十非心4

2007.07.18

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十非心については、これで終わりにします

十非心は、ある程度の段階がこないと、しっくり感じないかもしれません

人から、立派な人だと賞賛されるようになる、先生と呼ばれるようになる、責任者として人の上に立つ、などしないと、わからないかも

心が脱線するのは、初心者とか、熟練者とか、また、身分地位などに関係ないわけです
むしろ、熟練して、いろんなこと(霊感を含めて)が細部までわかってきてからが難しい

だけど、あれしちゃダメ、こんなことダメ、それもダメ、と腫れ物にさわるように自分の心に向き合っていると、まあ、いずれ鬱病かなー

それで、僕的には、法界と繋がるのが最も大事で、反省やら自省などは、暇なときにすればいいんじゃないかと思ってます


 
 
ただその、一言いたいんだけど

まず、ガードを固めることですよ
これが、わかってない人が結構いる

何遍も言うけど、仏教は2500年もやってますから、止悪や懺悔にかかわる研究やら、文章は、腐るほどあります
でも、それだけ、心は、あっちこっち勝手に行ってしまうという事なんですね

負けないサッカー
負けない野球
負けない相撲

地味だけど、長いことやってると、やっぱり、似たようなところに行き着くんじゃないでしょうか
 
まったく反省しないなら、繋がりが切れちゃうよ

そんな人をいくらも見ました  


 
 
十非心

我等いま衆生と共に大菩提心を起す。先ず十非の心相を簡却すべし。凡そ十非の心相とは

一つには その心念々に貪瞋痴を専らにして、之を摂すれども還らず之を抜けども出でず、日に増し月に甚だしうして、上品の十悪を起すこと五扇提羅の如くなるは、これ地獄の心を発して火途道を行ずるなり

二つには その心念々に眷属多からんを欲し、海の流れを呑むが如く火の薪を焚くが如く、中品の十悪を起して調達の衆を誘うが如きは、此れ畜生の心を発して血途道を行ずるなり。

三つには その心念々に名の四遠八万に聞え、称揚欽詠せらるるを得んと欲し、内に実徳無うして虚しく腎聖に比べ、下品の十悪を起すこと魔けん堤の如きは、此れ鬼心を発して刀途道を行ずるなり。

四つには その心念々に常に彼に勝れんことを欲し、人に下るに耐えず、他を軽んじて己れを珍ぶこと、とびの高く飛んで下し視るが如く、而も外に仁義礼智信を揚げ、下品の善心を起すは阿修羅道を行ずるなり。

五つには その心念々に世間の楽を欣んでその臭身を安んじ、その痴心を悦ばしむるは、此れ中品の善心を起して人道を行ずるなり。

六つには その心念々に三悪は苦しみ多く、人間は苦楽相間はり、天上は純ら楽なリと知って、天上の楽の為め六恨を関して出さず、六塵を入らざらしむるは、これ上品の善心を起して天道を行ずるなリ。

七つには その心念々に大威勢ありて、身口意纔かに所作あり、一切弭き従わんを欲するは、これ欲界主の心を発して魔道を行ずるなり。

八つには その心念々に利智弁聡、高才勇哲にして六合に鑒達し、十方にぎょうぎょうたるを得んと欲す、これ世智心を発して 尼けん道を行ずるなり。

九つには その心念々に五塵六欲は外の楽にして、けだし微なり、三禅の楽は石泉の如く、その楽内に重しとおもうは、此れ梵心を発して色無色の道を行ずるなり。

十には その心念々に善悪の輪環、凡夫は耽めんし賢聖は呵するところ、破悪は浄慧に由り、浄慧は浄禅に由り、浄禅は浄戒に由ると知って此の三法を尚ぶこと飢たるが如く渇するが如き、此れ無漏の心を発して二乗道を行ずるなり。

破戒の心は地獄に堕し、慳貪の心は餓鬼に堕し、無慚愧の心は畜生に堕す

若は心若は道その非甚だ多し、いま之を簡び、無上第一義のために金剛不壊不退の誓願を発さん

衆生無辺誓願度。煩悩無蓋誓願断。
法門無量誓願学。仏道無上誓願成。
 
 
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十非心3

2007.07.16

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お亡くなりになりましたが、毘沙門堂の執事長をなさった生田孝憲師が30年程前書いた解説です
僕は那智山で、たいへんにお世話になりました

とりあえず、ご参考にしてください


十非心

我等いま衆生と共に大菩提心を起す。先ず十非の心相を簡却すべし。凡そ十非の心相とは

一つには その心念々に貪瞋痴を専らにして、之を摂すれども還らず之を抜けども出でず、日に増し月に甚だしうして、上品の十悪を起すこと五扇提羅の如くなるは、これ地獄の心を発して火途道を行ずるなり
 
五扇提羅=「ナマケモノ」で、外形は聖に似ているが、内思は邪悪に満ちて供養を受げる資格のない二セ行者。火途道=大獄唯在熱、即ち、地獄道のことである。
 
一、心に、貧旗痴、所謂三毒の心が起って徐々に強くなる場合は、外形はたとえ聖に似たりといえども心は地獄の相であるから心して却けなければならない。

 
二つには その心念々に眷属多からんを欲し、海の流れを呑むが如く火の薪を焚くが如く、中品の十悪を起して調達の衆を誘うが如きは、此れ畜生の心を発して血途道を行ずるなり。


ニ、心に、眷属を求める気持が強く、その勢いあたかも火の薪を焚くが如き場合は、畜生の(クライアイ)する血途道(畜生道)のような姿であるから心して却けなければならない。

 

三つには その心念々に名の四遠八万に聞え、称揚欽詠せらるるを得んと欲し、内に実徳無うして虚しく腎聖に比べ、下品の十悪を起すこと魔けん堤の如きは、此れ鬼心を発して刀途道を行ずるなり。


