「唯識と空」という視点3

2007.08.29

アイコン

このお題は、過去いろいろ書いてきたので、ちょっと目先を変えて、本のご紹介をしてみようかと思います

残念ながら絶版になった本もありますが、探して見つかれば、一読に値すると思いますよ

真言では

栂尾祥雲
明治になってからの近代的学問の方法論を初めて真言教学に適用した人です
「秘密仏教史」が有名ですが、膨大な著作を集めた「栂尾祥雲全集」があります
超人的な業績ですね

同時代の真言に
金山穆韶「日本真言の哲学」があります
いってしまっている人です
高野山の専修学院に歴代院長の写真が飾ってありますが、一目写真を見れば、普通の人間じゃないのがわかります(不躾ですが、誰もがこう表現します)
なんと言うか、前のめりになってニカァーと笑っている写真です
その笑顔が、ちょっと表現のしようがないですが、凄いんです
仏では歓喜地といって、悟りの喜びに満たされる境地があるとされていますが、歓喜地の笑顔でしょうね

最近では
三井英光
亡くなりましたが、僕も直接伝授を受けました
悉地成就者です
「三井英光著作集」も出ています
「加持力の世界」など、理論的に、懇切丁寧に書かれています
他にも加持祈祷のできる人が書いた本はありますが、正統的で理論的な本はこの人が書いたものくらいだと思いますよ


 
禅で
山本玄峰「無門関提唱」
和歌山新宮の出身です
地元では、今でも偉人です
禅は、不立文字と言いながら、一番書籍が多いのですが、この人と道元などの祖師の物くらいですよ、お薦めできるのは

 
 
天台は、最近はないですね
禅密円戒念仏と間口が広すぎるので、まとまった事がなかなか言えないんです
学者は沢山いますが、学行兼備となると、祖師方の世代になりますね
天海僧正は徳川家康の顧問ということで、政僧という印象をお持ちの方が多いと思いますが、大変な悉地成就者ですよ、わかるかな


 
 

「唯識と空」という視点2

2007.08.28

アイコン


Eセラメダル御飯用

お米の内部まで熱を浸透させ、ふっくらとした美味しいご飯に仕上がります。【使用期限】半永久的。
ファイル 71-1.jpg

これが、どうにも不思議な代物
炊飯器に入れて焚くと、ご飯粒一つ一つが際だって、ふっくら美味しくなります
べとべと感がなくなってモチモチした感じになります
入れた時と入れない時と歴然と違う
備長炭を入れたときとも違うんだなぁ

どうしてそうなるか理屈は一応あるけど、やはり不思議です
でも、口は正直ですから、美味しい物は美味しい

その理屈というのが「波動理論」で
EM菌の良い波動を焼成したセラミックに移した、という代物です

まあ、理解に苦しむわけですが、うちでは家族そろって、「わけわからん」と思いながら使ってます

気のせいじゃありませんよ
否定される前に、一度おためしください

家族そろって「美味しくなーれ」と電気釜に言い聞かせると、もっといいのかもなぁ・・・・ 

これなど、似非でもなんでもいいわけですが、再現性のある結果がでるんだからしょうがない

ただし、味覚というのが主観で、「おいしさ」をどう感じるかの指標はありませんから、これも、しょうがないですね

アミノ酸とか、粘度、とか測定方法を工夫しても、どう感じてるか、までは指標化できません
まあ、アンケート調査くらいかなぁ、指標は
 
 
で、何が言いたいかというと
「客観的事実」と「主観的経験」の境界線は、けっこう難しい、あるいは、意識して引かないとわからなくなる、ということです

これは、実は控えめな表現で、僕に言わせれば、客観的という理解そのものが主観的な区分です
客観性の実体は、わけのわからないことだったりします
 

案外、事(善悪、愛憎など)や物(水や石など)には、固有の「波動」があって、「波動」には応用の利く再現性のある活用法があるのかもしれません

「波動」の実体は、物理学的な「波」や「動き」とは違うかもしれませんが、極めて似たような「なにか」(Rゆらぎ、とかPsiエネルギーとかいろいろ言葉がつくられてますが)であって、人間が願望成就に利用できる、と

本山博とか関英男などという名前を知っている方は少ないと思いますが、極めて真面目に、わけわからなく、研究は進んでいるようです

宗教は、願望成就などの私利私欲よりも、もっと高度なものを追求するのが建前ですが、接点はあります
 
 

ああ、そんな事どうでもいいという人は、心が健康だからです

迷路にはまり込んでいる人は、ここから先をお読みください
 

事物と心の関係を統合して考える「場」が求められるのですが、その一つの答えが唯脳論です
で、唯脳的に考えれば、それは科学の範囲に収まるはずです

たとえば、
「愛」もドパーミンの分泌量で量れるとか、
「爽やかさ」は脳波に現れるとか
ヘミシンクで瞑想状態をコントロールするとか
精神活動をバイオフィードバックで指標化するとか
眼球運動や筋肉反射に、心の活動が反映されるとか
死を合理化するために、死後の世界の幻覚を見るとか
心霊体験は、自己暗示と妄想による、幻覚症状だ、とか

 
 
これですね、仏教の唯識論は、そういった科学の範囲の方法論は否定しないんですが、全く違うんです
 
 
唯脳論では、生身の脳が死ねば、認識作用は終わります
当然です、火葬場で灰になったら、もう脳はありませんからね

唯識論は、死んでも続きます
というか、死は、識の一部分でしかありません
水や石も識の一部で、愛憎も生死も識の一部です

唯脳論は科学で、唯識論は哲学だ、という分け方もできます
そうすると、唯脳論は、唯識論の一部ということになります


 
 
