス
一 當山ノ諸堂建立ハ長保二年ヨリ寛仁元年ニ至リ十八カ年ニテ造畢云云又長保寺棟上再建歟延慶四年辛亥五月五日大願主僧承禅律師印玄并衆徒等僧浄明氏人等大工藤原有次ト去ル享保度ノ記録ニ記載有之候
一 大門ノ仁王ハ運慶ノ作ト云扁額ハ妙法院一品尭仁親王ノ真筆表面ハ慶徳山長保寺裏ニ應永廿四季六月一日トアリ
右二月十三日呈出置候処五月十八日縣廳ヨリ田中正堅氏出張猶取調朱書之通訂正○月廿五日戸長役場被呈出候事
當寺四百年己前ノ建坪取調書 呈出候処聊誤謬ノ廉有之仍テ別紙訂正書正副二通呈出候間最前之分御取消被下候度此段及上申所也
  明治十六年五月廿五日
             海部郡上村
               長保寺住職
                  瑞樹尭海
  和歌山縣令神山郡廉殿
             花  戸長連署



附 長保寺にある藩主の墓
  世  次  諡号   系統     忌日
  初代 頼宣 南竜院  家康十子   寛文十一年正月十日
  二代 光貞 清渓院  頼宣長子   宝永二年八月八日
  三代 綱教 高林院  光貞長子   宝永二年五月十四日
  四代 頼職 深覚院  光貞三子   宝永二年九月八日
  六代 宗直 大慧院  西条頼純五子 宝歴七年七月二日
  七代 宗將 菩提心院 宗直長子   明和三年二月二十五日
  八代 重倫 観自在院 宗將二子   文政十二年六月二日
  九代 治貞 香嚴院  宗直二子   寛政元年十月二十三日
  十代 治寶 舜恭院  重倫二子   嘉永六年正月二十日
 十一代 斉順 顯竜院  家斉七子   弘化二年壬五月八日
 十二代 斉彊 憲章院  家斉二十子  嘉永二年三月十日
 十四代 茂承 慈承院  西条頼学七子 明治三十九年八月二十日
 十五代 頼倫 樹徳院  田安慶頼六子 大正十四年五月十九日
◎五代吉宗 十三代慶福(家茂)は將軍になったので前者は寛永寺 後者は増上寺を墓所とする。


長保寺にある藩主夫人の墓
   諡号   続柄   系統   忌日
   淨眼院  宗將夫人 伏見宮家 宝歴七年五月二十四日
   明脱院  宗將夫人 一条家  安永八年七月十九日
   貞恭院  治寶夫人 家治養女 寛政六年正月八日
   鶴樹院  斉順夫人 治宝ノ女 弘化二年八月十日
   観如院  斉彊夫人 近衛家  嘉永六年二月十日
   俗名久子 頼倫夫人 茂承長女 昭和二十九年四月十七日

  (注)六代藩主までの墓碑は無銘である