三、心に、名の四方八方に聞えることを欲して、実徳がないにもかかわらず虚して賢聖に比するが如きは、真実の徳なくして有るが如く装う摩けん提のようで、駆逼を被むる餓鬼道のような心であるから心得て却けなければならない。

 

四つには その心念々に常に彼に勝れんことを欲し、人に下るに耐えず、他を軽んじて己れを珍ぶこと、とびの高く飛んで下し視るが如く、而も外に仁義礼智信を揚げ、下品の善心を起すは阿修羅道を行ずるなり。


四、心に、他に勝れんことを欲して人の下にあることを廉い、他人を軽視して己れを珍ぶ心を持って、絶えず鳥が高い所より見下すような振舞いは、外に対してもっともらしく五常(仁義礼智信)を掲げながらも心は修羅のような歩みをするから却けなければならない。


 

五つには その心念々に世間の楽を欣んでその臭身を安んじ、その痴心を悦ばしむるは、此れ中品の善心を起して人道を行ずるなり。


五、心に、世間の楽しい面だげを望んで楽することを考え、同時に痴心を悦ぶが如きは人道の心を起しての行ないであるから却けなければならない。

 

六つには その心念々に三悪は苦しみ多く、人間は苦楽相間はり、天上は純ら楽なリと知って、天上の楽の為め六恨を関して出さず、六塵を入らざらしむるは、これ上品の善心を起して天道を行ずるなリ。


六、心に、三悪道(地獄餓鬼畜生)は苦しみばかりであり、人間は苦と楽とが相い半ばするのに対して、天上界は楽しみだげある世界だときめこんで、六根六塵をとざして、唯々天道を満契しようという心を却けなければならない。

 

七つには その心念々に大威勢ありて、身口意纔かに所作あり、一切弭き従わんを欲するは、これ欲界主の心を発して魔道を行ずるなり。


七、心に、大威勢あって身口意の三業に僅かに所作があり、総てがなびき従うことを求める。即ち、欲界主の心をおこして魔王の報いを受けようとする(摩羅道)心を却けなければならない

 

八つには その心念々に利智弁聡、高才勇哲にして六合に鑒達し、十方にぎょうぎょうたるを得んと欲す、これ世智心を発して 尼けん道を行ずるなり。


八、心に、自分は非常に「カシコイ」のだ「モノシリ」なのだと自負して、十方に仰いでもらいたい心が起こる時は世智心であって、尼けん即ち、外道の心であるから却けなければならない。


 

九つには その心念々に五塵六欲は外の楽にして、けだし微なり、三禅の楽は石泉の如く、その楽内に重しとおもうは、此れ梵心を発して色無色の道を行ずるなり。


九、心に、五塵六欲は所謂、世間の楽しみであり、色無色の上の三界の楽しみは石泉の如く内より生ずる。故に重しとの心をおこすのは梵心、即ち、清浄心を起すも結局は色無色の界内の心なるが故に却けなければならない。

 

十には その心念々に善悪の輪環、凡夫は耽めんし賢聖は呵するところ、破悪は浄慧に由り、浄慧は浄禅に由り、浄禅は浄戒に由ると知って此の三法を尚ぶこと飢たるが如く渇するが如き、此れ無漏の心を発して二乗道を行ずるなり。


十、心に、三界に浮沈するは賢聖の呵する処、破悪は浄慧に、浄慧は浄禅に、浄禅は浄戒によると心得て、この清浄の戒定慧を尚ぶこと飢渇の如くする心は無漏心(煩悩無き心)を発して三界出離の二乗道の心なり、故に心して却けなければならない。


 

破戒の心は地獄に堕し、慳貪の心は餓鬼に堕し、無慚愧の心は畜生に堕す

若は心若は道その非甚だ多し、いま之を簡び、無上第一義のために金剛不壊不退の誓願を発さん

衆生無辺誓願度。煩悩無蓋誓願断。
法門無量誓願学。仏道無上誓願成。

 
 
続く

 
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長保寺本堂 鬼瓦

十非心2

2007.07.14

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もともと、仏教の基本的な考え方は

勧善・懲悪、の順番ではなくて
止悪・作善、の順です

でまあ、止観も、先ず心を一点に止め、それから観想することになります

先ず、悪いことをやめて、それから善いことをします

 
仏教の最も一般的な戒律の「七仏通戒偈」に

諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教

もろもろの悪をなすことなかれ
もろもろの善を奉じ行ぜよ
自らその意を浄くせよ
これが諸仏の教えである

と、あるのも、先ず悪を止め、それから善を行う順序になっています

過去七仏についてはこちら wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F

 
実は、密教になると、ここらへんが違ってきて、金剛頂経系は善を積み重ねて悪を帳消しにする、といった考え方をします

考え方の違いなわけですが、どんな些細な悪も許さず、それが取り除かれるまでは先に進めないとなったら、止悪を先にする仏教は成り立ちませんね

それと、止悪を先にすると、
「私は馬鹿だ」
「私はくだらない」
「私はダメ人間だ」
「私は間違っている」
と、延々と繰り返すことになります

なんか、自分で自分の心を攻撃することになります

このへんが、修行のイメージというと自虐的、自責的な印象になる原因ではないでしょうかね


それで、せっかく解説していて申し訳ないのですが、どうも、比叡山式の止悪を強調する坐禅は、僕的には好きではありません
で、「光の瞑想」になったわけです

 
ただし
王道などないのですよ

やるべき事は、きっちりとやるしかないわけで
十非心は、ちゃんと理解していなければならないし、最も重要な戒めだということですね
いずれ通っていかなければならない、避けられない道です

