お知らせ

2007.11.22

NHK総合 和歌山地域ニュース枠 11月22日 18:10ー19:00の間 約10分

下津町都市再生モデル調査事業「海の町再発見」の様子が放送されます

長保寺での取材の様子も放送される予定です


 

堂入り

2007.11.19

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比叡山時報 平成19年11月8日

9日間の堂入りを満行し出堂する星野圓道師(中央の白装束)10月21日午前2時55分 比叡山無道寺谷、明王堂にて


仏教では吾々人間を指して「生死の凡夫」と呼ぶ。生きる意味も死ぬ覚悟もなく煩悩に明け暮れてかけがいの無い人生を無為徒食にうち過ぎている浅ましさを叱った祖師たちのお言葉である。
それではならぬと人生の目的に目覚め、一途に溝進することを仏道では修行といい、一般社会では修業と呼ぶ。人生の目的とは言うまでもなく社会有為な人材となることである。
ただ仏道の修行は迷い悩む人びとの道案内役を勤めなければならぬから生半可なことでない,故に修行者は日日の生活を一日一生と覚悟し、生涯修行の心で祈りに明け暮れするのである。 比叡山の修行の中でよく知られているのが回峰行である。相応和尚(八六五)が、比叡山の一木一葦を諸仏諸菩薩とあがめて祈り歩いたその昔から平成の今日まで途絶えることなく受け継がれてきた極めて厳しい修行である。
回峰行は、一期を千日と定め、厳しい規則にのっとって七年間で満行する。毎日三十キロ、比叡の山道を礼拝しつつ歩み、七百日を満じて回峰行中もっとも苦行とされる「堂入り」九日間に入る。断食・断水・不眠・不臥。その間、不動明王のご真言十万反を唱える。世界中で最も厳しい捨身行とも言われる。 去る十月二十一日、星野圓道大乗院住職がこの修行を成し遂げ「當行満阿闍梨」となった。まことに慶ばしい限りである。この堂入りの行を満じて修行者は正式に化他門に入る。人びとの為に国家社会の為に、そして世界平和の為に修行し、かつ祈ることを専らとする。その出発点こそが当行満なのである。
この堂入りを行者の「再生の行」とも言う。九日間で死線を越えて再びこの世に生まれる。これからが本格的な化他行の修行なのである。赤山苦行、京都大廻り、これはそのまま実社会の人びとへの救済化導の旅である。この千日行を満じた先輩大行満たちは今日も悩める人びとの心の支えとなって日夜を精進に明け暮れておられる。
有難いことである。


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比叡山の峰々を一千日問にわたって巡る無動寺回峰行。満行を目指す延麿寺一山大乗院住職星野圓道師(32 )が10 月13 日、通算700日を終えた。同日午後1時、無動寺谷の本堂明王堂に9日間籠り、断食・断水・不眠・不臥の状態で不動明王の冑雪口を一洛叉(10 万回)唱える「堂入り」の行に入った。そして9日後の凶日午前3持、衰弱しねがらも残りの力を振り絞るようにして本尊不動明王の周囲を3度回り、満行。境内
を埋めた信者ら約600人が息をのんで見守るなか、出堂した。

堂入り9日目の21日午前1時、無動寺谷明王堂前。気温6度。
「ナーマク サーマンダー バーサラナン・センダン マー力ロ シャナ ソワタヤウンタラター カンマン……」
境内や参道にあふれかえった信者たちが不動真言を唱えるなか、星野師は本尊不動明王に供える水くみの儀式「取水」に向かう。ほおはすっかりこけ落ち衰弱している様子。堂から「悶伽丼」までは約200メートル。介添え役の助番僧16人が提灯の明かりで行者の足元を照らす。右手に杖を、左手を天秤棒にかけた姿で一歩また一歩と進み、約40分かけて堂との間を往復した。
堂内に戻った星野師の様子を案じるように境内は、真言を唱え続ける信者らの声が静かに響いて止まない。眼下の琵琶湖からは身を切るような冷たい夜風が吹き上げてくる。
午前3蒔前、堂正面のかんぬきが外され、扉が開かれた。星野師は両脇を抱えられながらゆっくりと階段を降りてくる。真言は涙声で震え、境内は厳粛な雰囲気に包まれた。

 
 
 