続く
 

--------

仏教を、本を読んで理解した、という人を、全く信用しません
そんなことが可能だと思ってる人は、わかってないです

今でこそ、仏教という言葉が普通に使われ、それで意味が通じるようになってますが
本来は、
仏道、です

柔道、剣道、華道、茶道、仏道です

柔教、剣教などとは言わないように、仏教という言葉は、おそらく明治期にドイツ式の教養主義から出来た造語です
あるいは、キリスト教と対比して使われるのでしょう

神の教えを、迷える子羊に「教える」というニュアンスでしょうかね
仏道は、自覚するんですから、上から下に教える、という風にはなりません


で、仏道ですから、実践が主で、理論はオマケです
普通の住職さんなら、理屈などにほとんど興味はないと思いますよ
日々、実践ですからね

それで、ヨーロッパ風の主知的な仏教理解は、信用しませんね
ま、日本やタイできちんと基礎から修行した人もいますから、そういう人は別ですけど
 

大雑把に言えば
仏道は
修行や実践を通じて、全人格的に把握するものだと思います

仏教学者は、修行を重視しない人がほとんどですが、だから彼らの本をいくら読んでも悟りが開けないんじゃないですかね

修行無用論というのもありますが
自分を越えた向こう側に行くんですから、ボケッとしてたらダメだと思いますよ

-------  

「唯識と空」いう視点

2007.08.26

アイコン

似非科学について書いてて思ったけど

「科学になりきれない何か」があって、説明を求めてる
それで、とりあえずの理解をしてみるのは当然のことなんだけど

それが、自己増殖して、まったく不可思議な器械を作り出したりするわけです

 
とりあえず「波動」だけど

何度も言うけど、スピリチュアルな人達が安易に「波動」というのは賛成しません

なんにもなくても、胡散臭く見られてるのに、なにがどう「波」で、それがどう「動く」のか、わかってもいないのに、「波動」だと断言するのは、まあ、良く言って、幼稚です

波動が高い
波動が低い

波動が良い
波動が悪い

波動が強い
波動が弱い

波動がある
波動がない

これなど、ほんとうに、主観的なものなんですよ

僕は、その主観も無い、などとは言いません

霊感のある人(僕に言わせれば、感覚が比較的するどい人)は、たとえば「波動」で表現するような感覚を持つことがあります
その程度の感覚なら、僕にもあります

ただ、それを他人にあてはめる客観的な事実と混同してはいけません
感覚は感覚なんであって、個人的なものなんです

似たような感覚を持つことはあると思います
友人とか地域、あるいは国で

だからと言って、自分の感覚を誰にでも通用する事実として強要はできないでしょう

 
アイスクリームが好きな人は多いかもしれませんが、嫌いな人もいるんです
たとえば、それを、アイスクリームに良い波動があるので、嫌いな人は悪い波動になって不幸になる、などとは言えないんです

 
「おすすめのパワースポット」

などというのは、その最たるもので
これがいかにいい加減かは

その、パワースポットの推薦者に、良いパワーを感じる音楽を選んで貰えばわかります

それを自分で聞いてみると、なんじゃこれ、てのが多いんですよ

そりゃ、趣味の一致する時もありますよ
でも、それは、それだけの話で、パワーの有る無しについては、慎重にならざるを得ないでしょう

これは、審神(さにわ)にも言えることで、ある特定の文化圏には当てはまっても、異なる文化圏にはあてはまらないと考えるべきでしょう

 
 

仏教には説一切有部というのがあって、たとえば「悪」なら「悪」という実体が有る、と考えるんです
有部律の授戒の時は、「戒律」という実体があって、実際に授戒の時、この「戒律」の実体である、ある物を授かります
戒体と言って、箱に入ってます
有部の授戒をされた方は知っています

(善を詰め込んだ注射をすると、善人になる、ということになります
冗談ではなくて、教祖様の清らかなDNAを頂戴すると、福を授かる、なんてカルトはいくらでもあります
DNAは、まあ、精液とか爪の垢とかです)

 
実は、密教は有部の考え方を基本に組み立てられていて、仏なり菩薩なり天部なりが実体として存在し、考えたり働いたりする、と考えてます

それは、そう考えるしか説明のしようがない現象があるからですが、「有」も識の一部であると解釈すると、実はもっとスッキリした考え方になります


 
で、「波動」なり「パワー」なりが実体であるという考え方は、まあ、有部なら言いかねないけど、主観的な感触だというのが、精一杯の理解ではないですかね

それを、どうしても「波動」や「パワー」に固執するならば、不純な動機が別にあると思わざるをえない
 
 
ええと、それはそれとして

「有」も識の一部であると解釈すると、実はもっとスッキリした考え方になる

ということなんですが

つまり、「唯識と空」です

これは、誰が何と言おうと、仏教の中では、それなりに辻褄があってます

 
 
長くなりました
続く

ファイル 70-1.jpg
絹本著色 (龍猛) 室町後期(16世紀) 長保寺蔵

ナーガールジュナ(龍猛)
2世紀中葉〜3世紀中葉。南インド゙のバラモン出身。大乗経典の注釈書を多く著し、八宗の祖と仰がれている。南インド゙の鉄塔を開き、金剛サッタより密教の秘奥を直受した。

wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9

 
 

 

似非科学(えせかがく)2

2007.08.24

アイコン

ちょっと言い足りない感じなので
ま、聞き流してください

 
僕ですね、オーラとか若干見えるし、あるていどコントロールもできます

石は、感じるし、白川砂を本堂の回りに敷き詰めたりして、楽しんでます(白川砂は石英、つまり水晶の成分が含まれています)

 
 
混雑した電車のホームなんかで、金色の人を捜したりすることもありました

石は、子分がパワーストーンをやってるんで、普通の人が見かけないようなデカイゴツイ石も知ってますが、なぜか興味がわかないです

http://www.ishi-shop.com/

 
 
霊の供養は、本職だからなぁ
守秘義務もあるから、あからさまには言えないが、いろんな体験はしてます


 
まあ、でも大したことないです

本職の世界には上には上がありますからね

 
それで、思うんですが、
似非とホントの差ですね
「動機」も大きな要素だろうと

今の日本国では、最終的には、金になるかどうか、ということですね

似非科学は、金につながってるわけです

嘘だろうが誠だろうが、なんだかんだ言って、最後は、金と

なんだかんだ、の部分が、今風に賛同を得やすい科学的なお話になる、ということです
これが中世ヨーロッパなら、神の業でしょうなぁ
古代世界なら、悪魔の誘惑かも

でもって、最後は、金です

全く嘘で固められてるなら、完全な似非と
言葉のあやを巧妙に利用していても、似非
科学に近ければ、似非もどき、かなぁ
 
 