善を先にする、というのは重大な落とし穴があって、自分ではいいと思っていることが、実はとんでもないことだった、てな事が多々あるのです

まあ、最低限、無害な人間になっていただきたい、と
これが、無気力、自虐、自責になっても困るんですが
 
 
元気な人には、止悪・作善で
おとなしい人には作善・止悪で

というのが、落ち着くところかなぁ


どっちにしても、のほほんと、のんびり、リラックス、だけでは済まないのですよ
 

 
 
十非心

我等いま衆生と共に大菩提心を起す。先ず十非の心相を簡却すべし。凡そ十非の心相とは

一つには その心念々に貪瞋痴を専らにして、之を摂すれども還らず之を抜けども出でず、日に増し月に甚だしうして、上品の十悪を起すこと五扇提羅の如くなるは、これ地獄の心を発して火途道を行ずるなり

二つには その心念々に眷属多からんを欲し、海の流れを呑むが如く火の薪を焚くが如く、中品の十悪を起して調達の衆を誘うが如きは、此れ畜生の心を発して血途道を行ずるなり。

三つには その心念々に名の四遠八万に聞え、称揚欽詠せらるるを得んと欲し、内に実徳無うして虚しく腎聖に比べ、下品の十悪を起すこと魔けん堤の如きは、此れ鬼心を発して刀途道を行ずるなり。

四つには その心念々に常に彼に勝れんことを欲し、人に下るに耐えず、他を軽んじて己れを珍ぶこと、とびの高く飛んで下し視るが如く、而も外に仁義礼智信を揚げ、下品の善心を起すは阿修羅道を行ずるなり。

五つには その心念々に世間の楽を欣んでその臭身を安んじ、その痴心を悦ばしむるは、此れ中品の善心を起して人道を行ずるなり。

六つには その心念々に三悪は苦しみ多く、人間は苦楽相間はり、天上は純ら楽なリと知って、天上の楽の為め六恨を関して出さず、六塵を入らざらしむるは、これ上品の善心を起して天道を行ずるなリ。

七つには その心念々に大威勢ありて、身口意纔かに所作あり、一切弭き従わんを欲するは、これ欲界主の心を発して魔道を行ずるなり。

八つには その心念々に利智弁聡、高才勇哲にして六合に鑒達し、十方にぎょうぎょうたるを得んと欲す、これ世智心を発して 尼けん道を行ずるなり。

九つには その心念々に五塵六欲は外の楽にして、けだし微なり、三禅の楽は石泉の如く、その楽内に重しとおもうは、此れ梵心を発して色無色の道を行ずるなり。

十には その心念々に善悪の輪環、凡夫は耽めんし賢聖は呵するところ、破悪は浄慧に由り、浄慧は浄禅に由り、浄禅は浄戒に由ると知って此の三法を尚ぶこと飢たるが如く渇するが如き、此れ無漏の心を発して二乗道を行ずるなり。

破戒の心は地獄に堕し、慳貪の心は餓鬼に堕し、無慚愧の心は畜生に堕す

若は心若は道その非甚だ多し、いま之を簡び、無上第一義のために金剛不壊不退の誓願を発さん

衆生無辺誓願度。煩悩無蓋誓願断。
法門無量誓願学。仏道無上誓願成。

 
続く

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十非心1

2007.07.13

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圓頓について書いていて、ちょっと気になることがありました

天台では、圓頓止観と言って、圓頓そのものは坐禅の説明です
しかしながら、現在、天台の止観の実習の時、圓頓章は読みません

僕も、比叡山で坐禅の手ほどきを受けましたが、その時読むのは、同じ「摩訶止観」にある「十非心 じゅうひしん」の部分です

やはり圓頓章そのものは坐禅に限らず、仏教全般の心得として考えられているのでしょう

そのかわり、最も基本になる坐禅の心得は「十非心」です

http://www.chohoji.or.jp/TENDAI/santaibu/001/04.txt
摩訶止観 第一章 止観大意
P:4bのあたり

 
それで、実際の仏教の修行の参考ということで「十非心」について書いてみようかと思います
これは、普段の勤行では使いませんから、ちょっと調べながら書かなければならないので、不定期になるかもしれません

下記が実際の作法の次第です
ごらんのとおり、シンプルです

入堂
三礼 一心頂礼十方法界常住三宝
発願 十非心 四弘誓願
住坐処
  調身
  調息
  調心
  正観

出定
平座
読経 般若心経一巻
三礼
起立
出堂

 

 
 
十非心

我等いま衆生と共に大菩提心を起す。先ず十非の心相を簡却すべし。凡そ十非の心相とは

一つには その心念々に貪瞋痴を専らにして、之を摂すれども還らず之を抜けども出でず、日に増し月に甚だしうして、上品の十悪を起すこと五扇提羅の如くなるは、これ地獄の心を発して火途道を行ずるなり

二つには その心念々に眷属多からんを欲し、海の流れを呑むが如く火の薪を焚くが如く、中品の十悪を起して調達の衆を誘うが如きは、此れ畜生の心を発して血途道を行ずるなり。

三つには その心念々に名の四遠八万に聞え、称揚欽詠せらるるを得んと欲し、内に実徳無うして虚しく腎聖に比べ、下品の十悪を起すこと魔けん堤の如きは、此れ鬼心を発して刀途道を行ずるなり。

四つには その心念々に常に彼に勝れんことを欲し、人に下るに耐えず、他を軽んじて己れを珍ぶこと、とびの高く飛んで下し視るが如く、而も外に仁義礼智信を揚げ、下品の善心を起すは阿修羅道を行ずるなり。

五つには その心念々に世間の楽を欣んでその臭身を安んじ、その痴心を悦ばしむるは、此れ中品の善心を起して人道を行ずるなり。

六つには その心念々に三悪は苦しみ多く、人間は苦楽相間はり、天上は純ら楽なリと知って、天上の楽の為め六恨を関して出さず、六塵を入らざらしむるは、これ上品の善心を起して天道を行ずるなリ。

