輪廻について4

仏教独特の概念には、輪廻転生とセットで語らなければならないものが沢山ある。

涅槃もそうだ。輪廻から脱出した状態のこと。単純に「無」ととらえる人が多いようだが、違うね。有でもなければ無でもない状態。
有は、わかりやすい。しがらみにがんじがらめにされている状態。突いたり引いたり、果てしなき応酬が続く状態。因縁果報の報がまた因になり縁果報因縁果報因・・・とはてしなく続く状態。
無は、ややこしいながらも、仏教的には底の浅い概念になる。有という比較対照するものが無ければ説明できない。とにかく無なんだから、それ自体を説明のしようが無い。で、「説明のしようが無い」と言ってしまったら、「説明のしようが無い」という概念が有ることになってしまう。で、「それも無い」と言えば「それも無い」という概念があることになる。つまり、純粋の「無」というのものは無い。条件付きの幼稚な概念ならあるかもしれぬ、ってことになる。スピリチュアルなトークを展開される人は、知ったかぶりで「無」について語らぬほうがいいよ。1000年以上前に幼稚な議論だってバレちゃったんだから。「無」とか「闇」とか「全ての終わり」とかは、だから、案外不安定な概念で、消えて無くなることもなく、いずれなんらかのカテゴリーに分類されることになる。
「そこには、広大な無があった」なんて言わないでね。無なんだから、広さも無ければ、あることも無いのですよね。溜め息がでる。

さて、菩薩。あえて涅槃に赴かず、輪廻の世界に止まって、苦しむ者を救う。修行を完全に終えた状態の存在を指す場合が多いが、広義には、自分はいずれ必ず修行の完成した状態になると知りつつ、現在は修行を継続している存在も菩薩という。この広義の菩薩を想定しなければ、慈悲は説明できない。慈悲は、完成した存在だけにあるのではなく、完成途上の存在にもある。
わかりやすい説明かどうかわからないが、菩薩という言葉は、「目覚め」をさすbodhiと、「情ある存在」をさすsattvaから出来ている。目覚めているけど、情もあるという存在。目覚めから、他者の苦しみを自分の苦しみとして感じる感性が生まれる。
自分はまだまだ不完全だと知っているってことは、完成した状態を知ってることになる。完成した状態を知っているってことは、完成することが出来る可能性が与えられているということになる。まあ、そこのところは、より高度な存在の手助けが必要だと考えられているけどね。
菩薩こそ仏教の目指す生き様だ、と喝破したのが伝教大師。これが、日本仏教の世界史的な存在意義だと思うよ。

退行催眠は輪廻転生と「光との対話」で構成されるらしいけど、あらゆる宗教の出任せは化けの皮を剥がれちまうなー。まあ、仏教のコンセプトは生き残るだろうけどね。
むしろ、無駄な贅肉をそぎ落とした洗練をもたらすものとして歓迎いたします。

2005-06-03 


 

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