ただし

たとえば、水に愛という文字をはりつけると、結晶に変化があるという現象は、あるのです
(これは、波動ではなくて、愛という字を読んだ観測者の心が、水に作用してるんじゃないかと考えてますけどね、僕的には)

石は、石がパワーを持っているんじゃなくて、装着者と共鳴するんじゃないかと思いますよ(おおまかに言えば、気分を高揚させるということですな)

オーラは、色に意味があるような表現も可能ですが、色の原因は心の状態です

ついでに言うけど
EM菌は、生物ですから、多分、心が通じ合うことはあるだろうと思いますよ


マイナスイオン、遠赤外線、温泉効果、健康水など、そう解釈すると、物質あるいは物質的環境が心に作用する割合が大きいとも言えるわけです
(水はですね馬鹿にならんです。知り合いの鯉の池で、たしか電解還元水だったと思うけど、贅沢に入れてたら、鯉が倍くらいに大きくなりました。これなど人間にも良さそうですよね)

 
神社仏閣の荘厳なたたずまいも、おなじ原理で、参拝者の心を厳粛な気分にさせる装置でもあるわけです


 
で、これ
唯物論でも唯脳論でもなくて、相関関係から生じる、雰囲気です

心を測る指標が無いわけですから、科学的じゃないですけど、実感は伴います

それを、まあ、唯識というのですけどね

物質を単体で評価するのは「不可能」で、必ず、観測者の心の対象として意味付けされる、ということです


それで、正しい心で生活しましょう、というところに落ち着くわけです

その正しさというのは、これは、宗教には様々な定義があるのですが、まあ、各人決めることです

僕的には、歴史の風雪に洗練されて、宗教のエッセンスには、いいものが多いと思ってますけどね

 
ファイル 69-1.jpg
聖徳太子像 絹本著色  長保寺蔵
 
 

似非科学(えせかがく)

2007.08.23

アイコン

マイナスイオン

EM菌

波動(水への伝言など)

遠赤外線

など、似非科学になるらしい


石のパワーとか、オーラの色、などは似非の範囲にもはいらないらしい

 

 
EM菌は、科学か似非科学かどうでもいいことで、少なくとも、うちの寺では他ではできない効果が実際あります

牡丹の生育が、とてもいい
牡丹を自分で作っている人は、皆、うちの牡丹を見て驚きます
大きくて、茎が太いのです

それと、汚水に入れると、全く臭いがしなくなる

畑にも使っているが、これは、効果がよくわからない
似たような酵素とか発酵堆肥とかいろいろあるんで、ややこしくて比べられない
 
 
遠赤外線もあると思うなぁ

ある特殊な木材は、同じ所に置いておいても、それだけが、微妙に温もりがあるんです

通称、尾州と言われてる、檜なんですが、木曽の赤沢の檜を特に尾州と呼びます

尾州は、鎌倉時代から日本一の檜として知られていました

江戸時代、尾張の徳川家が独占して管理して、他の者に切らせない、「お留め山」にしていました
江戸時代は、「木一本首一本」と言って、勝手に木を切り出すと死罪でした
尾張の尾をとって尾州と呼ばれています

この木は今では林野庁が管理して、やはり切ることはできません
唯一切り出すのは、伊勢の遷宮の時の材木用です


江戸時代、尾州は徳川家だけが使う事ができたのです
江戸城、名古屋城、などのお城や、長保寺などの徳川家の寺や、徳川家の武家屋敷だけで使うことができました

ですが、徳川家が建てた建物は、火災などでほとんど失われてしまいましたから、実際に尾州で造られた建物はほとんど見ることはできません

長保寺の御霊屋は、その数少ない尾州で造られた、総檜造の建造物です

床、天井、雨戸などの建具類を含めて、すべて尾州です

柱を、さわってもらうとわかるんですが、横にある桑の木で造った結界と温度がハッキリ違います
同じ所にあって、日も当たりませんから、同じ温度になるはずですが、明らかに違いがあります

これは、多分、檜に含まれる油分から遠赤外線が出ていて温かいのだろうと考えています
尾州は特に品質がいいので油分が多いのだろうと思われます

まあ、伊勢の御神木に使われるのですから、神の力が加わっているという説明でもいいんですが、遠赤外線の方が科学的な理解に近いと思いますけどね
 
鎌倉時代から、尾州に触る職人さんは、他の木との違いを、実際触るのですから、よくわかっていたと思います
 
 

 
マイナスイオンですけど

似非かもなぁ、とは思いますけれど

那智の滝の滝壺ですね
全く空気が違います

マイナスイオンの正体は水の飛沫だと言うんですが、まあ、滝壺ですから飛沫はあります

マイナスイオンの効果が有るという器械がいろいろありますが、量的には那智の滝ほどにはないでしょうね
で、量を抜きにして考えようとするから似非になるのであって、那智の滝ほどのスケールであれば効果がある、と言うのは、科学に近いんじゃないでしょうか

 


 
さて、波動

愛とか怒りとか、文字を張り付けると。水の結晶が変わるという現象なんですが

心と物質の相関関係、ましてや文字と物質の相関関係、これを科学的に説明する方法論は、今のところ無いわけです

説明できないから、水の結晶が実際変化しても、科学の対象になりません

で、問題はそこからで。波動理論というものを創って、それに基づいて病気の治療をするということまで考えられていて、実際に機械が造られています

http://www.hado.com/vibrationalmedicine/starlight-1.htm

波動医学と言うらしいですが

医学には臨床があって、つまりは、病気が治ればいいんであって、理屈は後で考えれば間に合うのですが、科学的な説明ができなければ似非科学ということにはなります

いろんな問題があるわけです


たとえば、加持祈祷で病気が治る、とします

祈祷師が、まず、病人に会って病状を確認するとします
この時点で、医師法違反で刑事罰です

病気の診断と治療行為は医師の国家試験合格者だけにしか認められていません

病状の確認をしないと、治ったことも確認できませんね
ですから、ここらへんから、かなり怪しい治療行為が派生するわけです

病気の診断と治療を公然と言うなら、医師免許が必要です

僕は、病気の治せる坊さんを何人も知ってますが、このような理由で、公然とやってる人はいません
法に抵触しないノウハウがあることはあります

ま、いずれにせよ、病気が治ればいいんですけど、あまりに多くのデタラメがあるので、法律は必要でしょう
 
 
 
