長保寺の仏教美術

和歌山県立博物館 小田誠太郎

和歌山県海草郡下津町上の天台宗寺院・慶徳山長保寺は、紀州藩初代藩主・徳川頼宣(1602〜71)が菩提所に定めて以来、「紀州徳川家菩提寺」として知られている。そして、確かに江戸時代においては、頼宣がその父・徳川家康を祀るために創建した和歌浦東照宮と、その別当寺院・和歌山天耀寺雲蓋院、そして菩提所長保寺という、特に紀州徳川家とつながりの強固な社寺の一つでもあり、明治以降もそうした縁を一面において保ちながら,時代の流れの中で寺運は変転してきたとも言える。
しかし、長保寺そのものの歴史は更に古く、平安時代中期の長保2年(1000)、一条天皇の御願寺として創建されたと伝えられる。但し、これも伝承であるが、創建当初の長保寺は、現在地とは離れた所にあったといわれ、その実体は容易には捉え難い。  
 それでは、少なくとも現在の長保寺はどこまで遡るのか、そしてどのような寺院であったのであろうか。また、現在長保寺に伝来する品々のうちで、何がそれを我々に教えてくれるのであろうか。その辺りを探ることにしよう。  
まず、江戸時代に長保寺が前述のように紀州徳川家菩提寺となる以前の寺観であるが、本堂(釈迦堂)は、鎌倉時代末期の延慶4年(1311)の建物として国宝に指定されている。次いで多宝塔も鎌倉時代末期、大門は南北朝時代の嘉慶2年(1388)の建立で、ともに国宝の指定をうけている。このほか鎮守堂も、鎌倉後期のもので、重要文化財である。
 すなわち、現在の長保寺の堂社のうち主要な建物は14世紀初頭から末にかけてほとんどが揃っていたといえるが、反面、平安時代にまで遡った長保寺の具体像を捉えることができる材料は、現在の長保寺の建造物からは得られないというわけである。  
次に、仏像に関してであるが、今回の調査の大半は、長保寺に伝来する数多くの資料のうちの、仏画と経典類が対象であったため、精査を踏まえないままの推測を交えた話ということになる。しかし、建造物から得られる知見とは少し異なる、興味深い一面が指摘できるようである。
 まず、平安時代の彫刻として最も古いと思われるものが、多宝塔の金剛界大日如来像で、一木造の余韻を残し、時あたかも長保寺の創建期である11世紀前半頃の作である。次に古い像は、阿弥陀堂の阿弥陀如来坐像で、極めて大雑把な作風であるが、構造的には古式をとどめ、平安後期も早い頃に位置づけられる。更にまた、江戸時代の文書の記載を全面的に信用するわけではないが、本尊の木造釈迦如来像は定朝作とあり、それが万に一つ事実を反映しているものとして、定朝様に最も近い像が実際に三躯あり、それは本堂厨子内の文殊・普賢両脇侍と明治以後に客仏として阿弥陀堂に迎えられた周半丈六・説法相の阿弥陀如来坐像である。
 一方、本尊の釈迦如来像はいかがかと言えば、『下津町史』のように江戸期と断定するのは早計で、鎌倉末期にまで遡ると見えた。同様に、大門の仁王像も鎌倉時代のもので、以前修理の際に、運慶の子息・湛慶の銘が記されていたとのことである。
 このほか、護摩堂の本尊・不動明王が南北朝期の作で、残る諸像はおおむね江戸期のもののようである。  
 こうしてみると、長保寺には、それらを安置する建造物より古い、平安時代の彫刻が少なからずあるが、年代・様式・法量ともに不揃いで、これに建造物の造営に対応する鎌倉以後の像と、江戸時代の像が混在する、ということになる。
 すなわち、仏像に関して言えば、現在の伽藍の前身時代のものが受け継がれてきている可能性があるとも言え、またその反面、本尊は鎌倉以後(江戸時代というならなおさらであるが)ということなので、創建当初の長保寺の本尊は一体どうなったのかという新たな疑問が生ずるのである。それに関連して、現在有田市所管となっている康平5年(1062)在銘の大日如来像が、もと長保寺の像であったと伝えられ、また、それが事実であるとすれば、長保寺のどの堂舎から、いつ移されたのか、そうした点も考慮のうちに入れるべきであろう。  