七つには その心念々に大威勢ありて、身口意纔かに所作あり、一切弭き従わんを欲するは、これ欲界主の心を発して魔道を行ずるなり。

八つには その心念々に利智弁聡、高才勇哲にして六合に鑒達し、十方にぎょうぎょうたるを得んと欲す、これ世智心を発して 尼けん道を行ずるなり。

九つには その心念々に五塵六欲は外の楽にして、けだし微なり、三禅の楽は石泉の如く、その楽内に重しとおもうは、此れ梵心を発して色無色の道を行ずるなり。

十には その心念々に善悪の輪環、凡夫は耽めんし賢聖は呵するところ、破悪は浄慧に由り、浄慧は浄禅に由り、浄禅は浄戒に由ると知って此の三法を尚ぶこと飢たるが如く渇するが如き、此れ無漏の心を発して二乗道を行ずるなり。

破戒の心は地獄に堕し、慳貪の心は餓鬼に堕し、無慚愧の心は畜生に堕す

若は心若は道その非甚だ多し、いま之を簡び、無上第一義のために金剛不壊不退の誓願を発さん

衆生無辺誓願度。煩悩無蓋誓願断。
法門無量誓願学。仏道無上誓願成。

 
続く

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長保寺大門 金剛力士 阿形

 

圓頓 Epilogue

2007.07.07

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圓頓章は仏教の特徴を考えるうえで、わかり易くはないですが、要点がまとめられているのが、おわかりいただけたかと思います

残念なことに、仏教は、勉強するとなると、大変に複雑で難しいのです

天台の僧侶は、法要や儀式、日々の勤行の時には、ほとんどこの圓頓章を読みますから、一日に何回も読むこともあります
それで、自然と暗記し、少しづつでも、毎日理解が深まっていきます
ですから、特に勉強をしなくても、仏教的な考え方が身についていきます

頭で理解するのでは無く、自然と腑に落ちてきます
そのうえで、止観を実習すればかなりの効果があります
 
また、皆さんも、ちょこっとでも、坐禅や止観を実習なされば、圓頓に直に触れることができるでしょう
 

僕は、キリスト教やイスラムを信じる方も、圓頓止観を実習すれば、かなりの効果があると考えています

「光の瞑想」はある程度、そうした普遍性をもった方法として工夫したものです
http://chohoji.or.jp/shousei/saloon.htm

まあ、しかし、仏教では、仏様から慈悲の心がきて、自分も慈悲の心を持って、それが繋がって一つになって、自分が仏になる、のは許される考え方なんですが、一神教の信徒はせいぜい「神の愛に包まれる」で止まるでしょうね
文化的ブロックですね、僕に言わせれば

 
それでも、圓頓章は世界の文化に対する普遍性をもっていると思いますよ
なにせ、ホントのことが書いてありますから

 
唯一の神が何人もいるような世界は、不安定ですからいずれ終わります

神との契約に隷属し、閉鎖社会に生きるのか

自分の中に真実の根拠を見いだし、全てと繋がり一つになるのか

どうぞ、お選びください

  

 

圓頓31

2007.07.07

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當知身土 一念三千
故成道時 稱此本理
一身一念 遍於法界

とうちしんど いちねんさんぜん
こじょうどうじ しょうしほんり
いっしんいちねん へんのほうかい

まさに一念は三千の身土と知るべし
ゆえに成道の時これを本理と称し
一身一念は法界に遍ず

この部分は元の摩訶止観には無い部分ですが、現在は広く用いられています

一念三千の三千は、京都大原の三千院の名前の由来にもなりました

法界を
仏・菩薩・縁覚・声聞・天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄
の十界に分けて、それぞれの界にまた十界があります
合計百界に相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究境の十如があります
それが、五陰世間・衆生世間・国土世間の三世間にあります
10×10×10×3で三千です
三千世界とも言います
まあ、普通の人が、仏になったり、修羅になったり、餓鬼になったりすると
よくある話です

一念三千は摩訶止観の圓頓章の部分にはありません
ネットで検索すればいくらでも説明がありますので、十界、十如、三世間の説明は省略します

これは、仏教的な分類ですが、各宗教いろいろ言うわけです
クラス分けですね
理論は各種あるようですが、どうも、身分の違いがあるらしいですね

まあ、詳しく知らなくても間に合います
僕に言わせれば、こういう理論的部分にハマルと、延々と辻褄合わせを繰り返さなければならなくなりります
アバウトでいいんじゃないでしょうか

 
仏教の場合は、「自分はいつか仏になるんだ」と思っていれば、それで、あなたは菩薩です
上から2番目です
僕的には、大変、都合のいい理論ですが、なんてったって、圓で頓ですからね

ただ、楽が出来るとは限らないのです
十界にそれぞれ十界がありますから、菩薩は、天界にも行きますが、餓鬼界にも、地獄界にも行くのです

 
それで
法界と繋がり一つになれば、一念が三千の世界に行き渡ります
「座を立たずして一切の仏事を成す」ということです

このあたりは、やはり本格的に修行しないと解らないでしょうねぇ

 
  
圓頓章(えんとんしょう)
 