ええと、波動ですが

波動現象があるからと言って、そこから延々と理論を紡いでいくと、ホントにとんでもないことになるかもしれません

神学論争とでも言いましょうか、観念論は妄想を大量に含むことになるのは歴史が証明しています

キリスト教神学でも、イスラム神学でも、その世界の中では辻褄があってます
もちろん仏教哲学もです
当然ながら、科学も、辻褄があってます

理論には前提条件が必要なのですが、前提条件については、それ以上の証明は必要とされません

科学で言えば、物質の存在
実験と観察という方法論

一神教では神の存在

仏教はなんだろな
今、自分がいるという感覚かな

波動理論では
波動の存在

 

 
でもって、波動とはいったいなにか

弘法大師の声字実相義では、声と字が実相ということになってますが、この場合の声字は、物理的には測定不可能です
心の中の現象だからです

水に影響を及ぼす、心の波動を、測定したという話は無いようですね

石の波動、とか簡単に言う人もあるようですが、まあ、測定できないのですから、波動かどうかわからんのが実体です

心のエネルギー、などという表現も似たようなもので、どんな計測器で測定するんでしょうね
各自の主観で、有る無し、強弱を勝手に決めているんじゃないですか

パワースポットという言葉も同類ですよ
 

主観的な「印象」を、あたかも客観的に比較可能な「現象」にすり替えているんじゃないですか
 

あちこちの神社や寺などを、凄いパワーがあると言う人もいれば、エネルギーが感じられないという人もいたり、勝手なもんです
まあ、独裁者が決めるなら、ナチズムに近いな

主観を客観に見せかけるのに、悪意が有っても無くても、この二つは違うんだから混同してはいけません

波動、パワー、エネルギーなど、あたかも客観性があるかのような言葉を精神世界に持ち込むのは、下劣な行為だという自覚をどうぞお持ちください

「感触」「愛」「素晴らしい」、など、個人的な感覚なのであって、それ以上でもそれ以下でもありません

 
どうも経済活動のグローバリズムが精神世界の普遍化の可能性にもつながるようにも思えるのですが、方法論そのものが客観性を持つことがないのですよ

僕は、パワーストーンなど、文学の範囲じゃないかと考えてますけどね
 
 

ま、こういうことは、仏教の唯識論なら整然と説明つくんですけどね
いずれ、注目されるようになるでしょう

アメリカで唯識の意義を再発見、とかね

 
そう言えば、グロフとかウィルバーは、どうなったんですか
トランスパーソナル心理学は忘れられちゃったんでしょうかね

再現可能性、実験再現性、再観測可能性が乏しいということで、これも似非科学でしょうなぁ

  

 

イエスからキリストへ

2007.08.17

アイコン

ロゴスとダルマ

ストア派、新プラトン主義とアビダルマ

イデアと霊界

ロジックとマンダラ

生贄と供物

パガンと多神世界

などなど


キリスト教のことを少しばかり勉強中

仏教はヒンドゥーとの混淆が大きなテーマになるけれど、今風にはキリスト教との相互作用も興味深いね

キリスト教神学が普遍性を追求してるんですよ
それで、一神教ではあっても、ユダヤ教やイスラムとは違って、仏教哲学との接点も感じられるのです
 

遠藤周作の「イエス・キリスト」を読んでます
 
やっぱり、仏教とは全く違う世界ですね
祈り、熱狂、迫害、裏切り、殉教

そのどれも、釈尊は知らない

 

書評を書こうかと思ったが

2007.08.16

アイコン

苫米地英人氏が、新しく出した

「新・福音書」
「スピリチュアリズム」

どうも、脳の機能と神秘体験や宗教経験との相関について示唆はあるのだが・・・・・
書いてるスタンスが気に入らないし、仏教についての認識不足も気になる

で、書評を書いてみようかと思っていたのだけれど
その、評価というのは、プラスの評価をする時は冴えるんだけれど、マイナスの評価をする時はは自分自身つまらないし、不愉快になるんですよ

で、サラッと、流す程度にしときます

 
 

先ず、苫米地氏は唯脳論の立場から、科学的に語ろうというのが基本らしいのですが、まあ、唯脳論自体気に入らないわけです

物質還元論とでも言うか、心の働きを、物のレベルですべて説明できるという思いこみなんだけど、そりゃあ、どこまでやれるか試してみるのはいいけど、辻褄合わなくなると思うよ

苫米地氏の場合、脳のドパーミンの分泌量で快感が量られ、瞑想はドパーミンが多く出るので、皆こぞってするのだ、という総括なのですが、なにか、カルトと同じ穴のムジナですね

肉体的快感が、価値の尺度になってるんですよ、この人は

「新・福音書」では、願望成就がつまり、福音らしいけど、僕はキリスト教徒じゃないけど、全く「福音」がわかってないぞ
肉体的、物質的な価値よりも尊い「愛」がある、というのが「福音」なのではないのか

脳機能の操作で願望成就を効率的にする、などという発想そのものが、カルトじゃないですか

ミイラ取りがミイラになった瞬間だね

僕は、苫米地氏がオウムと戦ったのには、敬意を表するし、ずば抜けた天才だと、今でも思ってるけど、つまり、唯脳論にこだわってると、価値の尺度が物質的になるってことなんですよ

 
縁起と止観についても語ってますが、なんかなぁ、自分勝手な定義をくっつけてしまっていて、本そのものを低俗にしてしまっているなぁ

「内部表現の書き換え」「抽象度を上げる」「ホメオスタシスの抵抗」など、随所にキラリと光る発想があって参考になるんだけど、脳トレーニングの進化という線で考えればいいんであって、宗教性までいくと誇大妄想でしかないな