次に、今回集中的に調査を実施した、仏画と経典からの知見であるが、まず仏画について言えば、おおよそ次のようになる。
 まず、『釈迦堂宝物并寄進帳』に記載のある仏画が、今回調査した仏画の中枢をなすもので、桃山時代以前に遡る画像のほとんどについて、「修覆憲海僧正御寄進」という添書がある。これは、和歌浦雲蓋院の第4代住職憲海(明暦元年(1665)〜寛文12年(1672)まで住職)が、寛文6年に長保寺が菩提所とされたため、以前から長保寺に什物として伝来していた仏画を修覆したことを物語っている。当初は、我々も仏画そのものを寄進したものと解釈し、また列品解説を読まれる方々もそのように誤解されるかとも思うが、単に寄進の場合と修覆を寄進の場合とで添書の文言を区別していることが判明したのである。すなわち、重ねて言うが、おそらくは紀州徳川家からの指示で、憲海が菩提所となる長保寺の什物を点検した際に、主要な仏画の過半は長保寺に古来からの伝世品としてあったというわけである。
 具体的にどのような仏画があったかと言えば、鎌倉時代のものでは両界曼茶羅図、種子両界曼茶羅図、次いで室町時代では種子法華曼茶羅、弘法大師像、普賢十羅刹女像、十八羅漢図、釈迦十六善神像、更に桃山時代では、真言八祖像、天台大師像、愛染明王像があげられる。重要文化財・仏涅槃図は、憲海が入手し、宗海が長保寺の什物としてそれ以前の涅槃図を末寺へ移管したのであるが、現存しているその涅槃図もやはり鎌倉末期のものである。
 とすると、少なくとも鎌倉末期つまり現在の長保寺の主要堂宇が建立整備された時期に遡る仏画が少なからずあり、菩提所となるまでの間に相当数の仏画が備えられたということになるわけである。
 ところで、長保寺は創立当初は天台宗で、一時法相宗となり、天台宗に復し、応永の頃から真言宗となったが、菩提寺になる際に再度天台宗に復したと伝えられている。確かに、江戸時代以前の仏画においては天台系と真言系が混在しており、右のような度重なる改宗を物語っているとも言える。ただし、鎌倉時代の末に、おそらくは現在の堂舎の整備にともなって制作された曼茶羅図は通形の真言系曼茶羅であり、明らかに矛盾する。
一方、経典に視線を転じると、奈良写経や平安写経も伝来しているが、いずれも菩提寺になってからの奉納であり、あるいはまた、歴代藩主などの新写奉納経、しかも法華経が多い。その中にあって、金剛仏子堅海が長保寺護摩堂で応永7年以前から同13年(1406)まで7年以上を費やして書写奉納した大般若経六百巻は、その当時における長保寺の実体を示すものであり、また、今日まで伝来する菩提所になる以前の仏画の存在ともいっこうに矛盾しない。
このように、長保寺は例えば和歌浦雲蓋院のように、江戸時代になってから紀州徳川家の意図によって生み出された寺院ではなく、確かに伝来する建造物や仏像・仏画・経典などによって、平安・鎌倉時代以来の密教寺院としての伝燈を護持してきた寺院であるということがわかる。また、そのような高い寺格を有すればこそ、紀州藩祖徳川頼宣は長保寺を永眠の地としたにちがいない。
この度、長保寺第19世・瑞樹正哲氏の御英断により、数百年伝世の什宝を御開陳いただき、粗略ではあるが仏画と経典について一通りの調査を終えることができた。以上において、その成果の一端を示したつもりであるが、長保寺の実像を明らかにするには依然程遠い。ただ、長保寺を「紀州徳川家菩提寺」として認識することから、ほんの少し深く踏み込めたと自負するものである。 最後に、調査の実施に当たっては、地元下津町教育委員会をはじめ、数多くの方々のご協力を得た。ともに仏縁を結びたい。