久隔清音 千宗屋 武者小路千家家元後嗣

星野圓道師の堂入りが、二十一日未明無動寺明王堂にて無事満行を迎えられた。いままで写真や映像で見ることはあったが、今回初めて間近で取水にお参りさせていただく機会を得た。
伺ったのは中日に当たる十七日の深更。かつて明王堂へ向かう急坂を幾度となく共に降りた旧友と連れ立っての参拝であった。着いたのは取水には少し早い十二時前。まずお参りをということで、明王堂正面に。眼下には大津の夜景と深い群青を湛えて琵琶湖が横たわり、澄んだ肌寒い秋の夜空にはいくつも星が瞬いて、まるで行を静かに見守るようだった。固く閉じられた扉の向こうに想いを寄せ、静かに心経一巻を誦す。どこまでも静かな境内の中、お堂はひときわ沈黙していた。しかし堂内からはどことなく温かい気のようなものが溢れているのを感
じ、祈りの強さというものに肌で触れた気がした。確かにここで行が静かに、しかし沸々と行われているのだと実感できた。それだけでお参りに伺った意義があると思えた。
その後弁天堂に参拝し、私が行院の折指導員としてお世話になった輪番の中山玄童師に招じられるまましぽし歓談、取永の時間を待った。時間の少し前再び明王堂に上がると、いつの間にか僧俗の人垣が出来、行者の出を今かと待ち構えている状態となっていた。松明に火がつけられ、全員で不動真言を唱え出す。その声の中出堂された行者の姿は、すでに幾回りか小さくなられたかのように華著で、その動きも痛々しい。しかし周囲を圧するような気を放っておられた。この方はすでに人の世界におられないと感じた。衰弱されつつある身体を 押しての取水は、わずか二百メートルほどの距離を四十分かけて往復された。もとより人に見られることを想定した行いではないが、しかしなぜ行をするのか、そしてなぜ生きるのかということを改めて考えさせられる、そんな時間を祈りとともに過ごした。一夜を御山で明かし、あくる日に下山。それから少し早い風邪をひいてしまった。満行の報を聞きながら、自分のていたらくを嘆いたこの秋である。

 
 
 
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皆様のあまり触れる機会のない、比叡山の修行の一コマです

戦後、回峰行を満行した方は12人いるらしいですが、僕が存じているだけで6人位の方が今比叡山にいます

僕が、比叡山で修行した時の監督は小林さんという、もうお亡くなりになりましたが、回峰行を満行した方でした

ある行者さんのところには、一晩泊めていただいて、コタツで一緒にカレーライスを食べたこともあります
 
 
やっぱり、この人達は、僕から見れば、恐ろしいですよ

こういう人達は、高野山にはいないです
霊感強い人はけっこういますけどね
 

 

温暖化の影響?

2007.11.19

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霊園の入り口の参道の両側に植えていたリュウノヒゲが全滅しました

夏場枯れ込むことがありますが、これほどひどく枯れたことはありません

やはり、温暖化の影響だと思われます

山の木も、知らぬ間に枯れていたりすることが多くなりました

椎、杉、桜の幼木、などが弱いようです

これから植える木は、亜熱帯でもだいじょうぶな品種を選ぶ必要があるかもしれません

 

アクセス方法

2007.11.14

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「感じる前の世界」「人間の中心」に、どのようにしたらアクセスできるのか

 
「感じる前の世界」は、感じてないんだから、どの様なものか、わかりません

「わかる」としたら、それは感じているということですから、「感じる前の世界」ではないことになります

「感じる前の世界」は、わからないままです
これを、仏教では果分不可説と言います


ですが、密教は果分可説と言って、そのわからないはずのものを、「わかる」という立場です

ただ、「わかる」と言っても厳密な意味ではなく、象徴やイメージとして意味を代表させます
それを三摩耶(サンマヤ)と言います
つまり、シンボルです

なにをシンボル化したのか、と言えば、「感じる前の世界」ということになります

で、このシンボルを知るには、伝授が必要です

心から心に伝えられるからです

つまり、「感じる前の世界」」にすでにアクセスした人が作ったシンボルを、教えてもらい使います

シンボルは心から心へ伝えられ、たどっていけば必ず、最初にシンボルを作った人の心に行き着きます

ま、心の集団です

密教では血脈(けちみゃく)と言いますが、極めて、重視します

密教の立場から言えば、宗派は血脈を伝えるためにあるということです

高野山か比叡山できちんと修行した人は、正しい道筋で血脈があります

それ以外のシンボルは、正当性といいますか、品質保証といいますか、自己責任ということですね


ですが、シンボルが正しくても、使い方を間違えれば、期待される結果にはなりません
血脈にたよっていても、必ず善い結果になるとは限りませんが、血脈がデタラメなら、もう、やる前からダメです