 
「スピリチュアリズム」のほうは、オウム関連の部分については、濃い内容だと思います

中沢新一氏やチベット仏教についての考え方は、僕は、支持しますね
中沢新一氏は、チベットのブラックとつながっているのですよ

まあ、チベットには、まともな部分とブラックとがあって、ブラックが亡国の原因なんですよ
これは、僕は、克明にわかってるけどこれ以上は触れません
わかってる人は、皆わかってるよ

チベット人は今大変な状況で、基本的には同情してるし、悪口言う前に自分がしっかりすればいいんだからね

ノーベル賞など、関係ないんだよ


江原さん、やり玉に挙げられてるけど、スピリチュアリズムがチベットからの影響で、シルバーバーチや、ナチズムもチベットがネタ、ということなんですが・・・

まあ、証拠をもうちょっと揃えた方がいいなぁ
思いこみが多いぞ

いちいち反論してたら不快になるので、やめとくけど、この程度、って感じかなぁ
勝手な決めつけから初めて、自説を強要するという、これまたカルト的な手法

唯物論や唯脳論の信奉者が、「江原の背後霊の教えは差別肯定とナチズムにつながる」ってやるのかぁ
 
 
 

僕は、江原さんみたいな「背後霊の教え」は、あるとは思うけど、その教えが素晴らしいかどうか、判断する力が、自分自身の中にある、という立場

判断の基準が、仏教的には仏性だろうし、キリスト教的には「神の愛」でしょうね

その仏性は、輪廻や因果を越えて働いている、ということなんじゃないの

輪廻や因果や背後霊を否定せず、それを越えた仏性に基づいた生活が出来る、というのが仏教の立場です

僕的には、仏教一番だなぁ、と思ってるんですが、ま、いいか

 
 
ファイル 66-1.jpg


 

本覚讃8

2007.08.10

アイコン

一通りざっとですが、内容を解説してきました
今回で最終回とします

この本覚讃は、僕は智証大師の作だと思っていたんだけれど、元三大師の作という説や、不空訳の経典にあるという説があったりして、その起源がよくわかっていないようです

天台宗としては、元三大師が極めて重視していたので、今も採用されているということになると思います

元三大師(良源)は比叡山の長い歴史のなかでも、最も霊能力の強い、伝説の多い人です

元三大師wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%AF%E6%BA%90

それだけでなく、論議を重視し、つまりロジックですけど、論戦を盛んにしました
霊感だけでなく、学問も重視したのです
また、火災などで荒廃した比叡山の伽藍を再興した実務家でもあります
そして、元三大師の弟子達が、比叡山の黄金期を作りました

その黄金期にできた寺の一つが、長保寺です
元三大師(912-985)、長保寺創建(1000)

 
 
さて、天台は本覚なんですが、それでは高野山の真言はどうなのでしょう

本覚の反対語は初覚(しがく)ということになっています
本来覚っているんでは無く、徐々に覚っていくという意味なんです

高野山では、今は帰命(きみょう)と言っているようです
サンスクリットではnamoです
南無ですね

これは、修行によって覚るのだ、という立場です

ともすると、本覚思想は、なにもしないでボンヤリしていても、それで仏教の修行が完成している、という意味にとられがちです
それを、真言では、帰命、と言って、修行がなければ覚りはない
、ということを強調しています

僕に言わせれば、弘法大師風の考え方ですね
 

天台の場合、解説してきたように、緻密な哲学が背景にあります
天台は経宗とも言われ、経典に根拠のないことは言ってはならないという不文律があります
煩瑣な議論の占める割合が大きいのです
霊感や宣託が野放しにならないように歯止めにはなるだろうと思いますが

真言は、弘法大師はこう言った、ということで結論になります
あまりに弘法大師が偉かったからです
ですから、哲学的な煩瑣な部分はありません
そのかわり、膨大な量の、儀軌の精密な研究があります
 
天台--哲学、真言--作法、ですね
 
ま、性格の違いですが、この天台哲学の基礎があったから、鎌倉仏教が発展した、というのが歴史です

真言は、戒律も有部律で、僧侶は一般人と隔絶した専門家とされています(知らないと思いますが、タイやミャンマーの戒律と同系統です。今は高野山は世俗化してますが、どうなちゃったんだかわからんですね)
伝授の秘密性も厳格です(今でも印を隠して結びます。僕は比叡山で、印を隠せというのは教わらなかったです。愕然としましたけど。こだわらないんですね)
 
天台--大衆、真言--専門、でもあります
 
さあ、これがこの先、どう発展しますかね

僕の頭の中で、今いる人材を比べてみると
うーん、世襲化をどう決着させるかかなぁ

天台のほうが、開かれてるんだよね
ただ、間口が広すぎるんで、なにが言いたいかも一つよく分からない

真言は祈祷のhowtoが明確なんで、わかりやすいんですが、弘法大師個人崇拝だけでは普遍性は無いなぁ
 
比叡山と高野山、両方あってちょうどいい、ということにしておきましょう


 
 
 
 
本覚讃(ほんがくさん)
帰命本覚心法身 常住妙法心蓮台
本来具足三身徳 三十七尊住心城
普門塵数諸三味 遠離因果法然具
無辺徳海本円満 還我頂礼心諸仏

 
ファイル 65-1.jpg
長保寺蔵 紙本著色 元三慈恵大師良源画像 弘化2年(1845)
 
 
 

 

本覚讃7

2007.08.08

アイコン

こうして本覚讃の解説をしていて気が付いたことがあります

それは、この短い文章の中に、唯識観と空観、その二つが一体化した妙法が説かれているということです


 
帰命本覚心法身 常住妙法心蓮台 「妙法」

本来具足三身徳 三十七尊住心城 「唯識観」

普門塵数諸三味 遠離因果法然具 「空観」


 
ちょっと、かなりややこしいので、説明するのに気が重いんですが
 
天台教学では、法華経が最高の経典です
法華経は、けっこう長い経典なのですが、中心になる部分があります
その中心部では、釈迦如来と多宝如来が、並んで坐って法を説きます
法華経では、釈迦如来が唯識観を表し、多宝如来が空観を表しています
並んで坐っていることで、唯識と空の合一を現しています