圓頓者。初縁實相。造境即中。無不眞實。
繋縁法界。一念法界。一色一香。無非中道。
己界及佛界。衆生界亦然。
 
陰入皆如。無苦可捨。
無明塵勞。即是菩提。無集可斷。
邊邪皆中正。無道可修。
生死即涅槃。無滅可證。
 
無苦無集。故無世間。
無道無滅。故無出世間。
純一實相。實相外。更無別法。
 
法性寂然名止。寂而常照名觀。
雖言初後。無二無別。
是名圓頓止觀。
 
當知身土 一念三千
故成道時 稱此本理
一身一念 遍於法界

続く

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圓頓30

2007.07.06

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圓頓章の解説をまとめると
 
-------
完全で素早い方法
 
初めに「法界の心」につながれば、心の鏡に写し出された世界は真実そのものとなる
「法界の心」につながり、ひとつになれば、すべては真実となる

ちっぽけな、目に見える物、ちょっとした香りも、中道である

己界、佛界、衆生界、合わせれば法界全ての存在を説明できます

法界の側から見れば、全ての鏡の中の現実は、如であり、空です
ですから、苦として捨てるべきものが、どこにもありません

法界には苦しむべき我がありませんから、その原因もない、という境地

片寄ったこと、邪悪なことも、みな、中庸で正しいことであるので、仏教の修行として歩むべき道は無い

法界から見れば、鏡の世界の生死は涅槃と同じことで、苦しみを終焉させるため達成することなど、どこにも無い、という境地

苦集道滅が無い境地になると、世間(俗世間)も出世間(仏教の修行)も無い
純粋に一つの実相があるだけで、実相のほか、さらに別の法は無い

法界が鏡から切り離されて静寂に包まれるのを止と名づけ、静寂でありながら、常に燦々と光明を放って輝くのを観と名づける
どちらが先ということではなく、二つ別々のことでもない
これを、完全で速やかな止観と名づける
-------
 
 
お経の意味がわからないので書き下して欲しい、現代の日本語に翻訳して欲しい、と頼む人がいます

よく言うんですが、
「翻訳したほうがもっとわかりにくい」です

何回いったりきたり読み直しても、わかったような、わからないような
含蓄があって、いつも新たな発見があります
ここで解説していることは、まだまだ、意味の入り口でしかありません
 

「読誦どくじゅ」と言って、経本を手に持って、文字を見ながら(読)声を出して読んでいると(誦)、ふっと、いままでわからなかった部分の意味がわかる時があります
しばらく、また読誦し続けていると、わかったつもりの所が、もっと深い意味だったことに気付いたりします
その繰り返しです

それで、お経は、暗記してもいいですが、「読誦しなければならない」とされています

経典の読誦は、ですから、瞑想ですね

 
 
五種法師(ごしゅほっし)と言って

受持、読誦、解説、書写、如説修行

受持 じゅじ
経典を受け、持つ
まあ、どこかで経本を買い求めたり、貰ったりするのです
そして大事にします

読誦 どくじゅ
文字を見ながら、声を出して読みます

解説 げせつ
意味を調べたり、考えたりします

書写 しょしゃ
写経したり、印刷して他の人に教えてあげたりします

如説修行
お経に書いてある通り修行します

このどれもに、限りない功徳があります

それで、今ここでは解説をしてるのですが、これは、僕自身が一番ありがたいわけですね


仏教はもう2500年やってますから、やはり、計り知れない程の神仏の加護があります
でもそれは、「繋がって一つに」ならなければ実感できません

仏教は、単なる考えかたの羅列でなくて、生活態度や文化そのものなのです

  
  
圓頓章(えんとんしょう)

圓頓者。初縁實相。造境即中。無不眞實。
繋縁法界。一念法界。一色一香。無非中道。
己界及佛界。衆生界亦然。

陰入皆如。無苦可捨。
無明塵勞。即是菩提。無集可斷。
邊邪皆中正。無道可修。
生死即涅槃。無滅可證。

無苦無集。故無世間。
無道無滅。故無出世間。
純一實相。實相外。更無別法。

法性寂然名止。寂而常照名觀。
雖言初後。無二無別。
是名圓頓止觀。

當知身土 一念三千 故成道時
稱此本理 一身一念 遍於法界

続く

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圓頓29

2007.07.05

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法性寂然名。寂而常照名
ほっしょうじゃくねんみょうし じゃくにじょうしょうみょうかん

雖言初後。無二無別。
すいごんしょご むにむべつ

是名圓頓止觀
ぜみょうえんどんしかん
 
 
法性寂然たるをと名づけ 寂にして常に照らすをと名づく
初後を言うことなかれ 二無く別無し
これを圓頓止觀と名づける

法界が鏡から切り離されて静寂に包まれるのを止と名づけ、静寂でありながら、常に燦々と光明を放って輝くのを観と名づける
どちらが先ということではなく、二つ別々のことでもない
これを、完全で速やかな止観と名づける


 
この部分は、止観の話です

繋縁法界。一念法界。

縁を法界に繋ぎ 念を法界にひとしくする

の部分の「繋縁法界」が止で、「一念法界」が観です

繋ぐ、というのはyogaで、仏教より前からある瞑想を説明した言葉です
それを止という言葉で置き換えるのですが、これは、対象に心を「止めて」集中するからこのように言います

瞑想の分類から言えば、イメージトレーニングのような、気持ちの制御は、瞑想のほんの一部分にしかすぎません
これについては、広大な研究がありますが、長くなるので縮めます
身・口・意に分類します

 
身体的動作、行動などを通じた瞑想
ダンス、舞踏、掃除、演劇、ハタヨガ、経行(きんひん)など

口を通じた瞑想
念仏、読経、歌、朗読、詠唱など

意による瞑想
これが、普通一般に言われる瞑想ですが、読書、執筆なども含まれます

思いつくままに書きましたが、要は、
「法界と心がつながり一つになる」ということ全てです
 

「繋縁法界」=「法性寂然」=止
それが、ただ繋がるんじゃなくて「止」ですから、集中して散乱しません

「一念法界」=「寂而常照」=観
でもって、ボンヤリとボケーっとしてるんじゃなくて、光り輝くんです
 
集中して、輝く

つまり、これが、止観です

職人さんが、お客さんに喜んで貰おうと、精魂こめて仕事する
競技会で、皆の声援をうけて、期待に応えようと競技する
誰かの役に立とうと、自分のことを顧みず仕事に精をだす
などなど

