第5節 現状変更

 長保寺は寺伝によれば一条天皇の勅願で長保2年(1000)性空上人を開基として草創したといわれる。仁治3年(1242)に地をあらためて西から東に本堂を移建したが、この後さらに延慶4年(1311)に上壇に本堂を建立した。現本堂はこの時のもので、嘉慶2年(1388)には大門も再興されてほぼ現在にみられるような寺観を保つにいたった。
 本堂の沿革については天正13年(1585)の兵乱で古記録が散失したため明らかでないが、中世に側柱2本、入側柱1本をとりかえ、脇陣に出入口を設けるなどの修理が行われている。(注1)
 近世になって、長保寺は紀州徳川家の菩提寺となるに及んで、寛文7年(1667)に修覆があり(注2)、明治3年には屋根葺替と部分修理(注3)、大正9年より10年にかけては解体修理が行われ、側廻りの桟唐戸や縁が整備され、脇陣の柱間装置も変更されている(注4)
 今回、屋根葺替及び部分修理に伴う調査によって、当初の柱間装置についてはほぼ明らかにし得たので、この機会にこれらを復した。

(注1)本堂両側面南より第二、第三間には、敷鴨居取付痕と内法長押鴨居間に琵琶板篏め込みの小穴がつかれていることが今回の修理で発見された。したがって一時期脇陣外側には引違戸があったことが明らかである。琵琶板小穴は中古の取替柱ではよくノミが切れているが、当初柱では蕪雑であること、また、この建物では壁は柱に間渡し受けの辺付を打ち添えて壁下地をつくっているが、当初柱に辺付打ちつけの釘穴と壁の風蝕差が認められる。これらのことから、当初は壁であったこれらの柱 間に引違戸を入れた出入口が設けられたことがわかる。「明治十六年二月 御取調當山諸堂絵図面」にはこれらの間に板戸が画かれている。

(注2)「當山諸堂絵図面」の本堂の項に「寛文七丁未年十一月徳川頼宜修営之以来御一新 徳川家ヨリ修覆仕来候」とある。

(注3)明治3年8月の記のある棟札と、大棟鬼瓦、向拝留蓋瓦に刻銘がある。

(注4)大正9、10年の修理では、桟唐戸の取替え、脇陣出入口および間仕切の撤去のほか、側面後端柱にとりついていた脇障子を撤去し、欠如していた背面の縁を整備している。また、修理に伴って背面地盤を削平したようであり、縁束を根継するなどの変更を行っている。前記「當山諸堂絵図面」により大正修理による外観の変更部分が判明する。

柱間装置を次のように旧規に復した。
 (イ) 正面中央三間および両側面前より第一間ならびに背面中央間の桟唐戸の形式を旧規に復した。現在の桟唐戸は大正修理時に新調したもので、横桟を吹寄せとし上部に盲連子を入れたものである。寺に保存されていた10枚の桟唐戸は吹寄せの桟がなく、横桟が等間割となるもので、外側にのみ桟をみせ内側は板張りになる(注1)。これらの戸は大正修理時にとり外されたもので、8枚が正側面、2枚が背面に相当する(注2)。今回の修理の機会にこれらの旧桟唐戸を繕い旧に復すると共に亡失した扉はこの形式にしたがって新調した。なお、正側面の当初の桟唐戸は堅框上方の框および桟に接してせい5p巾2p深さ1.2pの角柄の穴があり、一方は深さ2.4pで遺返しになる。したがって桟唐戸上部にこれらの仕口を利用し仮に盲連子を篏めこむことにした。

(注1)この桟唐戸の類示例は長保寺と同じ下津町橋本の地蔵峰寺本堂(本尊に元享の銘がある)に見られる。

(注2)正側面の戸は軸心間が1.79メートル、背面が1.66メートルで大きさが異なる。なお、保存されていた扉10枚のうち背面の戸2枚と正側面の戸5枚が当初で3枚は中古である。

 (ロ) 内陣正面中央三間の鴨居を約42p下げ、旧高さに復するとともに、欄間および格子戸の形式を旧規に復した。現在、内陣廻りの結界は内法間が格子戸引違、上は吹寄せ菱欄間となっている(注1)。正面中央三間は内陣を広くみせるため欄間を切断して鴨居の取付位置を高め、格子戸も腰付になっているが(注2)、柱の向い合わせ面には現鴨居より約42p下に旧鴨居の取付痕があり、旧は内陣廻りは鴨居高が見廻しに納められていることが判明した。よってこれを旧に復した。

(注1)欄間はすべて当初のものであるが、格子戸は当初、中古、大正の3種類あって、   それぞれ組子の割が異っている。

(注2)欄間は組子を半分に切り縮めており、残存するものは当初のものである。格子戸は堅框は新しいが、組子は古く、鴨居を高めた分だけ腰板を設けて高さを補っている。

 (ハ) 西脇陣南より第一、第三柱筋に格子戸引違の間仕切を復した。これらの柱間は在開放であるが、南より第一柱筋には柱向い合わせ面に内陣正面三間の現鴨居と同高の位置と、それより約42p下との二カ所に鴨居取付痕があり、また戸当りの辺付釘穴や、敷居取付痕もあって旧は内陣正面と同様に間仕切があったことが判明した。また、南より第三柱筋では柱向い合せ面に内陣側面鴨居と同高の位置に鴨居取付痕があり、また、第三柱筋を境に、内陣の欄間の框は南寄りが唐戸面、北寄りが切面と異なっていて、当初は両脇陣に桁行一間、梁間二間の小室が設けられていたことが明らかである。なお、建具については不明であるが、内陣廻りとの組合せ上、格子戸引違の間仕切に復した。

(注)脇陣の間仕切は内陣のように欄間がなく、上部開放となるが、中世、東脇陣境の南より第三柱筋では鴨居を高め、袖壁付の片引き戸を設けた痕跡があり、その際にこの間だけ欄間を入れたらしい溝彫りがある。