唯識観と空観は仏教の根本的考え方です

唯識観は、すべての事象は心で感じているから存在する、と考えます
華厳経などの「三界は唯心の所現」といった考え方です

空観は、一切の事象は因縁果報と果てしなくつづく連鎖の一部であり、定まった自性などない、という考え方です
般若経典の「一切皆空」という考え方です

唯識と空は、それぞれ独立した考え方ですが、
唯識(見る者)、と空(見られる物)が分離している限り、私という我執から離れられません
見る側と、観察対象の分離があるということは、「繋がって一つになった状態」ではありません

仏教は、「神による救い」ではなく成仏、つまり自らがホトケとなることが最終で真実のゴールです
ホトケとなる、ということは、全てと繋がって一つになる、ということです

それが、唯識と空の合一、「常住の妙法」です

 
その妙法が

無辺徳海本円満 還我頂礼心諸仏 「我」

我が心にある、ということです

ただし、条件があります

頂礼しなければなりません

漫然と無為無策では、妙法とは出会えません

かけがえのない尊いものが、全ての人の心に宿っていて、気づきを待っているということでしょうか

  
 
続く
 
 
 
 
本覚讃(ほんがくさん)
帰命本覚心法身 常住妙法心蓮台
本来具足三身徳 三十七尊住心城
普門塵数諸三味 遠離因果法然具
無辺徳海本円満 還我頂礼心諸仏

 
 
ファイル 64-1.jpg
長保寺蔵 法華曼陀羅図 中心部分 左が釈迦如来  右が多宝如来

 

 

本覚讃5

2007.08.06

アイコン

「心の秩序」に、まだこだわりますが

キリスト教の三位一体説は、人工的に作られたものではあるのです
 

・・・・・
日本語では「異端」と訳され、辞書には、正しいとされる宗教・思想・学説などから外れたもの、とあり、「異端視」は、異端として排斥的に扱うこと、とある。
しかし、この日本語訳も源をたどれば、ギリシア語とそれを受け継いだラテン語の「haeresis」にたどりつく。ところが、ギリシア人もローマ人もこの言葉を、「選択」の意味で使っていたのである。ギリシア・ローマ時代の「異端」は、「執考した末に選択した説」であって、「正統な解釈から外れた説」ではなかったのだ。こうであれば選択の結果にすぎないのだから、排斥までは行きようがなかった。それが一神教が支配的になるにつれて、選択は姿を消し、正しいか誤りか、でしかなくなったのである。異端は、耳にするのも忌わしい、となってしまったのだ。「選択」ならば共生は可能だし、道理さえ認めれば相手に歩みよることも可能だ。しかし、誤りの意味の「異端」となっては、共生も歩み寄りも不可能になる。

そしてローマ帝国もますます、排他的になりつつあった。三位一体派が勝つか、アリウス派が勝つか、にかかわらず。一神教の本質そのものが、排他性にあるからだろう。
 
ローマ人の物語 キリストの勝利 塩野七生 p.79

・・・・・
 
 
コンスタンチノープルは最初にローマ帝国でキリスト教を公認したコンスタンティヌスが、大ローマ帝国の首都として建設しました

当時のコンスタンチノープルでは、「父と子は別」というアリウス派が主流だったのです
それを、公会議を繰り返して、ついに異端に仕立て上げてしまいました

僕に言わせれば、より排他的な一神教である三位一体派のほうが、ローマの専制強化には便利だったのでしょう

その後もアリウス派が公に認められていれば、かなり違った歴史の展開があったことでしょう
少なくとも、カトリックのような、教会だけが宗教的権威の卸元という仕組みはできなかったでしょうね

 
 
仏教では経典結集というのをやってますけど、公会議とは全く違いますね

経典結集では、「如是我聞」かくの如く我は聞いた、と、お釈迦様の言葉を正確に残すための検討会であったのです
公会議の方は、イエス様をどう解釈するか、といった派閥争いです、ひどい言い方をすれば

 
 
で、本覚讃ですが

この本覚という思想の根拠は、経典としては涅槃経の「一切衆生悉有仏性」にあるわけですが、仏教の最も基本的な要素として、2500年の仏教的瞑想の歴史の中で検証され続けたということです

こういう哲学的な要素は、日本の神道などにはないのですが、いかがですか、ボタンをかけるとき一番上のボタンからかけますが、「仏性が有るか無いか」といった問題は、人間生活の隅々まで影響を及ぼさざるを得ないのです

鎌倉仏教が勃興して、「大衆の救済」といった視点がもたらされましたが、特殊な人間だけが救われるのではない、といった考え方は、鎌倉仏教以前は出来なかったのです

鎌倉仏教の基礎に本覚があるのです

すべての人間に仏性がなければ、すべての人間が救われる、のは不可能です

日本の歴史で初めて、一般庶民が仏性を持った存在として認知されたのが、鎌倉仏教であったのです

人間の「自由」や「平等」「独立」「尊厳」といった問題も、すべて本覚思想に行き着くんじゃないでしょうか

その仏性が本来備わっている人間の「悪徳」「残忍さ」「無慈悲」は、必ず克服される、という理屈になるんですけどね

 
 
続く
 
 
 
 
本覚讃(ほんがくさん)
帰命本覚心法身 常住妙法心蓮台
本来具足三身徳 三十七尊住心城
普門塵数諸三味 遠離因果法然具
無辺徳海本円満 還我頂礼心諸仏
 
 

ファイル 62-1.jpg
国宝長保寺多宝塔 本尊 金剛界大日如来坐像 平安時代
 

 

本覚讃4

2007.08.05

アイコン

「心の秩序」はなぜあるのか?

あるいは、いつからあるのか?
 
