第4節 施工の概要

 (1)工事施工の方法

 本工事を執行するため長保寺は社団法人 和歌山県文化財研究会に工事のすべてを委託したので、同研究会において事務処理を行なうとともに直営工事として行った。
 施行に当っては、文化財保護法、補助金等に係る予算執行の適正化に関する法律及び同法施行令、文化庁文化財補助金交付規則、文化財保護部規則その他関係法規の定めるところによるほか、和歌山県財務規則、同建設工事執行規則に準拠し、また、同研究会規則等により行った。
 修理費は所有者に交付される国庫補助金および県費・町費補助金ならびに所有者負担金をもって当て、工事費支出に差支えないよう、その都度所有者より委託金を同研究会の会計に納入し実費精算とした。
 一件3万円以上の工事用諸資材、器具の購入及び請負工事は規定にしたがい、すべて指名競争入札または見積合わせにより、予定価格内の最低見積人と契約を締結して行った。 工事は解体工事及び木工事、その他雑工事のうち比較的簡易なものは直営工事とし、その他は請負工事によって施行した。直営工事による大工、人夫等の作業員は常勤または臨時傭として雇傭した。

 (2)調査事項の概要

 本堂は大正9年に解体工事が行われ、当時の工事の記録としては寺院に簡単な「長保寺本堂修理設計書」(精算書を兼ね精算額は設計金額を朱字で訂正している)があるだけで、現状変更箇所などの詳細は明らかではないが、背面の縁廻りや側面の間仕切の復原からみて、かなり復原的な工事が行われた模様である。
 小屋組、妻飾りは大部分がこの折の補足材であり、考察する資料も見られないので、小屋組はたんに腐朽部分の補修にとどめた。また、軒廻りについても東北隅に当初の化粧隅木、茅負が残されているが、古い飛擔 尻がほとんど浮いており、地 の出や軒反りについても再調査の必要が認められたが、軒廻りの解体を行わなかったので、規矩の納まりについての究明は出来なかった。
 屋根においては現在までかなりの雨漏りがあり、大正修理の屋根葺についても不備な点があったので、葺方についての調査を行うとともに、当初瓦と大正の補足瓦を含めて後補瓦の形状寸法についても調査し、役瓦ともほぼ鎌倉期の形式に戻すこととした。
 柱間装置については、明治16年に作られた「當山諸堂絵図面」に見取図的な図ではあるが建物の正側面が画かれてあり、今回、工事中に発見された桟唐戸と同形式のものが入り、また、側面の前より第二、第三間の引違戸も画かれている。桟唐戸は如何なる理由で形式の変更がなされたか不明であるが、発見された建具は形式的に見ても当初のものであることは疑もなく解体番付により旧位置も判明した。側面の引違戸については、この部分の壁が不良のため一たん取除いたので、この折、仕口などの調査を行ったが、引違戸の設置はやはり後世の施工によるものと判断出来た。
 内陣廻りの格子戸についても当初と思える格子戸が残されてあり、後補のものは簡単に判別出来、また、両脇陣の今回復旧した間仕切についても、柱に残る雑作材の取付痕から当初の形を知ることが出来た。
 厨子は正面の柱間装置に改造のあった形跡が見られたが、解体しての調査をするまでにいたらず次の機会を待つ事にした。
 向拝も柱礎盤が大正に取替えられた模様であるが、形式的には近世のものであり、また、頭貫についても明らかに江戸期の手法を示しており破風板と茅負の納まりについても釈然としない面もあったが、前期の間仕切が復旧出来たことは幸であった。

