咲き始めた沈丁花誘導催眠の現場では色んな事があるらしい。過去世と過去世の間を中間世というらしいが、ここで高度な神霊に出会って転生の意味を学ぶという。あるいはガイドというらしいが、魂の旅路を全て見通して、導き教える存在に出会うこともあるという。
まだ歴史といえるほどの蓄積のない方法だが、現場で鍛えられてセラピスト達の成長は目覚ましいものがある。水晶を使う人、香料を使う人、歌を歌って聞かせる人、真言を唱える人、チャクラの活性化など方法は極めて多彩で、新しい方法も次々と発見されている。ほとんどの人がアメリカで始まった方法をオリジナルに、自分なりの方法を加味しているようだ。
これが、密教にある概念と実によく似ていたりするのだが、セラピストの人達は密教についてはほとんど無知でしょうから、恐らく似ている事自体に気が付いていないだろう。実際問題、ハイアーセルフという概念など、仏教の歴史にある精緻さで突き詰めていったら、どうにもわけのわからない物になるのかもしれないアバウトな感じもする。大体密教は秘密仏教というくらいで、親切に教えてくれることがないのが悪いのだが、せっかくの叡智の宝庫も活用されることがない。

悪意のある拝み屋とか、低級霊に使役されているのも分からない自己中の祈祷師、とかといったカテゴリーの人もセラピストの間に出てくるかもと思うが、まだそこまで来てないかな。

前世や転生について、仏教の中には至れり尽くせりでなんでも答えがあるのだが、これがいいのか悪いのか。病気を治したり、運命を好転させたりの方法も密教には数限りなくある。なぜ拝んで病気が治るのかの哲学的理論的解明もイヤと言うほど克明精緻に膨大な研究がある。理論の辻褄はキチンとあっているしスッキリ整理されている。あーいえばこーゆうで、何を聞かれてもちゃんと説明がつく。
ただ、致命的に残念なことに、どうにも実感が乏しいのですな。いつからこんなになっちゃったんだろう。理詰めに考えると非の打ち所が無いのだが、身近な実感が無い。どうにも理屈の辻褄が合うことを最優先させた弊害がある。江戸時代の訓古学の悪影響とでも言うか、権威主義的・教条主義的で偏狭。用意されている答え以外のものは受け付けない。目の前で起きた事実に対してでも、教義に無ければ排斥する。排斥も大抵は高邁な理由ではなく、商売上の都合ということ。大体、後継者に自信を持って取り組んでいる人が案外少ない。真面目に批判などしなくても、いずれ自滅するのかも。

いずれにせよ、とどのつまりは自分の実感を信じるしかないのであって、神でも仏でも、それが良き存在かどうかは、やはり自分の感覚で見極めるしかない。我々は行きがかりで善悪正邪を演じるが、自分のしていることは魂の奥底では理解しているはずです。本当に問われているのは「人間という存在を、どこまで信頼することができるのか」でしょうね。

2003/02/25


このところ退行催眠にはまっている。前世療法とも言われるらしいが、料金をもらってセラピーをする専門家が日本だけで100人位いるらしい。いや、知りませんでした。

仏教では前世の存在を当然のこととして認めているのだが、自分の前世がどんなだったかということは、あまり語らない。

聖徳太子は南岳大師の生まれ変わり。弘法大師は、恵果阿闍梨と師となり弟子となること一度ならずと言われ、不空三蔵の生まれ変わり。など、伝説はあるにはあるが、前世の話は滅多と無いと言っていいと思う。釈尊にはジャータカなどで数十もの前世説話が残されているが、つまりは一切衆生にそれぞれ数多の前世があることは仏教の歴史の中では強調されることは無かった。前世の存在はなかなか証明が困難であるから、言いたいことを言い出したらデタラメをを言ってもわからないわけで、記録として残す作業からは外されたのだろうか。
ただ、一人の人間としては、全くかけがえのないただ一つの生命の記憶でありますから自分の前世が大事でない訳がない。まあ、実際は退行催眠で前世を見ても、それがほんとかどうか何とも腑に落ちないこともあるらしいし、ハイアーセルフはまだしもガイドとかチャネリングさらには天使の出現となると実存的な意義はあるとしても客観性はもてないだろうなー。
スプーン曲げにしても、「そんなことをする人もいる」と思う人もいれば、「ただのインチキ」と決めてかかる人もいるわけで簡単ではない。
思いつく限りの聖者や偉人の生まれ変わりがわんさかいらっしゃる教団も実際いくつもある。世界的に見たらこの手のカルト教団は数え切れない位あるのでしょう。

とまあ、前世を認める仏教の中でさえ本流になれなかった命題ではありますが、私としましては退行催眠や催眠誘導の技法は密教の瞑想法の中への応用など非常に興味深く、十分に研究の価値はあると感じています。
瞑想を潜在意識へのアプローチとして捉えれば、色々な応用が考えられるが、独りよがり的な自己陶酔に終わる可能性も大いにあるわけで、それなりの困難はあることでしょう。

如何が菩提とならば、実の如く自心を知るなり。ー大日経ー
ヒプノセラピーと密教の融合。面白そうじゃありませんか。

2003/02/14

 


 

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