 

その答えは仏教にはありません
少なくとも、お釈迦様は答えようとしませんでした

この答えのない場所が、法界であり「空」なんじゃないかと思いますね
言語を絶していて、有るでも無いでもない

キリスト教的には神ということになると思うけど、キリスト教の神に対する畏怖や敬虔な気持ちは、仏教の「空」に対する気持ちと近いかもしれません

ただ、どうしてもキリスト教では、人は神になれないんで、これは、僕的にはお釈迦様の発見した道筋が勝れているんだと思ってますけどね

 
その、「心の秩序」を図示すると曼陀羅になるわけですが、サンスクリットの意味から言えば、「輪円具足」といった意味になります
本質、神髄といった意味のmandaに成就の意味の後接後laを加えたものです

つまり、中心があるということなんです

自分の心を考えてみればわかることですが、実に混沌としています
あっちに行ったり、こっちに行ったり、なにを考えているのかわからなくなります

ですが、静かに内省すると、(これを心のさざ波を静める、とも言います)より深い心があることに気付きます

これを、一から発見しろ、ということだと無理ですが、お釈迦様がやってみせたわけで、やり方がわかってしまえば簡単な事です

本覚讃では、あれやこれや念入りに言ってますが、自分の心の中の事ですからね
あちこち探し回る必要は無いし、もっとも身近ですよ

混沌や闇から、自分の心を救い出す力が、自分の中に備わっている、ということです

大事なコツは、中心を感じることです

お釈迦様やイエス様が繋がったところに繋がることです

それは、自分の心の中にある、というのが仏教の教えです
 
 
え、具体的にどうするのか、ってですか

微笑んで、眼をつぶって、背筋をのばして、静かに呼吸に意識を集中してください
浮かんでくるイメージを全部、すっからかんに呼吸と一緒に吐き出してください
神もホトケも、損も得も、善いも悪いも、有るも無いも、全部吐き出して、その先の、そのまた向こう側が、中心です

 
一心不乱にお経を読誦する、真言念誦する、などでも同じことです
こちらのほうが簡単です

わかりきった事ですが、僕は簡単な方しかやりませんよ(^^)

 
続く
 
 
 
 
本覚讃(ほんがくさん)
帰命本覚心法身 常住妙法心蓮台
本来具足三身徳 三十七尊住心城
普門塵数諸三味 遠離因果法然具
無辺徳海本円満 還我頂礼心諸仏 
 
ファイル 61-1.jpg
長保寺蔵 種字法華曼陀羅図 中心部分
 
 

本覚讃3

2007.08.04

アイコン

三身の続きなんですが

法身・報身・応身が父・子・聖霊の関係と似ているということですけど

キリスト教的には、これは、唯一イエス・キリストだけの属性です
しかし、仏教的には、一切の生きとし生ける者全てが本来もっている性質です

この父と子と聖霊は不可分だというのが、キリスト教一般ではどうしてもゆずれない一線なのです

それが、仏教ではホトケと言っても、釈迦如来や薬師如来、阿弥陀如来、大日如来、などなど、名前が経典に書かれているだけでも3000以上あります
基本的に、人間の頭数だけホトケがいて、全然困りません

キリスト教の最初の公会議になるニカイア公会議で、父と子と聖霊は別々だと言うアリウス派は異端にされてしまいました

別だと言うことになると、絶対的神(父)とイエス(子)、そして聖霊としての神からの力、は、条件さえ合えば、だれにでもありえることになります

父と(私)と(私を通じて感じられる力)

と、いうことも可能です
ま、仏教からすれば、当然のことなんですけど

一切衆生悉有仏性

という言葉がありますが、仏性が「神の力」の根源であり、イエスでなくても、その程度のものは持っていると考えるのが仏教です

現実には、くだらない奴も多いので、理屈の辻褄を合わせるために、無明とか、煩悩とか、仏性を邪魔する何かを想定しますが、キリスト教のように、イエスだけが、「神の一人子」とは絶対に言いません

シャカムニだけが大日如来の子、ではなくて、ホトケになろうと決心すれば、誰でも菩薩で、ホトケの子です

 
ややこしくなるのを承知でいろいろ書きますが

弘法大師は「法身は説法する」と、おそらく全仏教史上唯一人、言っています
インドにも中国にもチベットにも「法身説法」を言う人は、いません

日本でも、後の新義真言宗になって修正が加わり、「加持身説法」になります
まあ、今でも高野山は「法身説法」なんですけど、サンスクリットでしゃべってることになってるわけで、どうもその、言わせている意図の本体があったほうがいいような気がしますね
ロジカルに言えば

 
 
それで、密教は三密加持が基本ですが、つまり、身口意(しんくい)、印と真言と観念がホトケの決め事と一致すれば、それがそのままホトケになっていると考えます

これは、元々ホトケになる可能性を我々が持っていなければ成り立たない話で、やっぱり、天台本覚思想がですね根底で認められてる必要があります

それで道元さんなんかは、坐っていれば悟れると考えてるわけで、本覚思想を信頼してなければ出来ないことです

この本覚ということになると、元々人間が持っている自律神経というか自己保存本能、ホメオスタシスと言うらしいですが、この作用で、心の歪みを自動的に除く、というのとはちょっと違っているんです

三十七尊住心城

とも書かれているわけで、心の中に曼陀羅の秩序が存在してるという感覚なんです
自然界の掟、とか、自然法則によって、ということじゃなくて、整然とした心の秩序が曼陀羅として備わっているということです

この「三十七尊」と言うのは金剛界曼陀羅になるわけですが、金剛界曼陀羅は系統から言えば、唯識観に属していて、心の秩序が整然と存在するという立場です

曼陀羅と言っても実際はいろいろあって、妖怪や化け物の曼陀羅さえあります
ま、なんでもかんでも曼陀羅ならありがたいということじゃなくて、金剛界三十七尊がありがたいということなんですけどね
 
続く
 
 
 
 
本覚讃(ほんがくさん)
帰命本覚心法身 常住妙法心蓮台
本来具足三身徳 三十七尊住心城
普門塵数諸三味 遠離因果法然具
無辺徳海本円満 還我頂礼心諸仏
 
 

ファイル 60-1.jpg
長保寺蔵 織成 種字金剛界曼陀羅図

 

本覚讃2

2007.08.03

アイコン

三身や三十七尊について解説するのが目的ではないのですが

三身(法身・報身・応身)とキリスト教の三位一体説ですけど、勝手なことを書きますが、近いんじゃないですか

ただ、この仏教の三身説には歴史的にかなり幅があるので、言おうと思えばどんなことでも言えるわけです
しかしながら、どうしても、この三身を持ち出さざるを得なかった、あるいは、三位一体説を作らざるを得なかった理由があるわけです