 (3)施工の概要

 前述のとおり今回は部分修理を含む屋根葺替工事であったが、一部の間仕切の復原と建具工事を追加施工した。
 基礎、軸部は比較的良好であったが、一部の柱、繋虹梁には「シロアリ」の蟻道が認められたものの過去の蝕痕であり、建物の構造には支障がないと思われたので、防蟻薬剤の処理を十分に行っておいた。しかし、内外陣境上の内陣側見返し箇所の斗 はかなりの虫害を受けていたので差替えて補足した。
 縁廻りは東北隅部が昭和36年の修理の際に縁板の補修を受けていたが、各隅の部分及び西側の縁板が腐朽していたので部分的に外して取替えた。
 軒廻りは身舎の東北隅の化粧隅木は虫害を受けていたが、唯一の古材であるので小屋内で補強して再用したほか、この附近の虫害の甚しい飛擔 は取替えた。
 また、向拝の軒は長年の雨漏りにより、軒先部の腐朽が大きかったので、この部分の小屋材と化粧裏板まで解体し、不良の打越 を取替えまたは 鼻部の補修を行い、失われていた懸魚の六葉を取付けた。
 小屋組は江戸形式の状態であったが、依るべき資料もないので現状の納まりのままとしたが、身舎と向拝部の野地取合せの箇所は雨水の流れを考慮して従来より若干上げておいた。
 切裏甲は大部分が雨漏りにより、上端の腐朽が大きく取替えざるを得なかったが、両妻部及び軒隅部、向拝の破風板上など良好な部分はそのまま使用した。
 壁は西側及び正面の連子窓下の壁が不良で下地より施工したほか、素屋根を設けなかった関係もあり、各部の壁の汚損が甚しかったので全面的に上塗の塗替えを行った。また、従来軒裏や小壁になされていた胡粉塗も剥落箇所も多く、また、前記の理由で汚れが大きくなったので壁工事同様全面的に塗替えた。
 土居葺は大正の修理で杉の桟械割の薄板で葺かれていたが、大部分蒸れ腐れと虫害により、ほとんど原形を止めない状態で全面的に葺替えた。
 屋根葺は当初瓦は割合に少なく、地瓦も当初瓦はすでに焼きが甘くなり大正補足瓦も形状及び焼成温度の不良などもあって、全体の約60%を取替えた。鬼瓦は大部分が明治3年のもので、いずれも江戸末期の様式を示しているので、当寺の多宝塔の上層隅鬼のものにならったほか鳥衾瓦の形状も同様とした。大棟鬼瓦は従来のものは股上65pと大きかったが、今回は52pと低くし棟積みも鬼際に反り増しをつけて形を整えたほか、各隅棟、降棟を鬼瓦の大きさに合わせ据付位置を定めて格好よく葺きあげた。
 軒先瓦は当初瓦が少なく向拝部にまとめて再用したが、大正の補足瓦は身舎西面の反りの少ない中央部と、身舎両妻部に再用したほかは全部新たにした。
 地瓦も正面の中央部に当初瓦を、その両脇と切妻に大正の補足瓦を再用したほかは、隅の部分とも今回の補足瓦を用いた。
 建具は桟唐戸が現状変更で形式が改められたので、従来の大正の桟唐戸は廃棄したが、発見された桟唐戸のうち、背面中央間の二枚と正面三間のうち二間分を修理のうえ再用したほか全部を新たにし、従来背面の桟唐戸を最終の出入口としていたのを東側面の桟唐戸の位置に変えた。
 格子戸は内陣正面の戸以外は同一形式の格子戸であったが、後補のものは割付が当初の戸と異なっていたのでこれらは補足して統一した。内陣正面の柱間装置は、現状変更の項に述べるごとく、内陣廻りが同一の形になるように整備した。
 避雷針は屋根にかかる範囲の導線を一たん取外し、屋根替後に再度取付けたが、従来引下導線の留金具を平凡の重ね部に差込んでいたが、瓦の割れや雨水侵入のおそれもあるので、今回は降棟沿いに取付け、降棟より軒先までは丸瓦を上端より挟む金具を作成し、繋ぎ付けて万全を期した。
 周囲の排水溝は流水がよいように清掃し、周囲の地盤も地均しをなし保存及び環境のよいよう整備した。