一心不乱で輝いてますよねー
ですから、こういうことも、止観と考えます

それで、「法界と心がつながり一つに」なれば圓頓です

法界は、鏡のない、「感じる前の世界」のことですが
鏡とは、つまるところ我執です

で、
私利私欲の無い気持ちで、一心不乱になにかをしてる状態
それが、圓頓止観です

 
伝教大師はこれを

「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」

と言っています

インドに始まった止観を、日本で、ほの暗いお堂の中の坐禅だけでなく、社会全般に通じる活動に作り替えたんです
その精神が、法然、親鸞、道元、栄西、日蓮などの鎌倉仏教の開祖を生み出しました


  
  
圓頓章(えんとんしょう)

圓頓者。初縁實相。造境即中。無不眞實。
繋縁法界。一念法界。一色一香。無非中道。
己界及佛界。衆生界亦然。

陰入皆如。無苦可捨。
無明塵勞。即是菩提。無集可斷。
邊邪皆中正。無道可修。
生死即涅槃。無滅可證。

無苦無集。故無世間。
無道無滅。故無出世間。
純一實相。實相外。更無別法。

法性寂然名止。寂而常照名觀。
雖言初後。無二無別。
是名圓頓止觀。

當知身土 一念三千 故成道時
稱此本理 一身一念 遍於法界

続く

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圓頓28

2007.07.04

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さて、長々と書いてきましたが、終わりに近づいてきました

皆さんが考えている仏教のイメージと、どうでしょう、近かったですか

 
僕は、高野山大学で真言密教を学び(たいしたことはないですけど)本山で行者の監督を1年間しました
奥之院の行法師をしたこともあります
それから、今いる寺の都合で、比叡山で一からやり直し、もう20年以上経ちます

 
真言と天台の両方知っていますが、ちゃんと勉強したのは真言ですので、真言密教の考え方のほうが詳しいのです
ですから、僕の考え方は、かなり真言的な天台、でしょうね

まあ、それでも、両方やった御陰で僕なりに仏教の流れが理解できました

 
インドのヴェーダやウパニシャッドの基礎の上に仏教が成立し、1000年程の間に、次第に純粋なお釈迦様の教説にインド古来の考え方が混合して密教になります
約800年間に渡り密教は隆盛を極めますが、12世紀頃、(日本の鎌倉時代頃)にイスラムに徹底的に破壊されインド仏教は滅びます

しかし、世界各地に伝播していた仏教は、発展を続けます

スリランカ、ミャンマー、タイなど南方では、比較的、お釈迦様の時代の様子が残されています
元々ヴェーダやウパニシャッドがありませんから、ほぼ原型が保たれています

チベットは国策でインド密教がそのまま輸入されましたが、ご承知のように中国共産党に弾圧されています
後期密教の性的要素が強くなりますが、仏教の伝統を失わない流れも引き継がれます

南方やチベットはインドから近いため、本場の影響を強く受けています

 
中国は、インドから地理的に遠いため、インド仏教が前後バラバラに伝えられました
ですから、順序を組み立て直す必要に迫られました
現在でも大きな異論がなく受け入れられている、経典の整理整頓をしたのが天台大師です
模倣でなく、独自の宗教的センスで仏教を再構成しています

中国に密教がもたらされたのが、今から1200年前位で、インド密教の最盛期です
ですが、中国社会に充分同化できませんでした
道教からの攻撃や、何回かの廃仏で弱体化していきます

伝教大師と弘法大師が中国に渡ったのは、ちょうど、インドから密教がもたらされた直後です

大まかな年表です
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それで、中国で整理された仏教に密教を付け加える作業をしたのが日本です

弘法大師は密教中心で割り切ってしまいます
その為、弘法大師以後の発展はほとんどありません

伝教大師は密教の消化に苦労し、弟子が何人も中国に行き研究を重ねます

天台宗は真言宗の約3倍の経典を中国から持ち帰っています
八家秘録(平安時代入唐した八人の僧の請来目録)によると

真言宗関係の請来書
465部  888巻

天台宗関係の請来書
1201部 2326巻

天台宗は密教だけでも約3倍の経典を持ち帰っています
こういった努力が、その後の鎌倉仏教の基礎になります

 
圓頓章は天台大師が講述したものですが、結果的に、インド、中国、日本の仏教を繋ぐ基軸になりました

バラバラの経典を整理する時の基本になる考え方を知ることができ、同時に、多岐にわたる仏教の本質を示しています

短い文章でまとまっていますから、案外、仏教は単純で簡単なんじゃないでしょうか


  
  
圓頓章(えんとんしょう)

圓頓者。初縁實相。造境即中。無不眞實。
繋縁法界。一念法界。一色一香。無非中道。
己界及佛界。衆生界亦然。

陰入皆如。無苦可捨。
無明塵勞。即是菩提。無集可斷。
邊邪皆中正。無道可修。
生死即涅槃。無滅可證。

無苦無集。故無世間。
無道無滅。故無出世間。
純一實相。實相外。更無別法。

法性寂然名止。寂而常照名觀。
雖言初後。無二無別。
是名圓頓止觀。

當知身土 一念三千 故成道時
稱此本理 一身一念 遍於法界

続く

 
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圓頓27

2007.07.03

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無苦無集。故無世間。
むくむしゅう こむせけん

無道無滅。故無出世間。
むどうむめつ こむしゅっせけん

純一實相。實相外。更無別法。
じゅんいちじっそう じっそうげ きょうむべっぽう

 
苦も無く集も無し ゆえに世間無く
道も無く滅もなし ゆえに出世間無し
純に一実相にして 実相のほか さらに別の法無し

 
苦集道滅が無い境地になると、世間(俗世間)も出世間(仏教の修行)も無い
純粋に一つの実相があるだけで、実相のほか、さらに別の法は無い

 
鏡が法界と繋がり一つになることによって、実相だけになります
前の節と対になって順逆に圓頓を説明しています
圓頓章は短い文章ですが、よく見ると、いくつかの節に分かれています
非常に考え抜かれた、名文ですね