それが、仏陀が入滅しても涅槃において存在し続ける、キリストが復活する、と、まあ、今でも影響力があるということの理論が必要とされるわけです

原本(と仮に言っておきます)---不滅にして常住なわけです
歴史的、肉体的な仏陀、あるいはキリスト---今はいません
時間や空間をこえて我々とコンタクトし続ける、ホトケあるいはGOD

この三つが、絶対に必要だということですね
これつまり、ロジックです

ついでに脱線しますが、達磨大師は、ねたまれて毒殺されたが、復活して(つまり生き返って)西に去った、という伝説があります
墓場から抜け出して、歩いているのを見た者がいるらしいですよ

 
ああ、それでですね、本覚讃において、全ての衆生に三身の徳があると言い切っているわけで、仏陀でもキリストでも達磨大師でも、復活していただいてなんら不都合はないということになります

 
 
最近話題のハイアーセルフですけど、これは、似てるようでちょっと違うんだなぁ

ハイアー(高次な)セルフ(自己)ですね

このセルフがですね、仏教的にいえば妄想(無我を求めていますから)、キリスト教的には異端の神(神はだた一人ですよ)ですね
善いとか悪いとかは別にして、脱線した部分の概念になってしまいますね

僕的には、ハイアーセルフちゃんはホトケかGODの子分かなぁと・・・
ならいいんだけど、悪い奴だと、困るわなぁ
で、あんまりお薦めしない、と
統合失調性への最短距離でしょうなぁ
ま、危険極まりないので、わざわざ努力してまで付き合う相手じゃないね
コンタクトが切れない人は、ハイアーセルフちゃんはハイアーセルフちゃんで、自分は自分だということをお忘れなく

 
今回は脱線したまま終わりました
続く

 
本覚讃(ほんがくさん)
帰命本覚心法身 常住妙法心蓮台
本来具足三身徳 三十七尊住心城
普門塵数諸三味 遠離因果法然具
無辺徳海本円満 還我頂礼心諸仏

 
ファイル 59-1.jpg
長保寺蔵 種字金剛界曼陀羅図

 

本覚讃1

2007.08.02

アイコン

仏教のいろいろな考え方のパーツについて書いてみようかと思っているんですが、その前に、すでにある経典などについて、概観を知っておいて欲しいので、いくつか解説することにします

本覚讃(ほんがくさん)
帰命本覚心法身 常住妙法心蓮台
本来具足三身徳 三十七尊住心城
普門塵数諸三味 遠離因果法然具
無辺徳海本円満 還我頂礼心諸仏

きみょうほんがくしんぽっしん じょうじゅうみょうほうしんれんだい
ほんらいぐそくさんじんとく さんじゅうしちそんじゅうしんじょう
ふもんじんじゅしょさんまい おんりいんがほうねんぐ
むへんとくかいほんえんまん げんがちょうらいしんしょぶつ

 
これも、天台系で頻繁に使うお経です
智証大師の作と言われています

実は真言でも使います
真言の坊さんでも知らない人が多いと思いますが、高野山の奥の院の御廟橋を渡るときに唱える偈文がこれです
本覚讃の一行目と二行目を唱えます
真面目に加行しなかった奴は、御廟橋を渡るときに偈を唱えることすら知らないかも、ですが(^^;)

滋賀の石山寺あたりで天台と真言はかなり混じり合いました
それで、細かい作法はかなり影響しあっています

まあ、本覚讃の考え方が、密教全般通じて基本的なものであるということです

 
 
帰命本覚心法身
本(来)覚っている心の法身に帰命したてまつる

常住妙法心蓮台
妙なる法が心の蓮台に常に住んでいる

本来具足三身徳
本来より(法身報身応身の)三身の徳が具足している

三十七尊住心城
(金剛界の)三十七尊が心の城に住んでいる

普門塵数諸三味
塵の数ほどの諸々の三昧にあまねく(開かれた)門がある

遠離因果法然具
因果を遠く離れ法然として具(足)している

無辺徳海本円満
無辺の徳の海が本より円満している

還我頂礼心諸仏
(外にするべき頂礼を)我に環して心の諸仏を頂礼する


 
と、言うことなんですが

三身(さんじん)というのが、ちょっとややこしい概念ですね
これ、いつ頃から言い始めたかよく知りませんが、お釈迦様が入滅して、それでも、その存在感が失われないという事実をどう説明するか、ということから出来てきた説でしょうかね

仏陀としての本質が法身(ほっしん)
修行の成果として仏陀となったのが報身(ほうしん)
衆生の願いに応じて現れたのが応身

で、同じ仏陀であっても、その性格を、本質・自利・利他と三種類に分けることができるという見方
なんですけど

どうも、時代や、学派によって違う解釈があったりして一定しません
軽く流しておいてください

お釈迦様の入滅後、応身として存在し続け、本質は法身として失われていない、などと理屈をつけるわけです
 
 
三十七尊というのは、金剛界曼陀羅の三十七尊ですね

ファイル 58-1.jpg
長保寺蔵 金剛界曼陀羅図
 

五仏、四波羅蜜菩薩、十六大菩薩、八供養菩薩、四摂菩薩で三十七尊になります

転識得智といって
アラヤ識(記憶を貯蔵する心の作用)が大円鏡智になり阿しゅく如来となります
マナ識(エゴや自他の区別をつける心の作用)が平等性智となり宝生如来になり
意識が妙観察智となって阿弥陀如来になり
前五識(眼耳鼻舌身)が成所作智になって不空成就如来となります

これは、大日如来の徳を東南西北の四つに展開したものです
四仏をまた東南西北の四つに展開して十六大菩薩になり
四仏から大日に奉仕するために働くのが四波羅蜜菩薩
大日が四仏に供養して四供養、四仏が大日に供養して四供養、合わせて八供養菩薩です
その全ての徳を衆生に及ぼすために働くのが四摂菩薩となります

言うなれば、仏の働きの論理的な展開図です

 
 
意外と長くなったので、次回に続きます


 

前のページに戻る  最初のページに戻る