仏教の洗練

寺院の性格が国家中枢(法隆寺や東大寺などの大伽藍に代表される)⇒上流貴族(比叡山や高野山など)⇒地方豪族(鎌倉期の地方の大寺院)⇒地域社会(檀家寺)⇒家庭(仏壇)ときたら次は⇒個人ということになるのだが、はて、これがどんなものになるのか?

仏教は歴史的にはどうしても上意下達の権威主義とセットになっていた。権威の中心は特権階級から徐々に大衆に開放されてきた。仏教もここに来てやっと直に本質に触れられるところにまで来たのではないか。

ところが、現在の仏教学は訓古学的な過去の経典読解が中心で、梵漢蔵巴といくらでも研究対象はあるし、過去の偉い人の研究などいくらでもできる。とりあえずなんの役に立たなくても文句は言われない。
また、現代の世俗的な生活があまりに快適なために、くそ真面目な原理主義的な信仰は煙たがれる傾向にある。ほどほどに修行したことにしておけば当面の生活に支障は無い。
サービス業としての寺院経営、ビジネスライクな寺院経営など、まだ意欲があるだけましなほうで、世襲化した寺の跡取連中の心の空洞化がいずれ表面化するだろう。

人生には今、自分の身の周りに起こっていることを、どう感じるか、という受動的な一面と、これから何をどのようにするのか、という能動的な一面がある、とする。
受動的な一面については楽天的でも悲観的でも現実的でも、とりあえず立ち入らないことにする。
さて、能動的一面、これから何をするのか、これはとにかく何かを信じていなければ一歩も進めない。俺は何も信じていないという人とは議論するつもりはないが、死ぬまでは生きているという現実については、素朴に、疑ってはいないのでしょう。自殺を企てないということであれば、生きるための算段が不可避的に必要になる。
この疑いを差し挟まない、つまり何事かを信じているというところがまことに曲者で、悪くするとアバタもエクボ的に歴史の英知の蓄積も、最高の知性の賜物もすべて無意味になってしまう。そうやって人類は愚劣な堂々巡りをするのかもしれないが、思い込みだけでは冷酷な現実は乗り切れない。
前置きが長くなったが、つまり、いずれ時間の問題で、幼稚な神様ごっこは行き詰まる。

臨死体験の研究、トランスパーソナル心理学、アメリカ輸入のニューエイジやヒプノ、などなど、現今の精神世界には色々な切り口があるのだが、つまりは宗教の個人化の流れの中で必然的に起こるべくして起こってきた試行錯誤の一端ということにも感じられる。一過性のブームのようなものに終わるとは思えない。
仏教は2500年以上、過酷な運命を乗り越えて、時代的要請に答えながら伝統をつないできた。正直あんまり克明には知らないが、これは事実である。今ある様々な精神世界の試みもいずれ吸収してしまうのではないか。大乗仏教の発展は異文化の消化吸収の歴史でもある。超感覚的な預言者による宗教であるキリスト教やイスラム教のようなトップダウン式の一神教と違い、仏教は瞑想によって検証されながら常に変容してきた。それでも、瞑想によって仏となる、という基本的なコンセプトは表現のしかた、強調する部分が違っても変化は無かった。

精神世界の試みの成果は新鮮ではあるが、仏教の骨組みを粉砕するほどの説得力は感じられない。むしろ、一神教の独善を戒め、瞑想の技術を深め、生命に宿る仏性を際立たせることで、結果的に仏教の洗練に寄与するのではないかとさえ思う。
今の坊さん達が、自分達に磐石の既得権があるなどど思い込んでいなければ、仏教にはまだまだ未来はあると思う。

2004-04-04  

  


 

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