 
(順)
陰入皆如。無苦可捨。
無明塵勞。即是菩提。無集可斷。
邊邪皆中正。無道可修。
生死即涅槃。無滅可證。

(逆)
無苦無集。故無世間。
無道無滅。故無出世間。
純一實相。實相外。更無別法。

 
陰入皆如 無明塵勞。即是菩提 --->無苦無集--->無世間
邊邪皆中正 生死即涅槃--->無道無滅--->無出世間
それが、純粋に一つの実相だと

仏界--->己界--->衆生界 でもあります
自分が法界と繋がって一つになれば、ただそれだけで、衆生界にも善い影響があります
 
実相(法界)--->鏡=実相
実相が鏡に写ると、鏡は実相となる

鏡=実相--->世界=実相(法界)
鏡が実相になると、世界が実相になる
 

実相とは、鏡に写る前の世界のことです
感覚器官で感じる前のナマの世界

感じる前の世界ですから、苦も無ければ、我もありません
それが鏡に写っているんですが、写している鏡も鏡の中の世界です

目の前のPCのモニターが目に見える前の姿を想像してもらったらいいです
空も、太陽も、風も、隣の人も、神も、霊も、自分も、感覚器官で感じる前の姿があります
それが実相です

実相は法界と同じ意味です
実相という言葉は、他であまり使わないのです、それで、僕は法界と言っています
なにか、感情を含んだ表現がしたくて実相という言葉を使ったのかもしれません
冷たい連鎖反応のような世界でなく、血の通った、温もりの感触を表す言葉を捜したのでしょう

 
法界は、燦々と生きてるんですよ


 
で、これですね
密教の手順と同じです

密教の三密加持は、入我我入(にゅうががにゅう)と言って
実際は「本尊われに入り、われ本尊に入る」と二つの部分に分かれています

加持と言うと、仏の側からの働きかけ(加)を受け止める(持)というニュアンスになりますが、実感としては、自分も仏に入っていく、ということです

自分も入っていく、というのは、密教では身に印を結び、口に真言を唱え、意識を仏に集中します
あるいは、大乗経典を読誦します
また同時に、戒律を保つ努力をします(守れなければ反省します)

ぼんやり、ボケーっとしているのではありません
で、自分なりに仏に歩み寄って行くのを、自力とか聖道門とか言って、選ばれた人しかできないとか、凡人には無理、と言ったりして批判する時代もありましたが、実態は、三大阿僧祇劫をワープして、いとも簡単に仏になるスーパー近道なんです

やっぱり、こう
仏界---> <---己界
お互いが歩み寄って行くのであって

勝手気まま、やりたい放題、自由放任、てなことにはなりません
なにか、非常に常識的な落ち着き方だと思いますよ

 
慈悲に満ちた存在が手を差し伸べていて、こちらからも手を伸ばし、手を繋ぐ、と

心が通います

 
  
  
圓頓章(えんとんしょう)

圓頓者。初縁實相。造境即中。無不眞實。
繋縁法界。一念法界。一色一香。無非中道。
己界及佛界。衆生界亦然。

陰入皆如。無苦可捨。
無明塵勞。即是菩提。無集可斷。
邊邪皆中正。無道可修。
生死即涅槃。無滅可證。

無苦無集。故無世間。
無道無滅。故無出世間。
純一實相。實相外。更無別法。

法性寂然名止。寂而常照名觀。
雖言初後。無二無別。
是名圓頓止觀。

當知身土 一念三千 故成道時
稱此本理 一身一念 遍於法界

続く

 
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圓頓26

2007.07.02

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苦集道滅
苦 生きている限り苦しみから逃れられない
集 苦しみには原因がある
道 苦しみの原因を取り除く実践の道を進まなければならない
滅 道によって、苦しみが消滅する
 
これは、仏教の基本的真理ではありますが、法界から見れば、苦集道滅は存在しません

 
実は仏教では、「努力して仏になる」には三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう)という時間がかかるとされています
だんだん学習を重ね、試行錯誤し、経験を積み、賢くなって、輪廻転生を続け、失敗してまた振り出しに戻ったりしながら、成長し、寄り道したり、心地良い場所にしけこんだり、ドツボにはまり込んだり、フラフラと、あるいは、まっしぐらに進んでいって、調子に乗って全てチャラになって最初からやり直したり、だんだんと、三大阿僧祇劫かかって仏になります

 
三大阿僧祇劫は仏教の時間の単位で、
一劫が4億3200万年(梵天の一日)
阿僧祇が10の56乗
で、4億3200万年×10の56乗×3に大がついてますから、もっと長い時間です
ここまで長けりゃ、どうでもいいですけど

12960000000000000000000000000000000000000000000
00000000000000000000年
ハハ、のんびり行きましょう
仏教は輪廻転生があるとしていますが、輪廻によって、学習効果があって賢くなるとしても、仏になるには三大阿僧祇劫かかるのです