シンボルが自己流の場合、どこに繋がるかは、やってみないとわからないです
僕的には、全くお薦めしません
つまり、日本の密教の場合、真言、天台以外の血脈はありませんから
外国製もあることはありますが、素性、歴史が極めて不透明ですので、どうして信用できるのか全く不思議ですね

 
 
で、これ、密教の場合です
けっこう、難しいことになります
エリート仏教と言われる所以です
 
 

「感じる前の世界」にアクセスする方法で、もっと一般的な方法はないのでしょうか

観音経はですね、「念彼観音力」と書いてあります
念じるということですね

阿弥陀経にも「念仏」と書いてあります

これは、我々が念じなければなりません

坐禅なんかは、まあ、かなり難しい部類で、瞑想とかも簡単と言っても限度がある

念仏は他力本願で簡単だと言いますが、最低限、念じなければなりません
お忘れなく

真言宗や天台宗で伝わっている、普通の真言陀羅尼を唱えるのも同じことですね
口で唱えなければなりません

 
何回も言いますが、仏教では救われるのに、「念じる」以上の条件はありません
たとえば、戒律を守らないから仏の救いは無い、などとは説きません
ただ念じれば、救われます


 
ところが、ですね

念じなくてもいい、もっと手間のいらない方法もあります

法華経の寿量品ですけど
「毎自作是念 如何令衆生 得入無上道 速成就仏身」
まいじさぜねん いがりょうしゅじょう とくにゅうむじょうどう そくじょうじゅぶっしん

つねに自ら(お釈迦様が)この念をなす 
いかにして衆生をして
無上道に入らしめ
速やかに仏身を成就するかと

 

つまり、お釈迦様が念じてくれます


しかも、なんの条件もありません

 
「感じる前の世界」にアクセスするんじゃなくて、向こうからアクセスしてくれているということですね
 

まあ、我々としては、その念じていただいてるのを、ありがたくお受けすることくらいでしょうか、することは

お釈迦様に対する感謝ですよね、そのくらいしか実際することはありません

お花をあげ、お供え物をし、線香灯明をつけ、合掌し、感謝の心を現す、ということでしょうか
 

恩を返せ、という教えもあるようですが、まあ、どこにもそんなことは書いてないよ
感謝してもしなくても念じてくれている、ということなんですよね
 

その寿量品が書いてあるお経が大事だと言う人達もいて、それはそうだというのもわかるけど、実際は、念じてくれているという行為が有り難いんじゃないですかね
僕は、そう思いますよ

ついでに言うけど、教祖様なんか、関係ないよ
お釈迦様がありがたいんですよ
単純なことだと思うけど、洗脳されてる奴が多いんであきれるね


 
それで
 
「人間の中心」ですけど

自分で空洞を埋める必要はない、ということじゃないですか

お釈迦様が念じてくれているんだから、安心して、自分に出来るだけのことをして暮らしていけばいいんじゃないでしょうか

その、ほら、どんなに念じてくれていても、ご飯を食べるのも、便所に行くのも自分ですからね
 
 
善意とか、良心は、やっぱり内側から湧いてくるんであって、誰かの指示ではないです

わけのわからない空洞が、虚無ではなくて、お釈迦様の念じていてくれる心に繋がっているということです

それが、雷に撃たれたように、気づく

そういう時がくるんですよ

 

 

パンテオンの中心

2007.11.05

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この3年くらい特に、不思議な感覚をカミングアウトする人が増えてきた

何かの天体配置の影響とかいろいろ言うけど、多分、心の連鎖反応かなぁ

人に指摘されると、今まで気がつかなかった事に気がつく
それ意外、考えられなくなってしまう

今まで気にしなかった、遠くから聞こえる音楽が、急に気になるような

スピリチュアルという言葉は、けっこう普通に使われるようになったし、高野山大学にはスピリチュアルケア学科もありますから、変な意味はないけど

スピリチュアルは、宗教とか、精神世界全般をひとくくりにするような概念にはならないと思うよ

つまり、スリピチュアル・イズムは心霊主義ですから
霊からの教示を尊重する、という立場なわけです

だから、江原さんなんかは、しごく真っ当な、スピリチュアリズムです

国連レベルで言うと、スピリチュアリズムという言葉は、イスラム諸国が持ち出してきたらしいですから、ま、江原さんの立場は彼独特だということなんですけどね

憲章における「健康」の定義の改正案について

憲章の健康定義が改正に至らなかった経緯


イスラムのスーフィーは、これは、非常に興味深いです
普遍的なものを感じますね
スーフィズム

それにしてもイスラムは、原理主義からスーフィーまで、幅広いわぁ
これはこれで、たいしたもんです


さて、

一般に日本で言うスピリチュアリズムは、教義としては、シルバーバーチに行き着いて、その発想の元ネタはインド文化だろうなぁ

輪廻、カルマ、前世、オーラ、チャクラ、霊との対話、石、香、占星術、多神世界、霊的階層、瞑想など、全部元々インドにありますからね

それで、シルバーバーチは、インド的な発想を取り入れた、キリスト教文化の修正、あるいは、改良だろうね

一見辻褄あってるんだが、要するにオリジナリティーは無いです

こういうのを、昔風に言うと、狐狸と言うんだな

それでですね、古代ローマでは、ギリシャ的多神世界があったわけですが、キリスト教やイスラムや、諸々、各地の土着の神など、寛容の精神で尊重していたわけです

カトリックが破壊活動をする前までは

パンテオン(万神殿 紀元前25)が建造されて、元々は世界各地の神々が肩を並べて祭られていた

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今では、カトリックが全て追い出して、キリストだけにしてしまいましたけど

ま、それで、古代ローマの寛容の精神では、諸宗教を仲良く尊重して、いわば現実的な対応をしてたのです

じゃ、その古代ローマ世界をひとくくりにするような概念はなんだったのか、ということですね

それは、フィロソフィーじゃないですか

少なくともスピリチュアリズムじゃないですよ


霊感があるということで、御自分の身体感覚を大事になさる方達がですね、日本の神々を大事にしてくださったりしてるのですけど、これつまり、日本固有の土着の神様達です

世界各地いろんな土着の神様がいらして、自分だけが一番偉いと思ってたら、まあ、喧嘩になるだろね

それで、特定の教義に行き着くような、なんとかイズムはほっといて、やはり、フィロソフィーでなければ、仲良くしてくことは出来ないですよ

哲学というと難しくなりすぎるので、智慧と言っておきます


トランスパーソナル心理学もその試みの一つではあるでしょうけど、心身問題の解決をしないと、方法論がフラフラするんじゃないですか

比較宗教という学問もあるんですが、研究に取り組む姿勢ですね
つまり、フィロソフィー
これを、もっと明確にしたほうがいいと思うよ

世界の分類整理は、だからどうした、と言われてお終いってのがほとんどですからね


そんなの関係ない、と思ってるあなたは、どうか御自分のおうちの宗旨を大切にしてください
それで充分間に合いますから

あの、仏教は、始まった時から「慈悲と智慧」と言い続けてますんで、そこんとこよろしく


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http://en.wikipedia.org/wiki/Pantheon%2C_Rome

パンテオンの中心部分は空間になっていて、そこに「人間」が立ちます
 

「人間」が中心です

確固とした「人間」が、多種多様な神々とおつきあいする、という考え方になるのでしょうか


これが逆だとどうなるか

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超越的な存在が様々な姿を見せ、それを「人間」が理解の範囲で解釈する、という考え方でしょうか

見る角度によって、神であったり仏であったりする、と

これは、でも、神々が全て同一起源であるという前提がなければなりません
まあ、神様にも都合があるでしょうから、根っ子は一つなどと勝手に決めつけても受け入れられるかどうかはわかりません

それに、何と言っても、でたらめな神様がいたら困ります


まともな神様達に、
「ミソもクソも一緒にするな」
って怒られそうです


ですから、「人間」中心がスジだろうと思いますよ

こう言うと、すぐ、「人間」はそんなに大したもんじゃないとか、思い上がりとか、言われそうですが

「人間」のそのまた中心をですね、考えてみてください


「生まれ生まれ生まれ生まれて、生の初めに暗く
死に死に死に死んで、死の終わりに冥(くら)し

弘法大師 秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」

実は、生まれる前のこと、死んだ後のこと、全くわかりません

生まれる前のことを覚えている、死んだ後のことを知っている、と言う人もいることはいるのですが、弘法大師でさえも「わからない」と正直に言ってるのですから、ここは無理をせず「わからない」でいいと思います

で、始まりも終わりもよくわからないのが人生なのですが・・・

人生は、厳然として、今ここにあります

わからないけど、ある
わからないなりに、やっていけてる


で、パンテオンの真ん中に立つと・・・

わからないけど、中心になっている

中心に何があるか、わからないけど、全ての神々が尊く、意義深く、仲良く輝いている

「人間」の中心に何かがあるとして、もの凄く尊いものがありそうな気がしませんか?

 


 

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