 
まあ、とにかく、不可能でないにしろ、「努力して仏になる」のを諦めさせるために出来た話としか思えませんね

だから
仏教は努力主義じゃありません

しかし、何もしないでいい、ということでもないわけで、お釈迦様は、弦を緩めすぎても、きつく締めすぎてもいい音の出ない琴にたとえています

適度の緊張、ちょうどいい加減、がいいとされています

 
苦しみがなければ、誰も苦労しないのですが、生老病死はさし迫っています

三大阿僧祇劫かかって、全ての苦しみから解放されるはずが、それを、完全に速やかに、圓で頓に解決するわけです

極めて、虫のいい、要領のいい、棚ぼたの、努力のいらない、方法です
あっけなさ過ぎて、嘘のようです

まあ、手間のかかった表現ですが、圓頓以外に方法は無い、と言いたいわけです

 
止観、三密加持、など、仏教の歴史のなかで様々な方法が編み出されてきましたが、その基本になる考え方が圓頓です

歴史的に言うと、yogaとか三昧とかの言葉が古く
それが、仏教独自の言葉として、奢摩他samatha(止)・毘鉢舎那vipasyana(観)、三密加持と変遷していきます

 
今風に言えば、瞑想して、仏になるのです
努力して、仏になるのではありません
 

天台では、法華経の全部あるいは一部、阿弥陀経、般若心経などの大乗経典を読誦すると、坐禅止観、つまり瞑想しなくても間に合う、としています
それと、これに念仏が加わります
つまり、法界と繋がり一つになります
この辺は、慈覚大師などによって整理されたのですが、日本の伝統仏教が踏襲しています

観音経(法華経の普門品)、般若心経、阿弥陀経などの読誦で三大阿僧祇劫をワープします

三密加持は、かなり手っ取り早く霊験がありますから、どうしても現世利益に目が行きがちですね
難しいところです
念仏は、霊験をすっ飛ばして、来世に重点を置くのですが、これも極端な話ですよ

仏教は長い歴史がありますから、いろんな方法があって、迷うくらいです

ですが、基本は、圓頓です
 
  
  
  
圓頓章(えんとんしょう)
圓頓者。初縁實相。造境即中。無不眞實。
繋縁法界。一念法界。一色一香。無非中道。
己界及佛界。衆生界亦然。
陰入皆如。無苦可捨。
無明塵勞。即是菩提。無集可斷。
邊邪皆中正。無道可修。
生死即涅槃。無滅可證。
無苦無集。故無世間。
無道無滅。故無出世間。
純一實相。實相外。更無別法。
法性寂然名止。寂而常照名觀。
雖言初後。無二無別。
是名圓頓止觀。
當知身土 一念三千 故成道時
稱此本理 一身一念 遍於法界

続く


 
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圓頓25

2007.07.01

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生死即涅槃。無可證。
しょうじそくねはん むめつかしょう

生死すなわち涅槃なれば、滅として證するべき無し

法界から見れば、鏡の世界の生死は涅槃と同じことで、苦しみを終焉させるため達成することなど、どこにも無い、という境地 

涅槃とは、仏教用語ですね

一神教社会では、まったく理解できない概念だと思います
まあ、今の日本人にも、なかなか理解してもらえないと思いますが

 
簡単に言えば、涅槃とは法界のことです

煩悩を滅し尽くした世界、煩悩の炎を吹き消した世界
ということで、何もない無味乾燥の退屈な世界という誤解がありますが
常・楽・我・浄、を涅槃の四徳と言って、
「永遠で楽しく自分という意識は失われず清らかである世界」です

法界が、常・楽・我・浄の世界だということです

 
 
今、目の前のパソコンのモニターをご覧になってると思いますが、この、見えてる、感じてる世界がすなわち、涅槃だと
だから、この世界がお釈迦様の心だ、と気が付いていないんだと
まあ、なるわけです

涅槃という、どこか遠い国があるわけじゃありません

 
 
涅槃については、涅槃経にいろいろ書かれています
http://www.chohoji.or.jp/TENDAI2/2data/01/43.txt

涅槃経で書かれているテーマは二つあります

「如来常住」にょらいじょうじゅう
お釈迦様は不滅である

「一切衆生悉有仏性」いっさいしゅじょうしつうぶっしょう
全ての生きとし生ける者は、いつか仏になる

お釈迦様は悟りを開いてから50年にわたって説法を続けましたが、全ての生き物が仏になる、というのは、涅槃経で遺言しているだけです
最後の最後まで、はっきり言わないのです

そのため、仏教教団では「仏性の無い人間がいる」という説が、かなり根強く主張され続けました
つまり、「仏になれる人もいれば、なれない人もいる」という説
僕的には、「仏になれない人(あるいは霊的存在)はいる」、だけど、「なろうと心に誓えば、仏になれるようになる」ってことだろうなぁ、と考えてますけどね
ボンヤリと時間が経てば仏になるわけじゃありません
誰かの手助けも必要でしょう
甘くはないと思いますよ
 
それで
「如来常住」とは、涅槃に入ったのだから、法界と同化したわけで、つまり、目の前のパソコンのモニターが、お釈迦様です
あなたの手のひらも、コンセントに流れる電気も、etc

「一切衆生悉有仏性」とは、だれでも圓で頓に法界になれるんだ、ということですね
これは、ですから、一神教世界では絶対に言わないことです

 
生殺与奪の力を持って君臨する全知全能の「神」ではなくて
心の鏡に写った、遍満する生命と絶対的な理解に満ちた「来るが如き」存在、に目覚めていない、それが、あなたです

  
  
  
圓頓章(えんとんしょう)
圓頓者。初縁實相。造境即中。無不眞實。
繋縁法界。一念法界。一色一香。無非中道。
己界及佛界。衆生界亦然。
陰入皆如。無苦可捨。
無明塵勞。即是菩提。無集可斷。
邊邪皆中正。無道可修。
生死即涅槃。無滅可證。
無苦無集。故無世間。
無道無滅。故無出世間。
純一實相。實相外。更無別法。
法性寂然名止。寂而常照名觀。
雖言初後。無二無別。
是名圓頓止觀。
當知身土 一念三千 故成道時
稱此本理 一身一念 遍於法界

続く


 
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